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1-2-3-4-5-6-7-8-9-10 (11へつづく)

ひた走る


九、生還


「あいつら今日帰えってくんのか?」
 央太と燕の会話を聞き留めて、左之助が言った。
「の、予定だ。」
 剣心と薫は法事で京都に行っている。
 それは既に聞いているが。
「法事ってだれんだ? 京都?」
「…………二十三回忌だってよ。」
「二十三回忌ぃ? けどおめえ、」
 と、頭中に暦を繰っていた左之助は、弥彦がぼそりと「ほんとは去年だったんだけどな」と言い添えたのを聞き損ねている。
「二十三年も前っつったらまだ徳川の……」
 言いかけたところで、自分が口にした言葉でふと思い当たり、眇めた目を弥彦に向けた。
「巴さんか?」
「……ああ。」
「そうか。」
 二人は短く押し黙った。
 巴。縁。雪代の名は、未だにかすかな苦味を伴っている。
 ややあって、弥彦は思い出したように剣路に説教を始めた。しかめっ面をつくり、竹刀だこのある手で子どもの小さな頭をつかんで乱暴に揺らす。
「おい剣路。気持ちは判らなくもないが、生兵法は怪我のもとだ。変な癖がつくだけだぞ。」
「………。」
「いいな。」
「………。」
「やりてえならてめえが思うようにすりゃあいいさ。」
 答えない剣路の隣で横槍を入れたのは左之助である。
「師範代として言っている。部外者は口出し無用。」
「だがなちびすけ。さっきも言ったがおめえのはただの猿真似だ。」
 道場を背負っての重い言葉も柳に風と受け流し、左之助はあえて変わらない軽い口調でそう続けた。
「本気でやりてえってんなら、ちゃんとそう言ってきっちり習うこったな。」
「おい、左之助……。」
「ま、あいつがどう言うかは知らねえがよ。」
 険しく睨みすえる弥彦の視線に、意図をはかりかねた困惑が混じった。剣心が人に飛天御剣流を教えない意志を固めているのは左之助こそ知っているはずだ。他人にさえ禁じたものを、まして我が子に、あの剣心が許すはずがない。何のためにわざわざ気をもたせるようなことを言うのだろう。
 やがて剣路が思い切ったように顔を上げて、左之助を仰ぎ見た。膝の上で小さな両手が固く拳を握っている。
「訊いていい?」
「おう。なんだ、ちび剣。」
「……剣路。」
「豆剣?」
「剣路だってば。」
 さっきと同じようなやりとりだが、剣路の口調は本心から刺々しかったさっきとは異なり、子猫が獅子にじゃれつくような仄かな甘えを含んでいる。
「へーへー、なんすか、剣路チャン。」
 そう言われて、一度は小さな口をつぼめて不本意を表明したものの、すぐに忘れて本題に戻るあたりが、年齢としよりませているとはいえ、やはり幼い。
「あのさ、おじさんさ、」
「ああ?! おじさんだあ?!」
「な、何……?」
 左之助が驚いた様子で叫んだが、突然大声で叫び返された剣路の方こそ驚いた。
「馬っ鹿野郎、てめ、オジサンはねえだろオジサンは。俺が“オジサン”に見えるかよ。んん?」
 膝に手を置いて肘を上げ、ぽかんと口を開けた剣路の上に屈みこんで、目をぐりぐりさせている。それを剣路は丸い目でしげしげと見た。
 結局床屋にも行かず髭も剃らないままのむさくるしい姿がそれ以外の何だというのだろう。
 きょとんとしながらも真剣に考えた。
 考えて、そして言った。
「じゃあ…………くまさん?」
 本人はいたって真剣である。
 昨夜来、大人たちも熊、熊、と言っていたし、たしかに、何に似ているかと言われれば、絵や話で出来上がって入る熊の印象はこの姿に近いと思う。なぜ弥彦が泣くほど大笑いするかも、なぜ左之助が難しい顔をした後で仕方なさそうに苦笑して自分の頭をぐしゃぐしゃにかき回しているのかも判らない。
「猿だの熊だの、えれえ言われようだなあ、おい。」
 言われて剣路は顔が熱くなった。
―――サルの相手だ。猿真似で十分だろ。
