しろくて あったかくて ふわふわ
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<16>

 冬晴れの美しい朝だった。
 みぞれまじりの氷雨が吹きなぐった昨日の名残りは、濡れた路上の水溜まりに見られるばかりだ。
 ゆっくり歩を運んでいた剣心は少し手前で足を止めて、完成間もない仮校舎を眺めた。
 ぐるぐるに巻いたマフラーから鼻を出して、澄んだ朝の空気を深く吸う。
 年も改まり、双道寺(そうどうじ)を全焼させたあの火事から三か月になろうとしていた。校舎を失った双道寺保育園・適応塾では、他の獣人教育機関の協力と援助を受け、塾は教室を間借りして授業を、園は合同で保育を、それぞれ続けていた。本校舎の再建はまだ先になるが、保育園と適応塾が一体となったプレハブの仮校舎が完成し、ようやくこれでひとまずは皆が元通りここに戻ってくることができる。
 この日は、一月下旬に予定されている仮校舎での授業再開を前に、関係獣人有志による小さな、しかし重要な会合がもたれることになっていた。剣心もその会合に出席するために、久方ぶりにここにやってきたのである。
 結局そのまま休職していたので、公の場に出るのはあれ以来初めてだ。軽い緊張と不安がある。
 くしゅん。
「――しつこいなあ」
 ずずっと鼻をすすりあげる。
 後ろから人の近づく気配に振り返ると、浦村が歩いてくるところだった。
「やあ、緋村さん。お久しぶりですな」
「ごぶさたしてます、浦村園長」
「元気そうですな。なにより、なにより。しかし風邪ですか?」
 いきいきと輝く表情の活力を喜びつつ聞き咎めたくしゃみを気づかう浦村に、剣心は慌てて頭と手を振った。
「えっ、あ、いえ、あの、だっ、だだだ大丈夫です。全然。ええ。きっとちょっとその、あの……冷えただけで」
「油断は禁物ですぞ。風邪はひきはじめが大事といいますし。養生なさらんと」
「養生ってそんなあの……ほんとに単にちょっと湯冷めしただけで……」
「なに、湯冷め!」
 「それはいかん」と眉をひそめて細い目を向けられて、剣心は首をすくめた。浦村に他意はなかろうが、三日前の湯冷めの原因があまり公言できない類の羽目を外しすぎた若い営みだったもので、年長者に「いかん」と言われて心中穏やかではない。
「そ、それより浦村園長。いい天気になってよかったですね」
「お? おお、いやまったく。昨日のようだと難儀でしたな」
 律儀な浦村だけに、水を向けられれば応える。剣心は話題が変わったことにホッとして、あとは穏当な世間話をしながら肩を並べて双道寺を目指した。

 仮門をくぐると、いち早く二人に気づいて声をかけた人物があった。
「いよう、ご両人」
 渋い風貌に似合いの渋い声を伝法に弾ませて腕を広げる。
 頭は黒いごまの混じった白髪を短く刈りこみ、なりは柿渋の作務衣という軽装ながら、一種独特の存在感であたりを払うその人を見て、「変わらないな」と剣心は眩しいときのように目を細めた。
 二年と半年。
 その間に赤ん坊だった左之助は立派な青年になり、剣心は獣態と記憶を取り戻し、双道寺が焼けた。めまぐるしくいろんなことがありすぎたせいでとても遠く感じるが、実際はそう長い歳月でもなかったのかもしれない。目の前にいるその人の姿に、最後に見た二年半前と大きく変わるところは見あたらない。外見も話しぶりも鷹揚さも男伊達もあのころのままだ。まさか生きて再び会えるとは夢にも思わなかった。
「これはこれは、みなさんもうお揃いで。――もしや我々が最後でしたかな。東谷園長」
「気の早えせっかちと朝の早え年寄り揃いらしいや。なあに、時間にはまだ大分とあらあな」
「浦村園長、剣心さん、おはようございます。いい日和(ひより)になりましたこと」
