しろくて あったかくて ふわふわ
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<12>

「子ども達を起こしなさい! 早く!」
「みんな、起きて! 起きてヒト型になりなさい。早く人間に……」
「なにしてる。急げ。ほら、服はいいから!」
「園長、緋村園長! ダメです。無理です、こんな状態で変態なんて……みんな怖がってとてもそんな……」
 炎。煙。熱。サイレン。大人の怒号。子どもの泣き声。小動物の悲鳴……。
 ドンッと大きな音がしたと思ったら一気に爆煙が巻き上がり、あっという間に生類園(しょうるいえん)は火炎に包まれた。プロパンが爆発したのだった。
「仕方ない。みんな、持てるだけ持て! 大きい子も、ひとりでも持てるなら持ってくれ」
「小さいネズミやリスはポケットに入れろ!」
 煙に巻かれて倒れる者が出始めた。
「姿勢を低く。できるだけ屈め。ハンカチを使え」
「みんなプールに行くんだ! すぐに消防車が来る」
 生類園のプールは小さな四角いプールだった。黒々と水をたたえたそこに、避難してきた者たちが次々と飛び込む。
「母さん、どこ行くの!」
 園では先生と呼べと言われていたが、今の剣心の頭にそんなことはなかった。
「剣心。大丈夫。大丈夫だからじっとして。動かないで」
「動かないから母さんここにいて。なんで、どこ行くんだ。行っちゃダメだ!」
「まだみんながいるの。行かなきゃ。大丈夫。みんな助かる。逃げのびるわ。逃げるのは私たち草食動物のお家芸なんだから」
 そんなときなのに冗談めかして母は笑い、
「もうすぐ消防車が来るから、絶対に人間でいるのよ。彼らが助けるのは人間だけ。動物じゃダメ。見捨てられる。助からない。だから決してウサギになっちゃダメよ。もう大丈夫、安全よって言うまで、絶対ウサギになっちゃダメ。いい? わかった?」
 繰り返し繰り返しそう言い含めて復唱までさせ、そして剣心に背を向けた。
「母さん!」
 それが剣心が母を見た最後だった。

「左之! 左之助! 左之……」
 火に包まれる講堂を仰いで、剣心は叫んだ。
――そうだ、あれは夜だった。
 今は昼日中の火事で、炎よりも熱と煙が凄い。古い木造の建物はすでに火の海だ。
「左之……ダメだ、キツネじゃダメだ。ダメなんだ。見殺しにされる。助からない……。どこだ左之……。左之!」
 いないのだろうか。
 そう思った瞬間、忘れていた火への恐怖が剣心を襲った。
 無我夢中で、気がつくとここにいた。
 最近またマッチの火さえ扱えなくなっていた自分が、どうやってあの炎の壁を突っ切ってきたのか。どこから持ってきたのか、手にはずぶ濡れのカーテンを握っている。園のカーテンはすべて不燃性の防炎生地だから理屈は正しいが、よく燃え残っていたものだ。いや、それよりそもそもどこで見つけ、どうやって水浸しにしたのか。
 ドゴオオッと地鳴りにも似た轟音がして、炎が生き物のように大きくのたうった。直後、巨大な煙の塊が噴き出し、熱風が叩きつける。
「わっ……!」
 顔をかばって掲げた両腕の隙間からぐるりを見回す。
「左之……左之……」
 出てこない。返事もない。いないのだろうか。それとも逆にいたのだろうか。あの中に――。膝が震える。
「左之ー!」
 またひとつ大きな火焔が崩れ落ち、火の粉が剣心の腕を灼いた。
「………っ」
 剣心は濡れたカーテンを頭から被ると、池プールを目指して駆け出した。
 気ばかり急いて足元がふわふわと頼りない。
 講堂も母屋も離れも塾も炎上するなか運動場である園庭だけがぽっかりと嘘のように空いている、そのドーナツの穴の端に、プールはある。剣心はその満々とみたされた水に、空地を走り抜けた勢いのまま飛び込んだ。被っていたカーテンを沈めて再度水を含ませて頭から被り、「あ」と思った。
 前にもあった。この感じ、知っている。
 そうだ。二度目だ。門を抜けて、まずこの池プールに飛び込んだ。派手な水しぶきを上げて転がり込む自分の姿が他人の映像のように脳裏を走る。
 火照る頬を手で冷やしてみる。水の感触の冷たさに驚き、続いてそうも冷たく感じることに改めてぞっとした。それだけ熱がすごいのだ。
 そして脳裏をよぎるもうひとつの情景。
 記憶の蓋が開こうとしている。
 凄まじいまでの熱と炎に呼応して、奥深く眠るもうひとつの火事の記憶が覚醒する。