 敵愾心と嫉妬と悔しさと一抹の寂しさがそんな言葉を引き出した。だがあまりにも圧倒的な力の差の前に、灰色のもやもやは、自分への憤りを残して、強さへの素直な憧憬に変じている。いてもたっても居られない苛立ちは、憑きものの落ちたように消えている。
 だがそのかわりに気にかかりだしたことが剣路にはあったのだ。
「サノスケサンとか。オニイサンとか。サノスケオニイサマとか。おお、それいいじゃねえかよ。なあ。」
「バカとか、バカとか、大バカとか。」
「るせえ、そりゃてめえだっての。」
 うりゃ、と握り拳で弥彦を打つ真似をする。
「えーっと、じゃあ、さの……おじさん?」
 剣路が上目遣いに首を傾げて言うと、左之助ははたと子どもの顔を見つめ、そして幾度か瞬いた。秀でた眉の下の深いくぼみには、静かな眸が底知れず黒々とおさまっている。
「だめ……?」
「……結局オジサンかよ。だがまあそんなとこかねえ。」
 飄々とした呟きと共に左之助の相好が崩れ、それはそわそわと弾んでいた剣路の心にするりと忍び入った。
 呆れたような、仕方のなさそうな、よく大人がする顔になる前に、一瞬だけ表出したいわく言い難い表情。剣路はそれに覚えがあった。一番最初だ。門の前に座り込んで魚新の背後にいる剣路を見上げた時に、男はこれに似た沁み入るような表情を漏らしている。
 赤っぽい髪と藍がかった瞳のせいだろうか、父によく似ていると言われることの多い剣路だったが、自分では両親のどちらにも似ていないと思っている。親子に因果を望む大人が勝手にそう見ているだけだと思っている。まして、軽く首を傾げたり視線を宙に彷徨わせたりする仕草や、言い淀んだり窺ったりする語尾の掠れ方といった、なんでもないようなちょっとした端々こそ、外見よりも気性よりも写したように似ているのだとは、無論自分では気づこうはずもない。
 だが、人の視線が自分を見ているのかそうでないものを見ているのかは、子どもの鋭敏さで敏感に察していた。
―――このひとは父さんの友達なんだ。
 そんなことを思い、言いかけた言葉を飲み込んだ。


「で?」
「え?」
「なんか訊きたかったんだろ?」
 声は前触れもなく飛んで来た。
 出所は言うまでもなく左之助である。ほん今まで、ばりばりに固まった自分の髪をつまみ顎をぞろぞろと撫で、「めし喰ったら床屋でも行ってくっかー」と、もはや思考の漏出に近い独り言を続けていた。弥彦が咽喉が渇いたと言って水を飲みに行った隙だった。
「………いい。」
「ほんとか?」
「うん。そんな別に、あれだし。」
「ふーん。」
 左之助は気のない声で応じると、もうそれにはさして興味もなさそうに、戻ってきた弥彦と消息話を始めた。どこの誰がどうしたこうした、誰と彼が一緒になった、子どもが何人、どこどこへ引っ越した、便りが来るの来ないの。
 子どもには暗号のような大人の会話を聞き流しながら、剣路は先程の立ち合いを反芻した。
 自分の動きを頭の中に再現し、記憶の中の父のそれと並べてみる。そしてあらためてしみじみと深く驚いた。驚嘆というほかない。
 百聞は一見に如かずというが、見て及ぶなら苦労はない。あの人はなぜあんなにも美しく的確に動けるのか。軽いはずの中空の竹刀でさえ重みに引きずられるものを、鉄の真剣で、しかも鞘は鉄拵えを求めたという。あの静かで小さな父のどこにそんな力があるのだろう。いつも肩を落として足元を見ている父が、どうしてあんな鋭い攻撃をなしうるのだろう。あれほどの太刀を振るえながら、なぜ彼はいつも俯いてばかりいるのだろう。
 剣路は早熟な子だったが、早熟でも子どもである。父親に強く誇らしい姿を求めるのは自然なことだった。
 隣に座る髭面の熊を盗み見る。
 あのとき父と立ち合っていたのはこの人だ。
 そのことに剣路はもはや一抹の疑念もない。それよりも今は二人の勝負でどちらが勝ったのかを知りたくてたまらなかった。
―――父さんとどっちが強い?
