園では月に一度全員で「校外進出」をする。なにやら大層な名だが、要するに社会見学だ。教員の引率で町や公園に出かけ、仔らに社会性を身につけさせようというもので、これには獣医師である剣心も同行する。
真夏の陽射しがジリジリと照りつける暑い日だった。
食肉目には暑さに弱い動物も多い。本当ならこんな日の外出は医師としては推奨できかねるのだが、「甘やかしすぎで適応力のない弱い成獣人になってはよろしくない」という園の方針も理解はできる。万一に備え、水やら冷却剤やらタオルやら日傘やらなにやらの暑さ対策グッズをどっさり、いつもの救急セットと一緒にリュックに詰め込んで、小さな背中の細い肩に背負っていた。
実を言えば剣心も暑さに弱い。それもかなり弱い。剣心なりに精一杯がんばったのだが、なにせ下手をすれば卒園間近(つまり十四、五歳)の園児などには見下ろされるほどの小ささである。帰路につく頃にはがんばりの泉もほとんど干上がり、園児より剣心の方がへばり気味だった。
「先生、大丈夫?」
「荷物、持ってやろうか?」
先日適応塾の少年に「オレらより図体でけえ」と言われたヒグマのような風貌の園児だった。実は本当にヒグマでもある。
しかしいくら頑強なヒグマの十五歳児とはいえ、園児に労られては獣医師かたなしだ。
「大丈夫。もうじきだし。すまぬな」
精一杯大人の笑みをつくり、剣心は伸び上がってヒグマ少年の頭を撫でてやった。
次の交差点を曲がれば園が見える、というところにさしかかっていた。普段、剣心はここを通らない。いつもなら避けて遠回りをするのだったが、今はそうも言っていられない。間口二間ほどの小さな鉄工の工場の前で幾人かが作業をしているのが見えた。
大丈夫。みんなと一緒だし。
おそるおそる足を前に押しやる。さいわい大きな火は使っていないらしい。ヤスリをかけたり、組み立てたりという程度だ。
これなら大丈夫。
そう思いつつ車道ぎりぎりの端っこを歩き、なるべく見ないようにしながら通り過ぎようとしたそのとき。
―――シュバッ……! バチバチバチバチッ!!
激しい火炎音が背後から追いかけてきた。
実際には作業バーナーの制御された炎にすぎない。だが剣心にはそうではない。襲いかかる猛火の記憶が引きずり出される。
火。炎。燃えさかる炎。轟音と爆煙。背中が。背中が。重い。熱い。苦しい。
―――大丈夫。大丈夫だからじっとして。動かないで。今から言うことをよくお聞き……。
いやだ。たすけて。だれか――。
「おい……おい! しっかりしろ。大丈夫だ」
声と同時に肩がつかまれていた。
ふっと背中が軽くなる。いつのまにか固く瞑っていた目を開けると、すぐ目の前に左之助の顔があった。のぞきこむまなざしは、今日はあの斬りつける刃ではない。深い深い泉の水面のように黒々と輝いて、剣心を吸い込んでいる。
「あ……? 左之……助?」
いつのまに持ってくれたのか、背負っていたはずの重いリュックは左之助の手にあった。
皆は先に帰ってもらい、左之助に連れられて少し離れた街路樹の木陰に休む。
「飲め」
渡された水を飲むと、ようやく少し落ち着いた。
しばらく黙って二人で風の音を聴いた。
「もう大丈夫だ。助かった」
「あんま、ムリすんな」
「ああ……」
最近には珍しくやさしい口調の左之助に、剣心の胸もほっこりやさしくなる。
剣心は火が怖い。マッチや煙草や料理程度の生活範囲の火なら今はもう平気だが、それ以上の炎にはどうしても慣れない。鋭い火炎を扱う鉄工所や工事現場は剣心には鬼門なのだ。左之助は知っている。だから「大丈夫か」ではなく「大丈夫だ」だった。多くは口にしないが、労ってくれているのが全身に感じられた。
黙っていからせた肩と丸めた背中を見る。言動は変わっても根は変わらない。
「ありがとう」
「おう」
ことさら凄むようなぶっきらぼうな口調が、今は無性に嬉しかった。
火事で焼け出されて児童養護施設に保護された十五歳より以前の記憶が、剣心にはない。
驚天動地ともいうべき自分の秘密と出自を知ったのは、この双道寺保育園に就職してひと月になる頃。意外にも当時園長だった上下衛門から聴かされてのことだった。
