厳しい残暑がまだまだ続く、蒸し暑い日曜の午後だった。
「いいもん持ってきた」
「左之助? どうしたんだ? そんなところから」
裏の路地でがさがさと音がしたと思ったら、左之助が離れの裏庭をのぞきこんでいた。
見ればなにやら大きなものをひきずっているらしい。
「……い…よいっしょっ!」
「わっ」
氷塊だった。大きく切り出した、小さなスーツケースほどもありそうな四角い氷塊が、しかもふたつも。氷となれば水も同然だから、当然ながら大変に重い。引きずりながらとはいえ運ぶのは相当な重労働で、左之助は額に玉の汗を浮かべていた。
「ふうー」
「すごい。どうしたんだ? こんな」
「もらった」
「もらったって……」
「いいから涼め」
「え」
「おれでもまだ暑い。おまえには無理だろ」
九月に入って朝晩こそ過ごしやすくなったものの、日中は身体にこたえる暑さが続いている。ましてこの日は湿度も高く、昼前から息苦しいような粘つく熱気が沈滞していた。暑さに弱い寒冷地帯の生き物にはただでさえ過酷な環境である。しかも剣心にはさらに暑さに負けやすい理由があった。
「思い切り冬毛だし。それがバランスとかってやつなのかな」
「うーん……。どうかな。そうなのかもな」
ホッキョクノウサギ。
極北に生息する夜行性の草食動物。
それが剣心のもうひとつの姿である。
十年ぶりに獣態を得た劇的初体験から五日。剣心はこれまでの反動のようにできる限りの時間をウサギの姿で過ごすようになっていたが、不思議なのは、暦の上でこそ秋になっているとはいえ、まだ日も長い夏の終わりのこの時期になぜか純白の冬毛をまとっていることだった。ホッキョクノウサギは夏と冬とで衣替えをする動物である。冬には寒さに耐え雪にまぎれるのに適した真っ白の厚い毛皮に。夏には林や草原に身を潜めるのにふさわしい褐色の衣に。順当にいけば春と秋にそれぞれ変化するべきもので、本来なら今はまだ夏の装いのはずだった。
「でもおれはこれしか知らないから、まあ別にこんなものかと思わなくもないが」
十五歳より以前の、家族や同朋と共に獣人として暮らしていた頃の記憶を火事のショックで失った剣心にとっては、自分史上初めての
とはいえ暑さに参っていたのは確かだったから、このサプライズは嬉しかった。嬉しかったが……。
『ほらほら。溶けねえうちによ』
そう言う左之助はすでにキツネになって、庭に置いた氷のベッドに寝そべっている。
「あ、うん……」
左之助は端に寄って剣心のスペースをちゃんと空けてくれている。
だがその前に剣心は変態をしなければならない。
「えっと、あの……。おれ、ちょっと変身してくるから」
『おう』
部屋に入り、障子を閉てた。が、ぴったり閉めてから、それでは後で出るときに困ることに気づいて、細く開け直す。
少し迷ってから、隙間に向かって声をかけた。
「そこで、待ってろよ?」
『……』
「左之助?」
『おう』
剣心は部屋を通り抜けて襖を閉め、隣の前室にこもった。
座卓を置いて書斎にしている三畳間だ。通路を残すために完全に締め切ることができないのが不安といえば不安だが……。
スーハースーハーと深呼吸をして心の準備をし、そうっと背中に手を回した。
多少は慣れたとはいうものの、他のみんなのように「エイヤードロン」というわけにはいかない。まったくいかない。
目を閉じて、背骨を腰から下へと辿った。
ぞわっと微弱な電流が走る。息を詰めて尾骨に触れると、背骨がじいんと熱をもった。
隠れたスイッチをさぐるデリケートな作業は耳掃除に似ている……と思うように剣心はしている。あるいは怪我の手当てでもいい。要するに、相応の繊細さを必要とはするが特殊に私的だったり秘事だったりはしない範囲の、感覚的な作業だ。デリケートだが、それ以上でも以下でもない。まちがっても官能に類するようなものではない。努めてそう思うようにしている。
「ふ……」
