しろくて あったかくて ふわふわ
1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 13 14 15 16 (完) 15&16=2/8up



<4>

 肉食青年獣が通う双道寺(そうどうじ)適応塾で、このところ生徒の関心を集めている話題があった。
 みんなのアイドル、保育園の緋村医師は一体ナニ・・か?
 ということである。
 獣人保育園で働いている以上、とりあえず「なにか」だ。獣人だ。それは常識だ。
 だが「ナニなのか」がわからない。
なんとなくだが、それらしい匂いもする。だが、ではナニか? わからない。わからないとよけい気になるのが獣人情というものだ。
「しかしカワイイよなー、ヒムラちゃん」
「首、ほっせー。なんであんなに華奢なんだ? あれ男? マジで?」
「あー、そういやオレこないだポニーテールにしてるとこ目撃してさ。うなじがさ〜もうさ〜なんつうかさ〜」
 じゅるっ。
「僕は肉球ぷにぷにしてみたいな。どんな肉球してんだろ」
「っていうか、あんな可愛くて大丈夫なのか? 生きてけるのか? オレがいなかったらどうなるんだ?」
「君、それは病気」
 ぎゃはは、こいつやべー。うひゃひゃひゃひゃ。
「ヒムラちゃんてなーんかいい匂いがすんだよなあ。なんなんだろアレ香水とかシャンプーとかってんでもなさそうだしなー」
「それそれ。それオレも思ってた。そばにいるとなんかこう妙〜な感じになるんだよなあ」
「みょ、妙な感じって……たとえば?」
「いやそれはちょっと」
「いいじゃねえか別にオレたちしかいねえんだし」
「そうだそうだこの際だ」
「なんだよ。妙って言ったら妙だ。そんなもの、言わなくてもわかるだろ」
「………」
「………」
 ごっくん。じゅるっ。
 さすが十六歳から十八歳という育ち盛り食べ盛りの肉食獣がひしめきあう男子校である。考えることは皆大差ないらしい。
「なあ? まさかとは思うんだけどさ。もしかしてだけどさ……」
「………」
「………」
「………」
「待ってんだから続けろよ!」
「いや。やめとく。やっぱこれは言っちゃマズイわ」
「なんだよ言えよ。自分で言い出したんじゃねえか」
「えー。うーん、でもなあ……」
「男らしくない」
「あ、それブー。ヒムラちゃんが聞いたら説教されっぞ」
「だからいいから。まさかもしかしてなにって?」
「っていうかだってなんぼなんでもウチみたいなとこにそんなモンいるはずないし……」
「だからそんなモノって?!」
「いや、つうかだれかマジでちょっとでも知らねえ? ヒムラちゃんがナニか」
 全員が互いの顔を見回しながら首を横に振った。
 とりあえず「なにか」ではある。
 しかし「ヒムラちゃん」は不思議なほど彼らの知るどの仲間にも似ていなかった。
「コホン……。ちょっといいかな、みんな」
「委員長」
「君たちは人の話を聞いているのか? だから彼はフェネックだと僕が前々から言っているではないか」
 委員長のヒムラちゃん=フェネック説は一時ほど支持されなくなっている。
「その証拠にあの人の耳を見たまえ」
 始まった、という顔を、何人かがした。
「あの美しい耳。完璧な造形。完璧な大きさ。完璧な色。それにあの皮膚の薄さ。薄絹のような皮膚の下に青い血管が透けているのを知っているか? あの繊細な耳。がさつな仔どもに噛まれた後、しばらくほんのりと赤らんでいるのを見たことがあるか!?」
 どうやら「委員長」はひとり別世界にいる人らしい。陶然と腕を広げ、空を仰ぐ。