 現役を退いて久しいとはいえ、剣心の腕前は今も語り種としてことあるごとに人の口に上る。そして男は周知の旧友である。訊いて悪いような質問ではないはずなのだ。
 だが、誰もいない道場でそこにいない誰かと切り結んでいた父の背中が、ここではないどこかを見る左之助の目が、剣路の口をつぐませた。
「おい!」
「な、なに?!」
 突然頭上で叫ばれ、文字通り飛び上がって驚いた。いつのまにか弥彦はいない。
 何事かと目をぱちつかせて見上げると、居残った熊が突如として襲いかかってきた。
「うりゃっ!」
 勢いよく剣路を転がしかと思うと、腋といわず腹といわず、ところかまわずくすぐりだしたものだから、された方はたまらない。甲高い悲鳴を上げて魔手をすり抜け、縁側から座敷へ、次の間へ、再び縁へ、庭へと逃げ回る。はしゃぐ子どもの後ろを、図体のでかいのが背中を丸めてどすどすと追いかける。
「可愛くねえ! しょうもないとこまで似やがって! 言いてえことははっきり言えー!」
 こちらも餓鬼大将が小さい子に悪戯をする時の弾んだ声とはいえ、傍から見れば確かに熊が兎を追うの図だったろう。
 きゃあきゃあという滅多に聞かない興に乗った声に、央太が驚いて様子を見に来たときは、小さな剣路が毬か猫の子か何かのように放り上げられ、細い悲鳴を上げているところだった。
「えっ……ちょっ、兄さん、まずいって、だめだ、その子は……!」
「んあ?」
 だが央太の制止を待つまでもなく、落ちてきたのを厚い胸にしっかりと受け止め、すぐに再度上に放り上げた後で、左之助も異状に気づいた。
 怖がりようが尋常ではない。
 頬を赤く上気させて鬼ごっこをしていたさっきとは打って変わって、顔色は白く、ふっくりした頬の肉は震え、口が引き攣れている。そして目が深刻に怯えていた。
 放り上げて手を離した瞬間の、谷底に落ちていく者のような絶望的な眼差しは、この子どもが幼かった頃に屋根から落ちて以来高所に極度の恐怖を覚えるようになっていることを知らない左之助にさえ、何か切迫した事情を感じさせ、罪悪感を抱かせるには十分だった。
「なんだ……? おい、ちびすけ、ど……」
「ちょっと!!」
 さすがに狼狽え、慌てて両手で掴まえにいこうと長身の身をさらに伸ばしたその瞬間だった。
 鋭い声と共に何かがすごい勢いで飛んできて、左之助の顔面を直撃した。
 薫が投げた風呂敷包みだった。


「あんた何してんのよ! うちの子いじめたら承知しないからね!」
 力いっぱいといっても、投げたのは女なら、投げられたのは柔らかい風呂敷包み。まして若い頃から寸鉄にも怯まなかった打たれ強さがうりの左之助のこと、本来ならそんなものは痛くも何ともありはしない。が、いかんせん突然すぎた。
 不覚にもぬかるみに足を取られて尻餅をつき、慌てて見上げた顔面に、さっき彼が放り投げたものが降ってきた。頭を打たないようにとそれだけは両手で庇ってやりながら、そのぶん自分は後頭部をしたたか地面に打ちつける。顔は子どもの温かい身体で覆い潰され、その程度がこたえようはずもないものを、頭の中に閃光が散った。
 記憶の箱の留め金が外れ、さまざまな情景が一気に飛び出す。
 軽くとはいえ、頭を打ったはずみで脳が混乱したのかもしれない。不意を突かれて慌てたのかもしれない。気が緩んでいたせいかもしれない。九年振りに故国に帰ってきたのだと、ここでは身の危険を本当に忘れて構わないのだと、丸一日経ってようやく身体に落ちてきたしみじみとした実感が感慨を呼んだのかもしれない。飛んできた風呂敷包みが当たって落ち、慌てて上に目をやるその一瞬の間のさらに一瞬に、見慣れない短い髪を揺らして立ち止まる剣心の姿が目に焼きついたためかもしれない。甲高い子どもの悲鳴と母親の騒々しい喚き声を飛び越えて、懐かしい澄んだ声が左之助を貫いたからかもしれない。