「おい、ウサギだ。ウサギを狙え。ネズミはいらんぞ!」
「そっちいったぞ! その茶色いの! 逃がすな!」
「班長、リスはどうしますか!」
「リス? よし、リスもとりあえず捕まえとけ」
 逃げまどう草食動物の仔らを、彼らは捕まえては袋に放り込んでいった。
「おい、あいつら……!」
「くそっ! ハンターか! こんなときに……」
「……いや、ちがう。ちがうぞ。あいつら……!!」
 こんな火と煙の中で自在に動けているのは、防煙マスクをつけているからだ。
 プロパンを人為的に引火させることは容易い。
「この火、貴様らか……!!!」
 煙の向こうに父親の怒号を聞いた瞬間、剣心の頭はまっ白になり、次に真っ赤になった。プールを飛び出し、目についた棒きれを拾って走った。
「うおおおお!!」

『バカヤロウ! なにしてやがんだ、こんなとこで!』
 白昼夢から醒めてハッと上げた目に、中庭を突っ切って駆けてくるホッキョクギツネの姿が飛び込んできた。細身の夏毛をまとい犬科独特の無駄のない動きで走る姿は、こんな時でも精悍で美しい。
 突然、走り去る母親の後ろ姿が交錯した。逃げまどうウサギやリスやネズミ。
 混乱している。時間が混乱している。十五歳の自分と二十九歳の自分。過去と現在。夜と昼。今は――。
 周囲の空気は燃えさかる火にめらめらと揺らめいて、炎より煙がひどい。それだけは変わらない消防車のけたたましいサイレンと警鐘。過去から響いてくるような救急車の長いサイレン音。気がつけば左之助はあっという間に近づいていた。
 剣心の不安が一気に爆発した。
「馬鹿はおまえだ! まだそんな格好してるのか。早く人間になれ」
『うっせえ、この方が早えだろが。おい、おまえもウサギになれるか。乗っけて突っ切る』
 池の縁で急停止した左之助の背中には、あの動かなくなった柱時計がしっかりと結わえられていた。自転車の荷造りロープだろうか。ゴム紐が前肢のわきにきつく食い込んでいる。
「なに馬鹿なこと言ってる。もう消防が来るんだ。時間がない。早く……」
 時計を外そうと剣心が伸ばした手から身をよじり、左之助は苛々と舌打ちをした。
『だからこれが一番早えから言ってる。変態が無理ならそのままでもいい。おまえ一人くらい……』
 どうってことないと言いかけて、左之助が口を閉じた。剣心の様子が変わっていたのだ。
「ダメだ左之、ダメなんだ……動物じゃ……」
 左之助の背後が燃えている。
 闇夜を焦がす炎。怒声と悲鳴。連れ去られる仲間。見捨てられる仲間。
 熱い。怖い。息ができない。いやだ、助けて――。
「ダメだ。人間でいないと……。あいつらウサギを狙ってるんだ……そのために火を……」
『………』
――いい?剣心。彼らが助けるのは人間だけ。動物は見捨てられる。もう大丈夫、安全よって言うまで、絶対ウサギになっちゃダメ。いい? わかった?
「ダメだ。ダメだ左之……それじゃ狩られる……殺される……。ダメだ……。いやだ、そんなこと……」
「剣心!」
 虚ろな目で叫ぶ剣心の身体を左之助が抱きしめた。
「大丈夫。大丈夫だ、剣心。大丈夫だから」
 ヒト型に戻った左之助はもがく剣心をがっしりと抱いて、背をさすり宥める。
「左之……早く人間に……。奴らが……。死ぬな……こんなことで……死なないでくれ……」
 だれの腕の中にいるかも判らないのか、焦点のとんだ、絵の具を流したような濃い青金色の目が、あらぬ方に左之助を探して徘徊する。
「剣心。ここだ。おれはここにいる。もうキツネじゃねえ。人間に戻った。見ろ。ほら、な?」
 左之助は小さな顔を両手でくるみ、土と煤に汚れた浅黒い顔を目の前に突き出した。
 鼻の触れ合うほどの距離で視界を占める左之助の顔が、遠くをさまよっていた剣心の視線を引き戻す。
「あ……」
「わかるか。もうキツネじゃねえ。れっきとした人間だ。これで大丈夫だろ? な?」
 子どもをあやすような優しく力強い声音でそう言って笑顔をつくった左之助に、剣心は堰を切った勢いでしがみついた。
「左之……左之……。わかった。思い出した。思い出したんだ。あの火事……あの火事、あいつらが火をつけたんだ。おれたちを……ウサギを獲るために」
「剣心……」
 左之助は震える剣心を強く抱き締め、むせび話す背中をさすり続けた。
「あいつら、あいつらだ。あいつらが……。みんな連れていかれた。残ったものは焼け死んだ。……いや、ちがう。殺された。あいつらと、それから他の人間どもに。……奴らどれだけ殺せば気が済む。何度奪えば……。くそ……あんな奴ら、殺してやる。おれが皆殺しに……!」
「剣心。ちがう。大丈夫だ。そんなんじゃねえ。今度のは、これはただの火事だ。原因も判ってる。理科室で実験してたヤツらがミスったんだ。ほんとだ。ハンターは関係ねえ。放火じゃねえ。ほんとにただの火事だ。心配するな。だれも狩られてねえ。襲われてねえ。みんな無事だ」
「みんな……無事……?」
「そうだ。全員無事だ」
「放火じゃない? ただの……火事……?」
「そうだ。だれも攫われても殺されてもねえ。みんなちゃんと無事だ。つっても後はおれたちが脱出しねえとだけどな」
 それを聞いて、ようやく剣心の肩から力が抜けた。そのまま崩れ落ちそうになるのを左之助が受け止める。その腕にすがるように顔を伏せて、剣心は長いため息をついた。
「よかった……左之……無事で……」
「剣心」
「もうダメだと思った。死んだと思った。獣態だと聞いて慌てて……。そしたらどこにもいないし、火はすごいし、あの中にいたかと思って……。……よかった。無事で。生きてて。左之……」
 背中に回そうとした剣心の手が、背負われたままの時計に当たって阻まれた。
 あらためて見る。煙や煤やらで真っ黒に汚れた顔で剣心を見つめている。随分久しぶりな気がした。まるで何年も会っていなかったように懐かしかった。
「……おまえ、これを取りに戻ったのか。こんな……こんな時計なんかのために……。バカだ、おまえは」
 かぼそい声で剣心が囁くと、
「バカはてめえだ、バカ」
 そう言って、左之助はやさしい笑い方をした。
「火ぃダメなくせに、なんでこんなとこ来んだよ。おれが戻った意味ねえだろ」