 呵々と肩を揺する上下衛門の後ろには菜々芽が莞爾と寄り添っている。こちらも二年半の歳月を知らない風情で、変わらず美しい。二人が共に園長と呼び合っているのは、現職は浦村だが、その浦村のたっての希望もあって、新年度からは上下衛門が園長として復職することになっているからである。
 だれがどんな魔法を使ってこんな奇跡が起こりえたのかと、三月(みつき)経った今でもときどき思う。
 退院間もない頃だった。
 東谷園長夫妻が見つかった、数日うちには塾長と一緒に戻ってくる。――そう浦村から聞かされたときは、なにを言われているのかうまく理解できなかった。二人は剣心の目の前で狩人(ハンター)に拉致されたのだ。そうである以上、戻ってくる道理がない。それともあれが夢だったとでもいうのか。なにかの間違いだったのか。
「いえ、それはたしかにその通りです。お二人は狩人(ハンター)に拉致され、消息を絶ちました」
 しかしその後二人の状況は忙しく転変した。
 拉致された二人ははじめ車でどこか遠いところに運ばれた。数日してまた車に乗せられ、次に飛行機に乗せられて、今度はさらに遠くて寒いところへ運ばれた。着いた先は青い目の飼育員のいる小さな動物園だった。そこは獣人亜綱ばかりを収監する特殊な施設だった。何度か失敗した後で上下衛門と菜々芽は脱走に成功した。二人の獣人が知恵と力を合わせれば人間を出し抜いて檻をやぶることは不可能ではない。だが二人にとって運の悪いことに、季節は冬になっていた。囚われたのが七月だったため、二人とも最後に着ていたものは真夏の薄物である。人間の姿でいるには寒すぎたし、もちろん不自然でもあった。さらに運が悪かったのは、「方策が決まるまで当面は」とキツネに戻ってたまたま潜んだ公園でその日たまたま野犬狩りが行われたことだった。その少し前に子どもが野良犬に追われたと近所の家庭から苦情があったのだ。北極の寒さに適応して鼻も耳も短く進化したホッキョクギツネの外見は犬に酷似している。二人は自由になったと思った矢先に、また捕獲されてしまった。しかしここで小さな幸運が彼らに味方する。話を聞いてレスキューに訪れた動物シェルターの市民活動家が、二人(二匹)が犬ではなく稀少なホッキョクギツネだと気づいたのだ。彼女――活動家は女性だった――は、すぐにしかるべき手順を踏んで二人を救出する手続きを済ませた。そして稀少なホッキョクギツネにふさわしい、しかるべき――と彼女が考える――受け入れ先に引き渡す手筈を整えた。
 こうして東谷夫妻は処分の危機を逃れ、そのかわりまた檻に戻ることになった。今度の動物園は最初のところと違って規模の大きい施設だったため、動物舎も立派なら管理体制もしっかりしていた。二人は計画を練り、少しずつ準備を整えながら、時節を待っていた。今度は夏にしよう。だが逃げた後はどうする? 現金もクレジットカードもない。身分を証明するものも、パスポートもだ。近くにだれか獣人の知人はいなかっただろうか?―――
 脱出それ自体よりも二人を悩ませたのは、その後どうするかという問題だった。
 そうこうするうちに夏が終わって秋が来た。
 秋が深まりかけたある日のことだった。
 一人の見学者が二人の檻の前にやってきた。仲間・・であることは互いにすぐに判った。人目に用心しながら少しだけ言葉を交わして男は帰った。大きな身体をしたその男は、数日後、今度は動物園の学芸員と一緒に戻ってきたが、そのときは当然それぞれ人間とキツネとして通したので会話はなかった。そしてそれからひと月を待たず三度目に二人を訪れたとき、男は総三と連れ立っていた。

 きっとあの電話が―――と剣心は思った。剣心が仕事を辞めたい、もうやっていく自信がないと言って浦村をまじえて三人で話したあの夜、総三のもとにかかってきた電話だ。あれが、二人が見つかったことを報せる奇跡の電話だったのだ。あの日、総三は言った。
