しろくて あったかくて ふわふわ
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<6>

 畳のうえにちょこんと丸まった一匹のホッキョクノウサギ。
 いうまでもなく、剣心である。
 糸で絞ったようなおちょぼ口をむぐむぐさせ、漆のビー玉の瞳でキョトキョトと周りを見回し、思い出したように左之助を見つめる。かと思えば、もの珍しそうに自分の身体や手足を見下ろし、耳を見上げ、小筆のような小さな両手であちこち突ついたり引っ張ったりする。しっぽを見ようと首をうしろにねじ曲げ、逃げるしっぽを追いかけて、ヨタヨタと円を描く。何周か回ったところで、目が回ったようにふらついた。
 そこにきて左之助もようやく我に返った。
 へっぴり腰で呼びかける。
「剣心?」
 二枚の耳がぴくぴくっと動いて、ぬいぐるみのような白い毛玉の輝く二つの瞳が左之助を見上げた。小さな口と鼻はやっぱりむぐむぐと動いていて、それにつれてピアノ線のような細いひげもひょこひょこと揺れる。磨きこまれた漆玉の目は、青のなかに紫や緑や赤や金色のかけらが舞う不思議な色をしていて、それは人間だったときの剣心と同じだった。
 後に皆をして「食肉目でなくてもあれにはヤられる」と言わしめる悩殺上目づかいである。しかし残念ながら、いの一番にその麗姿にまみえるという幸運――あるいは不幸――を、じっくり噛みしめている余裕は左之助にはなかった。
「剣心? おれがわかるか? 言ってることわかるか?」
 こくん。
「これは? 何本?」
 いわゆるピースサインを見せると、馬鹿にするなと言いたげに、剣心うさぎの目が尖った。
『ブフウゥ』
 と、抗議の声。
「わりいわりい。でもそっか。まだうまく喋れねえんだな……」
 こくん。
 獣人は人型でも獣型でも、人間の言葉と動物の言葉の両方を操れるが、どれもはじめからできるわけではない。歩くことを覚え、言葉を覚え、変態を覚えていく、それと並行して、少しずつ、獣の口で人の言葉を、あるいは人の口で獣の言葉を喋る能力を身につけていくのだ。
 十年間も獣化しないまま生きてきた剣心がうまく話せないのは当然のことだった。
「今何年かわかるか? おれ十七歳。おまえ二十九歳。ここは双道寺保育園。園長は浦村のオッサン」
 左之助が矢継ぎ早に繰り出す言葉の一つひとつに、ふわふわの身体に埋もれた小さな頭でウンウンとうなずく剣心。その様子を見て、左之助が息を吐いた。
「はあーっ……」
 深く深く、肺が空っぽになりそうなため息だった。
「よかったー。おれ……おれ、おまえがおかしくなっちまったと思って……おれ……」
 声を詰まらせ、ぐいと顔をこすり、また「よかったー」と、ため息。
 大人びて見えても、つっぱっているようでも、やはりまだ十七歳なのである。
 そして顔を上げた左之助は、どかりと床にあぐらをかいて、膝に手をついた。
「な。なにがどうなったか覚えてっか?」
 こくん。その後に“うーん?”とでも言うようにかしげられる首。ふっくらとした耳がみよんと揺れた。
 覚えてはいるが一部あやふや――とでもいうところか。
「剣心?」
 ぴくん。ふかふかの毛皮にさざ波が走る。
「……さわって、いいかな」
 ………。
「……つーのはナシ。ウソ。冗談。そ、そりゃ怖えよな。なんぼ言ってもおれホッキョクギツネだもんな。なし。今のなし」
『………』
 不思議な光沢を放つ濡れ羽色の瞳がじっと左之助を見上げる。そしてその柔らかな生き物はゆっくりと左之助に近づき、あぐらの膝にもみじの手をちょんと乗せた。
「け……」
 呆然とする左之助をよそにそのままよじ登ろうとするのだが、大きな後足がもつれてうまく上がれない。
 そもそもウサギの後足は大きいと相場が決まっている。危険が迫ったときに最初のひと跳びでどれだけ逃げられるかが生死を分けるという必要上の理由から進化した草食動物の身体的特徴で、きりんの首が長く、ゾウの鼻が長いのと同じである。
 歩くときは足全面をぺったりと地面につけて歩き、駆けるときには両手両足を揃え、その大きな後足の跳躍力にものを言わせて、ちょうど人間がとびばこを跳ぶような要領で、ぴょーん、ぴょーん、と、跳んで走る。これがウサギの俊足のしくみで、だからウサギは一般に後足が大きい。しかも、雪上で生活するホッキョクノウサギの後足は、厚く積もった雪に身体が沈まないよう、それに輪をかけて長く大きく発達している。ウサギになるのも十年ぶりで、しかもウサギだった頃の記憶をもたない剣心が、耳よりも大きなふたつの後足をうまく取り回せないのは、言葉が操れない以上に自然なことだった。
『ブ? ブフ?』
 小さな鼻の穴からフガフガと息をこぼし、白い毛玉はいかにも困ったというようにじたばたとよろめく。
 左之助は思わず口を手で覆って、
「う……」
 と、呻いた。
 そしてゆっくり手を伸ばし、そうっとそうっと丸い背中に掌を添える。
 剣心の動きが止まった。
 さらにそうっともう一方の手を胸に添えると、左之助は繊細な雪の結晶をすくう注意深さでそれを持ち上げた。同じ慎重さで脚の上におろして、細く息を吐く。
「大丈夫か?」
 こくん。
「怖くね?」
 ぶんぶん。
「そっか……」
 こくん。
「……さわっても?」
 ……こくん……。
 触れてみると、丘のような背中は見かけ以上に肉感があり、あたたかかった。なめらかな被毛。十年間一度も日にも風にも人目にもさらされなかった毛皮はふかふかとやわらかく、白さが左之助の目を射抜く。
 愛おしさと自責が胸を衝いた。
 怖がっていた。泣いていた。狂ったようにいやがっていた。
 総三が言ったように本当に気がふれたと真剣に思った。
「ご……めん。ごめんな、剣心」
 ぺたりと寝ていた耳がぴくりと立つ。剣心が膝のうえから左之助を見上げた。