 強い風が東から西に、園から塾に向かって吹いていた。
 プールは敷地の南側に砂場と並んである。四階建ての塾ビルの風下に回っていないのはよかったが、敷地はぐるりに高い塀と立木が巡らされている。生木の燃える白い煙が上がり始めた。消防車のサイレンは随分前からうるさいほど響き渡っているのに、消火は進んでいるのだろうか。
 左之助が呻くように言った。
「ひでえ話だ。ただの火事じゃなかったのかよ」
「たくさん攫われて、もっとたくさん死んだ」
 剣心の父母も命を落とした。「多数の動物」でしまいにされた無名の獣人たちのことを思えばヒト型だったため死者として姓名が判明しただけでも恵まれていたと思うべきなのか、それとも如何にかかわらず蛮行の理不尽さに怒るべきなのか。
「夜で、火と煙でパニックで。みんなまだ子どもだったのに……」
 逃げる場所も闘うすべもなかった。
 剣心の瞼裏に夜を焦がす火焔が映る。
 左の頬にナイフで切られたような鋭い痛みが走った。

「うわっ」
 棒きれを掴んで走る剣心の頬をなにか熱いものが掠めた。思わず左頬を押さえ、ドクドクと焼けつく痛みに慌てて手をはずす。
「くそっ」
 取り落とした武器を拾い直して走りだそうとした剣心の身体を、強い腕が抱き止めた。
「剣心! やめろ剣心! やめろ!!」
 父の豪腕に羽交い締めにされてなおも暴れ続ける剣心の手が父親の顔にあたり、足が脛を蹴る。
「なんで! どうして! 殺してやる! あんな奴らおれが皆殺しにしてやる……!」
「剣心……剣心……。わかった。わかった。わかったから。だからもうやめろ!」
「なんで……なんでおれたちばっかり……。くそっ……なんでウサギなんだ。なんで……。おれ、おれがもっと強かったら……おれが虎かライオンだったら……!」
 左頬が熱く疼く。だが顎につたう血は冷たい。

