月の煌々と照る夜だった。
母屋から渡り廊下でつながる離れは、双道寺の敷地の北西の端に位置している。西側は適応塾のビル、南側には園の中庭。背丈ほどの竹垣が巡らされて、住居と保育園、つまりプライベートゾーンとパブリックゾーンの、とりあえずの隔てとなっていた。
本式の床の間と広縁のある数寄屋づくりの十畳間に、三畳の前室と、奥には簡易な水屋まであり、ほとんど一戸と呼ぶに足る、彼にとっては今なお御殿にも等しい寓居で、剣心は高い月を見ていた。物思いに耽っているようでもあり、ただぼんやりと目が向いているだけのようでもある。
置物のように動かなかったその姿勢が、ふと崩れた。
「ふう」
妙に律儀なため息をきちんと発音して、顔をめぐらす。
「はて」
蚊取り線香が尽きていた。
「ついさっき替えたと思ったが」
では随分と長い間こうしていたことになる。
よいしょと腰を上げ、新しい巻を取り出し、マッチを擦った。
――シュボッ……。
児童養護施設に入所して半年ほどは煙草の火さえ恐怖だったが、自活するようになれば怖いだの苦手だの悠長なことを言っている余地はない。まるで受け付けなかった火というものにも否応なく慣れて、卓上用の固形燃料くらいはうろたえずに対処できるようになっている。それがどうして今さらこんなマッチの火ごときでこんなに取り乱してしまったのか。
「…………!」
指のすぐ先で燃え上がった小さな火に、頭が真っ白になった。
――なんで闘わないんだ! おれに牙か爪があったら、あんな奴らなんか皆殺しにしてやるのに……!
子どもの泣き叫ぶ声が頭の中に弾ける。
つまんでいたマッチを発作的に放り出し、放り出した後になってから、縁の床板でまだ燃え続けている火をなんとかしなければならないことに気づいて、余計に慌てた。水を汲みに行くにも、手を放れた火から目を離すのはさらに怖い。できれば立ち消えてくれることを神頼みつつ、震える足で庭に降り、両手に土をすくうと、燃え尽きかけたマッチの上にその土をどさりとかぶせた。
はあ、はあ、はあ。……ふうぅー。
一気に熱をもった身体に、びっしょりかいた汗が冷たい。
広縁にのせた土をすぐに片付ける気にもなれず、障子を開け放したまま居間に座った。
かなり大丈夫になっていると思っていたのに。
それにあの子どもの声。あれは一体。
聞き覚えのあるような、ないような。知っているような、知らないような。
だめだ。わからない。思い出せない。
頭を振って、振り払う。
十年も経って、もう少しくらい忘れられてもよいものを。
それ以前のことはこんなにもきれいさっぱり忘れてしまったというのに、取り戻したい思い出はひとつも思い出せないのに、忘れたいことばかりを引きずっている。大事な記憶の代わりに疎ましい弱みだけを後生大事に抱えてきた。
忘れてきたものは他にもある。獣人としての自覚と変身能力だ。生きる力だ。
剣心は思いついて腕の大型絆創膏をはがしてみた。
あらかたふさがり、かさぶたになっている。とても昨日の今日とは思えない。
華奢な見かけに似合わず昔から身体はべらぼうに丈夫で、怪我の治りは人一倍早かった。児童養護施設にいた頃、職員に不思議がられたこともあった。運のいい体質だと思っていたが、運でもなんでもない。獣人特有の桁外れに高い回復力と自然治癒力のおかげだったのだ。
小さな桜色の爪がかさぶたをはがし、傷口に食い込む。
「い……つぅ……」
額に噴いた脂汗ほどに血は出なかったが、それでも開いた傷口からは新しい血がにじんだ。
ぺろりと舐める。
血の味だ。
