最近の左之助は人が変わったようだと、仲の良い友達連中ばかりか年違いの塾生や保育園の教員までもが噂するようになっていた。
変わったといっても悪い方にではない。
ここ一、二年の左之助といえば、意味のない暴力や弱い者いじめを嫌いこそすれ、そのかわりと言わんばかりに同級や目上の人間にはあたりがきつく、ちょっとしたことで烈火のごとくに怒りだしたり食ってかかったりと、反抗期というにはいささか性根の座りすぎたような気性の荒さで、早い話が扱いにくい若者だった。それが、このところ妙に穏やかなのだ。常時ニコニコしているわけでも愛想のいいことを言うわけでもないが、しかし、近寄る者を見境なく威嚇しているようだったぎすぎすとした荒っぽさが、薄絹に包まれたように和らいでいる。とくに、年少の子や身体の小さい者、弱い者たちには、以前にも増して心を配る様子が見て取れる。もともと兄貴肌の左之助ではあったが、十七という年齢を思えば成り急いで感じられるほどに彼の言動は急速に大人びていくように、周囲の目には見えていた。
なにが彼を変えようとしているのか――。そんなことが主に大人たちの間で取り沙汰される、ある日のことだった。
剣心と左之助はいつものように河川敷で走っていた。
剣心はうさぎ、左之助はきつねである。
自在に走れるようになれば、一人(匹)より二人(匹)の方が楽しいに決まっている。前回からこうして追いかけっこや何かをして、二匹で走り回るようになっていた。もちろん人目には警戒を怠らない。もともと選んだこの場所自体が道も橋も人通りもない、流域の死角とも言うべき場所。さらに慎重には慎重を期し、この日も左之助が変態したのは、十分すぎるほど念入りに周囲をうかがってからのことである。
知らずに見れば、うさぎが野犬にでも狙われていると見えたろうか。だが、さらに注意深く観察すれば、それにしてはうさぎの動きに必死さがなく、それどころか楽しげでさえあり、また必ずしも逃げる一方でもなく、ときに戯れつくように自分から敵の首に飛び乗ったり、逃げている当の相手であるはずの生き物の、まるできつねのように大きなふさふさのしっぽを捕まえてコロコロ転がったりさえしていることも見て取れただろう。そして、そのきつねのようなしっぽを持つ狩人の方もまた、本気で獲物を仕留めようとはしておらず、首根っこをくわえてもそれは親猫が子猫をくわえて運ぶのに似て、両の前足で捕まえて身体の下に敷きこむときも犬が優位を示すために他犬の背に乗る程度の力のかけようで、眩しいばかりに白い小動物を、残忍にいたぶったり、弱り切らせた果てになぶり殺そうという意図でないことは明らかだった。
そうしてひとしきり走って遊んで戯れて、さて、ではそろそろ帰ろうか――とお互いが思い始めていた矢先のことだった。
遊び疲れて集中力が切れたのだろうか。
剣心がつまずいた。
つんのめった身体は大きな放物線を描いて宙をとび、頭から落ちる。そしてコロンと転がりながら着地する。
『……!!』
より肝を潰したのは、むしろ傍でそれを見ていた左之助だった。
剣心は連続前転すると自分の意思にかかわらず人間になってしまうのだ。すでに一回。もう一回転がればアウトである。もし誰かに見られでもしようものなら――。
左之助は風の勢いで飛びかかった。回転を止めようとしたのだ。だが、ギリギリだった。左之助の鼻先が剣心と地面の隙間に差し込まれたのは、二回転目の、背中がコロンといくギリギリ――直後だった。
『キャウン!』
上にあったものがいきなり何倍もに大型化したのだから、左之助もさすがに悲鳴を上げた。
「いったあー……」
剣心が頭と腰をさすりながら身を起こす。そして唖然とする。左之助も唖然とする。
「……ハイ……?」
『………』
間の抜けた声で困惑したのが剣心。なんの反応もし得ずにぱっかり口を開けているのが左之助だ。よほど驚いたのだろう。
「ええー、なんだこれ、どうなってるんだ。困る」
と、剣心が邪魔そうに引っ張っているふたつのそれには言及せず、
『……つうかなんでパジャマなんだよ……』
