しろくて あったかくて ふわふわ
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<10>

「先生、先生。オレ、なぞなぞつくったんだ」
「ほう。どんななぞなぞでござる?」
「あのね、えっとね……」
 先生、アメあげる。先生、見て見て、連続逆上がりできるようになったよ。九九の十三の段覚えたんだ。お母さんがマドレーヌ焼いたの、先生にって。
 プール納めから一週間が経っていた。
 あの日、窓から飛び出したものの結局行く宛のなかった剣心は床下に潜んで夜を待った。翌日から普通に出勤したし、左之助と酷い喧嘩をしたなどとだれに話しもなかったから、自分としてはぼろぼろになる前と変わらず振る舞っているつもりだった。だが動物の感受性と子どもの鋭敏さでなにかを感じ取るのだろうか。剣心を喜ばせようと入れ替わり立ち代わりに子ども達が保健室を訪れるようになっていた。
「えっとね、こんなんなの。――せかいじゅうのひとみんなが、いましていること、なーんだ!」
「………はて。なんでござろう」
 とっさに浮かんだ答えは子どもに聞かせたいようなものではなかったので、見当がつかないふりをした。
 一緒にいた別の園児が言う。
「まばたき?」
「ブッブー。寝てる人はしませんー」
「おろ〜。なんでござる?」
「知りたい? 先生、知りたい? 教えてほしい? 降参? 降参なら教えてあげる!」
 子どもだから本当はすぐにも答えを言いたいのだ。
「降参降参。答えはなんでござる?」
「“息”!!」
 出題した園児が胸を張る。
「みんな息してるだろ。起きててもしてるし、寝ててもしてるし、大人も子どももだし」
――みんな生きてるだろ。
 そう言われた気がした。生命力に満ちた子どもたちの目の輝きが胸を刺す。ふさわしくない。自分はここに、この子たちに、ふさわしくない。世界中の人が今同時にしていることと問われて「死に近づいている」と考えるような、そんな人間は。
 ぼんやりしていると、力の抜けた手の先にあたたかくて柔らかいものが触れた。
 見ればなぞなぞの子がもみじの手で剣心の指を握っている。まっすぐな瞳で剣心を見上げている。
「先生……」
 それだけ言って、ぎゅっと手を握った。
 元気出して。
 大人なら心になくとも簡単に操れる常套句だ。
 だが、そんな言い回しさえまだ知らない幼い手のぬくもりとひたむきなまなざし以上にあたたかく心を濡らす言葉をだれが持つだろうか。
 眩ゆそうに目を細めて、剣心は子どもに笑いかけた。
「……本当だ。そうだな。命あるものはみな息をしている。確かにその通りだ。いいなぞなぞだ。よし。では次は先生が出してやろう。これはむずかしいぞ」
「なになに!」
「オレわかるもん」
「こうでござる。――きみのないぶにあって、どんなにしっかりしまってあっても、ぬすまれることがあるもの、なーんだ」
「ないぶ?」
「内部。中。内側のことにござる」
 と、ヒントのつもりで胸を指す。
 どんなにしっかりしまってあっても、それは盗まれる。
 持っていかれた後となっては、いつ盗まれたのかも、そしてずっと厳重に鍵をかけてあるつもりだったのにある日突然すっかり盗まれてしまったそれの在り処が果たして本当に胸だったのか実は頭だったのか、あるいはいずれでもない別のところだったのかも判らなかったけれども。
「えー、なんだろ」
「待って待って。オレぜったい解く」
「おやつ?」
「ははは。さ、じゃあ明日までに考えておいで」
 いつものように笑って、いつものように送り出す。いつも通りのささやかな時間が、この日の剣心には、虹のかけらのように貴重なものに感じられた。
 早い秋の陽が、子どものいなくなった園庭を柿色に染める。
 根が生えたように佇んで見上げる空に、高く雲が流れていた。


