いい機会だから
左之助は塾の仮再開に合わせて二日前に既に退院しており、この日は授業を休んで剣心の退院に付き添っていた。剣心は必要ないと言ったのだったが、いくらすっかり元気で荷物もほとんどないとはいえ、パートナーをひとりぼっちで入退院させるなど左之助には論外である。
さて入ってみれば、部屋はほとんど新築と見紛うほどにごっそり改装されていた。
壁、天井、床の内装はもちろん、キッチン、トイレ、浴室の水廻りは什器が全て取り替えられ、さらに照明や窓サッシまでが変わっている。シーリングはダウンライトと埋め込み間接照明に、網入り単サッシは防犯ペアガラスの断熱サッシにレベルアップしており、分譲住宅とも遜色のない充実ぶりで、下見で見た同じその部屋とは、知っていてさえ信じがたい。しかも彼らにとって特に有り難いことには、ペット同居型住宅としてのさまざまな装備が拡充されていたのである。
「すげえ。新築そっくりさんだ」
「うわ、お風呂に青い電気がついてる」
「なあなあ、見ろよこれ。ほら、こんなとこにちっこいドアがある。これすげえ、便利じゃん?」
「当然のようにウォシュレットか。豪気だな」
浦村の配慮で手配された物件は、もともとペット飼育の認められた賃貸集合住宅ではあったが、ここまでフル装備のペット仕様ではなかったはずだ。それが、建具には動物用のスイングドアがつき、よくよく見れば床暖房入りのフローリングも足への刺激をやわらげるクッションフロアタイプで、犬を繋ぐためのリードフックや足洗い用のスロップシンクもあり、まさに至れり尽くせりだ。
不動産業者と家主が挨拶と簡単な説明を終えて帰った後、ふたりは早速新居探検をしながら子どものように声を弾ませていたが、剣心がふと表情を曇らせて左之助を振り仰いだ。
「……いいんだろうかな。こんなにしてもらって、同じ家賃で」
「そりゃあいいだろ。大体向こうがやりてえつってやってんだからよ」
「いやまあ、それはそうなんだが」
苦労の多かった剣心にはこの新居は分不相応に思えて不安だったのだが、左之助は「気にしすぎ」と笑うと、今度は獣態での過ごし心地を試すべく、くるりとキツネに変じて探検を再開した。
『おー、いいいい。この床すげーいい』
足裏まで毛の生えたホッキョクギツネとはいえ、肉球への当たりの柔らかいクッションフローリングはいたって快適だった。軽快に走り回り、建具のペットドアを通り抜け、リードフックを見て『これは要らねー』と笑う。楽しそうなその姿を見るうちに、剣心も「ま、いっか」と気が軽くなり、よっこらしょ、とウサギに変じて、ぴょんこぴょんこと駆け出した。
左之助にしてみれば、それは嬉しまぎれの罪のない戯れのつもりだった。
しばらく二匹でわふわふ走り回って、二人ともすっかり新しい住まいが気に入って、楽しい気分になった時分だ。剣心がうっかりコロコロと回転して人間になってしまった。ちょうど左之助と上になり下になりと転げ回っていた最中だった。
「わあっ……!」
変な体勢で倒れ込んだ剣心の腹の下で左之助が『キャウン』と悲鳴を上げてのびて、そしてそのままぴくとも動かない。
「え……? 左之?」
慌てて起き上がった剣心が「おい」と覗き込んでも返事がない。
「左之。左之。おい、聞こえるか? ……左之?」
動かない。軽く開いた口から呼気はもれているが、返事はない。
つい二週間前の出来事が手で触れそうに思い出された。
思った途端、全身がザッと冷たくなった。
剣心は獣医師だけに動物というものがどれだけ繊細で傷つきやすいかを知っている。身体が小さいことがどれだけ弱さに直結するかも、いやというほど知っている。キツネの左之助は、ウサギの剣心よりは大きいが、人間の剣心よりはずっと小さい。それが、走っていた勢いのまま上に落ちたのだ。
「左之、左之、左之……!」
あのときもそうだった。昏倒して動かなかった。呼んでも呼んでも応えはなかった。
震える冷たい指先で顎に触れようとしたまさにそのとき。こらえかねたように左之助が笑いだし、ドロンと人間になって剣心を抱きしめた。
「バッカ、冗談じゃねえか、おい。んなマジんなるなよー」