とりあえずもうひとつの問題の方を指摘した。
「いや、実は朝少々寝過ごして……約束の時間まで間がなかったし、慌ててて……」
にしても。
「どうせそのまま帰るから構うまいと……」
に、し、て、も、だ。
「……まさかこんなことになろうとは……面目ない」
………。
部屋着といってもジャージやスウェットならまだしも、クリーム色のガーゼ地にキタキツネの小柄の散った見るからに正真正銘のパジャマで、しかも裸足である。これで町中や河川敷をうろうろしていたのでは、立派な脱走入院患者以外には見えないだろう。
『勘弁しろよな』
左之助の嘆息は深い。
なぜなら、そんな身なりのうえに、剣心の頭には、なぜかひっこまなかったウサギの耳がひょいんと生えているのだ。耳の付き方が獣態時とは異なり、ホッキョクノウサギ本来の立ち耳ではなく、ロップイヤー種のように下向きの垂れ耳になっていたり、ご丁寧に頭部に対する縮尺は本来の比率になっている――つまり頭に比例して耳も大きくなっていたりと、不思議のおまけは他にもあったが、この際それらはもはや“些末”の範疇だった。
「はて、困った」
剣心は垂れた両耳をぴろんと持ち上げ、首をかしげて困っている。そのさまは、本人がどれだけ真面目に深刻に困っていたとしても、見る者にそう信じさせるには、可愛すぎた。
「勘弁してくれ……」
がっくりと力尽きる左之助。こちらは完全な人間に戻っているが、ハアと溜息をついたところで、ふと思い出したように顔を上げた。
「そういやおまえ、それ、しっぽもあったりする?」
言いながら、ひょいと手を伸ばす。
「うーわ……」
あったのだ。
ふっかりとしたやわらかい毛玉だ。
耳と同じくひとの大きさに合わせて大きくなっている。指の長い左之助の手に、大きすぎず、小さすぎず、ほどよくおさまって、いい握り心地だった。
思わず我を忘れて夢中になりかけた左之助だったが、剣心の上体がへなりと地面に倒れ伏したのにハッとして、わしづかみにしだいていたしっぽを放した。
「わ、わりい、つい……。大丈夫か?」
そういえば握りしめた瞬間にも「ふにゃん」という細い声を上げていなかったか。
「ちょ、おい……」
「う……」
警戒するように身を引きながら、剣心は呻いた。まず肘をつき、次にそろそろと膝を立てて試すように踏ん張りながら慎重に左之助に目を配っている。
「どっか変か?」
気をもむ左之助に「ああ、うん、いや」と生返事をするばかりなのは、「しっぽを強く握られると身体の力が抜けてヘナヘナになるらしい」という、ほん今しがた新たに判明したこれまた珍妙な法則を、なんとなく左之助には知られない方がいいような気がしたからだったが、そうとは知らない左之助は素直に心配している。
「どっか痛いとか、しびれてるとか……」
「いや、ない……と思う……」
「そ、そうか……。けどならおまえ、早いとこうさぎに戻れ」
「えっ。……い、今? ここで?」
「だれも見てねえ。さっきのは人に見られてなくてラッキーだったが、そのカッコもたいがいマズイ」
「で、でも……こ、こんなところで?」
「仕方ねえだろ。他にどうするってんだ。そのカッコで町中歩いて帰んのかよ。そんで『ただいま』ってみんなに見せんのかよ」
「う……」
それでも剣心はまずは完全な人間になる方を試みた。だが、連続前転も前転も、ついでに後転も、効き目はなかった。やはり獣化するより他に方法はないらしい。
「う……」
剣心が変態を見られたがらないことは左之助も知っている。理解も協力もしている。いつもは部屋の外や別室で待ったりと配慮をしている。
しかし今のこの状況ではそうも言っていられない。
剣心もそれはわかる。理解はできる。できるが――。
放り投げられたスポーツタオルがバサリと剣心の頭を覆った。
「見張っててやっから」
ぶっきらぼうにくるりと向こうを向いた左之助の背中にチラチラと目を投げる。胡坐の膝に手をついて肘を張り、いからせた肩をときどき小さく揺すっている。見張っていると言った言葉のとおりに周囲を見回しているらしく、頭がゆっくりと動いている。