「ときに物事はそのままにしておく方がよいこともある。時間が解決してくれることもある。それに」
―――奇跡が起こることもある。
 八方塞がりだと思っていたら頭上がぽっかり開いていた。
 そんな気分だった。



 それにしても奇妙だったのは、二人がはじめに収監された場所のことである。
 人間が管理する獣人動物園。だれひとりそんなものの存在さえ聞いたことがなかった。
 さらに関係者の首をかしげさせたのが、上下衛門のこの証言だった。
「丁寧な扱いだった。枷も鎖もされなかった。自由が奪われてさえいなければ、尊重されていたと言っていい」
 接した全員がきちんとまっとうに人間と向き合うように接し、丁寧な言葉遣いで話しかけたという。
 二人は一度も変態せず、また人語も話さずに通したが、彼らの態度は変わらなかった。すぐに逃げ出したので判らないままになったが、結局彼らの正体と目的はなんだったのか。強制的に略取して檻に閉じこめている時点で獣人道的とは到底言い難いが、それでもこれまでに知られている狩人(ハンター)像とはあまりにもかけはなれている。看過してはならないのではないか――。
 上下衛門と総三が連名で呼びかけ、絶えて久しい異種合同会議が有志によりもたれることになった。
 それが今日のこの会合なのである。

 集まった顔ぶれの中には、ネコ目もいればサル目もウマ目もウシ目もいるし、コウモリ目もモグラ目もいる。遠来の参加者もいる。上下衛門夫妻を最初に発見したアメリカバイソンの男性とその友人は地球の裏側からはるばるやってきた。また、彼と総三との間を連携した幾人かの獣人仲間もそれぞれ遠路をやってきている。身近なところでは小国医師もいる。左之助もいる。
 左之助は上下衛門の帰国後も復氏することなく総三夫妻の養子として今も相楽家に暮らしている。
「いっぺんここんちの子どもになったんだ。やっぱり生きてましたんでどうもじゃねえだろう」
 彼の実父こそ言いそうなことを言ってのけた左之助の意思を四人の大人は()しとした。籍がどうあれ、東谷夫妻が実の父母であることも、相楽夫妻が育ての親であることも、なにも変わりはしないのだ。
 剣心が心配した(つが)いの公約については、話はもっと簡単だった。
「いやあ、そいつぁすまねえなあ。そうか、そこまで頼まれてくれるたあ、いやあ、なんでも言ってみるもんだな、え? おい」
「……は?」
 もうしっかり気持ちは固めて他には(はばか)らないと決めているが、しかしこの二人に限っては事情がちがう。大事なひとり息子の(つが)いがオスでは血が残らない。しかも肉食と草食の(つが)いなど異例中の異例だ。望んでなる自分たちはよくても、否応なく巻き込まれる家族はたまったものではないはずだ。
 だが二人の反応は剣心の案に(たが)って、あっけらかんと軽かった。
「いやあ、ありがてえ。なあ」
「ええ、ええ、ほんとに。ね、あのね、剣心さん。この人、向こうでもずっと言ってたんですよ。剣心さんに頼んできたから左之助のことは心配ないって。まあ、嬉しい。どうしましょう」
――倅を頼む。
 たしかにそう言われたという認識は剣心にもあったが、しかしよもやそんな意味であろうはずがないのは自明で、普通なら「だれがそこまで頼んだか」「うちの息子をたぶらかして」と(そし)られても余地はないと思っていたというのに。目をキラキラさせて「どうしましょう」と言われても逆に困る。
「すごいわ、すごいわ。ちょっとさらわれてる間にうちのおチビちゃんはこんな格好いい男の子になってるわ、こんな美人で男前なお婿さんまで見つけてるわ。ちょっと男同士だけど、甲斐性もあるし、なんといっても剣心さんだし。ほんとにまあ、なんて素敵」
「………」
 ちょっとさらわれてる間に――?
