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「や、獣医ってもウチはちょっと特殊でね。ん、あんたには無理だろうな」
「え。え。いやあの、ちょっと。履歴書くらい見てくださいよ」
面接に入ってものの十秒と経っていないではないか。腰を浮かせて抗議した剣心だったが、面接官である双道寺住職で双道寺保育園園長の東谷上下衛門は動じない。
「や、ああ、おう、見てます見てます。……はい、拝見しました」
すみませんがお引き取りを。
剣心はむっとした。
たしかに三月に大学を出たばかりで実績のない二十四歳の新米だ。卒業と同時に入った動物病院を一か月で辞めているのも心象は悪かろう。だが、高等学校にも行かずアルバイトで学資金を蓄えながら高等学校卒業程度認定試験をクリアし、なおかつ十八歳で国立大学の獣医学部に合格して六年の修業年限を優秀な成績で卒業したみずからの履歴に、なんら恥じるところはない。人手不足のはずの獣医師業界でこうまで侮辱を受けるのは、義務教育を終えていない児童養護施設出身者だからか。十五歳以前の経歴が白紙だからか。
ご縁がなかったようで。と、あっさり引き下がるには若かった。ここにこだわる理由もある。
「孤児院出だからですか」
「孤児院? あ、そうなのかい。ああ、これか。うん」
と、履歴書を見直す園長。早合点か。しかしそれはそれで、やはりちゃんと見ていなかったんじゃないかと腹が立つ。どっちにしても感じが悪い。
「いやまあ、だがそいつぁ関係ねんだけどよ」
「……あのう、ごめんなさい、ちょっといいかしら」
住職なら通らなくはないが保育園の園長にはいまいち不似合いな伝法な口調の上下衛門の横で控え目に身を乗り出したのは、園長夫人の菜々芽である。夫が浅黒く肌こわそうなのとは対照的に、抜けるように色の白いたおやかな女性で、古典的なうりざね顔にどことなく寂しげな翳があるのが儚げだ。
「すみません、緋村さん? あなた、きれいな目をしてらっしゃる。立派なご経歴ですよ。きっとどこに行ってもなくてはならない尊敬される獣医師になられるでしょう。ここは、緋村さん、あなたには相応しくありませんの。どうぞおわかりくださって」
そう言われると出る反論も出なくなる。北風と太陽である。
仕方なく帰ろうと剣心が椅子を立ったとき、その音が聞こえてきた。
ボ―――ン……。
ぜんまい仕掛けの古い古い振り子時計が時を告げる懐かしい音である。
寺にはやや不似合いなその響きに、剣心はじっと耳を傾けた。
ボ―――ン……。
軽く目を細め、やわらかく消えていく余韻に追いすがるように耳を澄ます。
――………。
二時だ。
最初から、なんとなく駄目そうな気はしていた。たまたま見つけた獣医募集の貼り紙を手にいきなり面接に押しかけた剣心を見て、彼らは二人して妙に妙な顔をした。「とりあえず」的に奥へ通されはしたものの、園長はニコリともしないし、夫人は世にも珍しい生き物でも見るような目で剣心を凝視していた。
どうせ最初で最後ならもっと早くか、あるいは遅くに来ればよかった。十一時前とか、五時前とか。
「あの。すみません、ひとつお願いがあるんですが……」
剣心は思い切って言ってみた。
「えっと、あのう。今の時計、見せてもらえませんか?」
おそろしいほどの沈黙が落ちて、剣心は驚いた。そんなにショッキングな頼み事か? 思わず口走る。
「い、いえ、あの、別に深い理由はないんですけど。なんか惹かれるんですよね、あの音。懐かしいっていうか。いつかどこかで聞いてたのかな、みたいな。変に気になってときどき外から聞いてたんです実は。今回こちらに応募したのも、ほんとはあの音が気になってたからなんですよ。もうこの際だから正直に言ってしまいますが。ハハハ」
だが二人は笑わない。どちらの顔も異様なまでに真剣だ。剣心が口を閉じると、二人は話の途中からチラチラと交わし合っていた視線を再び剣心に戻して座り直した。途端、剣心を見つめる二人の目が申し合わせたようにすうっと細くなる。いや、目の形は変わらないのだが、目の中央で黒い瞳孔だけが針のように細くなったのだ。そう、まるで獲物を狙う猫か狼かなにかのように。
な、なんだ……?
