しろくて あったかくて ふわふわ
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<13>

 病棟最上階の展望ロビーからは、外には街並みが、内には吹き抜けの中庭が見下ろせた。
 剣心は、眼下に望む中庭のカフェテラスを、かれこれ一時間も前から見続けている。
 小国病院は病床数百を有する総合病院だ。四年前に建て替えたばかりの新しい九階建ては、二・三階が外来診察、四階が手術・検査、五階がカフェテラスとインドアガーデン、六階から上が入院病棟で、五階から上はガラス張りのトップライトまでが巨大な吹き抜けになっている。
 飽きもせず平和な下界の営みを眺める剣心の背中に声がかかった。
「すっかり元気になったようじゃの」
「あ、玄斎先生。はい、おかげさまで」
 にっこりと深く頭を下げた剣心に、老小国医師は「よかったよかった」と頷いた。
 剣心と左之助が搬送先の救急病院からこの小国病院に転院してきたのは一週間前、あの火事から二日の後だった。
 獣人の治癒力は驚異的だ。普通の人間の医師が全治三ヶ月と診断した火傷や同一ヶ月の怪我人が、一週間や十日でホイホイ動き回るようになってはよろしくない。そこで、報せを聞いて飛んで帰ってきた総三と浦村のはからいにより、浦村の旧知である、子と孫に跡を任せて今は楽隠居の獣人医師・小国玄斎の元に身を寄せた。

「なにからなにまで、ありがとうございます」
 より軽傷だった剣心が「すっかり元気」どころか本来ならもう退院してもいいまでに回復しているものを、双道寺が全焼して帰るところがないため、身の振り方が決まるまではと退院を伸ばすことになったのも、浦村とこの玄斎医師の配慮なのである。
「なに。元気になったなら、なによりじゃ」
 ふぉっふぉっふぉと仙人じみた白髭を揺すって笑い、
「おお、そうじゃ」
 ぽんと拳で掌を打った。
「吉報じゃよ、緋村くん」
「吉報?」
「時計が直ったわい」
「え?」
「掛け時計じゃよ。双道寺の――いや、生類園の、というべきか……」
 剣心がはっと目をみはる。
「さっき届いての。ちゃあんと動いておるよ」
 深い笑い皺をさらに深くして、老医師はゆっくりうなずいた。医師だからか老人だからかこの人だからなのか、人を安心と信頼に導くうなずき方だった。
「先生……。もしや父と母をご存知なのですか」
 再びうなずく玄斎の顔が、今度はそっと翳る。
「むごいことじゃった。未来ある子らの命が大勢失われた。代えがたい命が虫けらのように……いや、それは虫に非礼というものか。虫もまた同じひとつの命じゃて」
「………」
「しかし――」
 小さな皺と眉のわずかな動きが、沁み入るような柔らかな情感を伝えてくる。
「よもや君が、そんなところに、そんな風に戻ってきておったとはのう。ほんに“縁”とは不思議なものじゃ」
 剣心は無言でうなずき、二人はしばらくなにも言わずに中庭を行き交う人々を眺めていた。

「坊主ももういつでも退院できようて」
 小国医師の“坊主”は左之助のことである。上下衛門、菜々芽とも知己で、上下衛門を“若いの”と呼ぶ老医師である。左之助などまだまだ赤ん坊に毛の生えたようなものなのだった。
「ほんに無茶をしおって」
 飛んできた木片は左之助の側頭部に当たっていた。直後は昏倒したものの幸い脳に異状はなく、後遺症も心配されていない。むしろ重症だったのは全身の火傷の方だった。なんのガードもない獣態で猛火の中を走り回ったのだから当然といえば当然ではあったのだが、救出されたときの着衣にひどい損傷はなかったため、最初に運ばれた救急病院で「一体なにをどうすればこんなことになるのか」と一般の医師らに不審がられるという冷や汗ものの場面もありつつ、「必死だったのでよく覚えていないがどこかで服を取り替えた気がする」、「そういえば最後に見たときと服装が変わっている」……などという、友人らも巻き込んだ苦しい言い訳でなんとか場をしのいだのだった。
「しかしまあ、なんとも悪運の強い家系じゃのう」
「え?」
 剣心はかすかな違和感を覚えて聞き返したが、玄斎は笑って応えない。
「先生?」
「いやいや、まあまあ、なに。ま、いずれな」
「先生……」
「ふぉっふぉっふぉ」
 子どものような茶目っ気を見せて笑う老人の目が、ふと眼下に引き寄せられた。なにか気になるものを見つけたらしい。追いかけて中庭に目をやり、剣心も「あ」と声を上げた。
「相楽塾長」
 四階下のカフェテラスで、まるで剣心の声が聞こえたようなタイミングでその人が顔を上げ、二人を見て小さく手を挙げた。

