しろくて あったかくて ふわふわ
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<14>

 背中に当たるクッションの感触でベッドに下ろされたことに気がついた。濃厚なキスの途中からは頭も身体もぐらぐらで、抱き上げられたのにも運ばれたのにも気づかなかったらしい。
 剣心の体内で血が暴れていた。身体全部が心臓になったのかと思うほどのすごい強さで脈打っている。すぐに左之助が覆い被さってきて、心地好い重みと寄せられる唇にまた意識が陶然となる。首に回していた腕の力も抜けかける頃、長いキスは終わって、唇の愛撫は耳から首筋へと下がっていった。やわらかい耳朶を上唇と下唇にはさんで甘噛みし、ときどき歯を当てたり舌でくすぐったり息を吹き込んだりして剣心を驚かせる。ベッドに押さえつけられた身体はその度にぴくんぴくんと身悶え、切なそうな吐息をこぼし、ときどき殺しきれない喘ぎ声が口をつく。
 首筋を辿る唇が鎖骨に辿り着いたとき、腹部をゆっくりと撫であげていた掌が胸の突起に当たった。
「あっ」
 全身を貫いた電流はひいた後も指先に痺れが残るほど強烈だった。だがひいたと思ったのも束の間、今度は開いた手が石か豆の粒選りでもするように左右に動きはじめた。広げられた五本の指が右に左にと当たっては行き過ぎ、また戻っては当たる。予測のつかない不規則な刺激に意識を嬲られ、もうなにも考えられなくなって左之助にしがみつき、身体を震わせる。いつのまにはだけられていたのか、固く尖った乳首を口に含まれたとき、目の前が真っ白に弾けて身体がふわりと浮くのを感じた。目眩にも似た浮遊感。初めて獣変させられた瞬間と似ていると思った。
「あ、ああ……」
 体内で暴れる強すぎる感覚に理性をフェイドアウトさせかけていた剣心だったが、知らぬ間に乱れていた脚を割って左之助の手が潜り込んでくるのを感じて、さすがにこれはまずいと我に返った。
「左之、だ、だめだ。だめだ。ここ……こんなとこで……ちょ……」
 もう充分「こんなところで」なことをしているが、それでもいくらなんでもこれ以上はただごとではない。本気でまずい。ベッドはベッドでも病室のベッドなのだ。いつだれが来てもおかしくない。剣心は焦った。
 だが、必死に掌を胸に当ててみても、突っぱねるどころか、手を押し当てるだけで精一杯で、力など微塵も入りはしない。ましてのしかかるように真上を占めている左之助に見下ろされれば、身体は竦む。なんとなれば、詰まるところ剣心はウサギで左之助はキツネなのである。
 左之助の目がすっと細くなった。眸が金茶のメタリックな輝きを帯び、肉食獣の瞳孔が細いすじになって剣心を貫く。
――ああ。
 この感覚は知っている。あれだ。あの感覚だ。こうなってはもう声も出ない。既知の痺れが指先から走る。ただ、這い上がる痺れがこれまで以上に甘やかで快感に直結しているのが、今までとは少しちがった。まるで無数の指先に愛撫されてでもいるような官能的なパルスだった。
――だめだ……。
 捕食者に食い殺される寸前というのはこんな風なのだろうか。
 麻痺にも似た陶酔のなかで、剣心はぼんやりと思った。
 いけないと思う。怖いと思う。どうなってしまうのだろうと思う。抵抗しなければならないはずだとも思う。
 けれどできない。逆らえない。いや、ちがう。したいと思えないのだ。
 望まれるままに食われてみたい。殺されてみたい。そしてそうすることで相手と同化したい。自分のものにしたい。
 それもまた征服欲のひとつの形なのだとは知らない剣心に、自分のその心理は不可解だった。自分でも理解できない感情に揺さぶられながら、こんなことが前にもあったと剣心は思った。
 そうだ。保健室で葡萄を食べたときだ。
 あのときはウサギだった。口の周りについた葡萄の汁を左之助が舐め取って、そしてキスをした。ちょうどこんなような濃厚なキスだった。ただ、あのときはウサギと人間だった。それにちょっとした遊びかはずみのようなもので、互いに特別な感情があるとも知らなかったし、当然今のようないわゆる両思いの状態ではなかった。そして、そうだ、あのときは園児たちに遮られたのだった。バタバタと廊下を駆ける子ども達の足音と騒ぎ声に慌てて人間に戻ったりもした。