だが、これが一般的な血の味なのか、人間も同じなのか、人間と獣人とではちがうのか、また獣人でも種によってちがうのか、判断するものさしが剣心にはなかった。他人の血を舐めたことはないからだ。そもそもあまり好きな匂いというわけではないということもある。
「くそっ」
苛立たしげに首を振った剣心は、突然乱暴に自分の腕に噛みついた。
一度治りかけ、今また開いた傷口に、歯を立て、にじむ血を吸い、さらに歯を立てる。血の味が広がる。口中どころか胸まで血の味でいっぱいになり、剣心はえずいた。
口を離すと、自分で苛んだ傷あとが火を擦り込まれたように酷く痛んだ。
「く……」
なにをしているのかと思う。こんなことをしたからといって、DNAが覚えているであろう種の記憶を取り込むことなどできる道理もないのに。
孤独だった。たまらなく孤独で、不安だった。人間の世界にあっては獣人というストレンジャーで、獣人の世界にあっては獣化を忘れたイレギュラーで、かつウサギ目でありながら食肉目と寝食を共にしているアウトサイダーで、さらには、自分の獣人生にあってもこれまで生きた半分以上を喪失してしまった不完全な自我。
早い段階で草食獣人の仲間の元に行っていれば少しはましだったのだろうか。だがそうは思えない。東谷夫婦。相楽塾長。浦村現園長。職員、子ども、保護者たち。稀有にすばらしい人ばかりだった。むしろ罪悪感を抱くほどの恵まれた環境だった。自分は彼らの信と好意にふさわしいようなものではないのに。
剣心は強く目をつむった。
さっきから眼前にちらついている顔がある。払っても払っても戻ってくる。目を閉じても消えない。剣心を拒否する燃える氷のような眼。まっ白な初冬毛のなかの三日月目。険しい顔。かたくなな背中。昼寝から目覚めて剣心がいなかったときのべそかき顔。皆が帰った後、ひとりで遊んでいた小さな背中。校外進出の日に、大丈夫だと労ってくれたまなざし。黙って横に座っていた男らしい横顔。曲がったことの許せない勁い気性を映して、睨みつける目で地面を見ていた。
思わず溜息がもれる。身体がからっぽになりそうに深い溜息が出た。
子が育つのを、なぜ素直に喜べないのか。左之助との乖離がどうしてこうも身を裂くのか。自分の醜さと不可解さにまた苛立つ。
じくじくと熱をもつ疼きを腕と胸に抱えて畳に身を横たえる。
開け放った障子が切り取る四角い風景の中に空は小さく、月も、星も、そこにはなかった。
ふと目覚めて、そのままうたた寝していたことに気づいた。
夜も更けたか、心地よかった涼風が今は少し肌寒い。
障子を閉てようと腰を浮かせかけて、剣心ははっとした。
なにかいる。
月の傾いた深更の薄闇に目を凝らす。
やがて、暗さに慣れた剣心の目が、虫の音の絶えた庭の片すみに灰褐色の獣の姿を見い出すまでに大して時間はかからなかった。
中型犬ほどの大きさの、外見も犬によく似た、しかし犬ではない、長い尾をもつ生き物。
ホッキョクギツネの夏の姿である。
「左之助? どうし……」
どうしたこんな時間に。と、最後までは言えなかった。掠れた声が咽喉に詰まった。
目が普通でない。
金色に光る眼の中で、いつもは黒い瞳孔が今は血のように赤く濡れて剣心に向かっている。軽く開いた口にのぞく大きな犬歯の間から、シューシューと粟立つ息を漏らしながら、のそりのそりと近づいてくる。
一瞬で総毛立った。
頭の中で鳴りっぱなしのシグナルでめまいがしそうだ。
これはなんだ。だれだ。本当に左之助か? 似ているだけで、本当は別のものではないのか? 左之助に似ているだけの、本当はどこかから紛れ込んだ野犬かなにかの、危険な生き物ではないのか?