こぼれた声が鼻から抜けて吐息にまじった。自分の声の気だるいような甘ったるさがどうにも恥ずかしい。外までは聞こえないと分かっていても、左之助が庭に待っていると思うと身体が熱くなる。
「は……ん……」
熱をもった身体にあの夜の感覚が甦る。肌に。耳に。体内の奥底に。嵐のように。衝撃が全身を貫く。
「………っ」
せりあがる声をどうにか呑み込んで身を震わせる。
一瞬の浮遊感のあと、ちょうど逆上がりをしたときのようなぐるんとひっくり返る感覚が来て、またふわりと浮いた……と思ったら、四つ足でうずくまっていた。
すでに日課となった一連の行為と感覚である。
最初にくらべて慣れたといえば慣れたが、なんの抵抗もないとは言い難い。もちろんある。実をいえば大いにある。
――ふう……。
気が静まるのを待って、左之助の待つ庭に戻った。
変態してすぐに目の合うこの瞬間が気恥ずかしい。鼻がむずむずして、耳がぴくぴく動くのが分かる。
縁側まで出て、ふと困った。
こんな大きな段差を自力で降りたことがないのだ。客観的に考えればウサギの身体ならそれくらいはできるはずだし、うっかり落ちたことならあるが、あれでは困る。今の自分がうまく着地できるかどうかは甚だ心許ない。
床板の端から庭を覗きこむようにしておろおろしていると、左之助が人化してやってくるのが見えた。そっと差しのべられた掌の匂いを嗅ぐ。あごをのせて見上げると視界いっぱいに左之助が笑っていた。
冷たい氷のベッドは、想像もつかなかったほど気持ちよかった。
もっときつい冷たさかと思ったら、人間のときの感覚でいえば、夏の午後に風の通る大きな古民家で畳に寝転がっているような、まろやかで心潤う涼しさだった。
両手両足を伸ばして腹這い、身体の下側をべったりと氷に押しつけて、剣心はフウと息を吐いた。
『ぷすぅー』
「ぶっ……」
ノウサギの顔は鼻先がまるく短い。ころんと丸まった鼻と口は、出る音出る音がいちいちユーモラスだ。思わず笑いを誘われた左之助が目尻に小さなしわを作って肩を揺する。
『ブッ』
「わりいわりい」
まだ笑いながら左之助もキツネに戻った。
小動物たちには充分な大きさの氷のベッドである。大小二匹、背中を並べて長々と寝そべり、つかのまの小さな冬にまどろんだ。
わからないものだ。
ひんやりと心地好い氷の感触と、隣で息づくもうひとつの存在を感じながら、剣心は思うでもなく思っていた。
あの夜、左之助に無理矢理されたときには、もう二度とウサギ態になどなれなくていいと思った。それが今ではこうして毎日くりかえしウサギになったり人になったりしている。これからどうなるのかと思ったここでの仕事も今まで通りなにも変わらない。ただ、そんなこんながあって秘密を共有するようになって、左之助との距離が一気に縮まった。これまでがウソのようだ。相変わらず名前は呼ばれないし、剣心も「左之」ではなく「左之助」と呼ぶのは変わらないが、前のように、ことあるごとにつっかかってきたり、目で攻撃されたりということはなくなった。
いろんなことがごっそり変わった。
「怖かったろう。これまで」
左之助はそう言った。
「ホッキョクノウサギなら、おれは天敵だ。知らずとはいえ、悪かった。おまえがいやなら、これからはなるべく近づかないようにするから、言え」
「無用。ホッキョクギツネだろうがなんだろうが左之助は左之助だ。いやだったことなどこれまでないし、これからも、ない」
――怖かったことなら何度もあるが。
「……こないだみたいなのは御免だが」
「わりい。もうしねえ」
周囲には内緒の、剣心の正体である。二人で秘密を共有している共犯者めいた状況に、不謹慎だとは思うが、どこかワクワクするものがあったのも事実だった。(もっとも厳密には総三と浦村を含め四人だったが。)
薄目で左之助を盗み見る。
こういうとき、左右に離れてついたウサギの目は便利なのである。
左之助はきちんと夏毛だ。もうじき換毛期に入る。