その二週間前、通っている子らがヒトの子ではなく獣人の子だという双道寺保育園の秘密を知った剣心は、上下衛門のすすめで、ここに住み込みで働くようになっていた。「双道寺」というくらいで一応は「寺」だが、ただし檀家は同属限定。敷地内に本堂と講堂兼保育園の建物、それに家族が住まう母屋があり、剣心は母屋から渡り廊下で隔たった離れを丸ごと与えられた。モルタル二階建て1DKのアパート(トイレ共同、風呂なし)から引っ越してきた剣心には御殿だった。
そして獣人保育園というべらぼうな環境にようやく慣れ、仕事にも慣れ、人と動物の姿を行き来するこの保育園の園児たちとの距離もつかめてきたある日の夜、剣心は上下衛門に呼ばれた。
菜々芽夫人も一緒だった。
「そろそろ言っといた方がいいかと思うんだが、緋村さん」
「はい、なんでしょう、園長」
「驚かないで聞いてくれ」
「………」
思わず身構えた。
このひと月でこれまで生きてきた全部を合わせたよりもたくさん激しく驚いた。もういいかげん驚き慣れていると思うが、なにせここでは想像を絶することが起こり続けている。しかもこの住職兼園長の上下衛門氏は、そこらへんの価値観がややぶっ飛んでいるきらいがある。そのひとがわざわざ「驚くな」と前置きをするとは。
「や、実はアンタも獣人亜綱なんだな」
「………」
「話せば長くなるが、まあ要するにいろいろあって、アンタは十五で記憶を失ったわけだが」
「………」
それはちょっと省略しすぎだと剣心は思う。いくらなんでもわからない。
「で、なんの獣かというとこれが実はホッキョクノウサギでな」
「………」
「や、知っての通りこちとら食肉目男児専用の保育園だからな。まあウサギにとっちゃ天敵の巣だわな。最初はさすがにどうかとも思ったが、フタを開けてみりゃ、アンタは実によくやってくれてる。腕もいいし、熱心だし、子どもらにも好かれてる。こんなとこだと知ったうえで、できるだけずっと働きたいとまで言ってくれた。あんときゃ言わなかったが、正直こんな有り難いことはねえとおれは思ってる。だが、となりゃあ、これは黙っとくわけにはいかねえ問題だ」
知らなかった。いつも鷹揚な上下衛門がそんな風に思ってくれていたとは知らなかった。こんな状況でそんな話の最中でさえなければしみじみと感動したかもしれなかったが、あいにく目下剣心は大混乱中である。
「むしろ知らねえがために問題が起こることだってあるかもしれねえ。それにま、それを抜きにしても、アンタもこの先ずっと知らないでは済まないことだし」
ジツハアンタモジュウジンアコウ。
ナンノケモノカトイウトコレガジツハホッキョクノウサギデ。
シラナイデハスマナイコトダシ。
「………」
いいや知らずに済むなら一生知らずに済ませたかった。知りさえしなければ静かに平凡な一生を送れたかもしれないのに。
「剣心さん? 大丈夫?」
菜々芽は彼を「剣心さん」と呼ぶ。やわらかい雪どけを運ぶ陽射しのような声で呼ぶ。剣心は母を知らないが、母親というものはきっとこんな風に子を呼ぶにちがいない。
「え、あ、ああ、ええ」
「ごめんなさいね。このひとすることも乱暴だけど話も乱暴で。びっくりしたでしょう?」
「えっと、いや、あの……」
普通なら「そんな馬鹿な」となるのだろうか。だが、どこかなにか笑い飛ばせないものを、剣心の中の本能が感じていた。
「やっぱり怖い?」
菜々芽夫人も夫と同じホッキョクギツネだ。それは園の話と一緒に聞いて知っている。知らなかったのは、自分がそのホッキョクギツネを天敵とする、つまりホッキョクギツネの最高のごちそうであるホッキョクノウサギの獣人であるということだった。
「そりゃ怖いわよね。ごめんなさいね。いくらリアルに狩る狩られるなんてことがないって言っても、そりゃね。それに私たち本来はこんな狩猟スタイルじゃなかったはずなんだけど、獣人型に進化してちょっとタイプが変わっちゃってるし」
「タイプ?」
「ええ、そう。対ウサギさんの
と、菜々芽夫人がすううっと瞳孔を細めた。
「………!」
首筋がぞわぞわと総毛立った。爛々と輝く双眸から目が離せない。糸のように細まった瞳孔がぐわっと大きく飛び出して剣心に斬りかかってくるような。やがて手足の先がビビビと痺れて、その痺れが喉まで這い上がってくる頃には、金縛りにあったように動けなくなっていた。
「………!!」
ふう……と夫人の目が和らいだ。呪縛が解け、剣心は半凝固状態から解放される。
「ごめんなさいね。ちょっとやりすぎちゃったかしら。でもつまりこういうことなの」
ちょっと? これがちょっと? この夫婦の“ちょっと”は一体どうなっている?