思わずそう疑いたくなるほど、
身動きできない剣心に、それはゆっくりと近づいてくる。
すでに射程距離に入った。ひと飛びで、獣は剣心に爪が届く位置まで自分の身を運べるだろう。
さらに歩く。
一歩――。剣心がぺたりと座り込んだ。崩れた膝の少し前に獣の鼻面。
また一歩――。鉤に曲がった爪が食い込み、畳がめりっと鳴る。
さらに一歩――。下げた鼻面が眼前に迫り、熱い息が剣心の顔を舐める。見えない手に押されたように、剣心の上体が後ろに倒れた。
そしてまた一歩――。
仰向けに髪を散らした剣心は、今や完全に左之助に制圧されていた。
ハッ、ハッ、ハッ―――。
短い呼吸音が目の前の獣のものなのか自分のものかもわからない。濡れた鼻先が抵抗を封じられた身体の上を徘徊するのを目だけで追う。顔。のど。肩。胸。腋。肚。腰。脚。調べるように鼻を鳴らして順に下がっていき、また上がってくる。くまなく一巡して、最後に腕で止まった。
あの傷のところだ。
チリチリとうなじが騒いだ瞬間、赤い舌が剣心の腕を舐めるのが見えた。熱い。熱くて、冷たい。絡みつくような、刺すような。
「あ」
濡れた舌はまるで愛撫のように繰り返しくりかえし肌を這う。
目の前が白くかすんだ。天井が揺れて、そして遠ざかっていく。身体は甘く痺れて、力が入らない。執拗に舐めまわされる傷口から妖しい蜜でも注入されているのではないかと思う。腰に熱が溜まる。手足がずぶりと畳に沈む気がした。
「ふ……」
だめだ。もう無理――。
剣心がぐったりと目を閉じかけた時だった。
「バカかてめえは」
人間の左之助がいた。
知らぬ間に目を濡らしていたもので滲んだ視界に映る左之助の顔。ほっとした。怖い顔も血走ったきつい目もむき出しの犬歯もさっきとあまり差はないが、それでもほっとした。
左之助だ。よかった。やっぱり左之助だった。当たり前ではあるけれども。
「こんな媚薬みてえな血だらだら流してオレらの前ウロウロしてんな」
「……?」
「喰われもヤられもしてねえのが奇跡だと思え」
よくわからない。左之助はなにを言っているのだ? 血? これか?
首をねじって腕を見る。かきむしり、噛みつき、爪と歯で
こびりついていた血がきれいに舐め取られていた。
「左……」
「おまえ、草食だな」
剣心はぎくりと息を呑んだ。
途端に怖さが戻ってきた。獣態が人間に変わりはしただけで、状況はなにも変わっていない。人形のように転がされたまま、手足はふにゃふにゃで動かせもせず、四つ這いの左之助の腹の下に囚われている。見れば左之助は上半身こそヒトだが下半身は獣のままだった。敏捷な狐の後脚の向こうには大きな尻尾がふっさりと垂れている。
「草食の……“何”だ? 生類園ってのは小型だろ」
「左之……」
ばれた。知られた。左之助に。臓腑が絞られるようにきりきりと縮んだ。
「ネズミか。リスか。ハムスター? モルモット?」
どんな小さな何かも見逃さないというような目で剣心の表情をうかがい、反応を見ながら名を挙げていく。
「マウス。シマリス。ビーバー。……いや、そうだ。サル。モモンガ……」
ふと黙り込んだ左之助は、考えるように、思い出すように、眉をひそめている。「まさかな」と、唇が動いた。
全
否定を前提に訊ねる時、人はそういう口調になる。そんな声音であり、表情であった。
だからその単語に剣心がぴくんと震えたのを見て、左之助も動揺した。
「……ウサギ? ほんとに……?」
わずかな隙を剣心は見逃さなかった。自分を縛る見えない枷が少しでも緩んだと見た途端、身体の小ささを生かして囲いをすり抜け、左之助の檻から逃れ出る。左之助が手を伸ばすのがあと一瞬でも遅かったら、あるいは左之助の腕がもう少し短く、指がそうまで敏捷でも器用でなかったら、そのまま逃げおおせることもできたかもしれない。だが生憎左之助(の上体)は精悍な肉体をもつ青年のそれで、彼に流れる血は敏捷で容赦ない捕食者の血だった。
「わっ……!」
足首を掴まれて剣心がもんどりうつ。今度は伏せた状態で首根っこを抑えられた。
足と首を取られては動けない。むなしい抵抗は狩人の攻撃本能を刺激するばかりで、そのまま腰に馬乗りになられて、動きは完全に封じられた。
「剣心」
どきっとした。