「僕にはわかるんだ。僕には見える。あの人はフェネックだ。イヌ科最小の可憐なる生き物。誇り高く繊細なフェネックこそあの人の正体だ。そうでなければ、どうしてこんな野獣の巣窟にあんな美しい人が?」
「えええ? そうかあ? おれはホッキョクギツネかなんかだと思うけどな。だってあの肌の白さ。雪のようってなあのことだろ」
「でもホッキョクギツネっていったら左之助とかだぞ? あれと一緒か? あんなん、地黒だし、凶暴だし、鬼畜だし、外道だし」
「けど前の園長夫人だってホッキョクギツネじゃないか。あの人はまさに淑女だったぞ」
「そうだけどよーう」
「タイプ的にはネコ系じゃねえ? なんとなくだけど。姫様女王様系。たとえば……なんだろ、わかんねえけど」
「うーん……?」
 みんなハズレだった。
 実はウサギである。しかもよりによってあのホッキョクノウサギである。
 だがハズレなのももっともだった。
 普通、肉食獣のオスどもがひしめきあうこんなところで働く職員は、それなりに力のある生き物のはずだ。少なくとも食肉目か、仮にそうでなくともアメリカバイソンやビッグホーンやシシオザルやオランウータンといった、獰猛で力の強い。あるいは賢い。それがまさか可憐なホッキョクノウサギが一匹まぎれているとは想像できようはずがない。それではまるでオオカミの群れに放り込まれた生贄の羊。その身は風前の灯火なのだから。
「なあ、おまえはどう思う?」
 一人が、通りかかった左之助を呼び止めた。
「んあ?」
「ヒムラちゃんの正体だよ。あの人なんなんだろって話」
「おまえ、ほんとは知ってんじゃねえの? 一緒に棲んでたんだろ?」
「知るかよ。つうかどーでもいいだろヒトのことなんかほっとけよ」
「あ、かばってるかばってる。かばってるだろソレ」
「ってことはおまえなにか知ってんだ!」
「もしかしてテメエぬけがけしてんじゃねえだろうな」
「は? なにそれ。馬っ鹿じゃん?」
 おまえらヒマ? と、つまらなさそうに吐き捨て、左之助は学友達に背を向けた。
「なんだよあれ。感じ悪っ」


「あーあ。くっそ、ムシャクシャすんなあ、もう」
 左之助はひとり屋上に寝ころんで、高い空をのびのびと走る雲を見ていた。
 まったくおもしろくないことばかりだ。
 塾生どもはバカバカしいし、園児はさわがしいし、教師はこうるさい。
 中でもおもしろくないのは剣心だ。
「おれがナニしたっつの」
 いつからだろう。剣心が左之助を避けるようになったのは。昔はこんな風ではなかったはずだ。いつも一緒にいて、剣心は幸せそうに笑っていた。左之助も親はいなくても幸せだった。剣心が左之助の世界のすべてだった。
「左之」
 呼ぶ声はやわらかいけれど凛として美しく、左之助に振り向けられる笑顔は澄み渡る空のようにいきいきと誇らしげだった。それが今は。
「左之助」
 大きな目に、なんともいえない哀しい色を、いつか見た涙のように溜めて、左之助を見上げる剣心。細い声。いつまで経ってもぎごちない「左之助」のイントネーション。
 その不自然さが左之助をムラムラさせる。
 目が合うたびにびくっと肩をすくませ、草原で天敵に出くわしたノウサギのようにピリピリした表情で左之助をにらみ返してくる。まるで気を抜くと()って食われるとでも言わんかのように警戒する。そういう反応がいちいちムラムラを助長するのだが、とはいえそんな風に剣心をびびらせているのは自分で、要するにただの悪循環だ。ますますムラムラする。
「おれがナニしたっつの」
 こうおもしろくないと、空が青いことや雲が白いことさえ気に障る。
「いっそホントに獲って食ったろかい」
 やけっぱちで自嘲の呟きを漏らし、耳から頭に戻ってきた言葉の意味にドキリとした。
 獲って食う? なにを?