 両側面に離れて眼のついた細い頭部とふっくらと豊かな頬をもつウサギの顔は、正面から見ると下ぶくれのひょうたん・・・・・に似ている。この平和で愛らしい顔で正面から見つめられて、クールさや深刻さや怒りや悲しみを維持することは難しい。左之助も例外ではなかった。シリアスな状況で、しかも自分が真剣に謝らなければならない立場なのはわかっているが、それでも頬がゆるむのをこらえるのは至難だった。
 再び「う」と呻きながら口元を掌で覆い隠して、丸々とした背を上下させるあたたかくてふわふわの生き物を見つめ返した。
 どこかから咳払いが聞こえたのはそのときだった。
「コホン」
 咳払い?
 外だ。遠慮がちな。おずおずとした。
「………」
『………』
 かすかな衣ずれ。そして再び咳払い。
「あー、もしもし、もしもし。浦村ですが。左之助くん?」
 剣心が左之助を見る。左之助も剣心を見る。
 母屋に暮らす浦村園長。年頃の娘がいるため母子を外に置いて単身赴任状態の。
 一人と一匹は一瞬見つめ合い、左之助が立ち上がった。
 襖を、細く細く開け、隙間から目だけを出す。
「あー。えー。左之助くん。えー、緋村さんもそこに?」
「……いるけど、なんか用」
「ええ、まあ、用といいますか、なんといいますか」
 部屋の中を覗こうとする浦村と、その視線を遮るように身体で隙間をふさぐ左之助。右に左に伸び上がる浦村。
「あ、そ。今寝てるから後で」
 左之助はさっさと襖を閉めようとしたが、浦村はすかさず足をねじ込んでいた。
「失礼しますよ」
「あ、おい、てめ……!」
「もしもし、ごめんください。緋………」
 乱暴ではなく、しかし断固として浦村は部屋に入った。そしてぱこんと顎を落とした。
 剣心が記憶をなくしたホッキョクノウサギで、変身もできなくなっていることを、浦村は知っている。なんとかしようと前園長が尽力していたことも、相楽塾長が今もしていることも、知っている。
 だが、この場合、知っていることに驚きを中和する力はなかった。あるいは足りなかった。
 細い目を必死にしばたたき、丸い口をぱくぱくさせる。それでもしかし十秒後には立ち直っていつもと変わらないのほほんとした口調で率直な感想を口にできたのは年の功だったろう。
「いやはや、これはまたなんとも可愛らしいお姿ですなあ!」
 若い左之助と剣心は、「ほっほっほ」と薄い腹を揺する年長者のおおらかな反応に拍子抜けしたような格好である。
「いやはや、そうですか、そうでしたか。ついに変身できましたか。はっはっは。それはよかった。いやよかった。―――ああ、よかった……」
「?」『?』
 最後の「ああ、よかった」が少々妙だった。
 そこまではタヌキらしく腹鼓でも打ち始めそうに朗らかに楽しそうだったものが、最後の一言だけはやけにしみじみとして、いかにもホッとして聞こえた。ご丁寧に大きな吐息のおまけまでついていたのだからなおさらだ。
「オッサン?」
「……あ、いや、なに、ハハハ。これはこれは失礼しました。私としたことが。ハハハ」
「?」『?』
「いやなに、そのう……、なんといいますか、ええ、いえ、あの……」
 しかしひとり赤面する浦村の様子こそ挙動不審である。
「まあその、ちょっとした勘違いといいますかなんといいますか……」
「なんだ? 気持ちわりいな。はっきり言えよ」
「いえ、あの、その。や、よくは聞こえなかったのですがね。えー緋村さんの……そのう、えー、まあいわゆる悲鳴がですね。なにやら聞こえたものでですね。もしやなにか無体なことでも……と。それでこう……慌てて飛んできたのですが。や、いや、どうも邪推でお恥ずかしい。左之助くんには謝らないといかんですな。疑ったりして申し訳ない」
 悲鳴? 無体? 邪推? 左之助に謝罪……?
「……無体ぃ?」
――あ〜れ〜ご無体な〜。
「バッ……!! な……ななななに……! おっおっおっ……」
 信号のように色を変える左之助である。
「いやだからすみませんと。これこの通り」
 律儀らしく上体を折った浦村だったが、若者たちとしてはそこはいっそ見て見ぬふりで素通りしてほしかった。
「そっそそそそれよかオッサンよ」
「あ、はい?」
「これって人に戻んのはどーすっかとか、なんか知ってる?」
「いやー、どうなんですかな、こういうケースですと。普通にベロン・・・……とはいかんのでしょうな、きっと」
 こくこくと頷く剣心。腕を組む左之助。首をひねる浦村。
「んー。やはり塾長でしょうな、ここは。……えーと。緋村さん?」
 よいしょ、と、目の高さに持ち上げて、浦村は剣心の目を見た。
「すぐ戻りたいですか? しばらくこのままでいてみますか?」
『ブッブブッ』
「あ、喋れんのですな。ン、ナルホド」
 と、またじいーっと見つめる。
「……いやしかしあれですな。こうして間近で見るとますます可愛い。実に可愛い。たまりませんなあ」
 細い目をさらに細く下げ、口元を緩め、顔を崩れさせてホクホクしている。
「しかしまあ……。いやはや。私でこれでは、塾生たちには目の毒ですなあ」
 「高い高ーい」と持ち上げられて、剣心が落ち着かなげに手足をばたつかせる。
「おい。乱暴すんな。怖がってっだろ」
 浦村の手から剣心を取り戻して胸に抱いた左之助が忠実なボディーガードの顔で睨みつけたが、そこは海千山千の園長である。十七やそこらの塾生に睨まれるくらいは屁でもない。
「はっはっは、そうですな。こんな可愛い繊細な動物に乱暴狼藉をしてはいけませんな。いじめたり。怖がらせたり。泣かせたり。うむ。不埒、不埒」
「………」
『………』
 ご無体放題の不埒な所業(しょぎょう)が大いにやましい左之助青年は立場がない。
「ま、ま、ま。それはそれとして。どうですか、では明日にしますか。早いうちに塾長をお呼びして相談するということで」
 こくん。
「緋村さん? とりあえずこのままで大丈夫ですか? といってももう四時ですが。ま、軽く仮眠でも」
 こくこく。
「それでは私はこれで。ではまた、後ほど」