 ちょっと男同士だけど――?
「ねえ、あなた。こういうのをあれかしら、海老で鯛を釣るって言うのかしら?」
「いや、おめえ、そりゃちょっとちがうんじゃねえか?」
「あら、そう?」
「どっちかってえと、そうだな、あー……果報は寝て待て?」
「そう? そうかしら? まあでもそうね。ちょっとそんな感じかしら。ちょっとちがう気もするけど」
「………」
 どっちもだいぶちがうと思うんですけど。
 やっぱりだ。この夫婦の「ちょっと」は信用ならない。



 会議は二時間に及んだ。
 議題は主に彼らの天敵である狩人(ハンター)のことだった。一人ひとりが持っている情報は断片的だったが、総合すると意外に多くの事実が見えてきた。
 一番の発見は“狩人(ハンター)”も一枚岩ではないらしいということだ。複数の勢力があり、目的も手段も異なる。連れ去られた獣人が二度と戻ることはないという点こそ共通しているものの、必ずしも暴力的とは限らない。それどころか、なかには立場を明かした上で対価を提示して同行を求めたケースさえあった(これは提案を断った当事者の証言から明らかになった)。一方で、手段を選ばない暴虐の徒もいる。最も過激で非道義的で凶悪なのが、剣心のいた生類園(しょうるいえん)を襲った手合いだった。生類園の惨劇は痛ましい悲憤の記憶としてほとんどの参加者が今もよく覚えており、剣心の辿った数奇なその後に感慨深く耳を傾け、思わず涙ぐむ者も少なからずあった。

「では、そういうことで。よろしいでしょうか、みなさん。合意の方は挙手を願います」
 議長を務める浦村が総括をし、ほぼ全員が手を挙げて方針は定まった。
 ただひとりむっすりと顎を引き、最後まで組んだ腕をほどこうとしなかったのは左之助である。
「とにかくおれは反対だ。なにが対話だ。人間と? できるわけねえ」
「左之。おれはそうは思わない。たしかにできないかもしれない。だができる可能性もゼロではないと思う」
 散会後、園庭の隅で駄々っ子同然に突っぱねる左之助を剣心が説得しようとしていた。だがいったん黒と見たものを、いくら剣心に言われたからといって、ハイそうですかと翻す左之助ではない。
「いーや、ゼロだ。ゼロ。ゼロだね。のこのこ出てったって、どうせその場でだまし討ちにあって終わりに決まってる。なんであんな奴ら信用できるかよ。そんなもん、おまえこそ知ってるだろうが。つうかムカツク。単に」
「左之。感情論では物事は進まぬよ」
「別に。進める必要ねえし。どうせ一生許さねえし」
「左之……」
 頑なさの根にあるものがわかるだけにむげに突き放すこともできかねる。だが、と剣心は言葉に詰まる。
「緋村くん」
「あ」
 やってくるのは総三と東谷夫妻である。
 総三は左之助がぶっすりと険悪な顔をぷいと逸らすのにちらりと目を投げ、そのまま続けた。
「お二人とも言っていたのだが緋村くん」
 総三が言った。
「今回の計画は遠くない将来に実現に向けて動き出すことになるだろう」
「はい」
 それはさっきの会議で合意になったことだ。剣心は続きを待つ。
「緋村くん。もし、きみにも会議に出席してほしいと言ったらどうだろうか」
「………」
「いろいろと考えるところはあるだろう。デリケートな問題であることは理解しているつもりだ。是非にとは言わない。だがもしきみがそれが可能なら」
 総三が言葉を切ると静かな空白が訪れた。
 人間との会談。
 ここでいう「人間」は不特定多数の「人類」ではない。「狩人」のことだ。生類園に火を放ち、剣心の父母や仲間を殺し、略奪した。ひとくちに狩人と言っても皆がそう・・でないということはさっきの会議ではっきりした。会談の相手はほぼ間違いなく穏健派ではあるだろう。それに、まさにたった今、可能性はあるはずだと、感情論では進まないと、頑として反対の左之助を諭していたのは他でもない自分ではないか。出るべきか? 出るべきだ。もちろん。対話と共存のために。
 だがしかし。
 本当に?
