しろくて あったかくて ふわふわ
1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 13 14 15 16 (完) 15&16=2/8up



<11>

 高い空は不気味なほど鮮やかな鰯雲(いわしぐも)に覆われていた。
 ざわざわと走る空を見上げた剣心は、ふといわれのない胸騒ぎを覚えた。
 トップの班から遅れること二時間で最後の班がゴールして、長かった一日はようやく終わった。木から落ちたヤヒコ以外はとくに怪我も病気もなく、秋のオリエンテーリングはつつがなく終了し、一行は荷物をまとめて帰路についた。撤収したポストや各種備品などを職員が手分けして持っている。剣心もいつものドクターズバッグを手に提げ、リュックを肩に背負い、列の最後尾についていた。
「先生」
 ヤヒコの声に意識を地上に戻すと、数人の子たちが剣心の周りに集まっていた。覚えのある顔ぶれだ。
「先生、ごめんなさい」
「ごめんなさい」
「先生の大事な時計こわしてごめんなさい」
 みんなで申し合わせてきたのだろう。小さいがはっきりした声で口々に謝る表情に、それぞれが精一杯に頑張っているのが見て取れた。
「みんな……」
 剣心の足が止まる。剣心はそっと首を振って、一人ひとりの顔を見た。
「いいんだよ。元々古いものだったし。それにきっとまた直る。前にも一度壊れたことがあるんだよ」
「ほんと!」
「直るの?」
「また動く?」
「ああ。動くとも」
 本当のところは微妙だった。以前に上下衛門が捜してきた職人はもう他界していた。捜せばどこかにできる人はいるのだろうがまだ捜せておらず、時計は動かないまま、元通りの位置に掛けられたままになっている。
「そうなんだ! よかった」
 直ると聞いて子どもたちの顔は一気に明るくなった。
「先生、もう怒ってない? 許してくれる?」
「許すも許さないも、最初からみんなに怒ってなどいないよ。ただ時計が鳴らなくなったのがちょっと寂しかっただけで」
 真っ赤なウソではないが、包み隠さぬ本心でもない。だがそれでこの子たちの傷が癒えるならと剣心は思う。正直も常に美徳ではないはずだ。
 とはいえ、続いておずおずと言われたセリフには、素直に頷くことができなかった。
「じゃあ左之兄ぃのことも怒ってない? 前みたいに一緒に遊ぶ?」
 園と塾だけの狭い世界だから、ふたりが険悪なことはもう知れわたっている。
 だがそれとこれとは話がちがうのだと、この子たちにどう言えばいいのだろう。
 左之助の名に顔を強ばらせた剣心の上着の裾にヤヒコがおずおずと触れて、そして思い切ったように口を開いた。
「あんな、先生。左之兄ぃは直そうとしてたんだ」
「え?」
「おい、ヤヒコ……」
「でもだって、左之兄ぃ可哀想じゃんか。――あのな、先生」
 ぐっと顔を上げてヤヒコが続ける。
「おれたち、鳩をつけようとしてたんだ」
「鳩?」
「時計が鳴ると鳩が出るやつあるだろ? ポッポーって。ああいうのにしたかったんだ」
「先生びっくりするかなって」
「鳩……」
 小さな木彫りの鳩。そういえば落ちていたバネは新しいものだった。
「先生ごめん。おれが言い出したんだ」
 そう顔を上げたのはユタローだった。
「なんか楽しいことしようぜって。そしたら先生も楽しくなるかなって」
「みんな……」
「バネとかで簡単にできると思ったんだ。でもなんかメチャメチャになって、元にも戻らねえし、どうしようって言ってたら左之兄ぃが来て」
「左之兄ぃマジギレしててすっげえ怖くて、けど言ったら仕方ないなって。手伝ってやるって」
「そしたらそんときに先生が来たんだよ」
「でも左之兄ぃは先生には言うなって。言い訳とか男のすることじゃないって」
「………」
「先生。だから左之兄ぃは悪くないんだよう」
「………」
 突然ひらめいたことがあった。まるで稲妻に打たれたように頭頂がまっ白になる。そうっと口を開いて、剣心は言った。
「そういえばみんな……」
 さりげなさを装って訊く。
「みんなは、ウサギのことは、左之助から聞いたのか?」
「ウサギ? 先生が飼ってるやつ?」
「………」
「左之兄ぃは関係ないけど、でも大丈夫だよ先生。おれたちだれにも言ってないから」
「うんうん」
「……左之助は関係ない?」
「うん。おれが見たんだ」
 ひとりが手を挙げた。
「プールの日に、保健室の窓からウサギが飛び出してきたんだ。真っ白くてでっかいやつ。オレすっげえびっくりして、そしたら中で左之兄ぃが先生のことすごい呼んでて。だからおれ、あ、先生のウサギが逃げたんだってピンときちゃって。でもこのグループ以外には絶対言ってないから」
「………」
「なあ先生、ヒミツなんだろ? ケガしたウサギを拾って匿ってやってるとかだろ?」
「大丈夫だって先生、まかせろよ。おれらこう見えても口かたいんだぜ。それが男ってもんなんだぜ」
 だれかの口真似なのだろう、軽い節回しをつけた口振りに、笑いが起こった。
――なんでそんなにおれたちが信用できねえ。……信じてやれよ。
 気が荒く口も悪いが、小さい者や弱い者には優しい。自分のことはなにも言わなかった。子どものための憤りだったと思えば、酷かった言葉にも傷ついてばかりはいられない。
 おーい、そこー、遅れてるぞー。
 前方から呼ばわる声がして、子どもたちが慌てて小走りになる。
 先生も早く。
 どうして皆こんなにも優しいのだろう。