 襖が閉まってようやくほっと息をつき、左之助は腕の中の剣心に目を移した。剣心も左之助をじっと見ている。黒々と濡れたつぶらな瞳。ときどきぴくぴくと揺れる耳。こまかいうぶ毛に覆われた鼻。むぐむぐと動く口。揺れるひげ。目の上の長い二本の毛。
「け……」
 そのときである。
「そうそう。言い忘れました」
 すたんと襖が開いて、一人と一匹は飛び上がった。
「緋村さんは明日はお休みということで」
 こくこくこく。
「左之助くんはちゃんと塾に行くように」
 ………。
「それでは、失礼」
 ――すたん。
「ふうー」
『フー』
「心臓に悪いおっさんだぜ」
『ブウゥ』
 まったくその通りだと言いたいのか、そんなことを言うものではないといいたいのか。
「よいしょ。ちょい降りてろ。布団出してやるな」
 間物(あいもの)の肌掛けを適当にたたんで、枕代わりの丸めたタオルをのせると、即席のうさぎベッドが完成した。
「ん。こんなもんかな」
 そうっと剣心を置く。少しごそごそしたが、すぐに落ち着くポジションを見つけ、枕にあごをのせてこっくりうなずいた。
「おれ、外にいるから」
『ブッ、ブブッ。ブ?』
 目は口ほどに訴えかけていたのだが、左之助は気づかないふりをした。
「じゃあな」
 広縁に出て、外から雨戸を閉てる。狐に姿を変えながら庭に飛び降り、そのまま縁の下にもぐりこんだ。
『キュルウゥ〜ン……ニュウ〜ン………ウゥ……ン……』
 臓腑を絞る切ない声を無視するには鉄の意志が必要だった。

 鳥が鳴いている。
 東の空にはうっすらと朝の気配が兆しはじめていた。


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しろくて あったかくて ふわふわ<6> 2007/10/14



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