思惑通りに引っかかった相手の反応に左之助はなんとも嬉しそうな顔をしているが、剣心はとてもではない。
「馬鹿……!」
それだけ言うのも、幾度も息を整えてやっとだった。冗談にしてもたちが悪い、と反論する余裕もない。不安と安堵の反動は怒りになって押し寄せる。
「もう知らん」
くるんと顔を背けて拗ねてしまった剣心を背中から抱きくるんだ左之助は、むっすり険しく寄せられた眉の下で、目尻の薄い皮膚がほんのり赤らみ、ばさばさと上下する扇のような睫毛が水を含んだようになっているのに気づいてハッとした。いくら浮かれていたといっても迂闊にすぎた。「マジになる」だけの理由がそういえばあったことにやっと思い至ったのである。
「……悪い。やりすぎた」
「………」
「ごめん」
「………」
「そんな心配するなんて思わなかった。悪かった」
「……するに決まってるだろうが」
「ん。ごめん」
「馬鹿」
「ん」
まだ険しいままの横顔に頬を寄せ、細かく震え続けている小さな手を掌にくるんだ。守ると決めた相手である。つまらない男になってはいけない。
「ごめん。怖い思いさせて」
目元を濡らす涙をそっと吸い、吸った唇をそのまま唇に落とす。
「剣心」
「……」
軽い啄ばみあいは蝋が溶ける速度でヒートアップして、しばらく夢中でキスしていた。
「あ、ちょ、左之……。えっと、あの……」
ハッと我に返った剣心が結構な必死さで左之助を押し返そうとしたのは、どう考えてもそのままなだれ込みそうな勢いだったからである。
いくら晴れて公認の
だが、必死の主張には、しかし思いがけない応えが返ってきた。
「んなもん、おれも一緒」
「え?」
「免疫皆無。悪いけど」
「……は?」
驚き、しかしすぐに「ああ、そうか」と頬を赤らめて剣心は言った。
「お、男が?」
「んー。つうか全般的に?」
「は? なんで?」
会話も話も噛み合わない。左之助は外で遊び倒しているとだれもが言っている。鬼畜で外道だとも言っている。噂以前に、現にところかまわず手が早いのは剣心こそ身をもって知っている。これで免疫がないというなら世のだれにあるというのか。
「なんでってだって、だっておれ、おまえひと筋だったしよー」
「………」
「おれが欲しいのはおまえだけだ。つうかおまえだから欲しい。他のやつなんかいらねえ。おまえじゃねえなら一生だれともやらねえって、おれ決めてた。もうずっと。馬鹿みてえにガキん頃から。馬鹿みてえにマジで。ずっと」
思ってもみなかった告白に剣心の心臓はドキンと跳ね上がった。
左之助の気持ちを疑っていたつもりは全くないが、だが一方で、これまでに度々仕掛けられた大小の戯れやいたずらや何やかやに関しては手慣れた手管の延長線上だと思っていた。剣心にとっては世界が逆回転するような一大事でも、彼にとってはちょっとした遊びか手慰みの代わり程度にすぎないのだと、どこか線を引く思いで決めつけていた。
「鬼畜で外道のやりまくりだって?」
黒い目が少し笑った。
「あいつらが勝手に言ってるだけだ。おれ別にヘンな趣味なんかねえし。好きだから欲しい。さわりたい。キスしたい。全部自分のもんにしたい。そんだけだ」
「左之……」
「剣心。おまえが欲しい。全部欲しい。全部全部欲しい。頭ヘンになるくらいおまえが欲しい。おれもう無理。剣心……」
「左……」
突然に、本当に突然に、世界が変わった。いきなりなにもかもが違って見えて、自分でもびっくりするほどの強い気持ちがこみ上げてきて、剣心は左之助の首に抱きついた。
寂しかったのは自分だけではない。思えばあたりまえだ。だがわからなかった。気づけなかった。ひとりだった。寂しかった。全部なにもかも背負って抱え込んでいた。けれど辛いのも生きているのも、自分ひとりではない。そんなあたりまえのことにどうして気づけなかったのだろう。
「左之」
間近く見つめ合って、軽く目を伏せる。
いつもされるばかりで、剣心から口づけたのはただ一度、あの火事の最中のキス一回きりだ。同じキスなのに、するのとされるのではまるでちがう。自分から顔を寄せていくのがこんなにドキドキするとは知らなかった。すぐ目の前にある左之助の顔がやけに遠い。溶けた鉄のまなざしが剣心を灼く。今にも泣き出しそうな目で剣心を灼く。やっと届いた左之助の唇は思いがけずやわらかかった。さすがにそれ以上はどうもできずにただやわやわと触れ合わせていると、ふいにぐっと抱き寄せられて、舌が入ってきた。