「………」
 ゴクッ。
「いやいやいや。いやいやいや……」
 このあいだは途中まで悪くなかったのに剣心がろくでもない両親の話などを持ち出すから結局あんなことになってしまって一瞬我を忘れかけたが。
「………」
 今にも息絶えそうだった。左之助の腕の中で細い肩をさらに細くこわばらせて震えていた。
 不安そうに寄せられた眉。きゅっとつむった目。白く結ばれた唇。可愛らしい小さな鼻がぴくぴくしていた。怖いほど華奢で、はっとするほど熱くて、たまらなくいい匂いがしていた。
―――ゴックン。
「い、いやいやいや!」
 そんなことより、とにかく剣心を本来の姿に戻すことを考えなければ。
 塾長の話では“荒療治”なら不可能ではないという。リスクが大きいと言い渋っていたが、この際だ。背に腹は替えられまい。
 今度なんとか聞きだそう。
「ほっ!」
 両手を逆手について、ブリッジをする。
 ぐうんと天地が入れ替わって、少し元気になった。


 その頃、問題の「ヒムラちゃん」は放課後の中庭で至福のひとときを満喫していた。
『あ、わかった! おひさまだ! 先生、おひさま? 当たり? 当たり?』
「おろ。もう解かれてしまったか。当たりでござるよ」
『わーい!』
『えー、なになに? ぼく問題聞いてなかったー』
 いつものなぞなぞタイムだが、今日の園児たちはみんな動物の姿をしている。
 人間でも動物でもある獣人だから、獣になったり人間になったりと外見は流動的だ。とくに成長期の幼獣人たちは日に何回も変態をくり返して大きくなる。
 残暑の厳しい年だったが、この日は久しぶりの夕立のおかげで、しっとりと涼やかな風が心地好く吹いていた。ひとりのリカオンの仔が獣変して駆け出したのを見て、皆が次々と動物に変身し、跳ね回ったり転がったり寝そべったりと、思い思いに遊び始めた。
 剣心には至福の時間である。
 そもそも獣医師を志したくらいだから大の動物好きで、さらに子ども好きのおまけまでついた剣心だ。最初に就職した町中の動物病院を一か月で辞めたのは、動物を人間の付属物としかみなさず、相手が喋れないのをいいことに、患った動物自身のためよりも飼い主に都合の良い処置をして平然と「治療」と称する傲慢さにうそ寒い嫌悪を抱いたからだし、ここが「獣人保育園」というおとぎ話のような事実を知ったときにも、その荒唐無稽さに驚く以上に、動物たちと言語で意思疎通が図れるという、およそ心をもって動物に接する世のすべての人間の叶うべからざる永遠の夢がここでは現実のものとなることを、上下衛門と菜々芽がうろたえるほどに深く有り難がった。
 元気な幼獣たちとなぞなぞ遊びをしながら午後のひとときを過ごせるなど、こうして実際になっていなければ、きっと一生夢に想像することさえできなかっただろう。こんなに幸せでいいのかと思う。
「おろ〜。参ったでござる〜」
 子どもと和むときの口癖である「おろ」と「ござる」を連発しながら、仔ヒグマのソファーにダイブし、ブチハイエナの仔と追いかけっこをし、アカギツネの兄弟に腕懸垂をさせ、アライグマの赤ちゃんを頭にのせて、目尻は下がりっぱなしだった。
「では次のなぞなぞは……。そうでござるなあ」
 さっきの出題は、「ドアもあけないで、へやにはいってくるものは?」だった。次はなににしよう?
「おお、そうだ、これがいい。これにしよう。――あしがないのにすすみ、てがないのにうち、ゆびがないのにしめすもの。なーんだ?」
『えー、なになに? わかんない』
『先生、ヒントヒント』
「おろ。ヒントでござるか。んー。先生の大好きなものにござる」
 アイス? おひるね。水遊び。にんじん。なぞなぞ。日曜日。ブルーベリー!