爛々と光る四つの目に射すくめられて、剣心は動けなくなった。首筋のうぶ毛がぞわぞわと逆立ち、手足の先から微弱な電流に似た痺れが駆け上がる。
あの、ちょっと。なんですかこれは?
喉が動かない。鼻がぴりぴりする。声が出ない。よくわからないがこれはやばい。かなりやばい。
パニックに襲われそうになった瞬間、夫人が泣き崩れた。
「ああ……! ああ、やっぱり……。あなた、ねえあなた、この子、ひ、緋村さん…! ああ、緋村さん。生類園があんなことになってどんなに……よく……生きて……」
「菜々芽」
咎めるような、なだめるような、上下衛門の苦い口調。
突然の異様にシリアスな展開についていけないのは剣心である。
「あ〜の〜う……」
ぐっと唇を噛みしめていた上下衛門がその声で心づいたように顔をあげて、深い眼差しを剣心に据えた。
そしておもむろに大きくうなずく。
「なあ、緋村さん。奇縁ってのはあるもんだな」
「え?」
「さっきも言ったように、ウチはちょっと特殊だ。あんたも最初はいろいろ戸惑うだろうが、それでもよければここで働いてもらえないだろうか」
「え? え? え? あ? ……ハイ?」
とまあそんな経緯で、当時二十四歳だった新米獣医師・緋村剣心は、「保育園」の「保健室」の「常勤獣医師」という、少々異色な仕事に就くことになったのだった。
それから正味五年。
この“ちょっと特殊”な環境に剣心はよく馴染み、既になくてはならない存在となっていた。
「それでは今日のなぞなぞでござるー」
剣心が言うと、男の子達のキラキラの目が、彼のほっそりと白い指先に集中した。
一見、好奇心旺盛な元気盛りでいたずら盛りの変哲ない男児達である。だがここにいる一人ひとりがそれぞれに“ちょっと特殊”であることを、剣心も今では骨身に染みて知っている。
「はがいっぱいあるのに、なにもたべません。なーんだ」
歯がいっぱい? ライオン! ピューマ。ジャッカルも。ディンゴだって。おいリカオンを忘れるなよ。
さすがに挙がる動物がマニアックである。
ちょっと待てよ、でもなにも食べないんだぞ? えー、オレいやだ、そんなの死んじゃう。あ、オレわかった、笑い声だ! ハハハって、「は」がいっぱい。うそだー。そんなの変だろ。それにヘヘヘだってあるし。じゃあおまえわかるのかよーう。
「これこれ、ケンカはよすでござるよ」
「だってー」
「だってー」
「だってー」
だってーと言いながら、子ども達がワレもワレもと剣心にまとわりつき、野の花の微笑みの咲く可憐な顔を見上げ、大人とは思えない小さくて柔らかな白い手を取り、男とは思えないすべすべの腕をもち、スモック型のまぶしい白衣の裾をつまみ、子どもの手でも足るまるい細膝を抱えて、「だってー」。
百六十センチにも満たない小柄な剣心である。背が低いうえに身は幅も細ければ厚みも薄く、ようするに文字通り小さい。子どもとはいえ年長組の中には剣心より大柄な子も少なくなかったから、そんな風に押しくらまんじゅうにされると、外側から見えるのは垣間見える明るい色の髪だけになってしまう。
「おろ〜」
要するに「だって」はただの口実で、みんな単にきれいでやさしくていい匂いのする大好きな緋村先生に触ったりかまってもらったりしたいだけなのだが、剣心は根が子ども好きの大人だからそこはわかってつきあう。
「これこれ、よすでござるよ〜」
じっとしていても汗の噴き出す暑い盛りで、並より体温の高い子どもに囲まれてもみくちゃにされてはさらに暑苦しいはずだが、子どもと戯れるときの口癖である「おろ」と「ござる」も楽しげに、子どもの汗ばむ髪をわしゃわしゃとかき、手をさすり、背を叩き、肩を撫でてやる。
わー。わー。わー。
ふとひとりが気づいた。
「あ、左之兄ぃだ!」
「左之兄ぃだ。左之兄ぃだ。」
子どもまんじゅうがほぐれて、中から剣心が現れた。