「どうして……ろう……」
「え?」
 掠れた呟きに左之助が耳を寄せた。
「どうして闘わなかったんだろう、東谷園長は。あのとき……」
「……」
「あの人は強かったはずなのに。おれたちとはちがう。敵を倒せる牙も爪もあったのに。大事なものを守るための力を持っていたはずなのに……」
「剣心……」
 父親は逃げたのだ、自分を見捨てたのだと憤る左之助を諫めたのは剣心だった。
 凝視する左之助の視線を感じて、剣心は声を荒げた。
「そうさ。おれだって思ってたさ。どうして闘わなかったんだ、どうして闘ってみもせずにむざむざと捕まったんだ、って。でも……だけど……」
 後も見ずに逃げた自責が強かった。そのために、それは責任転嫁だという自戒が、口にすることはおろか、そう意識して考えることさえ禁じさせていた。封じていた感情が、封じていた記憶と共に噴き出している。
「おれもずっとそう思ってたけどよ」
 左之助は剣心の頬を包んで静かに言った。
「けど今はちょっと判る気もするぜ?」
「………」
「うまく言えねえけど、なんとなく。なんつうか、なんかそういうのがあるんだ。多分」
「そういうの……?」
「あー……と。だからなんてんだろ。うまく言えねえけど。絶対(ぜってえ)放しちゃいけねえもんとか。逆になにと引き換えにしても守らねえといけねえもんとか。なんかそういうもんがよ」
「………」
 判るようで判らないような、判らないようで判るような。剣心は左之助の言葉を反芻した。ぼんやりとだが、わかる気がする。大切さの種類と守り方について左之助は言っているのではないだろうか。

 左之助が剣心の頭をそっと撫でた。
「おまえ、それで変態できなくなってたんだな」
「……ああ。そうかもしれない。言われてみれば」
 手探りするような言い方で剣心がそう言うまでに、ずいぶん長く間があった。そして剣心は尚も考える。
 そう言われれば、たしかにそうだ。
 そこまで考えが及ばなかったが、ありそうな話である。
「――心? おい」
 そうかもしれないと言ったきり鳩が豆鉄砲を喰らったような顔で黙ってしまった剣心を訝って、左之助が剣心の目をのぞいた。
「おい、どうした。大丈夫か?」
 黒い目の奥に気遣う色が揺れている。
「……ああ、いや、うん。大丈夫……だ……。けどそんな風に思いもしなかったから、ちょっと。意外っていうかびっくりしたっていうか。――おまえ、かしこいな」
「………つうか普通思うと思うけど」
 ほっとしながらも妙な顔をする左之助に適当に返しながら、だが剣心は深く揺さぶられていた。
 では忘れてはいなかったのだ。
 自分がである。
 なにもかも忘れて、忘れたことさえ忘れていたと思っていたが、そうではなかったのだ。もういいと言うまで決してウサギにならないという母親との約束を、この十四年間、知らずとも守り続けていたのだ。
 過去を捨ててはいなかったことが、たとえそれが呪縛だったとしてさえ、今は素直に嬉しかった。そしてそう思えるのは、目の前のこの子どもがその呪縛から解放してくれたからだ。
 ふいに大事なことを思い出した。
 肝心の話を後回しにしてしまっていたではないか。
「左之。おれ、おまえに謝らないといけない」
「?」
「すまない。すまなかった。嫌われてるのは知ってるがともあれ謝らせてくれ。なにも見えてなかった。わかってなかった。ひとりで勝手に誤解して、悪いように悪いようにばかり考えて。自分のことばっかりで。すまない。本当に。なんだと思ってたんだろう、おれは」
 途中で左之助が一瞬なにか言いたそうな顔をしたが剣心は話し続けた。
「時計のことも、全部聞いた」
「え」
「あ、いや、今日オリエンテーリングでちょっといろいろあってな。はずみで……といってもまたおれの勘違いだったんだが、それで、そんな話になった。あの子らがべらべら喋ったわけじゃない。叱らないでやってくれ」
「……おう」
「とにかくおまえに申し訳なくて、謝らないとと思って、帰ったらまずそれをと思って、帰ってくるところだったんだ」
 そうしたらこの火事だった。
 医師としての責任感から恐怖心を抑えて現場に駆けつけると、左之助がまだ中だという。気がついたら講堂の前にいた。
「しかし不思議なものだ。まるでダメなはずなのに……」
 もうあまり火への恐怖も感じない。
「これが火事場の馬鹿力というものなのかな。それとも怖いの限度を超えて、感覚が麻痺したのか」
 火は、もう手のつけられない勢いで双道寺(そうどうじ)を覆っていた。
 園庭にも薄く煙が溜まり始めている。
「こりゃあ、さすがにヤベえっぽいか」
 左之助が言い、二人は黙って身を寄せ合った。剣心が空を見上げて煙の行方を目で追う。
「だが消火も進んでるはずだ。もう消防が来てかなり経ってる」
 消防、救急、警察、三種類のサイレンが入り乱れて鳴り続けている。救助は時間の問題のはずだ。それまでなんとしてでも持ちこたえなければならない。二人してもう一度池に入り、全身とカーテンをしっかり水浸しにした。