たしかにこんな目立つ姿でうろつくわけにはいかないし、まして半ウサギのこのなりで食肉目オス限定の双道寺に帰るなど論外である。そして勿論いつまでこうしていてもどうなるものでもない。それはわかっている。わかっているが、だがだからといって「じゃ、それで」でもなかろう。
「………」
剣心は人気のない河川敷を見渡した。
風に波打つ草を眺め、肩まで垂れる耳をめくったり巻いたりたたんだりして、困った。
うさぎの耳というのは面白い感触で、それなりの張りと弾力はあるのに、折れば折れ、巻けば巻ける。そしておしぼりのようにくるくると巻いてしまうと、聴力はガクンと落ちる。物理的に耳を塞いでしまうわけだから考えてみれば当然なのだが、あらためて確認すると新鮮だ。うさぎのときは手がまだ巧く使えないからそんなことを試したことがなかった。へえー。と思いつつ、この機会にと、ひねったり
軽い溜息が聞こえたのは、そうしてまたしばらく風がそよいだ後だった。
「剣心」
頭のすぐ後ろで声がして、ドキッとした。
背中からそっと抱きしめるように回された腕の逞しい筋肉の動きを目で追う。
「剣心」
タオルごしに、大きなうさぎの耳の裏側から、声が、直に沁みてくる。
「あの夜……初めて変態した夜……。あのときおれが言ったこと、覚えてるか」
少しだけ顔を横向けて、目だけで左之助を見た。涙のにじんだ腫れぼったい目がかっこ悪い――と思いながら。
あのとき言われたこと。
覚えている、いない、の以前に、意味がさっぱりだった。
剣心は首を横に振った。
「そっか」
苦笑まじりの溜息。あるいは溜息まじりの苦笑。がっかりしているようにも、ホッとしているようにも、呆れているようにも受け取れる、声と顔の表情だ。
タオルと垂れた耳と髪をかきのけて、左之助が剣心をのぞきこんでいた。
「メイアイヘルプユー?」
春の日だまりだ。冬の縁側だ。
そう思ってから、そういえばいつもうさぎの格好のときだったから、人間の目で見るのは初めてだったと気がついた。
あらためて見れば不思議な感じだった。
ほんの一、二年前には親代わりのつもりで面倒をみていた子どもだった。よしよし泣くな泣くなと抱いてあやして背中をさすって、指を吸わせて寝かしつけていた子どもだった。
蚊の鳴く声で剣心が言う。
「しっぽ……」
「しっぽ?」
「おまえのしっぽ……。ちょっと、貸してくれ」
「しっぽ? おれの?」
やや面食らった左之助だったが、三度周囲を見回した後に、乞われるままにしっぽを与えた。
冬毛ほどのボリュームのない夏毛とはいえ、ホッキョクギツネのしっぽは身体と同じほどの大きさがある。後ろから回してきても十分胸に抱えられる。剣心は大切そうに抱えたしっぽに顔をうずめて、ふううと深呼吸をした。少し身体を回して座り直し、左之助の腕に頭を乗せ、そっと呟く。
「大きくなったな」
「………」
「……好きなんだ」
「えっ」
「この手ざわり」
「……そっちかよ」
「え?」
「なんでもね」
抱いたしっぽごともたれかかってきた華奢な身体を、左之助はそっと抱きしめた。
剣心が褐色の毛に頬ずりをして、言った。
「夏毛はさらさらしている。冬はふかふかだが」
「まーな。冬のが好きか?」
「……でもこれも気持ちいい」
「冬んなったら好きなだけ触らしてやる。しっぽ布団も、しっぽ枕も、しっぽソファもできるぞ」
「ああ。楽しみだ……」
「…………」
「…………」
剣心はしっぽに顔を伏せている。左之助は空を仰いでいる。
やがて左之助が小さく息を吐いた。
「我慢できなかったら、言え」
タオルを被った頭がこくんと動くのを待って、左之助はゆっくりと手を伸ばした。
今度はあのときのように怖がらせないように。泣かさないように。慎重に、慎重に。
そっと撫し、軽く指先に力を込め、掌に転がす。細い身体がビクンと揺れたのは最初だけで、後は左之助のしっぽに伏せたまま、風に震えるタンポポの綿毛の風情で身を震わせている。
腕のなかでぷるぷると揺れる肩の細さに、左之助は驚いていた。小柄なのは知っていたが、こんなにも細かったろうか。