 共存。対話。人間と? 奴らと? よりによって自分が?
 本気で?
 闇を焼く炎と熱と悲鳴。白昼に取れ去られる二頭のホッキョクギツネ。泣く声、叫ぶ声、怒る声。なにが対話だ。可能性など。ゼロだ。ゼロではない。いいやゼロだ。だが――。
「………」
「無論、今すぐ返事が欲しいというつもりはない。いずれにせよそれ自体だいぶ先のことにもなろう。もっと具体的になってから、そのときになって考えられるようなら考えてみてくれればそれでいいし、もしそれを考えることがきみを苦しめるなら、忘れてくれてかまわない」
 言葉が耳を素通りする。わからない。わからない。どうしていいかわからない。
 圧迫感が体の中で爆発しそうになる直前、重みのある熱を肩に感じてハッとした。
 掴んだ肩を引き寄せるように力をこめて、左之助が一歩前に出る。
「必要ねえ」
 全員の目が左之助に集まる。掌を通して左之助の体温と感情が伝わってくる。
「今だろうが先だろうが関係ねえ。そんなもん、考える必要一生ねえ」
 さらに低い声で唸り、総三たちを睨みつける。
「勝手なこと言ってんじゃねえ。そっちの都合にこいつを巻き込むな」
「左之……」
 見上げる横顔は烈しく怒っている。
「こいつがどんな目に遭ったか知っててよくそんなことが言える。大体あんたらそもそもどういう神経で人間と対話なんかしてえんだか。意味わかんねえ」
 意味? そっちの都合? 巻き込む? 関係ない? 考える必要がない?
 ……意味?
 肩を掴む手に力がこもる。熱い掌から流れ込んでくる感情は、怒り、反感、憤り。何年経っても緩和されることのない痛みの記憶。いや、記憶ではない。そのものだ。夜と炎と悲鳴。流される血。憎悪。可能性はゼロか? そうだ、ゼロだ。すべては連鎖する。共存は不可能――。
 意味?
 ばちんと目の前が弾けた。
「いいや、ちがう」
 思わず叫んでいた。
「そんなはずはない。できる。できるはずだ。だってゼロじゃない」
 全員の目が今度は剣心に集中する。
「ないはずがない。道はある。相容(あいい)れない二者にも共存の道はある。だって――だって、あったじゃないか、現に」
 と、左之助を見上げた。左之助は驚いたように目を見開いて剣心を見ている。黒目がちの真っ黒い瞳に見上げる自分の姿が映っている。
「そうだろう? あっただろう? あるだろう? 相容れないはずでも、わかりあうことはできる。一緒に生きることはできる。――それを、おれたちは、知ってる。そうだろう? ちがうか?」
「あ」
「関係なくない。ひとごとじゃない。他のだれよりおれたちが知ってる。全体論ではなくて。一人ひとりの問題なんだ。できるできないじゃなく、するかどうか。したいかどうかだ。可能性はつくるものだ。おれとおまえに可能なことが、どうして他のだれかにも可能でないわけがある? どうして不可能だと言い切れる?」
 肉食と草食が共存できるなら、どうして獣人と人間が共存できないわけがある――?