「んっ……」
言葉よりもまなざしよりも熱く強く、そして甘い。甘美な感覚がじゅわりと指先まで沁みわたる。閉じた瞼の内側がチカチカしてくるのも構わず飽きることなく求め合い、そのまま床に倒れ込んだ。
キスの熱に浮かされるままに溺れて、そこから先は前後を知らない。
なにがどうともつかない嵐のような愛の行為が一体どれほど長かったのか、あるいは短かったのかも剣心には判らない。
多少なりとも意識に近いものが戻ってきたのは、たったいま満たされたばかりのはずの欲望が身体の奥で蠢動しはじめたのに気づいたときだった。
ずくん――。
腹の底に疼く脈動は重い。
剣心はうろたえた。
そんなばかな。どうしてこんな。
とりあえず気づかれる前に離れたかった。
だが、背中からくるみこむように回された腕の中から、どうすれば抜け出せるだろう。
焦るほどに肩が強ばっていくのが自分でもわかった。
「剣心?」
満ち足りた余韻のにじむ、ゆったりとやわらかい声が言う。
だがその腕をほどこうとする剣心の身じろぎを察して気配は陰った。
「大丈夫か?」
片肘をつき、背後からのぞきこむようにして、そっと頬の髪を払う。
心配と不安の入り交じる表情がどこか心許なげなのは、滾る思いのままに我を忘れた自覚が左之助にもあるからで、そしてそれだけに、目を合わさず息を詰めて背中を向ける剣心の反応に、怯んだ。
「剣心。おい、どうした?」
「………」
「剣心?」
ひやりと理性の戻った左之助には、気遣えば気遣うほど背中が頑なになっていくのが耳元で呼びかける自分の声音のせいだなどとは想像もつかなかったが――。
「剣……」
本格的に起き上がり、肩を掴んで顔をのぞいたところで、「あ」と気づいた。
眉を寄せて唇を結んだしかめっ面は、たしかになにかをこらえる顔だが、こらえているのは怒りではなさそうだ。
熱く潤んだ目元と上気した頬と時々唇から漏れる甘やかな呼気。ついさっきまで溺れていた夢うつつの奔流で何度もまみえた。
「剣心」
我が身を抱くように身体を丸めた剣心の、そっぽを向いたままの頬にそっと口づける。白い肩がびくりと弾んだ。
「剣心」
余震のような細かい震えを残す細い肩を胸に抱いて、左之助が耳朶を唇に挟む。ちろちろと耳の後ろを舌先でくすぐられて、堪えきれない声が口をついた。
「ふ……んっ」
いとも容易く快感に崩されていく身体のあまりの過敏さに、剣心自身こそ左之助以上に動揺していた。
舌になぞられているところだけではない。息のかかるところ、手の撫でるところ、肌の触れるところは言うまでもなく、髪のかすめるところ、脱ぎ散らした服の擦れるところ、挙げ句は風の当たるところさえ、まるで神経を剥きだしにされているようでないところはない。
馬鹿な。なんだこれは。こんなはずはない。こんなではなかった。どうしてこんなに感じるのだろう。一体どうなってしまったのだろう。
「や、あっ、ああっ」
そんな状態でよく思い出したものである。
意識を眩ませる閃光にまじって、突然、数日前に聞いた言葉が剣心の脳裏を走った。
――きみらは互いの組織に生理作用があるからの。交歓には気をつけるのじゃぞ。
――相手の体液等を摂取すると催すということじゃよ。わかりやすく言うとな。
――反応が出るのは一定量以上が体内吸収された場合のみで……。
「んっ、あ……」
そうか。それだ。それで……。
言われていたのに、すっかり失念していた。いや、ちがう。正確にはそういうことをすればこういう結果に至るという具体的問題に気づいていなかった。そして、では、こうなるということは、要するにつまり――。そう、吸収されたというわけだ。
剣心の全身が、湯に通された海老か蟹のように、サッと赤くなった。
「左之。もしかして、これってやっぱりあの、小国先生が言ってた、例の……」