小さい。
白いうさぎを胸に抱いているときと同じほど強く、そう思った。
しっぽを揉む左之助の手の動きにつれて、剣心は身を震わせる。息を詰め、詰めた息を細く吐き、荒い息をこぼす。固くつむった長いまつげがぴくぴくと揺れている。そっとしかめられた眉と小さな形のいい鼻もぴくぴくと動いている。細い指は左之助のしっぽに縋るかのように絡んでいる。頬はやや上気して、きゅっと結ばれた唇がぞくっとするほど艶めかしかった。
「剣心」
震える声で左之助が呼んだ。
タオルの下にある弾力のある柔らかなうさぎ耳に口をつけて軽くはむと、自分で驚くほど息が熱い。
「剣心、おれ……」
意を決して口を開いたのとほとんど同時だった。
唇の下で大きな耳がぷるんと揺れて、揺れたと思ったら、すっと消えるようになくなった。
「け……」
『……ブッ、ブブッ、ブウゥ』
白い毛玉はあっという間にクレートに潜り込んで丸くなってしまった。奥の隅に丸まり、入口に背中を向け、身体に顔を埋めて、そしてもうぴくとも動かない。
「剣心……」
『………』
「………」
変身する寸前の「あ」と言った息の熱さが、左之助のしっぽにはまだありありと残っているのに。
しばらくそこに手を当ててじっとしていた左之助だったが、やがて惜しむようにしっぽをおさめると、やおら立ち上がってクレートのハンドルに手をかけた。
「帰るぞ」
クレートの中でごそりと動いた気配はあったが、返事はなかった。
暑さ寒さも彼岸まで。
先人の智慧は偉大なもので、厳しい残暑もおよそ秋分の日を境に見事に秋に向かう。
外からの視線を遮る高い塀に囲まれた敷地の約半分は運動場だ。北側には園長と剣心の住まう僧房(という名の住居)があり、南側にはいくつかの遊具と砂場と池。この池が、夏場は適応塾と共用のプールとして使われている。池の様式や正面に配された立派な巨石はそのままに底と内側だけを打ち直して浄水装置を導入し、プールとして使えるよう改造させたのは、前園長の上下衛門だった。この趣ある日本庭園風の循環濾過プールは、夏の間は園児と塾生に水遊びの楽しさと獣態での水練の機会を、それ以外の季節には園内の景観に情緒を、それぞれ与えてくれている。プール納めは保育園と適応塾の合同で行われ、プールレクリエーションの後に全員でプール清掃をして終わるのが恒例となっていた。この掃除は形式的なものではなく、専門家の指導のもと、普通の学校なら業者に任せるであろうような排水設備の内部まで生徒たちで徹底的にきれいにする。自立と自助を重んずる教育方針はこのようなところにも表れていた。
その日は上々のプール日和だった。
風が爽やかだったのも朝のうちだけで、日が高くなるにつれて気温はぐんぐん上がり、レクリエーションの始まる十一時頃にはだれもが水を恋しがる暑さになっていた。
今年のレクリエーションは「水中だるまさんが転んだ大会」である。
レクリエーションは獣態で行われ、内容は毎年委員会で決定される。二年前の「水中なわとび選手権」は失敗だった。企画段階から無理が指摘された果敢な取り組みは、やはり企画に無理がありすぎたことが証明されて十五分で終わってしまった。反省をふまえて行われた去年が「水中手つなぎ鬼大会」で、これはなかなかの盛り上がりを見せ、好評だった。さて今年は――ということで、委員たちがいろいろと話し合った結果が、この「水中だるまさんが転んだ大会」だった。動きが少なく単調になるのではないかという不安もあったが、いざやってみると、一種独特の妙な緊張感があって、これが予想外にエキサイティングだった。
『だーるまさんがー……こーろん…………だっ!』
鬼が振り返る。皆それぞれの位置で止まってはいるが、水紋が残っているから軌跡はわかる。水の中だから足取りが不自由だし、一気に動けば水音も波も立つ。中途半端な格好で止まらざるをえなくなり、バランスを崩してこける者。こけた水の余波で足を取られる者。
園児の部、塾生の部ときて、最後の全員勝ち抜き三回戦には有志職員も参加する。もっとも「有志」といいつつほとんど全員が参加するから、小さな池プールは大混雑である。