 バタバタと慌ただしい一日だった。
 特別大きな変事があったわけではなかったが小さな怪我や体調不良が妙に多く、膝をすりむいただとか、授業中に気分が悪くなっただとか、そんな子が次から次へと保健室にやって来て、剣心にとって気の張る時間が続いた。とくに放課後に発熱で運ばれてきた子は少し熱が高かったので気がもめた。保冷剤でクーリングを続けて様子を見、迎えに来た親と一緒に念のためにと病院に向かうのを見届けてようやくほっと息をついた頃には、もう夕暮れの気配が近付いていた。
 獣人のネットワークは人知れず広い。英才揃いの獣人には医師や歯科医師などの医療関係職に就いている者も少なくなく、治療を必要とする獣人たちは、それら仲間の医療機関を利用するのが常だった。ほとんどは専門分野に加えて獣医学も修めている。表向きは普通の医院だから人間の患者もいるが、多くスタッフも獣人で構成されており、人であり動物であり、また特殊に強い治癒力を持つ獣人の特殊な生活を、医療の面から支えていた。
 剣心は上下衛門に教えられてそれを知った。ならば園の保健室でも獣医ではなく小児科の獣人医師を雇えばよかったろうに。そう言うと上下衛門は喉の奥でくつくつと笑った。
「おうよ。だから求人チラシは二種類あったんだ。あんたが見たのはたまたま獣医の方だったが、別んとこにはちゃあんと小児科医の方も貼ってあったんだぜ? だから奇縁だっつってんだろが」
 上下衛門も菜々芽も、思い出す顔はいつも空のように笑っている。
 二人はどうなったのだろう。
 自分はこれからどうなるのだろう。どうすればいいのだろう。
 あんまりしんどかったら無理はすんな。潰れるまでは頑張るな。
 出生の秘密を知った日、上下衛門はそう励ましてくれたが――。
 剣心はペチペチと頬をはたいて伸びをした。
 ぼんやりしていると、気うつな思案ばかりが坂を転げ落ちるように勢いづいてしまう。
「………さ、片付け片付け」
 立ち上がってあれこれと用事を片付け、手を洗いながら、剣心は首をかしげた。
 さっきからなにかが気になる。なんとはなしに落ち着かない、歯車の合わない感じがする。
 なにを忘れているのだろう?
 ぼんやりとした違和感。そして既視感。
 こんなことが前にもあった。
 考えのまとまらないまま、なんとなく廊下に踏み出していた。
 足まかせに歩くうちに、既視感はどんどん強まる。
 今朝見た夢の追体験をしているようだ。
 次にどうなるかを知っている気がする。けれどわからない。
 気がつくと講堂に来ていた。戸の前に立った瞬間、幼い狐の子が時計にかじりついている情景がフラッシュバックした。
 そうだ。時計が、鳴っていない。
 だが、剣心が実際にその目で見たのはそれとは全く異なる光景だった。開け放った戸に手をかけたまま、剣心は黙ってその場に立ちつくした。
 床に転がる柱時計。ふたが開けられ、分解された振り子や鎖や金棒が無残に散らばっている。驚いた顔の数人の園児たち。立っているもの、座っているもの、中腰のもの。どの子も一様に「しまった」の顔をしている。そして輪になった子どもたちの真ん中には左之助。子狐ではない。大きい人間の左之助だ。脚の間に時計を挟んで、ひとり感情の読めないだんまり顔で剣心を見上げていた。
「………」
 なんだこれは。なにをしている。
 詰問の言葉は咽喉で止まった。
 戸を開ける寸前まで聞こえていた甲高い笑い声。気まずそうな子らの表情。見られたくないことをしている現場を見られた子どもに特有の顔。その中心にある壊れた――いや、壊された時計。中心にいる左之助。子どもの無邪気な笑いは時に邪気以上に残酷だ。
「………出て行け」
 硬い声で剣心が言った。握り締めた拳が震えている。
「先生ちがうんだ、そんなんじゃないんだ……」
「先生……」
「左之兄ぃ、言って。ちがうって言って」
「先生」
 子どもたちは、剣心を見、左之助を見、また剣心を見て、びくびくと目を行き来させている。
「全員出て行け……!!」
 子どもも左之助も時計も見たくない。顔を背けて剣心が吐き捨てる。
 左之助の立ち上がる気配がした。
「来い」
「でも左之兄ぃ」
「左之兄ぃ」
「先生……」
「先生、ごめん。怒らないで」
「でもちがうんだ。先生……」
 剣心は応えない。目も向けない。
 左之助もなにも言わない。
 おろおろする子らをかき集めて、左之助は講堂を出ていった。
 戸が閉まり剣心は一人残される。
 荒れる感情を子どもにぶつけた後味の悪さでざらつく気持ちを抱えて、床に散らばった時計の部品をひとつひとつ拾い集める。振り子、金棒、ぜんまい、ネジ、バネ、子どもが持ち込んだらしい小さな木彫りの鳩、工具……。ひとつ拾うごとに、剣心の中でなにかが終わっていく。静かに壊れていく。すべて拾い終えると、もう一歩も動けなくなった。心のつっかえ棒というものは、さほど丈夫なものではなかったらしい。ぽっかりと開いた黒い穴の底に、剣心はひとりいつまでも立ちつくした。