名を呼ばれなくなってどれだけ経つのだろう。二年? 三年? あの頃はまだ声変わり前の愛らしい子どもの声だった。十五で卒園して適応塾にあがる頃には、もう左之助は剣心を離れていて、そんな風に名前を呼ぶことはなかった。
耳の後ろに熱い息がかかる。少し弾んだ、荒い息。それにつれて、剣心の上で左之助の身体が上下している。
「剣心」
腰に響く低い声だった。
知らない。こんな左之助は知らない。こんな風に呼ばれたことはない。こんな声で呼ばれたことはない。もみじのような手で剣心にまとわりついていた。首を傾げるように剣心を仰いでいた。鈴の鳴るような可愛らしい声だった。こんな左之助は知らない。
豊かな声の振動が背骨を駆け降りて、身体がぶるっと震えた。
「剣心。辛いだろうが耐えろ。最初だけだ。一回経験すれば次からは大丈夫だから」
「左……之……。なに…を……」
「大丈夫だ。俺がいる。恐れるな」
そう言って、左之助の手が剣心の腰に触れた。指の先でなにかを捜すように背骨を辿り、徐々に下がって目的の場所を探り当てる。
こり……。
小さな尾骨の突起だ。左之助はそこに指を置き、ゆっくりと動かしはじめた。
「あ」
「おまえが何であっても、おれは決しておまえを害さない。おれがおまえを守る。絶対に」
上下。左右。次は小さく円を描き、次第にこりこりと捏ねまわすように力を加えていく。
「あっ、あっ、あっ」
「すぐ済む。こらえろ」
「い……や……」
ぴくぴくと痙攣する細い身体を全身を使って抑えつけ、休まず手を動かし続ける。
剣心のなかで熱いものが暴走しはじめた。さっき傷を舐められたときなど比較にもならない。駆けめぐる熱い奔流が出口を求めて一点に集まる。退化した尾骨の先端。なにもないはずのその先に、なにかがあるとでもいうように。
「やめろ。いやだ。い……!」
怖い。自分の身体が自分のものでなくなる。なにか得体の知れないものが蠢いてる気がして仕方がない。
「怖いな。怖いよな。可哀想に。大丈夫、最初だけだから」
なにを言っているのだと思う。言ってることもやってることもめちゃめちゃだ。
信じられない。どうしてこんなことになっているのだろう。
「……左之! やめろ、いやだ、やめてくれ。頼むから……!」
目で征服されるときなどとは比べものにならない強烈な感覚が剣心を溶かしていく。
「周りがみんなおまえの敵になっても、おれは絶対におまえに味方する」
なにを言っているのかわからない。
なんの話をしているのだ、左之助は。
「見捨てない。裏切らない。いいか剣心。おれがおまえを守る。なにがあっても。なんであっても」
馬鹿な。
言ってる意味がわからない。
だってそれではまるで。
「は、あっ、ん……う……」
「剣心。おれは最後までおまえに味方する。死ぬまで。……いや、死んでもだ。だから、おまえは、自分を恐れるな」
馬鹿な。どうして。
わからない。わからない。なにがどうなっているのかわからない。
だってこれではまるで。
「克て。おれがついてる。いつも。いつでも」
まるで――。
まるで、愛の告白だ。
「剣心」
「あっ、ん、はっ……あっ、あっ、あんっ、あああっ」
耳から入ってくる声と鼻腔に満ちる左之助の匂いに意識を翻弄され、言葉の意味に思考をかき乱され、容赦なく尾骨をまさぐる指に身体を煽られ、なにがなんだかわからない。まるで快楽に溺れてでもいるような乱れた声で泣いているのも、抑えつけられた不自由な身体を淫らに震わせているのも、白いスパークの向こうの出来事で、剣心にはなにもできない。
絹糸のような悲鳴は潤んだすすり泣きに変わっていた。
強く拳を握っていた手は力なく畳をかき、ときどき薄く開く眼は溶けたサファイアのように濡れそぼって涙を滲ませている。
「剣心」
耳に注ぎ込まれる声は低くやさしいが、息の熱さが剣心を震わせる。
「力を抜け。力を抜いて、深呼吸しろ。大丈夫だ。怖くない」
なにを言っているのだと思う。
こんな目にあわせているのはだれなのだ。こんな――。
「か……はっ」
「吐いて――」
思わず言われた通りに息を吐く。
「吸って――」
今度は吸う。
毅然とした語調で指示されると、意思云々にかかわらずつい言われるままに従ってしまう。
「吐いて――」
言うことをきく必要などないような気もする。無理に逆らうほどのことではない気もする。なんだかもうどっちでもいい気もする。