「剣心。こんな時になんだが、こんな時だからこそ言っておきてえ」
「左之……?」
 左之助の顔に短い微笑が閃いて消えた。剣心がさっきから昔と同じように「左之」と呼んでいることを、左之助は気づいているが剣心は意識していないのだ。逆に左之助の方は意図的にはっきりと名前を呼んでいることにも剣心は気づいていないのだろうか?
「なんで“嫌われてる”とか思うんだかな。おれは、おれがおまえに嫌われてんだと思ってたんだが。ひょっとして、ちがったのか?」
「え……」
「前にも言っただろ。みんなおまえが好きなだけだって。だからみんなおまえに笑ってててほしかった。遊んでほしいし、喜んでほしいし、誉めてほしい。だからなんだってしたかった」
「でもおれ、おれなんかそんな……」
「だから“なんか”じゃねえんだって。おまえが自分で判ってねえだけだ。みんなにとって自分がどんだけ大事な存在か。みんながどんだけおまえを必要としてるか。おまえに、愛されたがっているか」
「……」
「……おれもだ、剣心。“も”じゃねえ。おれ“が”だ。だれよりおまえに必要とされたくて、おまえの特別になりたかった。……昔はそう・・なんだと思ってたんだ。おれのもんだと思ってた。おれは特別だ、だれより大事にされてる、そう思ってた。ガキだったんだな。でも大っきくなったらおれなんか全然ワンオブだったって判った。おれが大事だったんじゃなくて、親父やお袋への義理で面倒見てたのかよって、すっげームカついた」
 剣心が弾かれたように顔をあげて、ぶんぶんと横に振る。左之助は「わかってる」というように頷いて、先を続けた。
「だっておまえ、おれのことメチャメチャ警戒してっしよ」
 それは左之助がオフェンスを仕掛けていたからだ。肉食に攻撃されて警戒しない草食などいない。
「けどウサギだってわかったら、まあウサギじゃしょうがねえよなあって」
 こくこくこく。
「でも……。それでも結局ひでえことばっかしたけど、そりゃフラれるわなって感じだったけど、でも、好きだったんだ。どうしていいかわかんねえくらい、好きで好きでたまらなかったんだ。つうか今でも好きだけどよ」
「左……」
「普通にキスとかさせといて全然眼中にねえってどういうことだよ、ワケわかんねえってムカついて、でもやっぱ好きだった。あんなことしちまって、もう完全に終わりだって思ったけど、でもそれでもおれにはおまえだけだ。もう一生ほかの奴は好きにならねえ。だからせめておまえの大事なものを守るんだって思った。おれがおまえにしてやれるのはもうこれくらいしかねえ、それでおまえが笑っててくれるなら、泣かないならって……」
 熱風の中で悲しいような笑い方をする左之助を、剣心は静かに見上げて言った。
「おれの大事なものを守ってくれるというなら、左之……」
 炎に炙られて熱を持つ左之助の頬をなぞる指が顎で止まった。
「命を大事にしてくれ。おれが一番守りたいのはおまえなんだ。おまえより大事なものはないから」
 そう言って爪先立ち、唇で左之助の頬に触れる。
 左之助は遠ざかる唇を追いかけようとしたが、ふと動きを止めて剣心を見た。
「なのにおまえ、二回もおれをフッたんだ?」
「ふった……? ?? なんの話だ?」
 きょとんと首を傾げる剣心に、左之助が眉をしかめた。
「フッただろうがおもきし。まあ一回は覚えてねえっつってたけどよ」
 「振った? おれが? “覚えてない”??」と、尚もしばらくキョトキョトしていた剣心だったが、ふいになにか思い当たる節のある顔になって、「あ」と左之助を指差した。
「初変態のとき?」
「……覚えてんのか?」
「ほ、ほんとにそういう意味だったのか……。道理でおかしいと思った」
「?」
 なにを言っているのか意味が判らなかった。それではまるで愛の告白ではないかと不審に思っていたが、“まるで”ではなかったらしい。だから河原で覚えているかと訊かれたときも、意味が分からないという意味で首を振ったのだったが。
「い、いや、なんでも……。それよりむしろ二回目が判らない」
「マジかよ……。プール納めの日、保健室で……。っていうかあんときゃ悪かったけどよ。……けどおまえ、もしかしてあれ、? マジボケ? ペットがどうとかって本気で言ってたか?」
 剣心はなにも言わないが、ぽかんと口を開いたびっくり顔がどんな言葉よりも雄弁な答えだ。左之助は小さい声で続けた。
「決死の大告白のつもりだったんだが、おれ的には」
――おれと(つが)え。おれのものになれ。おれが一生守ってやる。
「………そういう意味だったのか」
「そうだと思わねえ方が信じられねっつの。普通そうだろうが。え?」
「す、すまん……」
 丸い目のまま謝る剣心に左之助が苦笑する。
「……で?」
「え?」
「そうだったらどうなんだ? あれがそういう意味だったとしたら、おまえ的には?」
「………」
 忙しくまばたきを繰り返して剣心が左之助を見つめ、左之助が剣心を見つめ返した。煙で涙目になった剣心の青金色の目は、火事の烈しい炎にめまぐるしく色を変えている。両頬を手挟んで剣心をのぞきこむ左之助の目には、剣心をドキドキさせるあの春のひだまりの眼差しがあふれている。
「剣心。おれと(つが)いになってくれ。おれが一生、おまえを守る」
「………。でも……。いいのか、おれなんかで」
「だからその“なんか”はやめろって」
 小さく笑んだ左之助の唇が剣心の唇に重なり、短いやさしいキスをして、ゆっくり離れる。剣心と左之助はやっと手に入れた大切な半身を、もう二度と離さないと言わんばかりに抱きしめ合った。
 ゴオッと強い風が吹いて火の粉が舞い、現在の非常事態を思い出す。
「親父はよ……。お袋にベタ惚れだったんだろうな」
「どうした、急に」
「いや。やっぱちょっと判るって思ってよ」
「………」
「離れられるわけねえよな。どうなるとか死ぬかもとか、そんなことじゃねえもんな。おれも、剣心、絶対おまえを離さない。おまえと一緒なら死ぬのも怖くねえって思う」
「ああ。だがおれは今ほど生きたいと思ったことはない」
「剣心……」
「生きたい。おまえと生きたい。今まで一度もこんな風に思ったことはない。だが今は生きたいと思う。生まれてきてよかったと思う。一緒に長生きしような、左之。もうたくさんってくらい一緒にいて、いやほど話もして、あちこち行って、行き尽くして、それから……」
 今度は剣心が左之助にキスをした。短いが濃厚なキスだった。
「逃げるぞ。左之」
 強い眼差しが左之助をまっすぐ見つめる。左之助はそれを受け止めて頷いた。
 消防車の長く高いサイレンと警鐘が炎の壁のすぐ向こう側に聞こえるが、四方はもう完全に火に包まれて、周囲の塀まで煙をあげ始めている。いくら水があるとはいえ、塀や大木が燃え崩れてきたらひとたまりもない。
「やっぱここもヤベエな。真ん中の方がマシか」
「ああ。だな」
 二人はまたザブンと水に飛び込んだ。カーテンを三度充分に浸し、水滴をしたたらせて立ち上がった剣心を見て、左之助が笑った。
「懲りずにエロいカッコしやがって」
「バカ」
 行くぞ、と、剣心が被ろうとした防火布代わりのカーテンが、ぶわっと叩きつけた強い熱風に煽られて巻き上がった。轟音と炎の唸り。木っ端が飛び散ってどさっと鈍い音がして、火の粉が剣心の周りに散る。
「わっ」
 急がないと、ここももう危ない。
 さっき濡らしたばかりなのに、布からしたたる水滴はすでに生ぬるい。
 剣心は腕を布ごと掲げて振り返った。
「急ごう、左………」
 理解がついてこなかった。
 なにを見ているのかわからない。
 さっきまで立って話して笑っていた。抱き合っていた。キスもした。
 どうして。
「左之!!!」
 地面に倒れた左之助。その傍らに、腕ほどもある太い木片が落ちている。
 被った布がどっと重さを増した。
「左之……左之……。うそだろう、左之……。なに……なんで……」
 返事がない。びくとも動かない。
 だが崩れるように駆け寄って顔を近づけると、かすかだが息をしている。
 ほっとして、そしてまた恐怖が戻ってきた。
「左之……左之……くそっ。死なせてたまるか。せっかく……やっとこれからなのに……。いいや、助ける。絶対に助ける。生き延びるぞ、左之。いいな……」
 返事はない。
 剣心は唇を切れるほどに噛みしめて、水浸しのカーテンで左之助を包むようにした。背負いかけたところでふと思い出し、時計もまとめて結わえ直して、あらためて担ぎ上げて、足を踏ん張る。
「だれが負けるか。逃げるならおれたちのお家芸なんだ。逃げ切ってみせる……」