だがそこで剣心はふと思った。
待てよ?
「でもどうしてわかったんですか? おれがそうだって。最初って、だって飛び込みで面接にきて、その場で?」
「ああ。まあ、この歳になるとな。お仲間はなんとなく気配でわかるもんなんだよ。こいつそうだな、とかくらいはな。何系のヤツかまでわかる奴は少ねえが、おれ達ゃまあ仕事柄いろいろ会う機会もあったしな」
これは後に知ったことだが、十年ほど前までは異種連絡会のようなものがあったらしい。
「そ、それでホッキョクノウサギだと?」
「……いやまあ。だからなんてえか、そんときゃ“とりあえずウサギ系っぽいな”ってくれえだったかな。……うん」
「………」
「あ、そうそう、ちなみにホッキョクノウサギってえのは“北極の/兎”じゃなくて“北極/野兎”でな。ま、どうでもいいっちゃいいかもしれねえし、大事っちゃ大事ってえか。や、実はウサギってのは獣人のなかでもそう多い方じゃねえんだが、中でもホッキョクノウサギは稀少な種で、“幻の”なんてえリングネームで呼ばれたりもするんだが」
「………リングネームはちょっと違うんじゃないかしら」
「そうかあ?」
おぼろな理解のなか、上下衛門が、まるでなにか口にしづらいことを誤魔化そうとでもいうように変に饒舌になったことや、ボケ&ボケの夫婦漫才のようなやりとりも気にならなくはないのだが、それよりもさらに気になることがある。
そもそもウサギだとわかったならこんな野獣の巣窟に迎えるべきではなかったろうということだ。
――いや、ちがう。
思い出した。最初はとりつく島もないほど拒絶されたのだ。「アンタには無理だ」「あなたにはふさわしくない」と二人はたしかに言っていた。それがふいに採用に転じたのはなぜだったろう。上下衛門に一蹴され、菜々芽夫人になだめられ、一度は諦めて帰ろうとした。けれど、そうだ、たしかそのとき時計が鳴って……。
ボ―――ン……。
「………」
黙り込んだ上下衛門と菜々芽は、重い視線を静かに交わし、剣心に向き直った。
ボ―――ン……。
「緋村さん。アンタ、あのとき、あのボンボン時計の音が懐かしいと言った。いつかどこかで聞いてた気がするとな。“ときどき”とか言ってたが……。ほんとはちがったんじゃねえか。何度も聴きに来てたんじゃねえか。外であの音を懐かしんでたんじゃねえか。だから中にしか貼ってなかった獣医募集のはり紙をアンタが持ってた。……ちがうか」
今度は剣心が黙り込む番だった。
「……あの時計はな。実は九年前までは別のところにあったものなんだ」
「九年前?」
剣心が事故で焼け出され、それまでの記憶をすべて失って施設に収監――いや、保護された頃だ。
「
火。火事。生類園。
「たくさんの子どもが死んだ。行方不明になった子どももいた。一人でも助けようとして、園長夫婦は煙に巻かれた」
火事。火事。燃えさかる炎。吹き荒れる煙。苦しい。苦しい。息ができない。助けて。
―――大丈夫。大丈夫だからじっとして。動かないで。今から言うことをよくお聞き……。
「園長は名を緋村と言ってな。義侠心にあふれたホッキョクノウサギだった」
「素晴らしい人でね。キツネなんて天敵のはずなのに、分け隔てなく接してくれてね。獣人は半ば動物だが半ばは人間だ、って。動物の知性と人間の感情を共に制御してこそ真の獣人だ、って。自信にあふれて。あのひとこそ獣人のなかの獣人だった」
「奴とならなにかを変えれそうだと思ったもんだが」
―――いいか。もう大丈夫だからいいよというまで、決して……じゃないよ。
「そいつにはひとり息子がいた。その火事で行方不明になったが……。生きていれば今年二十四。……ちょうどあんたと同い年だ」
どくんと心臓が鳴った。
―――ここなら安全だよと言うまでは、決して……てはいけないよ。必ず……。