 知るかぎりの「先生の好きなもの」を、思いつくままに挙げはじめた。
「これこれ。みんな元のなぞなぞを忘れているだろう」
 その無邪気さも愛おしく、剣心が破顔する。
『あ、そうか! わかった!』
 ひとりが剣心に耳打ちした。剣心の顔にふわりと花が咲いて、白いしなやかな手が仔オコジョの顎を撫でる。
「あたり。よくわかったな」
『だって先生アレ大好きだもん』
 なになに? アレってなに?
 誇らしげに胸を張り、『見せてやる』と走り出したオコジョの仔を皆が追う。その後について剣心も講堂に足を踏み入れた。
 ボ――ン……。
 ちょうど三時だった。
『そっか! 時計か!』
『あしがないのにすすみ、てがないのにうち、ゆびがないのに……あー、ほんとだー』
『ねえねえ、先生はさー、なんで時計が好きなの?』
「時計というかな。この時計が好きなのでござる。この音が。ボーンという」
 ボ――ン……。
 低く穏やかに広がる音の波動。微笑んで聴き入る剣心の周りで、仔らも神妙に耳を傾けている。
 ボ――ン……。
 余韻がゆっくりと去り、消える。しいんとした静けさがしばらく残り、やがてそれも消える。
 剣心と仔らが講堂を出て中庭に戻ってくると、適応塾の塾生たちが遊びに来ていた。
 さっき塾で剣心談義を繰り広げていた悩める青少年たちだが、今は全員が動物の姿をしている。
『お兄ちゃんたちだー』
 わー。わー。わー。
 大きいのも小さいのも大興奮ではしゃぎだした。成長の早い獣人のことで、十六、十七の塾生たちもほん一、二年前まで園児だったわけだし、なかには保育園に弟がいる者も幾人かいたから、ジェネレーションギャップはない。ないが、半分流れる動物の血は彼らに力の上下関係がくつがえることを許さない。それぞれが二者間の厳然とした力関係を示しつつ、やりこめたり、やりこめられたりして、集団の中で自分のポジションを確立していくのだ。
 幸せな楽しさのなか、ときどき一抹の寂しさが剣心をよぎる。
 一緒に遊んではいても、自分は二重に異質な存在だ。まずウサギである。肉食性の彼らとは相容れない、小型草食獣である。しかも同じ獣人でありながら変身することができない。四つの脚としなやかな身体を使いこなし俊敏に駆け回る彼らの間で、ひとり人間の姿をして、どんくさく二本足でわたわたしている。
 はみ出している。自然の摂理であるこの動物たちの力関係の序列のなかに、自分は組み込まれていない。しかも、もし同じ動物の一として参入するとしても、それはそれでアウトサイダーになる。
 このままこうしてここにいていいのだろうか。
 上下衛門も菜々芽も相楽塾長も浦村現園長も、剣心がホッキョクノウサギであることは、慎重に扱うべき問題ではあるが、大きな障害ではないと言ってくれたし、今も言ってくれているが。
 こんなに恵まれた環境に安んじていいものだろうか。
 所思に気を取られて、少しぼんやりしていたようだ。
 興奮したチーターの赤ん坊が飛びついて来るのに気づかなかった剣心の腕を、勢いよくジャンプした仔の鋭い爪が引っかいた。
「痛っ」
 突然腕に焼けつく痛みが走った剣心も驚いたが、当然受け止めてもらえると思っていた仔チーターの方はもっとびっくりした。まして自分の爪が大好きな剣心に怪我をさせてしまったのだから尚更だ。
『先生!』
『先生。先生大丈夫?』
 年長の塾生はさすがに対応が早かった。びっくりしてきょとんとしている当の仔チーターと剣心との間に数人がさっと割って入り、幼児をみる者、剣心をみる者の分担ができる。一頭の若いユキヒョウが鮮血の流れる剣心の腕をそうっと舐めた。流血が多い割に傷は小さかったようで、血がぬぐわれると赤い傷口はさほど目立たなくなった。
『先生大丈夫?』
「大丈夫。たいしたことはない」