「それともやっぱり無理だとおまえも言うのか? そんなことが続くわけはないと。そんな関係・・・・・はじきに破綻すると?」
「馬っ……んなわけ」
「だろう? ならできるさ。きっと。それに、だれかがなんとかしてくれるのを待ってていい問題ではない。待つなら、自分にできることをした後だ。大体、当事者がどうこうというなら、おれなんかよりお二人こそよっぽど当事者なわけだし」
 ちらと目をふると、上下衛門が「おれたちはべつに」というようにひょいと肩をすくめて眉を上げた。
「それにおれ、当事者だからこそできることがある気がするんです」
 剣心は三人の年長者たちを見渡して、きっぱりと言った。
「出ます。おれにできることがあるのなら。それが悪しき連鎖を絶つことにつながるなら」
「緋村くん……」
「おれたち草食は連鎖の末端にいます。常に狩られ、食べられる存在で、逃げることしかおれたちは知らない。爪も牙もなく強者に立ち向かうどんな力も持っていない。だから逃げるんだと思ってました。戦えないから逃げる。逃げて逃げて、ひたすら逃げて、それがおれたちの戦い方だと」
 四人の顔を順に見る。総三はチーター。上下衛門と菜々芽と左之助はホッキョクギツネ。みな肉食の獣人だ。剣心にとって本来は捕食者だ。だが一人ひとりを知っている。だれも決して敵ではない。剣心を傷つけない。ウサギだとかキツネだとかチーターだとか、そんな図式をつくるから対立が生まれるのだ。一人ひとりを見れば、だれも「捕食者」でなどあり得ないものを。
「でも、思うんです。なにか方法があるのかもしれない。力に力で戦うのでなく。ただ逃げるのでもなく。どれでもない方法があるのかもしれない。今はそう思ってます。逃げているばかりでは変わらないし、待ってるだけでは奇跡もなにも起きないから。――でしょう、東谷園長?」
 単なる衝動だったかもしれない。あるいはもっと単に、ただの自棄くそか、その場の思いつきか、気の迷いか、なにかそんなようなものだったかもしれない。けれどそれでも、あれが始まりだったことに変わりはないと剣心は思う。あのとき上下衛門が菜々芽と一緒に囚われていなければ。あのとき上下衛門が剣心をウサギと知りつつ双道寺に受け入れていなければ。なにも決して今のようではなかっただろう。
 だが上下衛門は、そんなことなど何処(どこ)吹く風の変わらなさで飄々としている。ひょいと肩をすくめて、顎をしゃくった。
「さあ。んな難しいこた、おれの領分じゃねえや。こっちに訊いてくれ」
 こっち、と顎をしゃくられて、だが総三も同じように肩をすくめる。
「そんなこと。私にだってわかりませんよ。大体からして、彼の思考と行動は私の考えうる範疇を優に飛びこえている。私などとうてい思いもしなかったようなことを次々とやってのけて示してくれる。そう、そういう意味では、なにがどうなるかを一番期待しているのはむしろ私だと言っていい。――でも、そうですね。ひとつ言えることは」
 総三のやわらかな視線が剣心を包んだ。
「草食でありながら肉食を伴侶と(つが)ったきみの言葉に人は耳を開くだろう。辛い過去をもちながらなお共存を願うきみの姿に目を開くだろう。――そう、私もまたそうであったように」
 思いませんか?と、総三は上下衛門と菜々芽に笑んだ目を向けた。
「だから、んな難しいこたオレにゃわからねえって言ってるじゃねえかよ。まあだが、アレだ。とりあえず言えることは、だ」
 彼らしい鷹揚さでからからと笑って、上下衛門はじき巣立つ息子の頭をはたいた。
「てめえはまだまだケツの青いピヨッピヨだってこった」
 明るい笑いが弾ける。ケツの青いピヨッピヨがひとり口を尖らせてフグのような顔になって、さらに皆を笑わせた。



*  *  *

『なんかムカツクー』
「今度はなにが?」