喘ぎ喘ぎにようやくそれだけ言うのにも相当の時間と努力が必要だったが、「あ?」と言ったきりしばらくポカンと口を開けた様子からすると、どうやら左之助も今になって初めて思い至ったらしい。当の原因としてどんな顔をしたらいいのかと言いたげななんとも言えない微妙な面持ちの子どもの顔をして今さらのように困っているのが、こんな状況にもかかわらず剣心の目には微笑ましく映った。そんな顔を見せられては胸の内もあたたまろうというものだ。
「左之」
えもいわれぬ声で呼んで、剣心は左之助の肩に手を添えた。青い宝石のような瞳は内側からきらきらと輝いている。視線は左之助に、歯を掲げた腕に当て、内側のやわらかい皮膚を食い破った。口に広がった血の味は、剣心にとっては胸を悪くさせるだけのホッキョクノウサギのそれだが――。
赤く濡れる唇を寄せて、剣心が左之助の唇に囁いた。
「おまえも」
言葉にはしなかった続きを血とともに啜りあげて、子どもは一気に男に戻る。
精悍な顔に不敵な笑みが広がって、手加減なしのキスが返ってきた。力ずくでこそないが有無を言わさぬ猛々しさで剣心の舌と意識を絡め取り、感覚を痺れさせていく。長いキスの間にすっかり正気も溶かされて、あっという間にされるがまま本能のままの獣になっていく。
腕の傷口をねっとりと這う舌の感触に血がざわついた。自分で噛んだ程度の傷などごく小さいが、その小さな傷を執拗に舐め上げ舐め下ろす舌の動きにつれて、まるでそこに電極がつけられてでもいるように甘い電流がぞわぞわと走って、目の前が白くかすんでいった。
やがてようやく腕が解放されて、左之助が顔を上げた。黒い双眸は限りなく獣態に近い。灼けた金茶の瞳のなかで、針の瞳孔が剣心を狙っている。ゆっくりと唇を舐め回す舌がやけに長く赤いと思った途端、首筋にチリチリと戦慄が走った。自分で煽ったとはいえ、いや、だからこそ、本能的な不安や怖さは抑えようもない。
左之助の手や指や舌や唇が首筋をなぞり、鎖骨を吸い、熱い薄絹の肌を丹念に辿っていく。
――ああ、知ってる。
と何度も思った。
なにも覚えていないと思っていたが、身体は忘れていないらしい。この感覚は初めてではない。そこに触れられるのは初めてではない。そうされるのも初めてではない。そんな感覚を幾度となく覚えた。ただ、さっきとは比べものにならないくらい、快感が強かった。くすぐったかったへその穴はゾクゾクするほど快く、ざわざわと官能を揺すられた程度だったはずの腹部はざっと撫で上げられただけで叫びそうになった。ただでも弱かった耳の後ろやうなじや腋や内股は触れなば落ちん花弁の風情で、この先のことなどとてもではないが考えられない。
「ふ、う……ああ……」
もういい、と何度も言いかけて、しかしその度にこらえたのは、「おまえが嫌がることはもうしない」というのが今度は本気の本気らしく、しかもこんな状況も例外ではないらしいからだったが、さすがに左之助の指がまだ熱を持つ後孔を圧したときには思わず「無理」と言いそうになった。痛かったからではない。嫌だからでもない。気を失うほどの快感に打たれて驚いたからだ。揃えた指の先でやさしく押したり揺ったり捏ねたりして、きゅっと固い絞り口を揉みほぐしていく。その小さな刺激の一つひとつが剣心には嵐だった。動けない。身動きひとつ、息ひとつ、それどころかまばたきさえもできない。息を呑み、全身をぴんと張り、豊かな睫毛をぴくぴくと震わせ、やがて指を深く沈められても一声も出なかった。ただ肌にどっと汗を噴き、必死に混乱と戦った。
うそだ。なんだこれは。どうしてこんなに。
玄斎に聞かされたいわゆる“生理作用”のせいだと察しはつく。だがそれにしてもあんまりだ。
とにかく痛かったはずだ。ショックもあった。プライドも面目も構っていられずに取り乱しそうになるものを、左之助と結びたい一心でなんとか保った。だがそうこうするうちに、灼けつく絶痛のぶあつい幕の向こう側から染み出るようにじわじわと快感がにじんできて、今度はそれに振り回された。だが、気は遠くなって思考はおぼろでも、それでも自分は見えていたと思う。身体は乱されるままでも、意識は自分のものだった。
――でもこれは……。