 ものの三分とかからず、総三は九階の展望ロビーに姿を現わした。
「元気そうだな、緋村くん。よかった」
「はい、塾長。おかげさまで」
「手も?」
「ええ、さすがに爪はまだですが、日常使う分にはもう、全く」
「そうか」
 消防隊員が保護したとき、剣心は運動場の真ん中に掘られた大きな穴の中にいた。左の足首をひどく挫いていた。そして、いくつもの爪の剥がれた血だらけの手でなお地面を掘り続けていたという。治癒の早い獣人のことで、十日もあれば捻挫など充分治る。さすがに爪はまだ生えないが、それとてうまく力が入らない程度で、とりたてて痛みもなければ、日常生活に大きな支障もないまでになっていた。
 両手の五爪を失った剣心の、手から顔に視線を移して、総三は様子を改めた。
「緋村くん。きみの不屈と粘り強さは尊敬に値する」
「なんですか塾長、いきなり。そんな、ただのウサギ根性ですよ」
 身に危険が迫ると穴に隠れるウサギの習性が出たにすぎないと剣心は照れくさそうに笑ったが、総三は笑わない。真剣に首を振り、そして続けた。
「それは草食動物(きみたち)が持って生まれた特質なのだろうか。それともきみの属人的な資質なのか……。いずれにせよ、学ぶべきことはあまりに多い。――緋村くん」
「……はい」
「よくきみがきてくれたと思う。きみにはどれだけ感謝してもし足りない」
「……」
「左之助のことも……。それに一度ならず二度までも、きみはあれの命を救ってくれた。いろいろ大変だとは思うが、これからもよろしく頼む」
「塾長……」
「部屋はもう決まったのか?」
 さてところで、というように総三の表情が軽くなった。
「あ、はい、園長の紹介で」
 剣心は退院後に備えて住むところの準備を進めている。
 双道寺が焼けて、浦村は妻子が住む家に戻ることになったが、剣心に行くところはない。浦村と総三を含め複数の職員や卒業生や保護者が当座の住居の提供を申し出たが、剣心はこれを機に一人暮らしを始めることにした。浦村が知り合いの不動産業者に口をきいてくれ、よい条件のところが決まったのが昨日のことである。今日か明日にでも外出許可をとって生活用品や家電の調達に出掛けようとしていたところだったのだ。
「そうか。それはよかった。ならそれまでは、ともあれゆっくり静養することだ」
「はい。ありがとうございます」