「むしろ“緋村”の名を聞いてなんですぐそこに思い至らなかったのかと、今では不思議なくらいだが」
記憶を失っても名を失わなかったのは、着ている服のすべてに縫い付けられていた小さな名札のおかげだった。縫ってくれたのは母親か父親か。顔も覚えていない誰かが守ってくれた名前がいま、剣心に過去を取り戻してくれた。
「園長……」
「親友の忘れ形見だ。それにあの緋村の子なら野獣の巣窟でも大丈夫だろうさ。いや、むしろこれがなにかの始まりになるのかもしれねえ。そう、思った……」
なあ、緋村さん。奇縁ってのはあるもんだな。
初めて会った日の上下衛門の言葉が耳に甦る。
あんたも最初はいろいろ戸惑うだろうが、それでもよければここで働いてもらえないだろうか。
どんな思いで言ったのだったろうか。
「ま、あんまりしんどかったら無理はすんな。潰れるまでは頑張るな。な」
「はい……」
だが剣心はまだ完全な獣態つまりウサギの姿に変態したことがない。
上下衛門と菜々芽に助言を受けながら何度も試みたが、二人の言う「ここらへん(と上下衛門は尾骨を指した)をエイッときばる感じで」「身体をべろんと裏返すような感じで」の、その「感じ」が皆目想像がつかないのだ。仮にも口のきけない動物相手の医学を学んだ身である。想像力も洞察力もさほど欠如しているとは思わないが、なまじ自分の身体のことで、しかも「尾骨をきばる感じ」だとか「身体を裏返す感じ」だとかいう未知の感覚の話だけに得体が知れない。秘密の特訓開始から半年ほど経った頃、偶然ぴょっこりと尻尾が出たことがあったものの、それもほとんどもののはずみだったから、二度やれと言われてもどうしていいかわからない。一度きりとはいえ、それがなければ自分が獣人亜綱ウサギ目だということ自体を疑いはじめていたかもしれないくらいだった。
まだマフラーをしていたから春も名ばかりの三月のはじめだったろうか。
二月に菜々芽が男児を出産していた。かなりの早産だったが幸い母子共に健康で、仔は小さく生まれたにもかかわらず元気に成長してコロコロと大きくなっていった。
それが左之助だった。
二年でヒトの十五年分を育つ獣人である。生まれて一か月も経てば約一歳相当。ヒト型の方も獣態の方も、歩いたり転がったりよじ登ったり手近なもので遊んだりもしはじめる、ちょうどそんな頃合いだった。
その日、昼下がり、留守の母親のかわりに添い寝をしていた剣心に、左之助が寝ぼけて咬みついた。母狐とまちがったのだろうか。あるはずのしっぽを探してあむあむするのだが、いくら求められてもヒト型剣心の腰にしっぽはない。
「こらこら、よさないか左之。くすぐったい。こら、おい、ちょ……」
そのとき左之助は獣態だった。乳歯が生え揃って間もない子狐だった。濡れた鼻先とやわらかな幼毛と生え初めの可愛らしい歯をもつ、甘えた盛りの子狐だった。
「ん、むぅー」
「左……」
之、と、言いかけて、剣心は息を詰めた。
ざわざわざわっと全身が一気に粟立ったのだ。
左之助が甘咬みしている腰の裏側の一点。かすかに骨の出っ張りのある。ヒトが猿から進化したホモサピエンスの歴史の名残り。そこが。
「な、なに……うそ……ちょ」
得体の知れない感覚がふくれあがる。
剣心に眠る未知のなにかが目を覚ます。
自分が自分でなくなりそうで、剣心は押し寄せる感覚に必死で抵抗を試みた。
「や……だめだ、やめろ左之、いやだ……そこは……あっ」
だが左之助は夢の中にいる。わけもわからないまま、剣心の尾骨に鼻先を押し当て、ちゅうちゅうと吸い付き、歯を立て、首を振る。
「あ、ああっ」
いくら小柄とはいえ人間の大人が生後一か月の子狐一匹、払って払えないはずはない。ないのに、身体は縛られたように動かない。それどころか指一本を動かすことも、身じろぐことさえままならない。
―――だめだ、いけない!