 心配する皆を安心させるように剣心は笑ってみせたが、おさらまらなかったのは当の仔チーターだ。
『先生、先生ごめん、先生痛い? 先生……』
 塾生のお兄ちゃん達がなだめても聞かず、剣心が寄ろうとするとまた傷つけることを恐れて後退る。
『うわーーん!』
「おろ〜。大丈夫でござるよ〜」
『うわーーん!』
 見ている方が悲しくなるほどの泣きようである。剣心がかまうとかえって逆効果だろうということで、結局、塾生たちが面倒を引き受けた。


 やっぱり左之助が正しいのだろうか。
 弱さは非力だと、弱さは無力だと、左之助は言った。
 すっぱりと切れた傷口をオキシドールで消毒しながら、剣心は数日前のことを思い出していた。
 なんとなく沈んだムードのまま皆を帰して、保健室に引き上げた。改めて見ても、それほど騒ぐ必要のある傷ではない。かすり傷とは言いがたいにしても、だが、普通に生活していても、なにかでひっかけたり包丁を使い損なったりすれば、これよりひどい怪我だってなくはない。
 あの仔は夢中になって遊んでいただけだ。なにも悪くない。害意も悪意もない、遊び盛りの幼児だ。悪かったのはぼんやりしていた自分の方である。ぼんやりして怪我をしたせいで、無邪気な子どもに要らぬ罪悪感を持たせてしまった。自らの鋭い爪を、彼が憎まなければよいのだが。
 いいや、ちがう。やはり左之助はまちがっている。
 弱さは非力ではない。無力ではない。
 そうではない。弱いことは罪悪だ。弱い自分が他者を加害者にし、悪にもする。彼らのような爪も牙もなく、獣人でありながら変身することさえできない。
 消毒薬がシュワシュワと白く泡立ち、チリチリと引きつるような痛みが走る。
「くそっ」
 歯がゆさに傷を爪で掻きむしると、息を呑むほどの鋭い痛みが腕を灼いた。


「――い、おい、大丈夫か?」
 級友にのぞきこまれて、彼はハッと我に返った。
 先刻、剣心の怪我を舐めたユキヒョウの少年である。
「あ、ああ。いやなに。いや、オレは別に、とくにどこも」
「でもおまえ、目、血走ってっぞ?」
「えっ」
 じゅるっ――。
「………」
「………」
 すでに人の子に戻っているが、さっきから落ち着きがなく、目が泳いでいた。今も、友人の目を逃れるように顔をそむけたと思ったら発作的な舌なめずりである。
 どう見ても尋常ではない。
 だがその変調に、友人たち以上に実は本人がいちばん戸惑っていた。
 原因はわかっている。剣心の血だ。おかしくなったのはあれを舐めてからだ。
 剣心の血は甘かった。うっとりする甘さだった。目の前が真っ赤にかすんだ。
 もっと欲しい。もっと欲しい。もっと飲ませろ。
 白い肌を引き裂いて、新鮮な血のしたたる肉をすすって骨までしゃぶりたい。
 凶暴な衝動はほとんど生理的で、自分でも怖くなるほど強かった。
――なんなんだよこれ。どうしちゃったんだオレ。
 じゅるっ――。
 思うそばからつばがわき、歯と舌が勝手に動いてしまう。
「ちょ、ちょいゴメン」
――オレ怖ええー。
 級友たちは、トイレに駆け込む少年の背中を見送り、顔を見合わせる。
 保育園の敷地を見下ろす適応塾の屋上では、狐の姿の左之助が、何事かを考え込むように、誰もいなくなった中庭を見ていた。


「塾長。ちょっといいすか」
「どうした、左之助。むずかしい顔をして」
「頼みがあるんです。きいてもらえますか」
「きくかきかぬかは聞いてみなければわからぬ。なんだ? 言ってみろ」
「こないだ言ってた“荒療治”の方法……それを、教えてください」
 女性的な顔立ちのために若く見られがちだが、相楽総三はこの年三十九。適応塾塾長として若者の教育に携わる傍ら、在野の研究者として獣人生態学のフィールドワークと研究に勤しみ、専門誌に数々の論文を発表するなど、精力的に活動しており、その道では名の知れた識者である。