「左之兄ぃ。左之兄ぃ。」
わー。わー。わー。
「ねえねえ、左之兄ぃ。なぞなぞ出したげる。あんねあんね、はがいっぱいあるのに、なにもたべません。なーんだ」
まだ十にもならないくらいの男の子が少し舌足らずに言って、百八十を超す長身のその青年を見上げた。
左之助は今年十七歳。二年前にここを卒業して、今は隣接する社会化適応塾に通っている。身長の割に身は細いが、無駄なく引き締まったしなやかな体躯と精悍な顔立ちに野性味が匂い、脆弱さは感じさせない。眼光炯々たる面差しといい、肌の浅黒さといい、母の菜々芽よりも父の上下衛門に似たのは衆目の一致するところである。
「あ? 歯がいっぱいでなにも食わねえ?」
首を傾けて目を眇める仕草も今はなき父親によく似ている。と、剣心は、眩しそうに目を細めた。
ふと、左之助が剣心を一瞥した。剣心の肩がびくりと揺れる。流れる一瞬の視線に突き通される、あの
「そんなもんおめえアレだ、アレに決まってら。えー、えー……。あ、そうだ、のこぎりだ」
なにかとセンシティブなお年頃のせいか、最近、剣心に対して妙に反発するときがあってむずかしい左之助だが、子どもに向かえば昔と変わらず明朗だ。
「いや、ちがうか。のこぎりじゃあ、木を食うか。じゃあ……ゼンマイでどうだ。あ、櫛もある」
「あ! ほんとだ!」
「すげーすげー!」
「左之兄ぃ、すげー!」
「センセイ、当たり? 左之兄ぃ、当たり?」
「ああ。先生は櫛のつもりだったがな。だがゼンマイものこぎりもたしかにそうだ」
腰をかがめて子ども達に向けていた笑顔のまま、左之助を仰ぐ。
目が合った途端、左之助の目がきつくなった。
子どもに対していたときとはまるでちがう、凍った刃物のような光。瞳孔がすうっと細まって、貫くまなざしの刃が剣心を頭から爪先までまっぷたつに切り下げる。
あ、やばい。
思った瞬間、左之助の目が逸れた。
視線を追って振り返ると、左之助と同じ適応塾の少年数人がこちらにやってくる。
手を振りながら一人が叫んだ。
「なあなあ、ヒムラちゃんってずばりフェネック?」
「?」
「委員長がさー、ヒムラちゃんは絶対フェネックだって言ってんだけどさ」
「そうそう。耳がきれいでちっちゃいからって」
「………」
剣心の目が鋭く切れ上がった。
「わざわざそんなことを言いに来たのか? くだらぬ」
声も口調も園児と遊んでいたときとはまるで別人だ。「おろ〜」と和んでいれば気にもならなかった左頬の大きな十字傷も、そうして表情が険しくなった途端、白い光を帯びて凄く浮かび上がらんばかりである。
「だ、だだだだって隠すからじゃんヒムラちゃんが。いいじゃんかよ、フェネックでもロシアンブルーでもアカギツネでも」
「つうかヒムラちゃんて、園児と塾生でなんでそんな扱い変わるわけよ」
「そうそう、冷たいぜ。オレらだってこないだまでそっちだったんだぜ?」
「そうだそうだ。それに園児っつってもそいつなんか」
ひとりが剣心のそばにいる園児を顎でしゃくった。少年が「オレらより図体でけえのに」というように、たしかにヒグマのような巨体は剣心どころか後から来た適応塾の少年達のほとんどより大きい。
少年が失言に気づいたのは、氷のように冷たい剣心の声にひやりとしてからだった。
「ひとの身体的特徴をどうこう言うのは感心しないな」
「………」
「小さい。大きい。細い。太い。肌が何色。目が何色。顔がどうこう。それがひとの本質にどう関係ある。見るべきはそんなものではなかろう。彼を彼たらしめる本質をこそ見るべきだ」
少年達が互いを見交わす。
わちゃー、しまった。あーあ。バカだなおまえ。しょうもないこと言うなよな。
彼らも皆この保育園を卒園した後に適応塾に進級した仔らだから、子どもに甘く大人に厳しく、卑劣や不正や怯懦や不誠実には烈火と化す剣心の性格もほぼわかっている。はしゃぎまぎれに一人がうっかり口をすべらせたそれは、剣心にとって禁句だった。だがしかし卒園生だけにそこから先も充分心得てもいる。