日本犬に似た、キツネにしてはまるい顔に、かわいい正三角形の耳。長いひげ。ふと、頬に一本、変に長い毛が飛び出しているのが目にとまった。
『ブフッ』
『あ?』
『ブッ』
鼻先で示すとわかったらしい。
『ああ。アホ毛だろ。知ってる』
左之助は獣態でも人語が喋れるが、剣心はまだうまく話せない。
『つうかおまえもあるじゃん』
『ブ?』
『知らねーか。あるある。鏡で見てみろよ』
知らなかった。自分の身体のことなのに。
『ブウゥ』
『わかんねえっつの』
左之助が笑う。黒い鼻をフガフガさせて、アーモンド型の目をわずかに細めて、キツネの顔で笑う。
言葉というのは便利なようで不便なものなのかもしれない。なまじ言葉が交わせるよりも、こうして身を寄せ合って、肌を触れ合って、目を見交わすだけの方が、よっぽど通じ合うものなのかもしれない。
動物でいるのも悪くない。まったくもって悪くない。
じっと見ていると、褐色の大きなしっぽが顔に降ってきた。
『ブッ』
スマートに見えても、やはりキツネのしっぽである。身体と同じほどもある長いしっぽは、ふさふさと大きく量感豊かだ。夏毛特有のさらさらとした肌触りが心地良い。スンスンと匂いを嗅ぐと、さっきの、笑って自分を見ていた黒いアーモンドの目が、ポンと思い浮かんだ。
アーモンド型の澄んだ目。全体が真っ黒で、黒水晶のようにきらきらと輝いて、リラックスしていることを示していた。あの目が、緊張すると瞳孔が収縮して尖り、虹彩は危険な金茶の輝きを放つ。捕食者の攻撃態勢を示すその目は被食者である剣心のような者を緊張させ脅やかす。いつも剣心をドキドキさせていたあの目だ。今は穏やかなやさしい目をしていた。春の陽射しに包み込まれるような心地好さだ。秋の空に吸い込まれるような心地好さだ。なのにやっぱりドキドキするのが変だった。怖いわけではない。背筋の凍るようなドキドキではない。むしろ身体の芯がぽうっと熱をもつような。甘酸っぱくてくすぐったい。胸が苦しくなるようなドキドキだ。こんな風に身体が変になるのは、やはり自分たちは相容れない存在だということなのだろうか。子狐だったときはただもう愛しくて愛しくて愛しくて、ウサギもキツネもないと思っていたが、やはり大きくなってくるとそういうわけにはいかないのだろうか。そう思うと寂しい。せっかく距離が縮まったと思ったが、結局長くは一緒にはいられないのだと思い知らされるようで、悲しい。剣心の小さな胸は水があふれるのに似た切なさでいっぱいになる。
剣心は耳を起こした。
その立てた両耳でふかふかのしっぽ布団を挟んでみる。
挟んだところから少し風が入ってきた。
『ブフゥ……』
左之助が声を立てずに笑って、豪華な掛け布団がふるふるっと揺れた。
休みの日には身体を動かしに外へ出掛けることもあった。獣態には獣態の運動が必要なのだが、食肉目の保育園の庭を、まさかホッキョクノウサギが走り回るわけにはいかないからだ。
ひとりでは不自由だし危険なので、左之助が付き合う。というか連れて行く。変態初心者の剣心の場合、普通の獣人のように「エイヤーベロン」というわけにはいかないので、部屋で落ち着いて変態し、しかる後にクレートに収まって運ばれてゆくのである。
左之助がアテンドすることに、当初、総三は難色を示した。だが、なぜか浦村が「まあまあ、後は若い人どうしで」などとまるで見合いの世話人のようなことを言ってそれを支持したこと、なにより現実問題として多用な二人では手が回らないこともあり、結局その図式で話は落ち着いた。
いきなり思い通りに駆け回れたわけでは、もちろんない。
小さく揃えた両手を両足の間につき、とびばこを跳ぶような要領で身体を運ぶうさぎ走りは一種独特である。
初回はフォームを理解するので精一杯だった。
二回目はなんとかリズムがつかめて、走っているらしいスピードが出るようになった。
三回目になると自分でも驚くほど気持ちよく走れた。