「吸って――」
たしかにそうすべきだと本能が察したのかもしれない。優位の者に恭順する動物的反応だったかもしれない。思うままにされるうちに抵抗の無意味さを知ったからかもしれない。単に弱りきっていただけかもしれない。
「吐いて――」
三度目の「吐いて」は長かった。
剣心が胸の息を全部吐ききってもまだ「え―――」が続いていた。
吐いて吐いて吐いて、目の前が真っ白になり、待てずに吸った。
――はっ、はっ、はっ……、はぁー……。
水から上がったばかりのように、空気を求める早い息。
次第に間隔が長くなり、それにつれて、上下する肩の動きも静かになっていく。
――ふうぅ。
そのとき、ほわん……と、しっぽが出た。
吐いた息の続きのように自然に。ポケットからハンカチがこぼれ落ちるよりもさりげなく。
あまりに自然で、剣心は自分の身体に起こった変化に気づかなかった。背中の上で左之助が息を呑んでいるのにも気づかなかった。
ようやく気づいたのは、頭の上の方がむずむずして、次に急に重くなってからだった。
頭になにかがついている。
なにか長いもの。
目を上げると、それが視界に入った。
耳だ。
長い葉っぱのようなかたちの。
耳だ。うさぎの耳だ。
そう思った途端、目の前が真っ赤になった。
「だめだ……!」
剣心の身体が憑かれたように暴れだした。
「だめだ……いけない……戻らないと。うさぎになっちゃだめだ。いやだいやだいやだ……死にたくない……!」
「ちょ、おい。待てって……」
その激しさに左之助も怯んだ。暴れる力の大きさも暴れようも、さっきまでとは次元がちがう。全身を使って抱きしめ、なんとか落ち着かせようとするが、さしもの左之助でも御しかねる激しさで暴れている。
「だめだ。早く……早く人間に戻らなきゃ……」
「落ち着け。大丈夫だから落ち着け!」
だが左之助の声も耳に入ってはいないだろう。半狂乱になってめちゃめちゃに振り回そうともがく手が左之助の顎を打ち、爪が肌を掻く。目つきもおかしい。正気には見えない。その目が、ふとなにかを探すように空をさまよった。まるで空耳が聞こえたとでもいうように。
「……うさぎじゃ助からない……人間じゃないと……。動物は……」
「剣心……?」
呼ばれた名前にか、剣心の身体がぴくりと反応した。
放心したように動きを止め、うわごとのように呟く。
「なんで……どうして……あんな奴ら皆殺しにしてやるのに……!」
切羽詰まった目は左之助を通り越して左之助のずっとうしろをみている。ずっとうしろ。あるいはずっと過去を。
「剣心。落ち着け。大丈夫。大丈夫。大丈夫だから」
ぷるぷると震えだした小さな背中を懸命にさすりながら祈るように話しかける。
「大丈夫だ。死んだりしない。おれは絶対おまえを害さない。だれもおまえを傷つけない。ここは安全だ。おれが守る。約束する。剣心」
名前を呼ばれる度にぴくりと反応するところをみると、聞こえてはいるのだ。左之助はさらに力をこめて語りかける。
「大丈夫だ。死んだりしない。死ぬわけない。おれたちは食肉だけど、みんな本当におまえが好きだ。牙も、爪も、絶対に向けない。本当だ。信じてくれ」
「……助けて……だれか……」
総三の言葉が左之助の頭をよぎる。
「剣心……ごめん……こんなことになるなんて……おれ、ごめん……」
ふっと剣心の身体から力が抜けた。
「……さの……?」
「剣心!」
だがその顔はまだ夢の中にいるようで、左之助のあたりに向けられた目は茫洋として定まらない。
「……また泣いてるのか?」
そう言って、剣心はくすっと笑った。
「あーあー、もう。泣き虫さんだな、左之は。みんなの前ではガキ大将のくせに」
夢から舞い降りた天使のように笑っている。
「剣心……?」
その笑顔が突然くしゃくしゃに歪んだ。大きな滴がぽろぽろと頬を伝う。
「園長……すみません、園長……おれ……おれ、逃げるしかできなくて……園……」
またふっつりと遠い目。
「どうして……どうして闘わなかったんだ。あなたは……のに……牙と爪が……どうしてむざむざと……」
剣心はくるくると表情を変えながらぶつぶつと呟きはじめた。
「うわ……ちっちゃ……猿みたい……ああ、いい名前だ…………元気に、幸せに………は? ジュウジンアコウ?」