 総三は小国医師に相談があるというので、二人をそこに残して剣心は展望ロビーを後にした。向かった先は左之助の病室である。
 左之助の病室は剣心とは階がちがう。剣心は左之助よりはるかに軽傷だったから、動けるようになった数日目からは、剣心の方がちょくちょく顔を出すようになっていた。
「ああ、悪い。起こしたか」
『んーにゃ。全然。ゴロゴロしてただけ』
 と言われても、寝起きに特有の瞳孔の開いた涙目といい、そのアーモンドの目を細めて前肢後肢を突っ張り『うーん』と犬のような伸びをしてぷるぷると身を振るう様子といい、「ゴロゴロしてただけ」には無理がある。
「どう見ても寝起きだが」
 剣心はくすくす笑って、ベッドに起きあがったホッキョクギツネのコンパクトな三角形の耳を軽く引っ張った。
 小国病院は獣態療法を取り入れている。獣態生活を主とすることで獣人としての治癒力を最大限に引き出し、早期快癒に導こうというものである。剣心もここに来てすぐの三日をほぼウサギ態で過ごした。医師も看護師も完全獣人体制の獣人総合病院ならではの特徴的な治療方針である。
「早く生え替わるといいな」
 剣心が、後肢を投げ出すようにくつろいで座る左之助の背中を労るように撫でて言った。
 大きな尻尾が軽くひと振りされてそれに応える。秋もかかりで、まだ毛の生え替わりは始まっていない。ほっそりした夏毛姿は全身あちこちがあの火事で焼け焦げてバリバリになったままで、本人よりも見ている側に痛々しい。
 特にひどい尻の焼け焦げのあたりを、剣心の爪のない指がそっと触れた。
「地肌まで焼けてる。熱かったろうに、おまえ」
『いやあ、それが実はあんまり覚えてねえんだよなあ。なに、火事場のクソヂカラ?』
「しがみついたりして、痛かったんじゃなかったか? すまなかった。気づかなくて」
 普通なら「それを言うなら火事場の馬鹿力」とくらいは返していただろうに、とにかくいろんなことが心苦しくいたわしい今の剣心に、そこを突っ込む機転はない。
『全然? つうかむしろそーゆーことなら二十四時間体勢で歓迎中』
「バカ」
 失笑しつつ、気遣わせまいとしてそんなことを言えるほど大人になっている左之助に、疎遠にしていた数年という時間の長さを改めて思った。
『ま、どうせもう冬だしな』
 じき生え替わりの時期になるというのである。
『おまえはそのまんまかな。医者とかなんて?』
 記憶を失ったまま十四年振りに獣態を取り戻した剣心は、夏の暑い盛りだというのに純白の冬毛をまとっていた。以来ずっと季節外れな冬の装いのままなのである。
「前例のないケースだから判らないらしい。でもたぶん次の春から普通サイクルに戻るんじゃないかと」
『そっかー。――よっ!』
 左之助は音も立てずに飛び降りて、降り立ったときには人間になっていた。
「もうそんなに動けるのか」
『おう。もう全然元気。ビンビン』
「……ビンビン?」
『じゃなくてピンピン。つうか柿食う? 見舞いにもらったやつだけど。おれ、むくし」
 五爪の剥がれた剣心の指先に、痛みはもうないが、まだ新しい爪は生えていない。人体の構造というのはよくできたもので、爪がないと指に力は入らない。硬い角質層の後支えがあって初めて指は機能するのである。

 流しに立ち、器用に果物ナイフを取り扱う左之助の手先を、剣心は興味深そうに見つめていた。
 と、繰り損ねたナイフの刃先が指を傷つけた。
「痛っ」
 じっと手の動きを追っていたからか、剣心の反応は早かった。驚きながらも、思わず柿を取り落としたその手を本人より先に捉えると、左之助があっと思う間もなく口から傷口を吸いにいった。
 焦ったのは左之助である。
「え、ちょ、おい、まずいって、おい……」
 そう言って、なにかを堪えるようにぎゅっと目を瞑った後、エイとばかりに手を取り戻し、剣心が咥えていた拇指の先を見た。小さな線の傷口。わずかに残る血。濡れて乾いた後に独特の感覚。おそるおそる咥えると、自分の血の匂いに交じって、芳しい剣心の味がする。またぎゅっと目を瞑って耐え、顔をしかめて剣心を見た。
「……大丈夫か? なんともねえ?」
「えっ。あ、ああ、いや別に。うん、なにも、別に」
 剣心はそう言ってぶんぶんと手を振り、我が身を抱くように腕を組んだ。長い睫毛をバサバサいわせて明後日を向いた目が隠しようもなくとろりと潤んで熱を帯びているが、果たしてその自覚はあるのかないのか。
 すぐむくからそっちで待ってろ、と促されて腰を掛け、剣心は窓の外に目をやった。
 窓の視界に一本の銀杏の巨木が植わっている。見るともなしに見ていると、つむじ風でも吹いたのか、黄金色に色づいた葉がざあっと流れて渦を巻いた。
――そういえば、あれもちょうどこんな時分だった。
 胸の内に呟いて、剣心はコツンと窓硝子に額をつけた。
 柿といえば思い出す昔が剣心にはある。