 そんなことを思うでもなく思いながら、左之助の唇が首筋を下りていくのをなすすべもなく感じていた、そのとき――。
 記憶の中の子どもの足音に交じって、カツカツと理知的な現実の足音が剣心の耳に飛び込んできた。
「ええ、大先生。もう全く問題ありません。というか左之助くんの場合……」
「そうかそうか。ふぉっふぉっふぉ」
 我ながらよくやったと、後になって剣心は自分で自分を誉めてやりたいと思った。
 クールな女医の声は二人の主治医、高荷恵。飄々とした好々爺の笑い声は言うまでもなく「大先生」こと小国玄斎前院長。高荷女史だけならともかく、今は現役を退いて楽隠居の玄斎老人と二人が揃って、しかも左之助のことを話題にしている。これで近づいてくるこの足音が他の所に向かっているとしたら、それこそ椿事と言っていい。
 くったり芯が抜けて自由の効かないこの状態で、取り得る手段といったら他にない。
 数日の獣態療法の甲斐もあって前ほど大儀ではなくなっていたことも幸いした。
―――えいっ!
 ウサギに変ずると同時に一気に身体を沈めてベッドの奥にもぐり込み、見事な連携プレーでくるりと仰臥した左之助の体側に姿を潜めた。
 シャッ――。
「左之助くん、加減はどう?」
 カーテンを引き開ける音と訊ねる声が同時だった。
「ああ、や、まあ、そう、……セーフ?」
「セーフ? なんのこと?」
「いや、つうかあの、バッチリ。うん」
 高荷医師は「は?」と不審そうに眉をひそめ、続いて「あら」という顔になって、くんくんと匂いを嗅いだ。小国医師もふんふんと鼻を動かしている。二人の目が病室を見回し、サイドテーブル上の食べさしの柿に止まり、流し台に置きっぱなしになっている包丁に止まり、左之助に戻り、もう一度病室を見回す。
「フム」
「……まあいいですけどね」
 老人はうなずき、女医は肩をすくめた。
 掛け布団の奥に潜む剣心は状況が見えなくて幸いだった。左之助の居心地の悪いことといったらない。
「つうかアンタら、なんか用」
「こら坊主。目上の者に対してその口の利き方はなんじゃ。しかもおまえの治療を担当しておる医者ではないか。若いのや総に恥をかかすでない」
 老人の指が素早く左之助の額を弾いた。「若いの」は上下衛門、「総」は総三である。
 「いでっ」と声を上げてから左之助は素直に謝り、改めて訊ねた。
「で、なんすか、二人して」
「ああ、いや、一緒なのはたまたまじゃ」
「私は普通の巡回。きみの様子を見に来たんだけど、ま、その様子ならもう大丈夫そうね」
「………」
 なんとなく肩身の狭い感じで、無言でうなずく左之助である。
「わしは坊に吉報をな」
「吉報?」
「例のあのボンボン時計が直ったんじゃよ」
「………」
「おや、どうした。喜ばんのか。あんなに言うておったのはお主じゃというのに」
「や、まあ、その、うん。そ、そうか。そりゃあ、よかった」
「なんじゃ、他人事のように。おかしな奴じゃのう。主がああも頼むものだから、古いつてを辿って扱える職人を探して直してもらったのじゃぞ」
「あ、ああ、うん。それはまあ、その……」
 妙に浮き足立って言葉を濁しもぞもぞと身じろぐ、その太腿に身を潜めて、剣心は大きなウサギの耳を精一杯そばだてていた。
 剣心は時計を修理に出してことさえ知らなかった。さっき小国老医師に聞かされて初めて知ったのだ。
「さっき上で会うたが、剣坊も喜んでおったよ。今となっては唯一の両親との思い出じゃからの。しかしなんじゃな。彼にとってかけがえのない大事な物だから、いくらかかってもいい、もう一度動くようにしてくれ、鳴るようにしてくれと言った主の言葉をじゃな。あれをあの子にも聞かせてやりたかったわい」
「……じいさん!!」
「ホイよ、なにかな?」
「ベラベラベラベラ、余計なことを……」
