プール清掃が完了して水を張り終えれば、プール納めの行事は無事終了である。
その後の余録のシャンプータイムに、それは起こった。
園児の獣態シャンプーは保育の一環だ。普段は日を決めて順番に洗っているのだが、園児みんながずぶ濡れで、総出の職員も同様にずぶ濡れなのだから、この際まとめてやってしまえ――という、合理的というか乱暴というか何というかの、これもまた数年来の恒例行事となっていた。もっとも職員総出といっても洗う側より洗われる側の数の方がやはり多い。自由解散になっていたが自発的に残って手伝ってくれている左之助ら幾人かの塾生を含め、洗う側は四人が組になり、二人がシャンプー、二人がすすぎ、と、ベルトコンベアー式に洗っていく。園児一斉クリーン作戦である。
着衣のヒト型剣心は拭き係を担当している。すすぎの済んだ仔は、タオルを広げて待っている剣心の腕に大喜びでとびこみ、少しでも長く拭いてもらい、少しでもたくさん剣心に触れようと、抱きついたりすりすりしたりプルプルしたりと大はしゃぎだ。タオルがあるとはいえ、次から次へとびしょ濡れの仔らにとびつかれ続けるわけだから、あらかた拭き終える頃には、剣心もシャンプーの済んだ園児と変わらないくらいしっかり水浸しになって、髪からぽたぽたと水滴をしたたらせるありさまになっていた。
「やれやれ。これでは意味もない」
邪魔、と、顔の水をぬぐった続きに分厚いビニールの魚屋エプロンをはずし、身軽な白衣姿になって最後のひとりを拭き終えた。
「ようし、終了。終わりでござるー」
『わー、先生、びっちょびちょー』
『びっちょびちょー』
『びっちょびちょー』
キャッキャキャッキャと嬉しそうにはやし立ててまとわりつけるのは、幼い子どもだけの特権だったろう。手伝いに残っていた塾生は言うに及ばず、園児でも少し年嵩の仔や、物慣れた職員、浦村園長までもが、その姿には固まった。
夏物の半袖白衣は軽い
いつもふんわりとふくらんでいる明るい色の髪は濡れそぼって形の良い頭を小さくふちどり、幾筋かは額や顔にはりついて中性的な美貌を鮮やかに彩っている。流れるしずくが顔や首筋をきらきらと光らせる。びしょ濡れの薄布がひたひたと身体に絡みつく。さらには身体や腕の動きにつれて白衣の胸がときどきツンと朱鷺色に押し上げられて、見る者をどきりとさせる。出たり、隠れたり、また出たり。おいでおいでと旅人を誘惑する悪戯な妖精のように気まぐれに顔を出して、日頃は白衣と穏和な笑顔の下に秘められている白い肉体のなまめかしさを、隠しようもなく生々しく衆目に呈してしまっていた。
『わーい。わーい』
『びっちょびちょー』
「おろ〜」
――“おろ〜”じゃない!!!
思春期以上組全員が心の中で声を揃えた。
――それに。
と、幾人かは思った者もいただろうか。
今は楽しく押しくらまんじゅうをしている幼児たちも、もう少し大きくなってから今のこの情景を思い出したら、今の自分たちと同じように心臓をバクバクいわせたり背中を熱くしたり狼狽えたりするにちがいない。
自分のことに鈍感な剣心は、そうも周囲に注視されているとも衝撃を与えているとも気づかないではしゃいでいる。眩しいほどの無邪気な笑顔で、ギャラリーの目をますます釘付けにしている。
そのとき、じっとりと汗を手に握っていたアダルト組をさらに縮み上がらせる出来事が起こった。
居残りお手伝い班の一人だった左之助が、大人禁制の花園にものすごい剣幕でズカズカと踏み入っていったのだ。
『左之兄ぃだ』とコロコロまとわりつく仔どもは目もくれずに蹴散らし、剣心の腕をつかむ。
「わっ?」
――ヒイイィィッ! 何をするつもりだ何をするつもりだ。落ち着けやめろ冷静になれ……!