「……ゴメンナサイ」
しゅんとしおれる少年。すると剣心は表情をゆるめて、彼の肩をぽんと叩く。
「責めているわけではない。ただ、ひとを傷つけて傷つくのは自分だから。それをわかってほしかっただけだ」
「ウン。ゴメン、ヒムラちゃん」
「よしよし」
しおらしくうなだれた少年だったが、「ゴメン」と言いながらなついてきた少年の背を剣心がぽんぽんと叩いてやると、すかさず少年らが割って入った。
「こらこらこら」
「なに調子こいてんだ」
「てめ、どさくさまぎれに抱きついてんじゃねえっつの」
ばれたか。とでも言うような表情の少年を引き剥がして、左之助が剣心を見た。
「ホイホイひっかかってんじゃねえよ」
尖った声とともに向けられる尖った視線は熱いほど冷たい。
さっきと同じまなざしのナイフが剣心に突き刺さる。
薄茶色の目の中の鋭利な黒曜石の破片で貫かれて、手足は呑まれたように動かなくなる。凍てつく氷塊の熱さが血管を走る。首筋がチリチリと総毛立つのに続いて、やがて体温が下がったり上がったりする。見てはいけないと思うのに、目が逸らせない。身じろぎひとつできないまま、射抜く目の中に囚われて、手足の先から快感にも似た痺れがじいんと広がりさざ波のように体表を舐め上げていくのをただ耐える。
周りの音が、ふっつりと消えた。
あ。
すうぅと、波が退くように痺れが退いていく。だが終わりではない。
波は退いたら必ず戻ってくる。
あ。
目眩の前兆がきた。
だめだ。だめだ、落ちる……。
絡め取られていく時間は、囚われる身には長いが、実際にはほんの一瞥、ひとにらみの間にすぎない。剣心が諦めようとした寸前、左之助がひとつまばたきをして、その瞬間、魔力も消えた。
周囲のだれにも知られないまま、一瞬の攻防は終わった。
園児や少年が剣心を間近く取り囲んでいたが、はた目には単に立ちすくんでいるだけに見えていた剣心の内心のパニック状態に気づいた者はいない。
「フン」
左之助が不機嫌そうに鼻を鳴らした。
おい、行こうぜ。
さもつまらなさそうに言い捨てた左之助は、少年達をあごで促すと、朋輩連中を引き連れ、地面を蹴るようにしながら立ち去った。
「……セイ? 先生? どうかした?」
気がつくと子ども達が心配そうに剣心を見上げていた。
左之助達が去った後になって今さらのように少しぼうっとしていたらしい。
「先生、お腹いたい?」
「おお、すまぬすまぬ。大丈夫だよ。ちょっと立ちくらみがしただけだから」
ほんと? と言いながらもホッとした様子の子ども達。
「いい子だな、みんな。よし、それでは今日はもうひとつ奮発しようか。さっきのは左之兄ぃに解かれてしまったことでもあるし」
わーい。わーい。わーい。
「えーと。んー、そうでござるな……」
ふ……と、剣心の目が翳って、左之助達が去って行った方に流れる。
剣心が就職した一年後、今から三年前の夏に、園長夫婦は不幸な事故で不帰の人となった。
それからしばらくしてからだ。左之助との間に距離を感じるようになったのは。減った会話。攻撃的な視線。自分に対してだけではないように思うのは気のせいではないだろう。好奇心に輝いていた明るい瞳は、いつのまにか鬱屈した憤りに染まっていた。
なにが彼を歪ませようとしているのだろう。
「先生……?」
「あ、ああ。すまんでござる。ああ、ではこんなのはどうでござろう?」
淡雪のように儚く笑んで、剣心はそっと呟いた。
「わたしがなんだかしられぬうちだけ、わたしはわたしでいられます。あなたがわたしをしったなら、わたしはわたしでいられません―――」
知られないうちだけ? うーん。うーん。
「えー、わかんない。先生、それなに?」
「おろ。それがなぞなぞでござるよ」