 だが、これ見よがしに大きな舌打ちをした左之助に苦い顔で睨みつけられるくらい、人生に揉まれてきた古老にはなんの痛痒でもない。
「おや。なにかまずかったかな? あの時計を修理に出したのは主が剣坊のためになんとかと必死で頼んできたからだ、などということは、わしは剣坊にはひとっ言も言うてはおらぬよ。ゆめ言うてくれるなと主に拝み倒されたからの」
「……じいさん、てめえ………いでっ!」
「黙らっしゃい!」
「………」
 黙れと言われたからというわけでもないが、左之助は言葉に窮して掛け布団を鼻まで引き上げた。にんまりと面白がるような笑みを浮かべている高荷女医の笑みの意味も気にならなくはなかったが、太腿の横でぴくとも動かずじっとうずくまっている温かい毛玉の方が百倍も万倍も気になった。この毛玉は可愛い顔をして変に侠気に富み、仁義に堅い。そうと知ったら、きっとしつこく恩に着る。そういうのは好きではないのだ。だれのおかげとか、だれに申し訳ないとか、そんなような遠慮やら義理やらからもう少し自由でいられれば、剣心にとって生きることはいくらかでも容易で優しいものとなるだろう。かねがねそう思っていたからこそ、時計のことも黙っていてくれと頼んだというのに。知ってか知らずか、すっかり水の泡にしてくれた。
「………クッソ」
 そのとき、またシャッとカーテンの引かれる音がした。
「失礼する」
 総三だった。
「おお、総か。早かったの。剣坊のところに行っとったんじゃろ?」
「ええ。ですが留守でした。帰りにもう一度寄ってみようと思ってはいますが……」
 そう言いながら、先ほどの二人同様、くんくんと鼻を鳴らすように病室を見渡し、同様に流しと柿と左之助に鋭い目を止め、最後に玄斎と高荷医師を見た。
「ふぉっふぉっふぉ」
 大の大人が三人揃って一体なんの嫌がらせなのか知らないが、左之助にはもはや針のむしろである。
「そういえば総は坊に話があると言うておったな。ではわしらはそろそろ行くとしようか。恵くん」
「いえ、先生、いらしてください。高荷先生も、お急ぎでなければ」
 総三は去りかけた医師らを引き留め、左之助に向き直った。
「左之助。今日は先日の話を一度きちんとしておこうと思って来た」
「え、いや、塾長、そ、それは今日はちょっと……。その、えー、その話はまた今度」
「いいや、今する。緋村くんも一緒にと思っていたが……。まあよかろう。後でおまえが自分で伝えろ」
「いや、あの、つうかその……」
「左之助」
 総三がぴしりと声を張った。
「左之助。おまえの悪いクセだ。なんでもひとりで背負い込もうとする。自分の気持ちや行動を人に理解してもらう努力というものをしない」
「………」
「語らず動くことをおまえはよしとしている。それは時に正しいが、時に誤解も生む。いや、誤解と言っては語弊があるか……。そう、理解を妨げる、と言い直そうか」
「理解を妨げる……」
「そうだ。不言実行もひとつの価値観ではあるが、しかし言葉にして伝えなければ伝わらないことが世の中には間違いなくある。不言に理由はさまざまあろう。だが左之助、伝えようとしないということは、相手に対する非礼であり、自分に対しては怠慢だ」
 語られる言葉の表現は硬く厳しかったが、口調は静かで、目は温かかった。
「言わなくても判ってくれる、伝わっているはず、あるいは言ってもわからない。信頼、謙虚、分別ということはできようが、しかし厳しい見方をすれば、甘えと驕りと過信がそこにはある」
「………」
「おまえは緋村くんと(つが)うと言った」
「ちょ、塾長……」
「言ったな」
 その場しのぎの言い逃れやごまかしを許さない声と眼差しだった。左之助がぐっと唇を噛んで顎を引く。
「………はい」
「だれがなんと言おうと決心は変わらない、だれに理解されずとも反対されようとも(つが)いになる、自分の伴侶は後にも先にも彼のほかにない。そうも言った」
「………」
「そして、言うだけ言って、私の返事を待とうともしなかった」
「………」