その他大勢の無言の絶叫が園庭に響く。
「なんなんだ、いきなり」
むっとした剣心は手を払おうとしたが、左之助の手は強い力で上腕をがっちりと握り込んでいてびくともしない。
「放さんか」
「………」
言う方も言われる方も劣らぬ不機嫌さの険悪な空気だが、剣心にすれば左之助がなぜいきなりこんな乱暴をするかが分からず、左之助にすればあまりといえばあまりな自覚の欠如に爆発寸前で、お互いなんだかよくわかっていない。
そんな状況に当人たちよりも周囲がハラハラするなか、やはり無言のままの左之助が、剣心を連れて行こうと腕を曳いた。剣心は頑として動こうとしなかったが、なんといってもウエイトがちがう。上体を抱えて引きずられればずるずると地面に蛇行する川を描くしかなく、そうこうするうちにひょいと横抱きに抱き上げられてしまった。
「いいかげんにしないか。なんのつもりだ。皆もなにごとかと呆れているぞ」
尖った声とぽたぽたとしたたる水滴の跡を残して、二人の姿は保健室に消える。
凍った湖のように静まりかえった園庭では、残された面々が「ナニゴトか」についてそれぞれに妄想を巡らし、ドキドキしたりアワアワしたりギリギリしたりしていた。
「なんなんだおまえは。まったく、腹の立つ。わけがわからん」
力任せに腕を振り回すと、掴まれたままだった上腕がようやく解放された。
保健室に入った左之助が足で乱暴にドアを閉め、剣心を降ろしながら後ろ手に鍵をかけた後だった。
「危なっかしくて見てらんねえんだよ、てめえは」
左之助がドンと壁に両手をついて唸る。
やっと解放されたと思ったら、今度は壁と左之助の板挟みだ。
のしかかるように身体をかぶせ、真上から剣心を見下ろす目は、険しく金色に光っている。
しばらく忘れていた凶猛な視線で切り込まれて、ひくりと身がすくんだ。
「見境なく煽りやがって。バカが。それともおまえ、本気で生贄志望か。ヤられてえのか。わざと挑発してんのか」
挑発などしていない。煽ってなどいない。おまえたちが勝手にオフェンスを仕掛けてくるのだ。
その程度の反論はしたかったが、声が出ない。左之助の剣幕に呼応して肌がびりびりと痺れっぱなしだ。
「とりあえず自覚なさすぎ。だれかれなしに血なんか舐めさせて。そんなカッコさらして。自分の立場を考えろ」
そんな格好? いつもの白衣だ。これが仕事着だ。なにが悪い。
「……つってもわかってねんだよなあ、どうせ」
年長者を子ども扱いする口振りも、体格差を傘に着た威嚇も、わざとらしい溜息も、とにかくいちいち腹が立つ。
精一杯睨みつけた剣心に、「だからそれが」と、左之助はまた大袈裟に溜息をついた。
「余計そそるだけだっつの」
と、目を逸らした左之助が、つと剣心の胸に目を落とした。つられて剣心も左之助の視線を追う。
「ありえねえだろ。これは」
「………!」
濡れてはりついた白衣の上から胸の小さな突起を弾かれて、剣心は息を詰めた。
張り子のようにぴったりと密着した薄い白布は、硬く尖った乳首の形とほころびかけた蕾の花色を左之助に晒している。あらためて指摘されてみれば、たしかにあまり人前に出るのにふさわしい格好ではない。顔が熱くなった。
「エロすぎ」
左之助が身をかがめた。
形のよい唇から赤い舌が這い出てきて、白衣の胸先に触れる。
「んっ」
思い出したように逃がれようと身を捻ったが遅かった。体重をかけてきた左之助の身体で壁に抑えつけられて動けなくなり、振り上げかけた手首も握り込まれて、完全に自由を奪われた。ハッと目を泳がせた剣心が頬を朱に染めて横を向く。
「ちょ……あの……」
剣心の下腹部あたりに、熱くて硬い塊が当たっているのだ。身体を動かすとかえってその存在を強く感じてしまう。
「え、ちょっと、これ……」
「剣心」
「……っ」
熱い息と舌が耳の中に入ってきた。ぴちゃぴちゃと音をたてて、中、外、耳朶と移動していく。耳朶のうしろの弱いところを執拗に舐められて息が止まる。声はまだなんとか殺せても震えるのまでは止められない。固く合わせたまつげがふるふると揺れる。左之助の腿が脚を割った。細い手首をふたつまとめて片手で絡げ、あいた手で剣心の身体を撫でる。締まった腹に掌を広げ、細いウエストをたぐり、胸をまさぐる。布ごしにゆっくりと動く手の動きと耳を濡らす愛撫に、剣心の胸が大きく上下した。