 手を引かれて数歩は合わせたが、すぐに足は止まって、手がすり抜けた。気づかないのか先へ行く子らを目で追いながら少し離れてとぼとぼと歩く剣心の横にヤヒコが並んだ。話したいことがありそうな顔をしている。
「先生……」
 目で先を促すと、少し迷ってから、しっかりと剣心の目を見て言った。
「飼ってるんじゃなくて先生がウサギなんだな。で、左之兄ぃは知ってるんだな」
 剣心はこくりと頷いた。
「他には、だれだれが?」
「園長と塾長。……だけだと思う」
「そっか」
「………」
「先生。左之兄ぃは、先生の秘密を人に喋ったりしねえよ。そんなことしねえよ。するわけねえだろ」
「ヤヒコ……」
「そんなこと、絶対しねえ。先生、左之兄ぃは先生のことがすごい大事なんだ。そんなの見てたらすぐわかんのに」
「………」
「あんまりガーッてするなって、おれら、言われたんだ」
「ガー?」
「うん。先生はビビリだから、ガーッてしたり、牙とか、爪とか立てたりとかすんなって」
「………」
「おれたちには普通で平気なことでも、それが平気じゃない人もいるんだからって。先生とかもそうなんだって。だから自分の……自分の……えーっと、シャク……シャク……?」
「……尺度?」
「あ、うん、それ。自分のシャクドで考えるなって」
――信じてやれよ。みんなおまえが好きなだけなのに。
「左之兄ぃなんか、自分はすぐ怒るし、怒鳴るし、ぶつくせに、よくそんなこと言うよな」
 大人びた呆れたような口振りでヤヒコが言う。
 口が乱暴なら手も早い。だが根本的な人となりに筋が通っている。だから皆なんだかんだ言って左之助のことを慕っているし好いてもいるのだ。
「先生。手、つないでいい?」
 ヤヒコが剣心を見上げて言う。
「……だめか?」
 剣心はにっこりと手を伸ばすと、ヤヒコの頭をくしゃりと掻いて腋に抱き寄せた。
「駄目なわけがなかろう」
 へへ、と鼻をこすったヤヒコが照れくさそうに笑って剣心の腰につかまった。
 あたたかい血が剣心の全身を巡った。凍っていたところが溶けていく。ほっこりとぬくもりが広がる、その中心に、えのころ草のしっぽを尻の間に挟んで耳を垂れた白い子狐が座っている。口を尖らせて布団とタオルで即席うさぎベッドを作っている青年の横顔がある。やわらかく潤んだアーモンドの瞳が笑っている。
 ヤヒコがそっと耳打ちをしてきた。
「なあなあ、先生ってナニウサギなんだ?」
「先生か? ……ホッキョクノウサギだよ」
「えーっ! うーっそマジ! あの? ホッキョクノウサギ?! マジで?! すっげー、かっくいー!」
 器用にひそひそ声のまま叫ぶ様子に剣心は思わず笑った。
「すっげーすっげー。うーわ、すっげー。うへー、どうりで先生いい匂いなはずだ」
 くんくん。くんくん。くんくんくん。
 あらためてそう匂われると照れくさい。
「これこれ。なにもすごくもかっこよくもないさ。ウサギなんか、弱いし、臆病だし、おまえたちのように牙も爪もないし」
「なんでだよ。そんなん、ウサギのが全然かっこいいじゃんかよ。つうかホッキョクノウサギだろ。すっげー。やっべー。先生、今度見してくれよな」
「………いいが、なにもおもしろくないぞ?」
「うわ、やった! 先生、男の約束だぞ。絶対だぞ」
 やったやったとはしゃぐ声がさすがに前に聞こえたらしく、しんがりの子らが「なになにー」とまぜて欲しそうに寄ってきた。「内緒!」と胸を張るヤヒコは「ずるいずるい」と責められ、剣心は「先生なにー。ボクらもー」とせがまれる。
「おろ〜。これこれ、みんな。ほれ、遅れているでござるよ」
 ほら早く、と子らをかき集めて促す剣心は気づいていないが、久方ぶりに彼の口から飛び出したトレードマークの“おろ”と“ござる”に、子どもたちが目を見交わしてキャイキャイと笑う。
「やれやれでござ……」
 列に追いつきかけたとき、獣人のなかでも人一倍敏感な剣心の草食動物の嗅覚が、かすかな異臭を察知した。
 剣心が空に向かってくんくんと鼻を鳴らすのを見て幾人かが真似たが、わからないらしく、首を傾げて剣心を見上げる。
「先生?」
「どうしたの?」
「なに? おやつ?」
「……きな臭くないか?」
「?」
「なにか燃えてる……」
 剣心の首筋がチリチリと総毛立った。
 火事だろうか。臭いは遠い。だが空に運ばれてくる異臭の不吉さは、落ち葉炊き程度の規模とは到底思えない。突如大きな不安のかたまりが衝き上げた。
「なんか臭うぞ」
「おい、これ……」
 他の者たちも気づき始めた。
「……火事だ」
「この先だ。近いぞ」
「いや、遠いって。こっちが風下なんだ」
 あっという間に、異臭はだれもが気づかずにはおれぬほどに強くなっていた。
「あっ、あそこだ!」
 剣心が気づくのと同時に職員のひとりが煙を指差した。
 ざわざわと不安が広がる。
「おい、あの方角……あれって……」
「まさかうちのへんじゃないよな」
「まさか」
「いやでも」
「近所でなければいいが」
「ていうか……」
「………」
 自然と皆が小さく固まっていた。
「園長」
「園長」
「どうしましょう、園長」
「……うむ」
 数人で様子を見に行き、一行はいったん最寄りの児童公園に向かおうと話がまとまり、移動をしようとしていた、まさにその時――。
「園長! 浦村園長! 大変です……!」
 角を曲がってこっちに走ってくる者がいた。塾の教員である。
「園長、みんな、大変だ……うちの学校が……双道寺(そうどうじ)が………!」