剣心の目が大きく見開かれた。
灰青色の光彩の中で
「あっ、あっ、ああっ」
「んむ、んむ」
「ああ……」
痙攣するような細かい震えが一瞬やんだ。張りつめた糸のように突っ張った身体。頼りなく開かれた小さな口。恍惚然と揺れる目。細く白い身体が力なくふるんと揺れて――。
そしてひょっこりと、しっぽが出た。
白くてまるくてふわふわの、可愛らしいウサギのしっぽが。
剣心に。
四週齢の子狐は、寝ぼけながらも、目の前に突然現れたおいしい匂いのするやわらかな玩具に無心でしゃぶりつく。
「ちょ、左之、やめ」
ふかふかだった生まれたてのしっぽは、左之助の、小さいが獲物を捕食する機能に長けたイヌ科の口でねぶりたおされて、みるみる唾液にまみれていった。
「や、だ、あっあっ………だ、だめだ……だめだって……」
嵐のような感覚に翻弄されて、剣心は息も絶え絶えになっている。
そのとき、しっぽから全身に駆け巡っていた電流が、波が引くようにすうっと消えた。
あ………。
――来る。
もっと大きなのが来る。
直感させたのは、剣心の中の野生の本能だったろう。
無我夢中だった。
なにをしたのか、どうやって振り払ったのか、皆目覚えてはいない。
ヌーの群れが走っている。
と思ったら自分の脈だった。馬鹿みたいに暴れている。
身体が熱い。目の中がぐるぐるする。唇が震える。空気が薄い。
「はあっ、はあっ、はあっ……」
相当経ってようやく自分が倒れている畳の感触をそれと認知した。
「はぁ」
左之助は失った美味なおもちゃの代わりに自分のしっぽをくわえて眠っている。
「んみゅー……」
子犬の尾に似た穂をつけるから
「はぁ、はぁ」
剣心はおそるおそる腰に手をやった。
ある。
まだある。
たしかにある。
左之助がさんざんしゃぶったせいで毛がぐしょ濡れになって細っているが、たしかにある。
妙な感じだった。
だが自分で触れる分にはいたずらな子狐に遊ばれたときのようにはならないらしい。
少しだけほっとした。
しかしこれはどうすれば引っ込むのだろう? 気にならなくはないが、だがそれは後でいい。今はとにかく休みたい。
ふうと力を抜くと、何キロも泳いだ後に似た脱力感に襲われた。今はもう何もしたくない。まぶたの開閉にさえものすごいエネルギーが必要だった。だがなんとか気力を絞り出して目を上げ左之助をうかがう。しっぽはもういいらしい。今は手足を放り出し、長々と身体を伸ばして、よく寝ていた。
「すぴー……すぴー……」
おいおいおい。誰のせいだまったく。
とは思いつつも、ひたむきな幼い生命に対して湧く気持ちはただただ愛おしさばかりである。
罪のない寝顔に口許がほころぶ。
引っ込め方は後で上下衛門に訊くとしよう……。
そこまで思ったところで、糸が切れるように意識が落ちた。
「え、もういい?」
思いがけないことを聞いたという顔を、園長夫婦はした。
「はい。とにかくこれでウサギだってことははっきりしましたし。あ、いえ、別に信じてなかったわけじゃないですけど。でもやっぱり実際自分の目で確かめて納得いったっていうかなんていうか。だからまあ、とりあえずもういいかなーと」
「いや、全然よかねえだろ。しっぽが出ただけなんだろ? そりゃおめえ、ちゃんとしとかねえと」
「そうよ。それにそこまでいったらあとちょっとなんだから。ね?」
「おうよ。しっぽが出りゃあ、できたも同然。あと一息だ。な!」
「ええ、ええ、そうですとも」
「もうちょっとやってみねえ」
だが剣心は知っている。この二人の「ちょっと」は信用ならない。
「……でも疲れますし」
二人してきょとんとした。
「疲れる?」
「変態がか?」
しばし躊躇い、様子をうかがうように剣心は首をかしげた。
「………疲れません?」
「いいやあ……別に?」
「ええ、とくには」
別にとくには?