 九年、いや、十年分の永く短い歳月の断片がほとんど一斉に押しよせて、左之助の意識を埋め尽くす。
「おお、おお、よしよし、大丈夫? ぶつけてない? 怪我してなあい?」
 地面に伸びて目を閉じたままの左之助の耳に、相変わらずの薫の早口が聞こえてくる。
「んもうー。どこも痛いとこない? 頭は? ほら、そっちも見せて」
 母が子を案じるというよりは娘が兄に甘えるような口調である。だがそれが自分に向いたものでないことは考えるまでもない。
「さ、おいで。いつまでもそんなとこにいると怖いおじさんに食べられちゃうわよ。」
 昔と少しも変わらない、あまりに同じすぎるお転婆な日常が見えるようだった。
 過酷な世界の情勢は左之助の平静心を大いに鍛えてくれた。大波小波の放浪の間に涙腺など枯れて久しい。顔の上にあった重みと温もりは去り、瞑ったまま明るさだけが戻った目は、やはり変わらず乾いている。だが、背の下の地面が覚束ない。身体がゆらゆらと揺れているようで、洋上の船底に寝ているのに似ている。違うのは、揺さぶる力が外ではなく左之助の中にあることくらいだろう。
 三つ数えて瞼をこじ開け、ゆらぎの波に合わせて身を起こすと、周囲も同じように揺れていた。
 子どもが泣き叫んでいるような気がした。母親がそれをかまっているような気もした。聞いたことのあるような声が何かを喚いている気もした。何やらやかましく言われて地面に散ったあんぱんを拾い集めたようにも思う。だが、どれも砂漠で時々見た蜃気楼のように揺らめいて虚ろで、こういうのをたしか目眩と言ったと、揺れる意識の片隅でそんなことを思いもしたが。
「むさくるしくなりおって。どこをほっつき歩いていた。」
 座り込んでただぼんやりと仰ぎ見る以外になすことを知らない左之助に、小春日和の優しい陽射しが降り注ぐ。
 髪を最後に切ったのはカラチで船に乗り込む前だったのだから、まだ夏のかかりだっただろう。
 ようやく帰るつもりで乗り込んだ船は、あと少しという所で難破し、洋上を何日も漂流した。奇跡的に救助してくれた漁船は、そのまま太平洋を東へ横切り、アメリカまで運ばれた。無旅券の引け目がなくとも領事館を頼るつもりはもとよりなく、サンフランシスコで水夫見習いの口を見つけて貨物船に乗り込み、命ひとつで日本に帰り着いた。
 思いがけず長かった帰路の間を潮と海風と油と汚れと汗にまみれ続けて、伸び放題、荒れ放題の頭髪である。服は着替えれば済んだ。肌はこすれば綺麗になった。だが頑固な髪は多少水を浴びたくらいではどうにもならず、もはや指もろくろく通さない。
 そのほとんど素焼きの泥塊に近い剛毛に、あの象牙細工の手が触れている。
 年を経てますます透き通って見える細い指が、それを掻き回そうとして果たせず、乱暴にかき分けて、熱のこもった地肌に辿り着いた。
「無事でよかった。おかえり、さの。」
 声が沁みる。
 頭上に落ちた息の熱さが、頭を引き寄せた細い手指の確かさが、抱きかかえられた胸のぬくもりが、やわらかな匂いが、身と心に沁み渡る。
 いつしか揺れは止まっていた。
 揺れは止まって、今度はどこまでも沈んでいく落下の感覚が始まっていた。暗い海の底にゆっくりと際限なく引きずり込まれていった時と同じ、絶望的な沈降だった。