まるででたらめな台本をでたらめにめくってセリフの稽古でもしているように脈絡がない。
「……キツネ?……ハハ………履歴書くらい………。……だってでもなりたいんだ………自分で貯める……お金なんか……あなたたちになにかしてくれなんて思ってない………もういいから放っておいてくれ!!」
長い沈黙があった。
「剣心……?」
「あつ……熱い……息が……いやだ……助けて……助けて!だれか!」
ようやくわかってきた。
遡っているのだ。記憶を。十年分の記憶を。そしてもしかしたら、さらにその以前へ。剣心をかき抱く左之助の腕にひときわ力がこもった。
「剣心。剣心。剣心。大丈夫、大丈夫だ。もう火は全部消えたから。大丈夫だから」
「殺してやる……あんな奴ら……皆殺しにしてやる……! ……でおれたちばっかり……なんでこんな……こんな弱いウサギなんか……」
「剣心!」
「……熱い……熱い……だれか……!」
「剣心。大丈夫だ。な。もう火なんかどこにもない。熱くない。怖くない。大丈夫だ、剣心。ここは安全だ。大丈夫。な」
………。
「………大丈夫?」
夢のなかで剣心が呟く。
「そう、そうだ。大丈夫だ。なにも心配しなくなくていい。もう終わった。終わったんだ。大丈夫。ここならおまえは安全だ。だれもおまえを傷つけないし、なにかあったらおれが守る。必ず……」
「ここは……安全……?」
「安全だ。絶対に安全だ」
「あいつらは……?」
「だれもいない。もうだれもいない。おれとおまえだけだ。大丈夫。だれもおまえを傷つけたりしない。おれがさせない」
「………ほんとに? 大丈夫?」
「絶対だ。百パーセント安全だ。おれが保障する。誓う」
涙まみれの顔で必死にうなずき、言葉に命をこめて左之助は言う。なにかを見ているようで、なにも見ていないような剣心の目が、その左之助を通り越していく。
「絶対……絶対だ。…………おれ、おれが守、守るって……」
左之助の目から次々と涙がこぼれた。
「だってもう時間がねえと思ったんだ……だからおれ……クソッ。こんな……こんなことになるなんておれ……。すまない。剣心、すまない……おれどうしたらいい。剣心……」
人形のようになった身体をすがるように抱きしめて、左之助は丸めた肩を震わせる。
「剣心! 剣心。剣心。だれか……たのむ、だれか……。剣心。剣心。剣心。剣心、剣心……!」
もうそれ以外に言葉がない。
すすり泣きながら剣心の名を呼ぶ左之助の声だけが静かになった室内に低く響く。
そうしてどれほど経った頃だろう。
剣心の胸がひくっと痙攣した。
「剣心……!」
畳に落ちていた指がかすかに持ち上がって、左之助に触れようとする。
「………ど…した? そんなに泣いて。また怖い夢でも見たのか? かわいそうに……」
「剣心……?」
さっきとよく似たやわらかな微笑み。だがさっきとは目がちがう。
地に足のついた理知の目が、左之助の顔上にしっかりと焦点を結んでいた。
「剣心……」
「よしよし。そうだな。じゃあ特別にいいものを見せてやろうか。な」
「剣……」
「ほら、ごらん、左之。ずっと見たがってただろう――?」
「け……」
絶句した左之助の目の前で、剣心はうさぎに姿を変えた。魔法をかけられたように鮮やかに。あるいは魔法がとけたようにはかなく。
「………」
左之助は声もない。
ぽっかりと口を開けて、畳の上に現れた丸々とした白くてふわふわの生き物に目を奪われた。降参する兵士のように広げた諸手を降ろしもできず、もちろん触れられるわけもなく、といって目を逸らすこともできず、ただただ凝視するよりほかにどうしようもなかった。
雪よりも雲よりも白い。みっしりと生え揃った長短の毛は初雪の朝の野原のようにきらきらと輝いて波打っている。真っ黒の濡れた瞳。先端まで毛に覆われた白い鼻。ころんとした丸い身体が思いがけず大きいのに対して、葉っぱのかたちのふたつの耳は意外に小さく、尖った先だけが黒く、そして耳の穴に近い奥の方は繊細そうな皮膚に細い血管が葉脈のようにこまかく透けている。細く小さな手。大きな後足。積雪の上で体重を支え、ひと跳びで大きくジャンプするのにふさわしい、
まぎれもない。
ホッキョクノウサギが、そこにいた。
│前頁│次頁│
しろくて あったかくて ふわふわ<5> 2007/10/14