身体が軽い。おもしろいように速度が出る。一瞬で加速し、風を切って進める。景色がびゅうびゅう飛び去っていく。手足のすみずみまで力がみなぎって、どこまでもいつまでも駆けていけそうだった。
「剣心!」
はっと意識が呼び戻された。
振り返ると左之助が米粒人形のように小さい。途端に心細くなった。一目散に駆け戻ると、あっという間に身長百八十センチメートルの左之助の足元に着いていた。
もっと走りたい。
見上げた剣心の胸を左之助がさする。
「もうちょっと走るか?」
こくん。
「見えないとこには行くなよ?」
こくん。
「よし!」
それを合図に、鉄砲玉の勢いで駆け出した。
その感覚を一体どういえばよかったろう。
動物だが、動物ではない。中身は人間だ。剣心だ。呼べば応えるのは自然だ。それはわかっているが。
地の果てまで駆けていきそうだった。そのまま行ってしまいそうだった。
「剣心!」
米粒人形のように遠かった。まっすぐ左之助の方を見ているように思ったが、はっきりとは見えなかった。それが、一呼吸の後、弾丸のように飛んできた。みるみる近づいてくる小さな白い動物。ホッキョクノウサギ。そのまま胸に飛び込んでくるかと思ったが、そうはならなかった。そうはならなかったが、しかし左之助は撃ち抜かれた。足元にぺたりと座って見上げるふわふわの胸に触れ、もう一度送り出した後になっても、まだ心臓はどくどくと打っていた。ままごとの道具のように小さな手をちょこんと揃えておすわりをした姿。少し首をかしげて左之助を見上げるつやつやの表情豊かな瞳。ぴょんと立った大きな耳は、片方が中ほどでへなりと折れていた。
“今”も“此処”もとんでいく。足元が揺れている。百パーセントの剣心が力いっぱいに駆け抜ける姿だけがくっきりと浮き上がっている。目が離せない。
頼りない地面に根を生やして、左之助は剣心の姿を追い続けた。
ガラガラガラッ――。
保健室のドアが勢いよく開けられた。
「先生どうしようユタローが……! ……あれ? 先生?」
とびこんできた園児が、戸惑った様子で室内を見渡す。ベッドに置かれた棕櫚のマットの上に丸まったホッキョクギツネの姿があるだけで、部屋の主である剣心はいない。
「左之兄ぃ? 先生は?」
『トイレ。そんで? ユタローがどうしたって?』
「あ、うん。えっと、帰りに電柱にぶつかって鼻ケガして。すごい痛がってて、血とかもいっぱいで……」
左之助は身体としっぽでドーナツのような円をつくり、自分の顔と身体を、まるで隠すように大きなしっぽで覆っている。ふさふさとしたしっぽの毛は風もないのにふわふわとそよいでいる。
「みんなと後から来るけど、とりあえずオレ先に」
『電柱? ……あいつアホ?』
子どもはそわそわと部屋を見回した。
『言っといてやるから、おまえちょっとそう言ってこい』
「あ、うん……」
うん、と言いつつ、もじもじと動かない。くんくんと鼻をうごめかせ、ちらちらと部屋のあちこちに目を走らせる。左之助は子どものそんな様子には気づかないように鼻先を振った。
『ほら、早く』
「うん……」
『………』
「な、なんかいい匂いがするな」
『………』
「なんの匂いかなあ」
半ば動物だけにおいしそうな匂いには敏感だし貪欲だ。左之助に睨まれても負けずに食い下がり、ひとりごとめかして呟きながら鼻を鳴らしている。
『ああ。これだろ。ないない。もうない。全部食った。いいからさっさと行け』
左之助が身体の下から葡萄の枝を取り出して見せた。もう果実はすべてもがれた後の残骸だったが、それでもにわかに部屋に甘い香りが広がった。そういわれてみれば、左之助の口元にもそれらしきしるしが残っている。褐色の中にパラパラとまじった白っぽい差し毛が紫色に染まっているように見えるのだ。身体の下になにか隠している風だったのはそれだったのだろうか。
「ふうーん」
だがそれにしてもおいしそうな匂いだ。葡萄の香りはこんなにかぐわしいものだったろうか?