「知ってどうする」
「わかりません」
「ならば理由は?」
「理由?」
「知りたい理由だ」
「………」
 東谷前園長夫婦の悲劇が起こった後、総三と妻の照は、人間でいえば五歳相当だった左之助を戸籍上も養子として引き取った。
 もの静かで知的な容貌の下に熱い理想と潔癖の正義感の滾るこの若い義父を、左之助はひととして尊敬していた。
 このひとに、うそはつかない。
 黙りこんでじっと見つめてくる左之助の視線を、総三も逸らさず受け止める。
「緋村くんか」
 訊ねるのではなく念を押す語調である。
「………」
「左之助」
 基本的には温和な人物だが、この人の曲がったことへの厳しさは剣心に勝るとも劣らない。
「左之助。おまえは若い。それに強い。とても強い。精神がだ。それは、すばらしい資質だ。誇るべき、伸ばすべき資質だと思う。だが左之助。皆がおまえのように強くはない。世の中にはさまざまな人がいる。強さも、やさしさも、正しさも……愛も。かたちはさまざまだ」
 そこまで言うと総三は一旦言葉を切り、深い息をついて語調を和らげた。
「相手のためを思ってする行為が、必ずしもよい結果を導くとはかぎらない。それは悲しいことだが」
「所詮おれの自己満足だと?」
「そうは言っていない。だが強引なやり方ではかえって相手を」
「塾長」
 ねじ込むように言葉をかぶせて、にらむ目で総三を見た。
「生類園ってのは、どういうとこだったんですか」
「……どこでその名を?」
「園長他死者五名。園児職員九名が重軽傷。出火原因不明。焼け跡からペットと思われる動物の死骸が多数発見された――」
「………」
「一般の新聞じゃ何人死んだかも分からねえ。“ペットと思われる動物の死骸が多数”だとよ」
「左之助……」
「けど想像できることはある。“ペットと思われる動物の死骸” ――つまり、普通にいててもおかしくない種類の動物だったってことだ。大型や猛獣ならそれだけで目を引く。ちがいますか」
「………」
 総三がなにを考えているのか、静かに止まった表情からはうかがえない。
「塾長」
 ぼそっと呟いた重い声が床に落ちる。
「ずっと獣変しねえと、おれ達どうなるんですか」
 総三は黙って首を振る。わからない、という意味か、それとも他の意味なのか、左之助には判断できない。
「おれなんか二日変身しねえだけでもイライラするっつうかなんつうかなのにな」
 左之助が苦笑する。
「まあおれは? あいつとちがって我慢とか全然ダメな方だし? つうかそもそもする気もねえし?」
 でも――と、苦笑いがかき消える。
「でも十年は長すぎっしょ。リスクがどうとか悠長なこと言ってていいんすか。そんな呑気なこと言ってる間にもし……もし……」
 もし剣心になにかあったら。
 沈黙が落ちる。重苦しい沈黙。左之助の周りに気持ちの悪いモヤモヤしたものがわだかまって足元に絡みつく。
「それに、もういい加減みんな気づき始めてますよ」
「なに?」
 これには総三が反応した。
「そりゃそうでしょ。あいつがここに来て五年。今いる奴らは、みんな生まれたときからあいつを知ってる。春に卒業した学年もだ」
 井の中の蛙のうちはまだいい。だが外に出て見聞が広がり、異種接触をするようになれば、自分たちが薄々感じていた違和感がなんだったのかに気づく者は必ず出てくる。
「隠す方が絶対まずい。そんなこと考えなくてもわかる。“逃げてたってなにも変わらない。変わらなくても変えていくしかない”って、アンタが言ってるんじゃねえか。いつも」
「左之助……」
 吐き出す激しさで言った後で、左之助は思い出したようにくすりと笑った。
「あんまり耳タコで、自分で言ってても塾長の声で聞こえら」
「左之助」