 秋の盛りの、色づいた葉がよく散る頃だった。
 柿は葡萄と並ぶ左之助の好物で、剣心は今が旬のこの果実を、両親を失って間もない孤児のために頻々と供していた。
 この日は産地直売だとかで、形こそ不揃いだが色のいい柿がバケツに山盛りで破格に売られていた。剣心が指を真っ赤にして土産に持ち帰ったたくさんの柿を見て左之助は大層喜び、早速むいてもらって、耳から果汁が出るほどに堪能した。
 さてそこまではよかったのだが、その後、左之助が幸せな午睡から覚めて、事件は起こった。
「バカ! 剣心のバカ! バカバカバカバカ! うわーん!」
 残った柿を、左之助が寝ている間に剣心が他の子らに与えたと知って、ヘソを曲げて泣き出したのだ。
「泣くことはないだろう。まだこんなにたくさんあるのだぞ。な、左之」
「やだやだやだ! 全部おれんだ! 剣心のバカー! あーん!」
 持つ指がちぎれんばかりの量だった。減ったといってもほんの数個で、まだ十二分に残っているのだ。なぜまたそこまで必死に。と、剣心ははじめ呆れ、そしていつまでもこね続けられる駄々に、しまいに怒った。
「いいかげんにしないか! どうしてそんなわがままを言う。どうしてみんなで分け合おうとできない。そんな身勝手ばかり言うならもう知らん」
「……ヒック」
 一瞬泣き止んだ後、左之助はクルンと子狐に変じると、最大音量で泣き喚きながら講堂の屋根に駆け登った。
『やだやだやだ! 剣心のバカ! アホ! スットコドッコイ!』
「こら! 左之! 降りてこい!」
『やだー!』
「晩ごはん抜きだぞ!」
『やだー』
「もう知らん。勝手にしろ!」
『やだー……』
 やがて日が暮れはじめて、根負けしたのは剣心だった。
「やれやれ。ほんに言い出したら聞かぬ」
 はたの目にすれば頑固と意固地で人のことをどうこう言える剣心ではないのだが、当人はいたってそんなつもりはない。通りかかった塾生のジャコウネコを呼び止め、
「すまんがあのイヤイヤ魔人を回収してきてもらえぬか」
 勢いで登ったはいいが降りられずに往生している子狐を救出してもらった。
 やっと降ろしてもらえた子狐はぷるぷる震えながらもなんとか涙をこらえていたが、よっぽどこたえたものか、剣心にぎゅっと抱かれると、声を殺してシクシクシクと泣き出した。いつでも元気いっぱい力いっぱいの左之助は、普段なら泣くときも元気いっぱいに力強く泣く。剣心は驚いて小さな顔を手挟んだ。
「どうした左之。そんなに怖かったのか」
『うぐ……えっく……。う……。け、剣心……おれ、おれなんか、いなくていい?』
「左之?」
『おれ、もういらない子なのか?』
 剣心は一瞬大きく目を見開き、それからとびきり優しい目になって、ありったけのキスの雨を降らせた。
「バカだな、左之。そんなはずないだろう? どうしてそんなバカなことを思いついたんだ? おまえはおれの一等の宝物なのに。大好きだよ、左之」
『ふ……うえーん』
 冬毛の生え初めた小さなキツネの顔が、またくしゅっと泣き崩れた。