子どもは尚も未練そうに部屋を見回したが、『行け』と噛み付くように威嚇されて、びくっと後退った。
『おい! ドア閉めてけ』
力の序列に忠実な動物の習性で、目上の言いつけには従うのが獣人の子どもである。
一旦離れかけた足音が戻ってきてドアが閉まり、改めて去っていく。十分に遠ざかるのを待って、左之助がむくりと頭をもたげた。
『………行った。出ていいぞ』
跳ね上げられた褐色のしっぽの下から、白いものがひょこんと現れた。
『ブッ』
剣心である。
耳をぺたんと寝かせ、ほっとしたように『ぷすー』と息を吐く。その口の周りが鮮やかな紫色に染まっていた。こちらは目に沁みるばかりの純白の冬毛だから、少しの色もくっきりと際立つ。
飛び降りざまに人に戻った左之助は、ドアにかぎをかけて戻ってくると、その口元に触れて片笑んだ。
「あーあ。こんなに汚して」
『ブウウ』
慣れない口でうまく食べられないのは仕方がないだろうという反論である。現に、まだ水は飲めない。葡萄のような一口で食べられる固形物がいちばん食べやすいとはいえ、多少の食べこぼしはやむを得ないのだ。そんな子どもの粗相のような扱いをしないでもらいたい。
『ブ』
「ハイハイ」
はじめは自分の部屋でなければ落ち着いて変態できなかった剣心だったが、徐々に慣れるに従って、早朝や放課後の保健室でもなんとかウサギ化できるようになった。万が一にもだれかが入ってくると困るので、奥の休憩室で締め切って過ごすことにしていたのだが、この日は左之助がいたのでついドアの施錠をうっかりしていた。
肌触りがよくて気持ちいいだろうと、左之助が棕櫚の湯上がりマットを保健室に持ち込んだのは、その前の日のことだった。ウサギ用のハウスはペットショップでも多く売られているが、なんといってもホッキョクノウサギはいわゆる愛玩用のウサギよりはるかに大きい。剣心に合うようなハウスを既製品で見つけることは難しかった。そこで左之助が調達してきたのがこの棕櫚のマットだった。これなら二人で使える……というところまで考えてのことだったかそうでなかったかはともかく、ざっくりとした天然繊維の触感はたしかにウサギ身の剣心には快適なものだった。
翌日、「巨峰のおいしそうなのが安かった」と、剣心が左之助を保健室に招いた。葡萄は左之助の好物である。本当に安かったかどうかはこれもともかくとして、粒の締まった有機巨峰は、はしりにもかかわらず味の濃い、旨味のぎゅっと詰まったいい葡萄だった。
『うめえ』
それはよかった。
アーモンドの目をゆったりと細める左之助に、剣心も目で応えた。
『おまえも食ってみ』
剣心はつぶらな瞳をぱちぱちとしばたたいて首をかしげた。
食べられるだろうか。慣れないウサギの口に、巨峰の粒は随分大きく感じられた。
『いけるいける。ほらよ』
左之助が器用に口で実をもいで、その実を剣心の口元に寄せてくる。
甘い匂いが、人間のときよりも一層おいしそうに、嗅覚に訴えてきた。
口づけする恋人同士のように顔を寄せ合って、葡萄の粒に唇で触れる。急な角度の上歯が邪魔だ。思い切って口を開け、それでもひっかかって、さらにエイヤーと大口を開けて、一気にかぶりついた。
『いでっ』
『……!』
勢い余って左之助の鼻まで囓ってしまったのだ。