「みんながんばるでござる〜」
数少ない応援組の剣心がにこにこと手を振る。
だれを応援しているのかよくわからない掛け声だが、こんなシーンでの声援といえば、まあ往々にしてこんなものだろう。
『先生!』
『先生入ってー!』
『そうだそうだ、ヒムラちゃんも来いよー』
相変わらずの人気ぶりだ。
『先生』
『先生』
『先生』
わーい、と、園児たちが剣心を呼びにきた。
両手を引いて、背中を押して、御輿でもかつぐように、プールまで連れて行こうとする。
「おろ〜。よすでござるよ〜」
笑いながらプールのへりまでは付き合い、そこでするりと手を引き抜く。そんな戯れを何度かくりかえしていた。
剣心としても参加できるものならしたいのだ。だがなんといってもウサギの身である。獣医師として万一に備える必要があるという口実のもと、薄手の半袖白衣に魚屋さんの防水エプロンという妙ないでたちで、見学兼応援を続けていた。
それを言いだしたのはアライグマの幼児だった。せんだって鼻を怪我したユタローである。
『左之兄ぃ、先生においでって言ってー』
『うんうん、言って言って』
『言ってー』
『おれに言うなよ。知らねーっつの』
『だって仲よしだもん』
『左之兄ぃが言ったら先生もウンって言うもん。ラブラブだもん』
『……あぁ? なんだそりゃ』
『…………』
『おい。ユタ!』
『……って、に、兄さんが……わっ、ご、ごめ……!』
ユタローの兄が左之助の同級にいる。
急に目を尖らせた左之助に睨まれて、ユタローは首をすくめた。
『チッ。いいか、くそガキ。ひとを利用すんのも実力のうちだが、そんななあ弱えヤツのすることだ。自助! 自立! 強くなりたきゃ、ひとを頼るな。自分でなんとかしろ。欲しいもんは自分の力で手に入れろ。わかったか』
『ごめんって左之兄ぃ。ていうかなんの話だよ。ワケわかんね。塾長かよ』
『あ、ほんとだ! そうだ。今の言い方、すげえ似てた。塾長そっくり!』
『わはは』
『左之助。おまえ、これからジュニアだ。塾長ジュニア。決まり。決定』
『いやだっつの。つか似てねえっつの』
『わははは』
険悪になりかけたムードはすぐに笑いに戻った。
だが剣心はそっと溜息をつく。
やはりそう思われていたのだ。
あれだけ一緒にいれば当然といえば当然だが。
ではこのところ急に左之助がよそよそしくなったのもそのせいなのだろうか。たしかあの河川敷半ウサギ事件の後くらいからだ。
外へ走りに行くのにはつきあってくれるが、夜に部屋に来ることがなくなった。保健室でも前のように一緒に夕寝をしたりはしない。剣心を奥の休憩室に入れて、自分は処置室で番をするようになった。
また元のようにいい関係になれたと思ったのに。一緒に葡萄を食べたあのときはあんなに親密だったのに。別に仲たがいをしたわけでも、気まずい口論があったわけでもないのに。なにが左之助の気持ちを変えたのかと思っていたが。
だれかになにか言われたのだろうか。友人に冷やかされたとか。
ひとの気持ちはどうにもならない。できればずっと親しくありたいが、望んだからといって叶うわけではない。ぽっかりと虚しい穴が開いたようだ。いろんなことが億劫に感じられる。
また溜息が出た。
『ヒムラちゃん、どったの。なんかブルー? ダイジョブ?』
少し場を離れていた剣心に寄ってきたものがあった。
以前、剣心の血を舐めた塾生のユキヒョウだった。
「ん? ああ、いや、どうもせんよ。ちょっと考え事をしていただけだ。すまぬな」
『……左之りんのこととか?』
「いや。関係ない。ないが……」
『?』
「ラブラブ? ……そんな風に言われているのか。みんなに」
『あ〜……。いやー、ていうかまあみんなヒマだし。お年頃だし? 気にすることねえって』
「………」
『つうかちがうならアレだけど、そうなら別にいいじゃん? 言われたって。隠すことじゃねえじゃん?』
「え?」
思いがけないことを言われて目が丸くなる。
別にいい? 隠すことじゃない?