「それがよくないと言うのだ。左之助――」
「……はい」
 左之助の声は蚊の鳴くようだ。級友や他の教師には憚るところを知らない左之助が唯一頭の上がらないのが敬愛やまないこの義父なのである。
「おまえは言えば私が反対すると思っている。否定され、拒否され、拒絶され、引き離されると思っている。だからあんな言い方になる。聞く耳を持たず、言いたいことだけ言って顔も見ずに布団に潜り込んだりしてしまう」
「………」
「馬鹿だな、おまえは」
 そう言って、総三は風のように優しく笑った。
「反対などせぬよ」
 左之助はなにを聞いたかというように目をしばたたいて義父を見つめた。
「するわけがないだろう。そんな願ってもない良縁を」
「……は? え? ………は?」
「どうした。なにを驚いている。自分がキツネのくせに、キツネにつままれたような顔をして」
 柔和な顔に、この人には珍しい悪戯な笑みが浮かんだ。
 思いがけなさすぎる展開に焦ったのは左之助だ。思わずベッドに起きあがったり、中に隠しているモノのことを思い出して、はねそうになった布団をまた慌てて引き上げたり、大人たちの表情を窺ったりと、ワタワタ狼狽えるのに忙しい。
「え、ちょ、だってけどおれたち男同士で……」
「そんなことは知っている」
「そ、草食と肉食だし……」
「もとより承知」
「って塾長………」
 左之助は二の句が継げない。ベッドに匿っている剣心の存在も、今この瞬間には頭から飛んだ。
「なんだ。反対した方がよかったか?」
「塾長……」
「左之助。覚えているか。おまえが強制獣変の方法を訊きにきたとき、私はおまえに言った。愛のかたちはさまざまだと」
 「愛」などという十七の青年にはまだ御しきれない概念を真っ向から切り出されてややたじろぎながらも、左之助はこくりとうなずいた。
「あのときも言ったが、強さもやさしさも正しさも、かたちはひとつではない。また同じである必要もない。子孫を残すことも大事だが、志を遺すこともまた比しがたく尊い」
「志を、遺す……?」
「そうだ。おまえは緋村くんにないものを持っている。緋村くんはおまえにないものを持っているし、それに――」
 一旦言葉を切って、総三は声と表情を改めた。
「緋村くん。きみは、きみの潜在能力は、きみが自分で思っているよりもっとずっと高い。きみたち二人なら、今までひとが為し得なかったことも可能になろう。それが何なのかは私には判らない。だがきみたちは必ず自分たちのなすべき道を見い出すだろう」
 病室の中は不思議に静まり返って、ただ総三の声だけが響いていた。左之助も小国医師も高荷医師も、そして無論布団の中の剣心も、みな粛として続きを待っている。
「緋村くん。まだまだ未熟な粗忽者だが、左之助をよろしく頼む。そして、きみもまた左之助を頼ってくれ。彼にきみが必要なように、きみにもまた彼が必要だと私は思っている。緋村くん」
―――はい。
 ここに自分がいると知って話しているはずはないと思いながらも、まるで直接話しかけられているように思えてならず、剣心は思わず心中に応えて耳をそばだてた。
「きみたちは、きみと左之助は、多分二人でいるべき二人だと思う。離れるべきではないのだと思う。これまでのきみと左之助を見ていて、そう思う。なんら負い目に感じる必要はない。むしろ誇っていい。堂々と胸を張ることだ。そして大切にして欲しい。左之助も、自分のことも」
『………』
「………」
「左之助」
「え、は、はい」
「と私が言っていたと、緋村くんに、伝えてくれ」
 はい、と、声にならない声で左之助がうなずくのを待ち、総三はふたりの医師を順に見た。
「というわけなのです、先生がた。我々の世界において二重に異例のこととは承知ですが、私は彼らを祝福したいと思っています。もしよろしければ彼らを助けてやってはいただけまいか」
「ふうむ。なるほどのう」
 開業医時代から仁の人で知られた小国玄斎前院長がしみじみとそう頷くまでにものの十秒とはかからなかったが、だがその数秒が左之助にはとてつもなく長かった。義父は思いがけず受け入れてくれたが、こっちはさらに世代のちがう老人だ。価値観や倫理もさらにちがって当然である。