 火はまたたく間に回ったという。
 剣心たちが現場に駆けつけたときには、炎は周囲を熱気に巻き込み、もうもうと上がる薄黒い煙が夕方の白い空を不気味に塗りつぶすほどになっていた。
 保育園のある寺の建物と隣の適応塾のビルが丸ごと燃えている。
「なんだこれは……。どういうことだ……どうして……」
「園長……!」
「ああ、三島くん。どうしたことだこれは。一体どうしてこんな……。いや、それより皆無事か。逃げ遅れた者はおらんだろうな」
 園児は数人の教員に任せて公園に避難させた。駆けつけたのは園長ほか主だった職員と獣医師の剣心の数人である。
「みんな避難したんだな。中にはもうだれも残ってないんだな」
「消防車はどうした! どうしてまだなんだ」
「怪我は? 救急セットなら一式ある。みんな大丈夫なのか」
 前の道には脱出した塾生たちと教員がクラスごとにまとまってひとかたまりになっていた。昼の授業中だったことが幸いしたのだろう。さっと見渡すと、とくに怪我をした者はいないように見えるが――。ふいに剣心の心臓がドクンと鳴った。真っ先に見たい顔が見当たらない。百八十の長身で、人波に埋もれる体格ではない。こんなときに人の後ろにいる性分でもないはずなのに。
 遠くに消防車のサイレンが聞こえた。号笛。鐘の音。危機感を煽る音が近づいてくる。
「園長、ちょっと……」
「なに! なんだそれは。どうしてそんなことに……!」
「園長。三島代理。どうかしたんですか」
 鳴りっぱなしの警報。サイレン。明滅する信号。外ではない。頭の中だ。
「ああ、緋村さん……。いや、実は……」
 強烈に不吉な予感。だめだ。聞きたくない。聞いてはいけない――。
「どうやら左之助くんが、まだ中らしいのだ」
 周囲の話によると、途中で突然引き返したのだという。
 引き留めようにも皆が必死の最中で、いきなり逆走しだしただれかを止められる者などいなかった。
「近くにいた者が、忘れ物をしたと言うのを聞いたと言っています」
 大事なものを忘れた。あれを置いてくわけにはいかねえ。
「ホームがどうとか言ったそうですが……。あと気になるのが、そのとき獣態だったということで」
 それを聞いた瞬間、考える前に動いていた。
 暮れどきの街路に鳴り響くサイレン。消防車の鐘。救急車の音。
 だれかに腕を掴まれたようにも、振り払ったようにも、怒鳴り返したようにも思うが、覚えていない。奪うようにひったくった防水バケツをだれが持っていたのかも、中にどのくらいの水が入っていたのかも判らない。
 頭から水をかぶり、剣心は燃えさかる炎の口に飛び込んでいった。


前頁次頁
しろくて あったかくて ふわふわ<11> 2007/11/18



animalバナ
全体目次小説目次
Copyright©「屋根裏行李」ようこ All rights reserved.
Material THANKS/休憩室