 最近のおまえはムカついてばかりだな、と剣心は笑う。左之助はむくれる。むくれて豊かな冬毛をふくらませ、陽射しを吸収して暖まったセラミックスレートに腹をつけて寝る。
『てめーだ、てめー。こないだまでぴーぴー泣いてばっかだったくせに、なんだよ、いきなり、えーと……』
 言葉を探して首を傾けた左之助のヒゲが、やわらかな微風にそよいでキラキラと光る。傍らにあぐらを組む剣心が髪をかき上げて言った。
「ほう。おれが泣かないのがおもしろくない?」
『つうかだから、そうやって余裕かましてんのがムカつくっつってんだよー』
 ははは、それは大変だな、ととても楽しそうに剣心が笑い、左之助はさらにむくれる。むくれて、「ちぇ」としなやかなキツネの身体をのの字にまるめて、感情豊かなしっぽに鼻先を埋めた。
 この春で塾を卒業する左之助だから、双道寺に通うのもこの仮校舎で授業を受けるのもあとわずか。卒業すれば、再開三日目に見つけて以来お気に入りのこの屋根の上の定位置でこんな風にひなたぼっこをする機会もほとんどなくなるだろう。残りわずかな日々を惜しむように昼休みの十数分をここで過ごすのが最近の二人の日常となっていた。もう左之助も屋根の昇り降りに不自由はしない。それどころか獣身の剣心を咥えても難なく行き来できる。屋根の上で泣き暮れたのは小さかった昔の話だ。
 剣心はふっさりと豊かなしっぽに広げた指を沈め、うっとりと目を細めた。
 冬毛のホッキョクギツネのしっぽは人間の両腕にもかかえごたえのある大きさと毛足と密度だ。そうして丸くなってしまうと、頭部はすっかりしっぽに埋もれて、ほとんど白い毛玉になる。この美しくて雄弁なしっぽが剣心は大好きだった。指を泳がせると、さらさらのきれいな長い毛の一本一本が肌に吸いつくようになめらかで、愛おしくて涙が出そうになる。
「だれのせいかわかってるのか?」
『へ? なにがだ?』
「てめーが余裕かましてるのは、だれのせいだと思う?」
 左之助がむっくと首をもたげて、目をしばたたいた。潤んだ瞳は黒目が勝って、まったりとくつろいでいたことを示している。
 あふれて止まらない気持ちは言葉を失わせる。
 剣心は黙ってよっこらせとウサギに変じて、極上のベッドに飛び込んだ。ふかふかの毛布にもぐりこむと、さっきまで掌で愛でていたなめらかな被毛に今度は全身をくるまれる。ぷるぷるぷると身震いをした剣心は、ウサギのつぼんだ口先をむぐむぐさせて、あたたかい脇腹に頬ずりをした。
 きれいに晴れて風もないこんな日のここは特等席だ。太陽をたっぷり浴びた左之助の身体からは陽射しが運んだ春の先触れの匂いがする。
『ブブブ、ブフッ、ブウゥーウ』
『わかんねーっつの』
 とろけるように笑んだ左之助の湿った鼻先に口を近寄せると、くちもとの毛とヒゲが触れ合ってくすぐったい。きらきら光る白い毛に被われた口に舌先で触れると、左之助のヒゲがふがふがと揺れた。
『フブー』
『なあなあ。おれ、なぞなぞ出来た』
『ブ?』
 もうすぐ左之助は塾を卒業して、四月になれば例の獣人人間会談の計画も動き出す。きっといろんなことが変わっていくだろう。変化の予兆は、剣心だけでなく皆がひしひしと感じている。何がどうなっていくのかはまだ誰にもわからない。
『なによりおいしいけど、たべられません。なーんだ』
 だが今はまだその前・・・だ。
 束の間のインターバル。
 冬から春へ向かう、ちょうどその間――。
 晴れた瞳に陽射しが踊る。
『………ブゥ』
 答えを分け合う二匹の頭上に、彼らによく似た雲がひとつぽっかりと浮いていた。






前頁拍手
しろくて あったかくて ふわふわ<16> 2008/2/8
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