 ボンボン時計の音が絶えて、剣心の笑みも絶えた。
 声を荒げるわけでも取り立てて刺々しいわけでもないが、あたたかくもない。
 黙々と業務をこなし、必要なことをし、必要なことだけを話し、静かに座っている。
 保健室のドアは用のある者以外には閉ざされた。放課後のなぞなぞごっこも途絶えた。最後に出された「いつもすすんでいきます。けっしてふりむきません」というなぞなぞは解かれないままになった。


 色づき始めた木々に澄んだ風が渡っていた。
 空気のよく乾いた秋晴れの空を見上げて、剣心は軽く溜息をついた。
 園から歩いて三十分ほどのところに博覧会跡地の記念公園がある。広い緑地といくつかの元パビリオンを施設としてもつ大規模な公園だ。双道寺保育園恒例、秋のオリエンテーリングは、毎年ここで行うことになっていた。
 獣医師の剣心は浦村園長と共に本部詰め、他の職員は園内各所に設置されたポストの確認を兼ねて見回ったり、いくつかのチェッキングポイントでやってくる園児だちの対応をしたりと、それぞれの担当部署で動いている。本部はゴールだから、じきに全課題をクリアした班から戻り始めてどんどん賑やかになるだろう。うれしそうにゴールしてくる子どもたちを迎えるのは、これまでなら剣心にとっても迎えられる子どもにとっても楽しく心待ちな瞬間だった。だが今年の剣心にはちがった。できるだけ人と会いたくない、話したくない、大勢でいたくない今の剣心にとって、この手のイベントは苦痛でしかない。休んでいていいと言われながらも来ているのは、いい季節とはいえ野外の活動で園児になにかあったらと心配だったからだが。
 ふう。
 再びついた溜息に、浦村が顔を上げた。
「緋村さん。お疲れならどこかで休憩しとられても構わんですよ」
 剣心はにっこりと首を振った。
 ただ座っているだけの身でしんどいも休憩もないだろう。あと少しだからこそ、せめている間だけはきちんと役目をこなしたい。
 くるりと首を巡らして、剣心は別のことを口にした。
「塾長から連絡は、まだなにも?」
「ええ。どうも少々あれですな、遅いですな。もう五日になりますから、そろそろだと思うのですが。この調子だと一週間では戻られんかもしれんです」

 剣心が浦村に辞意を伝え、総三を交えて三人で話をしたのが六日前、総三がその突然の出張に出る前夜のことだった。

「疲れました。おれもう無理です。やっていけません」
 そう言った剣心を、二人は静かに労り、案じてくれた。
 しばらくゆっくり休むといい。でも仕事が。まあなんとかなるでしょう。楽隠居の悪友がおりますので、彼奴を引っ張って来てもいいですしな。ああ、それはいい。ともあれ休職ということで、ですので離れは今のままお使いください。え、でもそれではあまりに……。お嫌なら無理にとは言いませんが、できれば居ていただきたいというのが正直なところで。
 慰留でも激励でもない、疲弊した心身に沁みる情理の深いレスポンスだった。
 そんな話の最中に総三に電話が掛かってきたのだ。
「失礼」
 ディスプレイを一瞥するや、総三は二人にそう断りながら受話器を上げていた。
 ああ。うん。ほう。場所は。シユウ? 外傷は? そうか、なるほど。メモを取りながら、総三が聞くばかりのやりとりがしばらく続いた。
「譲ってもらえそうか」
 声色はそれまでと変わらなかったから電話の向こうの相手には判らなかったろうが、総三の顔つきの変化に剣心は驚いた。チラと浦村を見上げて頷いた総三の目が、長年探し求めていた獲物を見つけたハンターのように細く鋭く尖ったのだ。隠しきれない興奮と緊張が伝わってくる。いつも沈着で声どころか表情も荒げない総三がそんな風に感情を剥き出しにするところを、剣心は見たことがなかった。
 相手は諾と応えたらしい。
「恩に着る」
 では早速、と、翌日の約束を取りつけて電話を切りながら、総三は束の間かたく目をつぶった。
「緋村くん」
 剣心に向ける目は変わらずやさしい。
「はい」
「急用で少し留守をするが、あまり考えすぎないことだ。そして無理をせずしばらくゆっくりするといい」
「はい……」
「ときに物事はそのままにしておく方がよいこともある。時間が解決してくれることもある。それに」
 と言って、総三は力強い笑い方をした。
「奇跡が起こることも、ある」
 一体なんの連絡だったのだろう。ふと浦村を見ると、彼はもっと深く驚いたのか、糸の目を剣心が見たこともないほど精一杯見開いてポカンと口を開けて固まっていた。