慌てて葡萄を放して左之助の鼻をぺろぺろと舐め始めた剣心を左之助がびっくりした顔で見つめていたが、剣心は無心で気づかない。そして、そんなことをしながらお互いの贈り物を共に分け合ってふかふかと心地好くくつろいでいたところに、くだんの園児がやって来た。
バタバタと走ってくる足音に救われた。
足場の悪いベッドの上では、変に動くと余計に危ない。飛び上がらんばかりに驚いた剣心は、左之助の身体の下に潜り込み、さらにしっぽで覆い隠してもらって、なんとか事なきを得たのだった。
だがすぐに戻ってくる。鼻を怪我した園児と、幾人かの友人と一緒に。急いで「保健室の先生」に戻っておかなければ。
『ブ』
「わあってるって」
と、フーフーと背中を上下させている丸くて白い生き物を両手ですくいあげた左之助だったが、床に下ろしかけたその手をふと止めて、剣心を真正面からのぞき込んだ。
『?』
「証拠隠滅」
軽く目を伏せた左之助の顔が近づいてきた。
ウサギの眼で見て初めて気づいたことがある。
人間の左之助の眼は、キツネのときよりも色が深いのだ。黒いのは変わらないが、虹彩の色味がちがう。それに長いまつげが濃い影を落として、十七の年齢に似合わないほどの色香が匂う。前からこんなだったろうか。それとも、より鋭敏な草食動物の視覚だからそう感じられるのだろうか。じっと見つめられるとぼうっとしてくる。この感覚に囚われてしまうと、もうなにをされてもなすがままで、もしかしたらこれが昔菜々芽の言っていた「対ウサギさんの
鼻や顎を丹念に舐めている左之助の顔を見ながら恍惚と思った。もう全身の力が抜け切って、ぺったりと倒れた耳を起こすことさえできそうにない。
「剣心……」
ふいに呼ばれて身体が熱く震えた。
左之助の舌が口角から口の中にすべり込んできた。口の内側をなぞり、歯並みを探り、舌に触れる。小さな口の中は左之助の舌の先だけでいっぱいになって、あふれた唾液が口の周りを濡らしていく。
『ふ……う……』
喉に流れ込む唾液が剣心の身体をさらに熱くする。
感電したような
ふと、それが口からだけなくしっぽからも来ていることに気づいた。気づいてみれば、いつのまに掴まれたのか、左之助の指がやんわりとしっぽを掴んで、さわさわとくすぐるような軽さで撫でまわしている。意識した途端、いきなり電圧がはね上がった。
途中までは、どうしてこんなことになっているのだろうとか、もしこれが人間なら恋人同士の濃厚なディープキスなのにとか、いくら獣人とはいえ人間と動物がこんなキスをしているのはちょっとおかしいんじゃないだろうかとか、どうしてしっぽを触られただけでこんなに感じてしまうのだろうとか、ていうかその前におれたち男同士なんですけどとか、そんなことどもも思わないでもなかったが、熱くて甘くて巧みな左之助の舌と手に翻弄されるうちになにがなんだかわからなくなって、もうそれ以外のことがどうでもよくなりかけていた。
そのとき――。
痺れて渦を巻く頭の中に、突如現実の音が飛び込んできた。
――バタバタバタバタバタバタ……。
「先生! ユタローが怪我したー!」
「先生!」
遠くから廊下を駆けてくる子どもの足音。騒ぎ声。
はっとして身体を離す。
左之助も驚いていた。とろけるように濡れていた目の色が、どこか茫洋とした、夢から強引に引き戻されたひとの表情に変わっていく。
「……これ……一緒……か? ……血だけじゃねえのか……」
揺れる目に浮かぶ戸惑いと怯え。
――怯え?