「……っは」
頭の中がぐちゃぐちゃだ。
子どもに、しかも男に身体を触られてこんなに感じる理由がない。ないのに。一体なにが起こっているのだ。
左之助の指が乳首に当たった。一旦通過したと思ったら、ほっとする間もなく戻ってきて、今度は指先がそろりとそれを挟んだ。咄嗟に息を詰めたがそれ以上なにも起きない。恐る恐る肩をゆるめて目を開けると、左之助がもう片方に口を寄せるのが見えた。上目づかいに見上げる目が少し笑っている。たっぷり間をとりながら、ふうと息を吹きかけたり、思わせぶりに唇を舐めたり、離れたり、近寄ったりして、その度に剣心がびくっとしたりほっとしたりするのをじっと見ている。
ふいに、忘れていた指の方が小さく揺すられた。
「あっ」
弾んだ胸がせり上がって、もう片方も自分から左之助の口に押しつけることになった。図らずも差し出してしまった乳首に左之助の舌が吸いつく。かかる息が濡れて冷えた肌に熱い。湿った髪がときおり首筋をくすぐる。ざらりとした吸着力の強い犬科の舌がねっとりと絡みつくのが、布ごしにも怖いほど感じられた。頭上にまとめられた両手はもうほとんど軽く抑えられているだけだったが、振り払うことも忘れていた。
「剣心」
頬を指で撫でられ、瞼を持ち上げた。目の前に左之助の顔がある。瞼が熱い。目が熱い。
「剣心」
言いながら唇が頬に触れる。口にも触れる。下唇をくわえ、上唇を噛み、舌でなぞって吸いつき、深く絡ませる。舌が入ってきて、口の中を丹念に舐めはじめた。混じり合ってどちらのものとも分からなくなった唾液が、いくらかは咽喉に流れ込み、いくらかは顎に伝い、ふたつの口の間でぴちゃぴちゃと音を立てる。
うさぎのときに一度これと似たことをした。葡萄を食べた日だ。口の周りについた果汁を舐めたついでに、左之助が剣心の口も舐めたのだ。だがあのときとは比べものにならない。頭も身体も沸騰して、平衡感覚がおかしくなりそうだ。
唐突にイメージが浮かんだ。
コーヒーカップだ。
あれだ。遊園地にある遊具の。くるくると回って、遠心力を生む。質量と速さに比例し半径に反比例する、慣性の力。
振り回される感じが似ている。動きはじめたら、コントロールはきかない。
「剣心」
左之助の目が見たことのない色をしていた。
ナイフの目ではない。春のひだまりでもない。秋の空でもない。見たことのない、溶けた鉄のような、深くて熱い色だ。体中の水分が沸騰しそうな。
「は……ふ……」
剣心の身体が揺れる。持て余した官能をどうにかしろと言わんばかりに左之助に押しつけ、咽喉を震わせて、熱く濡れた息を吐いた。
「剣心」
呼ばれる名前が快感の波を呼ぶのを左之助は知っているのだろうか。だから滅多に口にしない剣心の名前を呪文のように何度も何度も惜しげなく耳に注ぐのだろうか。
「ちょ、うそだろ、よせ……なにを……」
うわずりながらもなんとか意思表示ができたのは、声も上げられずに無言でひともがきしてからのことだった。
左之助の手がのっぴきならないところに触れている。とっくに痛いほど張りつめていたものが掌の内に包まれて、長い指がゆるゆると動いている。
「や……はなせ……やめろ……」
「剣心」
「あ……」
それは呪文だ。
頭を真っ白にし、思考を停止させる強力な呪文だ。
「ん、ふ」
まつげを震わせて、唇を受け入れる。嚥下した唾液は胸をあたため、下腹部に火をつける。
「剣心」
いつのまにか左之助の首に腕を回していた。
「剣心。おまえ、おれと
溶けた頭が聞いた言葉を理解するのには少し時間が必要だった。
その間にも左之助は剣心を撫している。口は口を、手は身体を、視線は脳みそを。
わずかに残っていた思考能力が剣心の血を沸騰させたが、そのベクトルがそんな方向に向かうとは、左之助には想像もできなかったろう。
「痛っ……」
突然舌に走った痛みに驚いて身を離したものの、条件反射的な痛みの次にその顔に浮かんだのは、呆気にとられてきょとんとした表情だ。ぬぐった血を、なにが起こったのかという目で見つめるその口の端に、新しい血がまた少し流れ出た。