「緋村先生、すんませんがコイツ頼んでいいですか?」
 膝下をズルリと擦りむいた子どもがひとり、巡回担当の職員に連れられてやってきた。
「木に登って上からポストを探そうとして下り損なったんだそうです。――おい、ヤヒコ。おまえ、ヤマネコのくせに」
 と、最後のセリフは子どもの頭をぐりぐりしながら笑って言い、「じゃ、頼んます」と、見回りに戻った。
「見せてごらん。………ああ。これは痛いな。ちょっとしみるが、我慢しなさい」
 子どもが口も聞かずに大人しくかしこまって不安そうな顔をしているのは、怪我が痛いからでも治療が怖いからでもない。
 あの日、時計に悪さをしていたうちの一人なのだ。
「………」
「ようし、これでいい。しばらく毎日朝夕消毒に……」
 おいで――と言いかけて、自分は今休職中だったことを思い出し、
「消毒を、してもらうんだよ」
 と言い直した。
「よいな」
 剣心がにっこりと顔を上げた途端、ヤヒコの目から思いがけない涙があふれ出した。
「おやおや、どうした。もう終わったよ。痛くない痛くない」
「先生……先生ごめん、先生……オレ…オレらのせい? オレらのせいで先生……」
 ――辞めるの?
 途中からはもうぐじゃぐじゃで言葉にならない。
 剣心も言葉に詰まった。
 あれからもう二週間ほどになるのだ。その間、この子はずっとこんな風に思いつめて小さな胸を痛めていたのだ。いや、この子だけではないだろう。きっと他の子らも同じにちがいない。申し訳なさで胸が締めつけられる。
「ちがうよ。そうではない。おまえたちのせいではない。みんなはなにも悪くない。おまえが謝ることなどなにもない。悪いのは先生だ。先生が悪いのだ。すまなかったな……」
 よしよし、と、腕を伸ばしかけたが、子どもがビクンと震えたのを見て、引っ込めた。
 そうだ。この子は知っているのだ。自分の正体を――。

 あの時計の日の五日後だった。
 朝、数人の園児らが小さな輪を作ってひそひそ話をしていた。ちょうど時計事件と同じ顔ぶれのグループである。思わず身を隠した剣心は、続いて耳に飛び込んできた会話に凍りついた。
「え、ウサギ……?」
「うそだろ?」
「ホントだって。おれ見たんだ。先生が……」
「でも、まさかウサギなんか……」
「……てて、保健室の窓が開いて……」
「ウソじゃねえもん。左之兄ぃだって……」
「………」
 途切れ途切れに聞こえる単語に手足が冷たくなる。
 ひとりに知られたなら、皆に知れわたるのは時間の問題だ。迷っている時間はないと剣心は慌てた。その日のうちに左之助をつかまえて少し話し、次の日、前々から用意してあった文言を反芻しながら園長室に浦村を訪れたのだった。

 ますます泣きじゃくるヤヒコを、剣心はしばらく黙って見ていた。
「……すまぬ。おれがこんなでなければ。もっと強くて、もっとしっかりしていて、ウサギなんかでなくて、そうすればこんな迷惑をかけることもなくて、おまえをそんなに悲しませることもなかったろうに」
 そこまで言ったところで、いつのまにかヤヒコが泣くのも忘れてきょとんと剣心を見上げているのに気づいた。ぱちぱちと目をしばたたいて、突然知らない国の言葉を話し始めた人を見るような顔をしている。
「? ヤヒコ?」
「え……?」
「どうした?」
「え……や、いや……」
 だが会話はそこで中断された。
 トップの班がゴールして、てんやわんやの大騒ぎがなだれこんできたのだ。剣心はすっと柱のかげに入り、ヤヒコはその騒ぎに飲み込まれる。
 ワーワーという楽しそうなはしゃぎ声を柱の向こうに聞きながら、剣心はその日のことを思い返していた。