 だが、そんな左之助の思案をよそに、玄斎医師は白鬚を揺すって「ふぉっふぉっふぉっ」とお馴染みの声で笑うと、
「長生きはするもんじゃのう」
 と、相好を崩したのだ。
「草食と肉食が(つが)うか。そうか。それも相楽に由縁(ゆかり)の東谷と緋村が。なんとまあ……」
 無言で目をしばたたかせるばかりの左之助に大らかにうなずきかけて窓に目を移した玄斎の眼差しは柔らかい。
「いやはや。いやはや。こんなことがあるからこの世は面白い。やれやれ。おちおち死んでられんのう」
 また「ふぉっふぉっふぉっ」と嬉しそうに笑い、「おお、そうじゃ」と拳で掌を打って左之助を見た。
「坊。そういうことならわしからひとつはなむけの助言をやろう」
「じいさん……」
 皺だらけの小さな手が肩に温かい。だが、感動にも近いじんわりとした空気が続いたのもそこまでだった。
「きみらはアレじゃ。互いの組織に生理作用があるからの。交歓には気をつけるのじゃぞ」
「…………は?」
「相手の体液等を摂取すると催すということじゃよ。わかりやすく言うとな」
「モヨオス?」
 とはまた何を?
 恩師である老医師から目顔で続きを任されて後を受けたのは高荷医師である。
「私たち獣人医の間でもそう誰でも知っていることではないし、まあちょっとデリケートなところがあるからあまり吹聴してもらっても困るので、そこは二人とも気をつけてほしいんだけど」
 そう前置きをして、女史は説明を続けた。
「これは獣人の草食肉食間に見られる特異な相互作用でね。先ほど大先生がおっしゃったように、体液および分泌液等の摂取により性的興奮の高まりや性行為欲求の昂進現象が見られるとされているの。影響を及ぼすのは、具体的には、体液が血漿、リンパ液、組織液、体腔液。それから、唾液、胃液等の消化液や、汗、尿、涙、鼻水、精液といったところでしょう。実を言うと、どうしてそうなるのかというメカニズムについてはまだなにも解ってないんだけど、ただ、これまでの臨床報告によると、反応が出るのは一定量以上が体内吸収された場合のみで、通常の接触や微量ならほぼ問題なし。あとは本人の精神状態による影響も大きくて、なんていうかその……つまりセクシャルな状態のときにより顕著に発露されるらしいのね。だからまあ結論としては、そうね、経口摂取とか性交とか、そのあたりだけ気をつけていれば大丈夫ということになるかしらね」
 最後の方はやや早口になって美人の主治医は説明を終え、こほんとひとつ咳払いをした。
 さすが本職だけあって医師的な説明である。しかし医師的だろうがなんだろうが言っている内容に変わりはない。とんでもないことをさらりと言ってくれたものである。しかも具体的にといいながらいまいち具体性に欠ける。一体なにをどうすればどうなるというのか。左之助としては大いに追究したいところだったが、やたら冷静な大人三人に囲まれてのこんな話題はあまりきまりの良いものとは言い難い。しかもベッドの中には問題の草食動物を一匹潜ませているのである。浅黒い顔がそれとわかるほどに赤らんでくるのを自分でも感じて反応に困っていると、さらに追い打ちをかけるようなことを高荷医師が言い出した。
「それにしても、よりにもよってホッキョクノウサギとはねえ」
 そう言って、しみじみと嘆息する口調で唸るのである。
「なにか関係が?」
 訊ねたのは総三だ。女医の顔に意外の表情が浮かんだ。
「ええ。草食のなかでもホッキョクノウサギの誘因力はずば抜けて強烈なんですよ。まあ。私、先生ならご存知かと思ってましたわ」
「いえ、初耳です」
「ふうむ。興味深いのう」
「だからっていうのもあるんですよ、ホッキョクノウサギが“幻の”と言われるのは。特にヒート中の分泌物は我々肉食にとってはえもいわれぬ芳香でして。麻薬性があるというか、一度知るとなかなか抜け出すことができないそうです。でもまあ確かに……。私も一応キツネだから判りますけど、これはちょっと、なんというか……刺激的ですね」