ぽかんと見下ろすと、ヒョウの目がじっと剣心を見つめた。
『………で、どうなの? ホントのとこ』
「え。どうって……」
『ラブラブ? それともあれは」
すたんと少年に変わって、今度は剣心を見下ろして、顔を近づけてきた。
「ただのウワサ?」
ヒムラちゃんと左之助がラブラブらしい―――。
それはここ二、三週間、塾生たちの間で最もホットな話題だった。
小さかった左之助を剣心が育てたことは周知だったが、ときに多くの幼馴染みがそうであるように、大きくなった左之助と剣心が疎遠であることもまた、周知だった。
それがどうやら急接近しているようだと、最初に言い出したのはだれだったのだろうか。
いわく、放課後に二人で保健室にこもっていることがよくある。いわく、左之助が夜中に離れに忍び込むのを見た。いわく、明け方に左之助が離れから出てくるのを見た。いわく、休みの日に左之助が出掛けているのと同じ時間帯に剣心も留守にしている。いわく、あの鬼畜で外道の左之助が悪い遊びをしなくなった。いわく、最近のヒムラちゃんは目がエロい。―――エトセトラ、エトセトラ。
思春期の青少年の目には、もう既成事実としか見えなかったのだ。
「――ヒムラちゃん?」
間近にのぞきこんでいた少年の目がすうっと細くなった。獲物を狙うヒョウの眼だ。
剣心はうなじの毛を逆立てて後退った。
同じ食肉目でもイヌ科とネコ科ではタイプがちがう。左之助とはちがう。水のような動きで忍び寄るネコ科特有のオフェンスが、剣心の神経を逆なでする。
「ヒムラちゃんの血、すっげえ旨かったんだけど」
声どころか、口調までちがう。舌なめずりをする舌がやけに赤い。
そうだ。ここにいる全員が肉食獣なのだ。明るく元気な子どもの姿を見ていると忘れそうになるが、どの子も、どの子も、一人残さず肉食性の獣たちなのだ。
「寄るな……」
「あ、そんなこと言うんだ。傷つくじゃん。そんなに左之助がいいんだ?」
プールでひときわ賑やかな歓声が起こった。
ほんの数歩先の別世界。
左之助が気づいた。怖い顔でこっちに来ようとしているのが見える。
「こーんな細い身体でさ。こーんな可愛いお口でさ。鬼畜で外道の左之りんなんかとさ。いっつもどんな風にしてんの? どんなことさせられてんの? ……ていうかもしかして実はヒムラちゃんがスゴかったりする?」
少年の指が剣心の唇を狙って触れようとする。
のほほんとした声が剣心と少年の間に割り込んできたのはそのときだった。
『あー、緋村さん。すみませんがちょっと診てもらえませんでしょうかな。なにかに刺されたようでして』
浦村園長だった。
『予防接種はしておるのですが、なにぶん虫というヤツはあなどれませんしな。感染症は御免こうむりたいところです』
「園長……」
剣心はほっと息をついた。
『おや。どうしたかね。君も怪我を?』
「え、いえ……」
『では行きたまえ。そろそろ掃除の時間だ』
「………はい」
プールに戻る少年の肩ごしに、じっとこちらを見ている左之助と目が合う。つかのま見つめ合って、逃げるように目を逸らした。
「えっと。どこですか、園長、刺されたところは?」
『ええ、ここの指のところの………おや? おかしいですな』
「?」
『ありませんな。はて。さては気のせいだったですか』
「………」
『これはこれは。どうもお騒がせいたしました。はは。失敬失敬』
「園長……」
『さ、掃除ですよ。緋村さんも手伝ってください』
「はい」
なにも訊かないやさしさが胸に沁みた。
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しろくて あったかくて ふわふわ<8> 2007/11/3