「殺してやる! あんな奴らおれが皆殺しにしてやる……! おれがもっと強かったら……おれにも牙や爪があったら、あんなやつら……!」
 撤収したハンター達の姿が見えなくなっても、父親に抱えられたまま剣心はまだしばらく暴れていた。
「剣心。ちがう。それはちがう」
「なんで。なにがちがうんだ……。なんでおれたちばっかり……いやだこんなの、こんなの……」
「剣心。剣心。泣くな。こんなことで泣くな。聞け、剣心。いいか――」
 父が剣心の拳をこじ開け、握りしめていた棒を放させる。掌は赤く焼けただれていたが、熱くも痛くも感じなかった。左頬の傷だけが心臓のようにドクドクと脈打っている。
「剣心。われわれ草食は連鎖の末端にいる。常に狩られ、食べられる存在だ。だが忘れるな。それは、どんな鋭い牙よりも爪よりも大きな力なのだ。暴力は暴力を生み、憎しみは憎しみを生む。連鎖する。だれかが止めるまで永遠に続いていく」
 阿鼻叫喚に等しい轟音も悲鳴も長いサイレンも、いつしかどこかに遠ざかっていた。
「いいか、剣心。力に力で戦うな。われわれは末端で連鎖を止める。戦わない。弱いのではない、戦わないのだ。いいか剣心。忘れるな。戦わない者は暴力の連鎖を絶ち切り、世界を変える。それがわれわれ草食の力なのだ」