「ほ。やっぱりそうなのか」
「そうですよ。大先生はメガネザルだからお感じにならないかもしれませんけど、かなりラディカルです、これは」
 彼女が「これ」とやや強めた語調で言う度に鋭い視線をさっと部屋に走らせるのが、なにかと思い当たる節のある青年にとってはもはや確信的な嫌がらせにも思えてチクチクする。しかもその度につられるように老医師や義父までが同じように部屋を眺め回すのだから尚更だ。
「平時の状態ならそんな別に近くに寄っただけでいきなりおかしくなって襲いかかるなんてことにはなりませんから普通に生活している分には大丈夫のはずですけど、でも状況によっては何が起こらないとも限らないわけですし、それにそうでなくてもまあ多少なりとも作用はありえるわけですから、肉食のオス園で獣医をされてたっていうのにはさすがにちょっと驚きましたね。きっととっても……ええと、そう、人気者だったでしょう」
 知的な顔に浮かんだくだけた微笑みには、女の色気とアカキツネらしい勝ち気さが香っていた。総三もにこりと笑って応じる。
「ええ。園児にも塾生にも保護者にも非常に慕われています。それから、実は職員にもファンがいる」
「ま。そうなんですの」
「ええ。内緒ですがね」
 「じゃあなおさら、きみ達二人がしっかりしないとね」と、主治医は左之助に矛先を戻した。
「まず知ること、学ぶこと。知識は武器ですからね。無知と偏見は人を弱くし、誤らせる。きみの場合は幸いにもこんな素晴らしい先生が身近におられるんだから」
 と、総三を目で指し、
「がんばれ若者」
 ピストルにした手で左之助を撃つふりをして、あでやかに笑って見せた。


 「さてではそろそろ」と三人が揃って退室したのは、それから数分も経たないうちだった。
「先生は今から緋村さんのところにいらっしゃいますの?」
「いえ、もう用も済みましたので、今日のところは」
「総。明日からまた向こうか」
「はい。今度こそ全て片付けてきます」
「ふぉっふぉっふぉっ。ほんに長生きはするもんじゃて」
「左之助。お二人への報告は自分でしろ。いいな」
 会話になっているのかいないのか、好き勝手なことを言いながら三人は出て行った。
 後に残されたのは精根尽き果てた風情の左之助と布団の下の剣心である。
「…………」
 たかが十分やそこらの会話で「疲れた」が言葉にもならないほどのダメージを受けるなどこれまでの左之助では考えられないことだったが、自分よりも大切な人ができると人は信じられないほど強くも弱くもなるものらしい。左之助は無言で深い深い溜息をついて、ぐったりとベッドに突っ伏した。
 しばらく脱力感に浸ってから緩慢な動作で掛け布団を持ち上げ、問題の恋人と再会を果たす。ブブブゥと咽喉の奥を鳴らしてぷるぷると身体を振るう姿に、まるで何日も何か月も会っていなかったような懐かしさを覚えた。
「ういー……、大丈夫か?」
 覗きこんで手を伸べたのは、意志は強いくせに意外な脆さを併せもつ彼を純粋に気遣ってのことだったが、どうやら向こうはまださっきのことを引きずっているらしく、丸い背中をさらに丸め、頭を低くして用心している。
『ブフウゥ』
「なんもしねえって。ほら」
 怖がらせないようにと手だけを少し近づけ、指で呼ぶ。トゥトゥトゥ…と軽く舌を鳴らしてから、それでは本当に動物を相手にしているようだと気づいて失笑した。普通の獣人とは異なり、獣態になると人語を話さないのでそう錯覚するのかもしれないが、外見がどんなにホッキョクノウサギでも、中身は変わらず剣心なのだ。「な」と少し覗きこむように顔を傾けた左之助は、そのつややかな目の周りの毛が濡れそぼっていることにハッとして、改めてそれを思い出した。
 獣人の獣態は、動物であって動物でない。顕著なのが人語を話すことだが、もうひとつ、「泣く」ということがある。動物は泣かない。涙液は生理的な原因でのみ分泌され、感情のために涙腺が機能することはない。悲しいとき、辛いとき、深く心打たれたとき、動物に涙でそれを表現する術はないのだ。