長い指が剣心の内側でなにかを探すように動いている。小刻みに動いて、尺取り虫のように這いながらどこかを目指している。
「ひ」
見つけたらしい。通り過ぎかけて戻ってきた後は、もうそこから離れる様子はない。
「あ、あ、あ、あっ……」
だめだ。これ以上は耐えられない。
――無理……。
そこまで思ったところでぷっつり糸が切れて、その途端、嘘のように混乱は晴れた。どっと堰を切った奔流に身を任せる。
「剣心」
振り仰ぐと、熱の塊にも似た黒い眸が剣心を見つめていた。見つめられるだけで身体が疼く火のようなまなざしだ。脳みそが痺れる。
左之……。
名前も呼べずただ見上げていると、いったん止まっていた指がまた動いた。
「ああああっ」
探られる身中はむき出しの刺激にさらされて、まるで中と外が裏返しになったようだ。今すぐ逃げ出したい、このままいつまでも溺れていたい、取りつかれそうに強烈な快感。その中に、いくばくかの痛みが混じり、そしてかすかなもどかしさが見え隠れしている。触診にも似た気遣う触れ方にかえって理性は焦げついた。決して乱暴ではない、むしろ慎重に類する丁寧さの探る動きが、剣心を追いつめていく。
うめき声が聞こえる。自分のものだと思うが、よくわからない。頭に靄がかかっている。目に映る部屋の風景も芝居の書き割りのように遠い。言われるままに身体を返し、されるままに膝をついた。床の感触が頬に硬い。
「剣心」
熱っぽい呼びかけに背筋が震えた。
「剣心。尻尾出してみろ」
「………?」
尻尾?
理解がついてこない。首で振り向くと、応え代わりのキスが降ってきて、もう片方の手が尾骨に触れた。
「……んんっ」
自制を剥ぐという点で獣人にとってそれ以上のウィークポイントはなかったといっていい。
「は、あ…んっ……」
血管と筋肉と神経を備えた、それはバランサーでありシグナルであり感覚器官であり、また時に手に代わって物を掴むことのできる第五の肢だ。
左之助の指がゆっくりと動いて骨の突起を撫でている。中を探る指から与えられる官能とはまた別の種類の得体の知れない快感の波がその部分から広がって、剣心を怯えさせた。
「や……なに……な……あ……」
自分でないものが覚醒しそうだった。人間としての自意識が薄れて動物の本能が表出しかけているのは肉食獣に組み敷かれた身体が生理的な恐怖に鳥肌立っていることからも察しはつくが、全身を巡る感覚の甘さや内側の熱さを思えばどうやらただウサギになるのとはわけがちがうらしい。どうなってしまうのかが見えない不安がつのる。
「あ、あ、あ……」
いやいやというように打ち振られる頭を子どもにするように撫でて、左之助が言った。
「大丈夫だ。止めてやるから」
尻尾や耳など獣身の一部だけを出したり引っ込めたりするのは、普通の獣人には別段どうということもないことだったが、剣心にはまだハードルが高い。ちょくちょく練習はしているが、そのまま完全な獣態になってしまうこともしばしばで、確率は五分というところなのだ。
離れていた指先が盆の窪に触れ、うなじから背骨をぞろりと撫で下ろした。
「ひ……」
下りてはのぼり、のぼっては下り、手は繰り返し背筋を
「あっ、あっ……あ、あああ……」
「剣心」
すうっと払うように撫で下ろされると同時に身体を埋めていた指も引き抜かれた。
「あ……」
どこか心細そうに小さく喘いで剣心は肩をちぢこまらせた。
どっと血が駆けめぐって体温がはね上がり、そして全身が弛緩する。
その瞬間、我知らず尻尾が出ていたことに気づいたのは、全ての動物にとって私的に大切なその器官をきゅっと掴まれたからだった。
「ひうん」
細い悲鳴が白い喉をのけぞらせた。頭頂で大きなうさぎの垂れ耳が弾んで揺れ、一瞬、熱と官能が音を立てて退く。だがそれもその瞬間だけにすぎなかった。力が抜けてざっと身体が冷えたのも束の間、やわやわと転がす掌のぬくもりに、あっという間に前以上になって戻ってきた。
「剣心」
弦を弾くような熱い声が脳みそに直接流れ込む。
ヒト型だから感覚は人間のままだが、うさぎの発達した耳が受け取る聴覚情報の量は人間のそれの比ではない。
「………っ」