 きっと左之助はもう覚えていないだろうそんな一幕の愛おしい記憶を思い返して、剣心はそっと微笑んだ。
 思えばどうにも進歩がない。
 馬鹿な左之助。可愛い左之助。自分がどれだけ愛されているかも知らずに、勝手に悲しがって、寂しがって。いくつになっても変わらない。おかげでこっちはきりきり舞いのさせられ通しだ。
 一等の宝物。
 そう思う気持ちの確かさはあの頃と変わらない。
 だが色合いが多分ちがう。
 命に代えても守らねばならない存在だった左之助が、小さくて無力だった子どもが、いつの間にこんなに大人になっていたのだろう。頼もしい男に育っていたのだろう。そして自分の気持ちもまた、いつの間にこんな風に色を変えていたのだろう。あんなに近しかったのに何故と、父母代わり兄代わりの役割はもう終わってしまったのかと、もう隔たってしまって取り返しはつかないのかと、指の間からこぼれる砂を見る思いで、(こわ)れていくとしか思えない絆を、ただ見ていた。身を絞られるように寂しかった。悲しかった。
 目を背けていたからだ。
 今となってはそう思う。
 もう少しで永遠に失うところだった。

 ハッとして顔を上げると、すぐ目の前に左之助が立っていた。
 深い闇色の目がじっと剣心を見ている。
 少し物思いに耽ってしまっていたらしい。
「ああ、悪い。ちょっと昔のことを思い出してた」
「………」
 左之助はなにも言わなかったが、口以上に物を言う濡れた伏し目がひたと剣心を見つめていた。アーモンドの目に陽炎が揺れている。溶けた鉄のような濃いまなざしが剣心の身体に染み通ってくる。
「左……」
 やわらかい唇がそっと触れて、そっと離れた。咄嗟に目を閉じていたが、やわらかくて、熱かった。ゆっくり開けると、まだすぐ眼前、吐息の交わるところに左之助の顔がある。思わず俯いた顎がすくわれて、また唇が重なった。今度は離れない。さっきと同じように唇どうしを触れ合わせて、そのまま静かにじっとしている。剣心は震えた。そうしてただ軽く触れ合っているだけのキスが、怖いほど官能的だったのだ。数秒だったのか、十数秒だったのか、数十秒だったのか。やっと離れたときにはもう頭の芯がくらくらしていて、目の合った左之助がハッと息を呑んだのに気づく余裕も、ましてそれがどうしてかなどと考える余地など欠片もなかった。ただ、左之助の瞳孔がすうっと一気に細まったのには本能が反応した。
「左……」
 ぴくりと身構えたその瞬間、身体が引き寄せられ、また口づけられていた。
 今度はさっきとはちがう。嵐のようなキスだった。強くかき抱く腕に頭ごと捕らえられて身体の自由はないうえに、無理のある爪先立ちで足は効かない。なにを言う間もなく舌が差し入れられた。息もつかせぬ、どころではない。理性も正気もあっという間に流されていく。荒い息づかいと淫靡な水音がやけに大きく響いて聞こえた。
「んっ、ふ、あ」
 その官能は突然すぎ、強すぎた。くらむ頭に躊躇いも抵抗も生まれる余地はなく、まして柿の味に混ざる微かな血の匂いに剣心が気づこうはずがなかった。もしもうほんの少しでも理性的でいたなら、さっきわずかに舐めた左之助の血が、うっとりするほど蠱惑的だった甘露のひとしずくが、その後もしばらく剣心をうずかせていたそれが、また身体の中で暴れ出して自分を狂わせているのだと気づくこともできたかもしれなかったが。
「は、ん、う……ぐ、ごふっ」
 げほげほと(むせ)ぶ様子に左之助が顔を離したが、それも剣心の咳き込みがおさまるまでのことだった。頬を包んで上向かせ、覗きこむように顔を寄せた左之助の息も熱い。
「ダメだ。そんな顔見せたおまえが悪い」
「……っ」
「剣心……」
 耳に注がれた声の熱さに、剣心の身体はふるふると震えた。