素直すぎる問いに笑みがこぼれる。剣心も思わず素直に答えてしまった。そう、答えは「なぞなぞ」である。
「さ、じゃあ答えは明日な。おうちで考えておいで」
放課後、保健室に遊びに来る子ども達にこうしてなぞなぞをひとつ出題しては翌日答えを披露するというのが、剣心から彼らへの毎日のささやかなおみやげなのだった。
「はーい。じゃあ先生、さよならー」
さよなら。先生さよなら。また明日。
「ハイ、さよなら。また明日な」
振っていた手を下ろす。
私がなんだか知られぬうちだけ、私は私でいられます。あなたが私を知ったなら―――。
左之助に斬られた痺れが、まだ少し指先に残っていた。
さて、同園はたしかに特殊な保育園だった。
上下衛門は“ちょっと”とのたまったが、その表現は控えめに過ぎよう。剣心が柱時計の音につられるようにして就職してしまった職場は、はっきり言って、ものすごく、並はずれて、荒唐無稽に、そして真剣に、特殊だった。あまりにたくさんの驚くべきことがあったおかげで、働きはじめてひと月で剣心のビックリ回路はショートした。
ここは、人の子ではなく獣人の子を預かる保育園なのだ。
園長から初めて聞かされたときは冗談だと思った。からかわれていると思った。まあ普通思うだろう。
「………ジュウジンアコウ?」
「あ、うん、獣人亜綱。早い話が動物に変身する人間だな。キツネとかライオンとか、あとオオカミ、シマウマ、ウサギ、タヌキ……一応哺乳類全般。ただし卵生と水生を除く。あ、ちなみに俺ぁホッキョクギツネだ」
「へええ、そうなんですかー。ははは」
上下衛門の口調は「前から五両目は女性専用車両です」というアナウンスさながらで、到底真剣には聞こえなかったのだ。
だが、実際に自分の目で見、手で触れ、肌で感じてしまえば、もはや抵抗のしようはない。
「よいしょ」
ペンに手を伸ばす程度のかけ声と共に、にょいん……と、シッポが生えた。上下衛門にである。大きな焦げ茶色のシッポだ。腕に抱えて顔にかかるほど大きな、キツネのシッポだ。
「これは夏毛でな。冬には真っ白いのに生えかわる。自分で言うのもなんだが、ありゃあなかなか悪くねえ」
「………」
ぽかんと口を開けた剣心に、上下衛門が「ホレ」とシッポを振った。
「………」
両腕で我がの胸にかかえてみれば、それはまさしくシッポだった。夏毛だからか思いのほかほっそりしているが、そのかわり、ビロードのようになめらかで、うっとりするような光沢があり、そしてあたたかい。思わず顔をうずめたくなる愛おしさがあった。
「……あっ、す、すいませんっ」
つい本当にそうしてしまった顔を慌ててあげて真っ赤になった剣心に、上下衛門は豪快に笑った。
「冬毛はもっと気持ちいいぜ」
もう疑うも信じるもない。頭で考える前に、剣心は本能でそれが真実だと知ったのだった。
聞けば、同じような施設、つまり獣人亜綱の子どものための育成・教育機関はここだけではなく、他にも複数あるという。
絶対数の割に施設の数が多いのは、大まかな種目と性別ごとにそれぞれが別個にわけられているからだ。
分別の理由は、子ども達の安全と保護者の安心のためである。
仮にも半ば人間として生きている以上、肉食動物だからといって生きた動物や人間を狩ることは、基本ない。しかし、とはいえ、半ばが獣の、しかも子どもである。食べ盛りのブチハイエナの仔の目の前においしそうな獲物たるべきリスやらウサギやらが昼寝をしていたりしたらどんなまちがいが起こらないとも限らないし、なにせ目の毒である。互いの精神衛生上もよろしくない。そこで、肉食獣、大型草食獣、小型草食獣のそれぞれに分けられ、またほぼ同様の理由により男子校と女子校がそれぞれ分けられ、結果、小さな施設が随所に点在する。この双道寺保育園はそのなかの食肉目(=ネコ目)男児部門を担っているというのである。