 そう言って小さな剣心の顔を包んでいた温かい手。まっすぐ見つめていた強い目。
 ――父さん……。
 どうして忘れていたのだろう。

 担いだ左之助をほとんど引きずるように運びながら、剣心は空を見上げた。
 夕焼けに染まり始めた空に、薄黒い煙と白い煙が入り乱れている。
「そうだ、これがおれたち草食の戦い方だ……。おれたちは逃げる。戦わない。どこまでも、ただ逃げる。そうして暴力と憎しみの連鎖を絶つ。わかるか、左之。それがおれたちの戦い方なんだ。弱さは非力じゃない。罪でも悪でもない。まちがいじゃない。弱さもまた力だ。――変える力なんだ」
 自分にか、左之助にか、ここにはいないだれかに向かってか。
 小さいが強い声で呟きながら、剣心は火の及ばない空き地を目指す。


「おい、いたぞ! あそこだ!」
「マスクを!」
「きみ! 大丈夫か!」

 声のする方に顔を上げたが、煙で痛む目がうまく開けられない。

「ようし、もう大丈夫だ。安心しろ。大丈夫だからな――おい、手をかせ!」
「きみ、放していいですよ。我々に任せて。大丈夫。助けます」

 土を掘る手を掴まれた。力強い声が聞こえる。いくつもの手が剣心を支えてくれている。背中が軽くなる。
 ほっと力を抜いた途端、意識も途切れた。


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しろくて あったかくて ふわふわ<12> 2007/11/24



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