 剣心が二度目にこの病室を訪れたときのことだった。
「そういえば左之」
「んー?」
 なにげなくを装うのに必死で、その後なにを話したか、剣心は覚えていない。
 だが、それからしばらく他愛ない雑談を少しして病室を去る前にまたなにげない風で切り出したときの左之助の様子からすると、必死の偽装もあまり意味はなかったように思われた。
「なにがいやだったんだ? “左之”と呼ばれることの」
 少々意地悪をしてみたかったのかもしれない。
 あのときは文字通り火事場の勢いで、勝手に略すなと言われて以来本人に向かって使うことのなかった自分だけの名前を何度も繰り返し呼んだどころか、今となってはよくあんなことを言ったりしたりできたものだと自分でも驚くような思い切った言動を臆面もなくとれた。だが、いざ助かって平時に戻ってみれば、言ったこと、聞いたこと、したこと、今の自分たちの状況などなど、いろんなことが今さらながらに火を噴くほどに面映ゆい。事件後はじめて再会したときはそこに左之助がいると思うだけでドキドキして、まともに顔も見られなかった。
 そして会うのは三度目のこの日、思い切ってあの火事以降初めて名前を呼び、ついでにそんなことも訊いてみた。ようよう話もそれなりにできるようになってきたこともあったし、今日こそは頑張ろうと思い定めてきたということもあった。それに、照れくさかった分ちょっといじめて困らせてやろうという甘酸っぱい戯れ心もなかったとは言い切れない。
「どうなのだ。――左之?」
「いや、まあ、その……。どうっつうか、なんつうか……」
 口ごもって眼を泳がせる左之助など、級友たちが見たらなんというだろう。剣心は内心のホクホクを押し隠して、さらに言った。
「それにおれの名も呼ばない。どうしてだ?」
 ぎくしゃくしていたこれまでの間のことは、自分への反感あるいは裏返しとしての反抗からだったろうと思いもする。だが、あの火事のおかげでこうして和解できて(それ以上にもなって)、にもかかわらず、助かってからこっち、まだ一度も名前を呼ばれた記憶がない。火事のさなかではあんなに連呼していたというのに。
「左之?」
 期待した通りのしどもどの反応に機嫌を良くして、調子に乗ったのが悪かったようだ。追い打ちのつもりで墓穴を掘ってしまったことに気づいたのは、急に勢いを取り戻した左之助が好戦的な笑みを浮かべて身を乗り出してきてからだった。
「呼んで欲しいか?」
 びくっと身体がすくんで、思わず足を退いていた。左之助がまたずいっと乗り出して間合いを詰め、警戒心もあらわな剣心に迫る。
「なあ」
 爛々とする眸に獲物を狙う攻撃性の光とストレートな情欲が交錯して醸成される男の色気は到底普通の十七歳のものではない。
「名前呼ぶのはもう本気で口説く時って決めてんだよな、おれ」
 左之助がさらに身を乗り出して、もはや固まって動けない剣心の耳朶をぺろりと舐めた。
 付き合っていなかった頃ならともかく、今の二人の状況で左之助がこんな顔をして言う「口説く」がどういう意味かは考えるまでもない。
「左、左之……」
「呼んで欲しい?」
 そうしていつもより少し低い男の声で囁かれると、それだけで膝に力が入らなくなる。これで名前など呼ばれた日には――。
「い、いいっ! いらん、いりません!」
 縮こめた首をぶんぶん振った剣心の頬に口角の上がった唇が軽くふれて、甘い小さな音を立てた。

「剣心……」
 濃厚なキスの合間に繰り返される名前が剣心の意識を侵食していた。口移しに伝わってくる声の振動と流れ込む唾液は熱い蜜となって身体を奔り、全身の感覚が開いていく。吸い込まれていく。
「剣心」
 いつのまにか入りこんだ手が腹部の肌に触れた。
「あ……」
 びくりと震えてかたく目を閉じ、それからうっすらと開く。
 秋の穏やかな陽射しが病室に深く差し込んでいた。
 真っ黒だと思っていた左之助の髪が栗色に透けていた。思いがけず長い睫毛も金茶に光っていた。濡れた眸の瞳孔だけが熱くとろけて黒々と輝いていた。
「剣心」
「左之……」
 ほとんど吐息ばかりで呼び返して、剣心はゆっくり目を閉ざした。その直前に目に映った情景は、まるで切り取られたフィルムのひとコマのように脳に焼き付けられていつまでも鮮明に残っていた。


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しろくて あったかくて ふわふわ<13> 2007/12/27



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