「剣心……」
 思わずそう呼んだのもまた衝き上げる愛おしさゆえの他意ない振る舞いだったが、これまでがこれまでだけに剣心は「ブッ」と毛を逆立てて後退った。
「ちがうって。なんもしねえって」
『ブッブッ。ブウーゥ』
 明らかに警戒している。
 身に覚えは充分あるうえ、あんな話を聞いた後では仕方がないといえば仕方もないが、しかしそこまで警戒しなくても。少々傷つきながらも諦めて手を引き、左之助はベッドに身を沈めた。
「しねえよ。約束する。おまえが嫌がることはもう絶対しない。ほんとだ」
『ブウゥ』
 初めて変態した後も、左之助はそう言った。
「怖がらせたくねえし、そんな風にビビられんのも、おれももう嫌だ」
『ブ』
「剣心」
『………』
「おれ、生まれてよかった。おまえがいてくれてよかった。な。幸せになろうな」
『………』
 濡れた瞳が左之助を見つめている。純白の獣毛に密に被われた可愛らしい二つの耳はぴんと屹立してぴくぴくと動いている。膜に近い薄い皮膚に血管がほの透けて独特の艶めかしさが匂っている。
「だー! やっぱ無理! 恥ずかしいっつの」
 日頃は年齢以上に大人びてクールな浅黒い顔を年相応の幼さで赤らめて、ベッドに突っ伏した。本当のところ、顔が熱いのは単に気持ちを言葉にする照れ臭さだけではなく、じっと見つめ合っているといろんなところがムズムズしてきたからだったが、ここは我慢のしどころである。「塾長やっぱおれ無理っすー」と枕に呟いて、総三にああ言われたから頑張ってみたのだというアピールをしてみたりもした。
 そもそも左之助は自分の気持ちを言葉で伝えるのが得意でない。総三には怠慢と驕りだと厳しく指摘されたが、左之助に言わせればピーマンやニンジンが食べられないのと変わらない。苦手なものは苦手なのだ。現に剣心に思いを告げたのもいつも場の勢いに乗じてだったし、そうでなかった河川敷のときは結局言えないまま終わってしまった。今にしてもまだ背中がボーボーと燃えている。こんなことでイザという大事に大丈夫なのだろうか。少々気の早い思春期盛りの思惑は、ベッドのスプリングのかすかな揺れに遮られた。
『ブ』
 小筆のような前肢をついてぽてぽてと寄ってくる。
 肩のあたりまで来ると、ちょこんとおすわりをして左之助を見上げ、こっくりとひとつうなずいた。「ウン」と言っているように見える。
「……へ? なにが?」
 超高速で自分の思考を進展させている間にその前になんの話をしていたかがすっ飛んでしまっているあたりは、いい意味でも悪い意味でも切り替えの早い左之助らしいが、考え始めるといつまでも考え続ける悩みん坊の剣心には、ついさっき自分がその口で投げかけたばかりのことをもう忘れているというのは予想外を通り越して不思議に近い。「ウーン」というように首をかしげ、そして可愛らしい小筆の手でチョンと左之助の腕に触れた。
「………」
 左之助の視線が、そのおもちゃのような手からくっきりと晴れた大きな眸へと移る。
 言葉は大事かもしれないが、だがやはりそれが全てでもないだろう、と左之助は思う。
 そっと触れてくる小さな手の動きや、澄んだ眼差しや、フガフガと音を立てて細いひげを振るわせる鼻面や、きゅっと絞られたつぼんだ口や、なにかを待つように立てられた耳や、そんな一挙手一投足が伝えてくるものは、どんな言葉にもなりえまい。
 あふれる気持ちが左之助の顔をほころばせる。
「おれも」
 あたたかい純白のビロードをそっと撫で、
「すっげー好き。幸せになろうな、剣心」
 ムグムグ動く小さな口に唇で触れると、左之助をうっとりさせる剣心の香気が鼻腔に満ちた。


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しろくて あったかくて ふわふわ<14> 2007/12/27



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