尚もなにをか左之助は言っているが、すでに感覚は臨界点を超えていて、快感なのか痛いのか熱いのかさえ曖昧だ。音律以上のものが耳に入ってくる状態ではとてもない。
「あっ、ああ……ああああ」
溶けていく。
いろんなものが溶けてなくなっていく。
ここはどこなのか、今はいつなのか。身体も意識も。自我も意地も。かたくなに鎧っていた自分も。何にぶつけたいのか判らない種類の怒りも悔しさも。孤独も哀しさも。何がどうなっているのか、どこで感じているのか。やがては何をしているのか、されているのか、どこまでが自分でどこからが左之助なのか、人間なのか獣なのかさえもが、白い靄の中にかすんでいく。
「剣心、剣心……剣心……」
夢見心地の幸福感のなか、左之助の呼ぶ声だけが身体じゅうに響いていた。
何度目かに目覚めたとき、いつのまにかヒト型に戻っている自分に気がついた。
たしかさっきまではウサギだった。ふらつく足で水を飲みに行き、ペットの足に配慮されたクッションフローリングやドアの足元についた小さな潜り戸状のスイングドアの有り難みを痛感したのだから間違いない。
肘をついて身を起こそうとして、さらにいくつかのことに気づいた。
ひとつ。知らぬ間に掛け布団が出ている。
ひとつ。見慣れないガーゼのローブを着ている。
ひとつ。それ以上、起きられない。
ふう、と息を吐いて布団に逆戻りすると、隣からもぞりと腕が回されてきた。
左之助もヒト型だ。これはさっき水を飲みに起きた時もそうだった。素肌に薄いガーゼケットをかけただけの姿は、やや寒々しいうえに、自分がつけたと思しきあれこれが丸見えで目のやり場に困る。
察したのか、ふわりと笑った左之助の唇が額に降ってきた。そのまま抱きしめてくる。
やはりどこをどう見ても場慣れしているとしか思えない。
背中に腕を回してそのまま左之助の重みを感じながら、またふうと息を吐いた。
最初に気づいたときはウサギだった。
それもいつなったものか定かではなかったが、見れば左之助もキツネで、丸くなって眠る左之助の尻尾布団にくるまれて、剣心も丸くなっていた。心地好い毛足に頭を預けてそのまま目を閉じると、すぐにまた親密な眠りに引き込まれた。そんな風にうっすら覚醒してはそのまま休息に戻るということを何度か繰り返したが、幾度目かに起きたときに咽喉を潤したいと思った。無理かと思ったが、手足に力を入れると意外にすんなり立ち上がることができる。もの凄い疲労感と脱力感で瞼の開閉さえ精一杯だったさっきを思えばめざましい回復ぶりで、なるほどたしかに獣態は身体機能や体力の回復にいいらしいと小国病院の獣態療法が思い出されたりもした。さすがに歩くのは少々骨が折れたが、微妙に弾力のある動物用床材が不確かな足取りを支えてくれて助かった。よたよたとキッチンまで行き、しかしそこで剣心ははたと困った。届かないのだ。頭上はるかなシンクを仰いで人に戻るか諦めるかと迷っていると、背後に左之助の気配がした。ヒト型だ。
「ほいよ」
『ブフゥ』
小皿で置かれた水で口を湿して咽喉を潤し、掌に抱かれて布団に戻った。そっと下ろされた清潔なシーツは二人の体温でほんのりと温かった。
「おい」
左之助の気遣う声にまぶたを上げた。
「大丈夫か?」
こく。
「覚えてる?」
「……」
途中でわけが判らなくなって何がなんだか状態だったことなら覚えているが。
「だよな」
苦笑まじりの口調に、ふと気づいた。
「……おまえも?」
「実は途中がちょっと微妙」
「そっか」
二人して微苦笑を交わした。
先が思いやられる。
「これ……おまえが?」
ローブを目で指し、「着せてくれたのか?」と訊ねたつもりだったが、ちがう答えが返ってきた。
「ん。プレゼント? 退院と引っ越しの」
だがそれも訊きたかったことではある。やわらかい微笑が剣心の顔にもゆきわたる。気持ちは素直に言葉になった。
「――ありがとう」
頬を包む掌の心地好さに目を閉じる。
自分という存在を、生まれて初めて愛おしいと思った。
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しろくて あったかくて ふわふわ<15> 2008/2/8