信じられない。
その瞬間、意識が吹っとぶような感覚さえあったのに。
それにあれはまるで。
「………」
だが偽っているという風ではない。
「むしろスカッとするくれえだがな、おれなんか」
スカッと?
まあたしかにそういう側面もなくはないかもしれない。
だってあれはまるで……。
「なにかしら、大人だからかしら?」
菜々芽が呟いた。剣心はうろたえる。
「えっ」
「普通はほら、物心もつかない頃から親が手ほどきするじゃない? だからみんな歩くより先に姿を自由に変えられるようになるわ。それを大人になってから習得しようとするから大変なんじゃないかしら。ほら、
はしか?
「………」
「………」
「と、とにかくもう変態の練習はいいです。別にできなくて困るものでもないし」
「あ、それはちがうわよ、剣心さん」
「え?」
「あのね、私たち獣人は人と動物の間の生き物なの。どちらでもなく、逆にどちらでもある。どっちかだけだと駄目なの。獣になったり、人間になったり、そうすることで精神的にも身体的にもバランスがとれる。ねえ剣心さん、あなたは十五歳のときからずっと人間として暮らしてきたわね」
「はい」
「多分、今のあなたにはとても大きなストレスがかかってるわ」
「え?」
「十年も動物型になることなくずっとヒトとして生活してるっていうのは、それは獣人としてかなり特異なことよ。バランスがよくない。そのしわ寄せは、もし今は感じてなくても、いつかきっとくる」
「………」
「それにね、剣心さん。獣化するのってとっても気持ちいいのよ」
真剣だった菜々芽の表情がぱっと明るくなった。
「全身の血と水が新しくなるような感じ。リフレッシュっていうか、デトックスっていうか。いらないものが全部出てくって感じで、体が軽くなって」
まるで今が
「はあ……」
どうもこの人には弱い。だがここは踏ん張らねば。
「いえでも、なんていうか、人に見られても困るし」
「ああ、まあそりゃ今はそうだが、だが夜か休みにウチでやってる分には構うめえ」
剣心の正体は周囲には秘されている。ただでも人気者のきれいで可愛くていい匂いのする獣医さんが、実はウサギだったなどと知れたらえらいことになるに決まっているからだ。それもただのウサギではない。ホッキョクノウサギだ。真っ白くてふかふかでふわふわの。よくいるノウサギより二回り以上大きくてやわらかい。たまらないほど甘くておいしくて、一度その味を知ったら一生忘れられないという。獣ならだれもが虜になるという、あの幻のホッキョクノウサギなのである。
それはもう、どう考えても大変なことになるしかない。
と、いうわけで、当面極秘とされた剣心の得体を当時知っていたのは園長夫婦の他には適応塾の塾長だけで、そしてそれは今も変わらない。いずれ折を見て公表をという話も、園長夫婦の不慮の事故があったりして、結局立ち消えになっている。
「そうよ。ここには私たちだけなんだし、左之助はまだ小さいから大丈夫だし」
「いえ、あの……」
だがその「まだ小さい」左之助も「大丈夫」ではない。
それにそういう問題ではないのだ。
あんな姿は他人に見せるべきものではない。
だってあれではまるで。
かあっと頬が熱くなる。
「いえ。でもやっぱりいいですおれ」
やさしくきれいな顔立ちはしていても、こうと決めたらてこでも動かない筋金入りの偏固な剣心であることは、園長も園長夫人ももうその頃には十二分に知っていた。
結局、変態練習はそれきりということになった。
剣心はその後も時折だれもいないときを見計らってひとりこっそりと尾骨をさすったりもしてみたのだが、多少のくすぐったさがあるばかりで、あのとき左之助に咬みつかれた時のようになることはなく、そのまま現在に至っていた。
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しろくて あったかくて ふわふわ<2> 2007/10/6
【ホッキョクノウサギについて】→Yahoo!画像「Arctic Hare」 or Ukaliq/the Arctic Hare