「ふ、ふざけるな……!」
怒りを目に溜めた剣心の唇も左之助の血で赤い。
「守るだと? おまえのものになれだと? ふざけるな。
激情が剣心の身体を震わせる。
腹立たしくて、悔しくて、悲しかった。怒り。憤り。反感。大事な人に向かう負の感情は、どうしてこんなに苦いのだろう。強いほど、寂寥と哀しみは深い。暗いところに沈んでいく。
「ちょっとキツネだからって……。馬鹿にするな。ペットが欲しければ……籠に入れて飼いたいなら他をあたれ。ひとを愚弄するのも大概にしろ!」
言葉を切り、荒い息をついて掌で口を拭く。震えがおさまらない。目の前が赤く渦巻いている。口中に血の味があふれる。くらりとめまいがした。身体が熱い。
「ちょ、なに言ってんだ、おまえ。だれがそんなこと……」
「うるさ……」
目が回る。耳元で心臓が暴れている。たまらない。
壁に寄りかかるようにずるずると座り込んで目をつむると、ますます目眩が強まった。
血の味。
左之助の血の味。
知らなかった。
他人の血というものはこんなに甘美なものなのか。
濃くて、甘くて、うっとりするほど美味しくて、熱い。血が沸騰する。
だれの血もそうなのだろうか。それとも食肉目だからか。犬科だからか。キツネだからか。あるいはそのどれでもなくて――。
口の中に充満した香りが鼻腔にあふれて鼻に抜ける。咽喉から胃へと燃える液体が広がって、体内を灼く。ふつふつと沸き立つような官能が駆けめぐって、一気に体温がはね上がった。
「は、あ……」
「剣心」
「んっ」
肩に触れた指先から稲妻のように刺激が走って、びくんびくんと身体が痙攣した。
「さわ、るな……」
恍惚と拒絶と反発の入り交じったまなざしが捕食者にどう作用するかを、狩られる宿命の者は知らない。碧く爛れた目で睨むことで左之助の中の獣の血を覚醒させるとは思いもしない。
左之助の目に狂暴な欲の色が差した。
剣心はハッと逃げようとしたが遅かった。
「や……いや、いや……あ……」
初めてウサギになった夜のことがフラッシュバックする。
背中からのしかかられて床に四つ這いにさせられ、剣心は狂ったように暴れた。
しばらくむなしく足掻いた剣心だったが、ふっとその手足から力が抜けた。
「なんでおれたちばっかり……なんで……」
すすり泣きにも似た、虚ろな声。
どこか子どもを思わせる舌足らずの呟きに、今度は左之助がハッとした。
「どうして闘わなかったんだ……。あなたには牙も爪もあるのに……どうしてむざむざ……」
「剣心?」
「くそ……おれにもっと力があれば……おれにも牙か爪があれば……」
さっきまでとは様子がちがう。はあはあと息を切らせているのは変わらないが、目がどこか遠いところを見ている。ヒステリックに床を掻きむしる爪がギイギイといやな音を立てる。鉤に曲がった指を包み込むように手を掴んで、左之助はくりかえし呼びかけた。
「剣心。剣心。剣心!」
「……守ってなんか、いらない。ひとりでいい。これまでだってずっとそうだった。自分でなんとかしてきた。助けてくれなんて、頼んでない……もういいから放っといてくれ……!」
「け」
剣心の身体がぶるっと震えた。
その直後、左之助の腕の中にあった折れそうに細い肉体がかき消える。
「剣……」
ホッキョクノウサギの目は黒い。
その、本来なら黒漆のように黒いはずの、黒糖蜜のように甘いはずの目が、今は異様な赤い光を帯びていた。
「剣心……」
白い動物は狂ったように走り出した。ゼンマイを巻いたような勢いで目茶苦茶に走り回り、あちこちにぶち当たっては向きを変える。見ている方が怖いようなありさまだ。
「剣心!」
左之助の呼ぶ声にも応えない。
ダダダダダ――。
わずかなすき間から奥の部屋に駆け込んだところで、ふつっと足音が聞こえなくなった。
不安に思った左之助が慌ててドアを開けたが、そこに白うさぎの姿はない。
開きっぱなしの窓に、生成色のカーテンがひらひらと揺れているばかりだった。
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しろくて あったかくて ふわふわ<9> 2007/11/3