 固く目をつぶってしばらく黙考して、総三は目を上げた。
「おまえにそんなことを言われるようになるとはな」
 大きくなったな、と言って、総三は優しい目を左之助に向け、獣変できなくなった獣人への“荒療治”について彼の仮説を展開した。
「もっとも臨床結果があるわけではない、あくまでも仮説ではあるが」
「………そんだけ? たった?」
 左之助は拍子抜けた顔でぽかんと口を開けたが、総三は厳しく声を尖らせた。
「だからそれが危険なのだ。我々慣れた者にはなんでもない“たったそれだけ”のことだが、彼らにはそうでないのだ」
 と、言われても。荒療治だ、リスクだ、最後の手段だと大層な前情報を聞いていたから、どんなに非常な手段かと思っていたら。
「つってもだって……そんだけ?」
「左之助。言ったろう。彼らの多くは心に傷を負っている。それがゆえに獣変できない。獣変がトラウマになっていることもある。いや、ほとんどがそうだと言っていいだろう。これは一種のショック療法だ。傷に向き合う準備ができていない当事者を無理に獣変させるのは危険極まりない。自尊感情を損ない、精神崩壊を招く可能性も否定はできないのだ。ゆめ容易に行うべきではない」
 それは左之助も知っているつもりだ。だてに記録整理を手伝ってはいない。
「わかってますって。だから要は原因を取り除きゃいいってことっしょ?」
「左之助」
 楽天とした口調に、総三はわずかに眉をひそめて嘆息した。しっかりして見えてもやはりまだ子どもか、とでも言いたげに、噛んで含めるようにゆっくり諭す。
「そんなに簡単に心の傷が癒えれば苦労はない。いいか、左之助――。想像力が欠如すると人間は信じられないほど残忍なことを平気でする。学校内虐待。強姦。異世代攻撃。ホームレス殺傷。外国人差別。マイノリティ排斥。日本では四民平等などと言われて百年以上が経つが、迫害と屈辱は一向になくならない。民主主義であろうが社会主義であろうが、虐げられて苦しむ声なき人のいない国はない」
 ニュースでむごい事件の報に触れるたびに、まるで自分が責任の一端であるかのように、総三は心を痛める。清廉な人と為りは、左之助などからすれば見ていて痛ましいほどで、まただからこそ左之助は義父を敬愛してもいる。
「左之助。おまえは強い。おまえには力がある。だからこそ、左之助、おまえは虐げる者になるな。相手の痛みがわからない、どれだけ踏みにじっているか理解できない、そんな人間のようにはなるな。弱きを助け、自らの正義を貫く、お前の父のように」
 そこで総三は束の間、言葉をつまらせた。
「……生きてほしい」
 総三と妻・照の間に子はない。絞り出した言葉にはどんな思いがこめられていたのか。また、左之助の重い沈黙をどう聞いたのか。だが少なくとも、思春期の義息がこれまで誰も漏らさずひとりで抱えてきた実父に対する複雑な感情を知らない総三には、左之助からそんな反応が返ってくるとは想像もできなかったのだろう。
「……あんたもかよ」
 吐き捨てるように呟かれた口調の刺々しさに総三は驚き、訝る目を向けて、はっとした。
「左之助……?」
 鬱屈した若い目がギラギラと光っている。飢えた宿なしのような警戒を示している。
「左之助」
 応えもせず、左之助は狐に身を変じた。
 強い双眸は金茶に光り、黒い針の瞳孔が鋭く尖っている。
「待ちなさい。……左之助! 待て!」
 威嚇する獣の声でひと声鳴いた灰褐色の生き物は、斬り捨てる一瞥を置き捨てて、総三の前から姿を消した。


前頁次頁
しろくて あったかくて ふわふわ<4> 2007/10/8



animalバナ
全体目次小説目次
Copyright©「屋根裏行李」ようこ All rights reserved.
Material THANKS/休憩室