受けた衝撃は驚いたというような生半可なものではなかったろう。
そうか。だから保育園なのに常勤の「獣医師」が必要だったのか。
なるほど。だから保健室に連れてこられる動物たちが、アライグマやオコジョやアカギツネやホンドタヌキといった、畜獣というには少々違和感のあるネコ目各科のオスの仔ばかりだったのか。そういえばブチハイエナやヒグマやチーターもいたっけか。
うかつといえばうかつ。のんきといえばのんき。
勤め始めて二週間がすでに過ぎていた。
不思議と辞めたいとは思わなかった。
獣人亜綱の子は生まれて約二年で一気に十五歳まで育ち、それ以降は人間と同じに一年で一歳ずつ年をとる。双道寺保育園の保育年限が二年間なのはそのためである。つまり卒園時には十五。十五といえば昔なら元服、立派に一人前の年齢だ。ぐんぐん成長を遂げるこの二年の間に、獣人という特殊な身の上で人の世を安全に生き抜くための基本を子らは身につける。短い期間に学ぶべきことは多い。指導陣には各分野の優秀な人材が揃い、全力で全人格的教育にあたっていた。
子どものことだから怪我も病気も多いが、事情が事情だけに人間の医者にはかからない。そこで園には獣医師が必要となる。通常は身内でまかなわれるこのポジションに、まったく部外者である剣心が応募してきたのは、実に「たまたま」の累積だった。すなわち、たまたま前を通りかかった剣心が、たまたま人の出入りで門が開いた瞬間に、園内の壁に貼られていた「急募・獣医・男性・一名」の貼り紙がたまたま剥がれ落ち、それをまたたまたま吹いた一陣の風が剣心の足元に運んだ、という――。
まったく世の中には奇な縁があったものだと、剣心は後に幾度も思い返すことになるが、果たしてそれが偶然だったのか必然だったのかは、神ならぬ身には知りようもなかった。
寺の隣地に建つ四階建てのビルも双道寺の所有だった。
ここは保育園を卒業した子どもが次に通う社会化適応塾で、子らは十五から十八までの三年間をここで学ぶ。内容は、「社会化」と「人間社会適応術」、そして一般的な学力知識の習得。(ちなみに世間的には「特殊な子どものためのフリースクール」という建前になっている。これもまああながちウソではない。)
そしてここも保育園同様各分野の優秀な教師陣が揃い、濃い教育が行われていた。そもそも獣人はずば抜けて優れた資質を持っている。容姿端麗、頭脳明晰、運動神経抜群で、本気を出せばどんな分野で世界のトップに立つこともたやすい。だがそんなことは立派な獣人の目指すべき道ではない。有名になって注目が集まれば、「獣化」という秘密をもつ獣人には、生きづらい日々が待っている。無駄に名をなしても、労多くして益は少ない。それよりも、いかに目立たず平凡な一市井人として生を全うし、種族の血を残すかこそが、獣人の心得るべき道である。
保育園と適応塾の五年間で、そのための心構えを学び、鬼だらけと噂の世間を渡るすべを身につけ、あって損はしない学問と学歴を習得する。それぞれに優秀な教師が揃ってもいれば、元来が優秀な獣人でもある。毎年全員が難なく高等学校卒業程度認定試験に合格する。並行して大学の受験勉強をし、適応塾を卒業後、大学に進学する者も少なくなかった。
そういえば、昔、剣心が上下衛門に訊ねたことがあった。
「戸籍とかどうするんですか?」
素直な疑問である。
だが園長の返答はうやむやだった。
「ま、そこはほれ、蛇の道は蛇ってえか、獣人だけにケモノ道ってえか。ハハハ」
狐につままれた面持ちで、ぽかんと口を開けた剣心だった。
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しろくて あったかくて ふわふわ<1> 2007/10/6
【ホッキョクギツネについて】→ナショナルジオグラフィック2004年10月号