剣心は自分を凝視する左之助の視線から逃れるように身体をねじり、前転しながら掌から飛び降りた。
着地しながらコロンと転がり、さらにもう一回転。
――コロン……。
「………ふうぅー」
人に戻った剣心が、変身する前と同じ白衣姿で床に座り込んでいた。
人語が話せることや、動物本来の活動時間の影響をあまり受けないことなどをはじめ、獣人の特殊能力には妙に都合のよいことが散見されたが、なかでも高ポイントなのが、服ごと変態する――ということだった。物理的に考えれば、人から獣に変身すれば着衣は残り(または破れ)、獣から人に変わったときには全裸のはずである。だがそうはならない。元の服を着た状態で人になる。
「まあ、それはあれですな。動物は被毛が服代わりということでしょうかな」
浦村はそう言ったが、
「じゃあ裸で変態したら毛が丸むけの状態に?」
口達者な剣心に言われて沈黙した。
しかしいずれにせよ、このだれにも仕組みのわからない奇妙な現象は彼ら獣人にとって切実に便利だったのはたしかである。そうでなければ、彼らの生活はもっとずっとはるかに制約の多い不自由なものとなっていただろうから。
さて、剣心である。
彼がホッキョクノウサギから人間に戻る方法は簡単だった。
それはふとした偶然から発見された。
剣心が初めて変態した翌朝のことだった。
気が高ぶってとても眠れなどしないと思いつつ、左之助が作ってくれた即席うさぎベッドにとりあえずのつもりで収まった剣心だったが、まぶたを合わせた途端、深い深い眠りに落ちていたらしい。次に気づいたときには、総三が目の前にいた。
「おはよう、緋村くん。わかるか?」
こくん。
左之助と浦村もいる。
「そうか。よかった。この馬鹿が」
と、総三は左之助にきつい視線を投げた。
普段は穏和だがそこはチーター。締めるところはきっちり締める塾長である。
「馬鹿が、暴走したかと一時は肝を冷やしたが。そうか。無事でよかった」
こくこくこく。
まあ無事ではある。
あるが……。
暴走?
剣心は少々首をかしげ、そっと左之助と浦村をうかがい、総三の視線に気づいてまた慌ててコクコクとうなずいた。
無事だ。
そう、無事だ。
暴走も多少はあったかもしれないが、おおむね無事だ。それでいい。
総三が左之助を見る。うかがうように。あるいは
取りなすように話を振ったのは浦村だった。
「あー。で、相楽塾長。どうなんでしょうかな。逆の方は。人になる方は」
「ああ。それだが。実はよくわかっていない」
「おや」
「ええー! なんすかそれ」
「だから言ったろう、仮説だと。事例もない。過去の快復例はどれも偶発的なもので、要因が特定できていない。今回の緋村くんの例が、もし人為的なものだとしてだが、初例になる。おまえは。やはり事の重要性がまるで分かっていない。まったく。大きな事故にならなかったのは僥倖だった」
左之助には手厳しい今朝の総三だが、剣心にはいつも通り――いや、いつも以上に穏やかで丁寧な接し方である。そうっと目の高さに持ち上げ、視線を合わせて、痛ましそうに眉を寄せた。
「緋村くん? 本当に大丈夫か? ひどいことはされなかったか? 気持ちが悪いところはないか? あるいは、変態の前後に、なにかおかしなことはなかったか? 体の変調や、なにかそういった兆候が?」
その後に落ちた沈黙を、総三はどう聞いたのだろうか。
「緋……」
総三が再び口を開きかけたときだった。
さらに深く見つめられた剣心がモガモガと手足をばたつかせ、その拍子に総三の手からすべり落ちたのは。落ちた剣心は、コロンコロンと二回転しながらきれいに着地した。そして人間に戻った。
「………れ? れれ?」
当人が一番きょとんとしていた。
こうして、“連続前転をすると人間に戻る”という、奇妙な剣心の法則が発見されたのだった。
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しろくて あったかくて ふわふわ<7> 2007/10/21