「ちょっと、いいか」
 友人ら数人と歩いているところを呼び止めると左之助は無言で応じた。思惑の読めない無表情でツカツカと近づいてきたと思ったら、目も合わさず剣心の脇をすり抜ける。ついて来いということだろうが、横に並ぶ気分でもなかったので、数歩うしろを剣心もまたなにも言わずについていった。残された塾生仲間の視線を背中に痛いほど感じたが、それももうどうでもよかった。
 どこに行くのかと思ったら、左之助が向かった先はくだんの池プールだった。縁に座り、だんまりのまま、口以上に物を言う三白眼で「なんだ」と睨み上げる。剣心を落ち着かなくさせるあの左之助特有の視線に、ちりちりと首筋が騒いだ。だが怖じている場合ではない。
「だれかに話したか。おれのことを」
 プール納めの日以来、互いに互いを避けていた。時計の一件で講堂を追い出したときのほかは、まともに顔も見ていない。
 待ち伏せるように呼び出したのは、その朝、子どもたちが噂し合うのを耳にしたからだったが。
「おれがホッキョクノウサギだと、子ども達に話したか」
 こんな言い方では喧嘩になるのはわかっているが、声が尖るのを抑えようと思える余裕もない。
「どうなんだ」
 刺すような目と刃物のように結んだ唇から伝わってくる強い反発だけは毛穴に凍みるほどだが、なにを考えているのかはわからない。相性が悪いとはこういうことを言うのだろうと剣心は思う。
 形のいい唇がごく小さく動いた。
「……た……」
「え?」
「だったらどうした」
 剣心が絶句する。
「言ったらどうなんだ」
「どう、だと……?」
 居直ったとしか思えない物言いに、不遜な態度やけんか腰の目つきへの反感も忘れて、思わず鸚鵡返しにそう言った。
「そんなにまずいことか」
 呆気にとられる剣心に、左之助がたたみ掛ける。
「ウサギだってことを知られるのがそんなにまずいのか。いやなのか。困るのか」
「あ……当たり前だろう! なにを言っているんだ、おまえは。だってそんな……!」
 そんなことが、ばれたりしたら――。
「そんな、なんだ。なにがまずい。なにがそんなにまずい」
 左之助の目に荒い光が走った。
「なんでそんなにおれたちが信用できねえ」
「左……」
 ふと左之助が顔を背けた。いかっていた肩がしぼみ、声が地面に落ちる。
「だれもなんもしねえよ。おまえを傷つけたりしねえよ。みんなおまえが好きなだけなのに……。信じてやれよ」
「………」
 思いもかけなかったことを言われて、剣心は言葉に詰まった。
――そんなんじゃない。そういうことではない。ただおれはここにいるべきものではないから。異形に等しいものだから。そのせいで左之助ともうまくいかず、揉めてばかりいる、やっかいな火種なだけの存在だから。だから……。
 幼い子のようにかぶりを振り続けたのはなんと答えていいか判らなかったからだが、左之助にはそうは伝わらなかったらしい。
「そーかよ」
 ハッと意識を戻したときには遅かった。左之助は怒りを隠そうともせず立ち上がるところだった。
「まーな。どうせおれたちは野蛮で凶暴な食肉目(しょくにくもく)だしな。ガツガツのケモノだし、見境ねえし、なにされるかわかんねえしって?」
「左……」
――そうじゃない。そんなんじゃない。
「そりゃまあその通りだし、おれなんか大概ひでえことしてるし、おまえがそんななんのも仕方ねえっちゃねえけどよ」
――ちがう、そうじゃない。それはそうだけど、そういうことではない。
「けどそんなもんこっちだって一緒だっつの。デリケートな草食ちゃんの考えることなんかわかりゃしねえ。仕方ねえだろ、元がちがうんだから。つうかわけわかんね。ならなんで居んだよ。気にいらねえなら、こんなとこに居なきゃいいだろが」
 言ってから言葉の毒に気づいたのか、さすがに言い過ぎたという表情が左之助の顔上をよぎったが、一度口にした言葉を元には戻せない。チッと小さく舌打ちした左之助は、声もなく凍りつく剣心に背を向けた。
 剣心はその場を動けない。つい三週間前に皆できれいにしたばかりの池は澄んだ水面をキラキラと光らせているが、眩しい光はどこか遠い世界のもののようで目に痛い。暗がりの中ですでに底だと思っていたがどうやらまだ下があったらしい。さらに暗いところに沈んでいく。虚ろな心は小さな乾いた音を立ててパチンとはぜた。


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しろくて あったかくて ふわふわ<10> 2007/11/18



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