 九年の時間が左之助には長すぎたのかもしれない。世界が凄惨すぎたのかもしれない。他の誰に会うより先に彼にまみえていれば違ったのかもしれない。ただ顔を上げて彼の目に正面から向き合ってさえいれば、それで何かが少しは違ったかもしれない。
 だが、昨日来まのあたりにしてきた神谷の人々の穏やかな日常は、左之助の目にはほとんど奇跡だった。
 左之助が通り過ぎてきたところでは、信じる神や住む国や話す言葉や部族や肌の色が違うというような理由で、あるいはさしたる理由もなく、国は国を襲い、人は人を殺し、奪い、犯し、遺棄していた。生きたまま皮を剥ぎ、焼き、手足を切り、爪を剥がし、指をもぎ、目をえぐり、舌を抜き、身を裂き、杭を刺し、灼いた鉄で焼き、熔かした鉛を流し、晒し、捨てる、それが左之助の目に映る世界の日常だった。
 それに比べて、この家はあまりに満ち足りていた。剣路も弥彦も燕も、央太も妙も、出入りの物売りさえもが、優しさと思いやりが行き交う陽だまりのようなぬくもりの中にいた。比べるだけでもその平穏を汚してしまいそうに危ぶまれるほど、何もかもが眩しく見えた。
 不在の当主がその中心にいないはずがない。
 その目に映る人の幸せを守りたいのだと、そのために生きる自分でありたいのだと、乱暴に触れれば折れそうに小さく細い身に、触れも得ないほどの熱を持て余して、彼は慟哭したのだ。彼の願ったものがこれでなければ何だろう。これが彼の闘いの結論でなければ何だろう。その思いが分かちがたい矜らしさと絶望となって左之助を押し潰そうとしていた。
 見届ける。
 それが左之助の選択だった。
 何があっても、何もなくても、今度こそ最後まで見届ける。遠くにいても近くにいても、仲違いをしても、よしんば袂を分かったとしても、必ず彼を裏切らない最後の一人になる。
 そのために戻ってきた。ようやく覚悟はついたと思っていた。燕が見せた奇跡を標に、彼のために自分に必要なつよさを得たつもりでいた。
 だが、自分で信じたほどに勁くなれてはいなかったらしい。
 純粋すぎる歓待にたじろぎ、眩しいほどの平穏に打ちのめされ、今またありえない出迎えを受け、鍛えたはずのさまざまなものは簡単に揺らいだ。それでも崩れはしなかったのが、果たしてその自己鍛錬の成果なのか単に歳を取ったせいなのか、いずれでもない他の理由によるものなのかは左之助にも判らない。ただ、耐えられなくても耐えるしかないということだけは判った。
―――てやんでえ。またいちから出直しかよ。
 そして左之助は、後になって自分でも感心したほどの気力でもって“九年ぶりに再会した親友”に相応の抱擁を返し、髪の長さが変わってもそれは変わらない、腕の輪に泳ぐ小さな背中を荒っぽく叩いた。
「ったりめえだろ馬鹿野郎。」
 やはり小さい、と思った。昔もそうだった。細く小さいと常に見知っているはずなのに、抱きしめる度にわずかな驚きと共に改めてそれを痛感する。それの繰り返しだった。
「俺が帰えるっつったら帰えるんだよ。」
「ああ、約束は違えぬのだったな。」
「………おうよ。おめえと違っ」
「それが余計。」
 言い遮って笑った剣心の拳が、心安立てに肩を小突く。
 他人には判らない小さな符丁の交歓が、九年の歳月を忘れさせ、同時に現然と突きつける。
「てやんでえ。だがまあ、なんだ。てめえもキリキリやってるみてえじゃねえか。」
「………ああ。まあ、なんとかな。」
 左之助は思い至らない。
 不在の自分が、まさにその不在であることによって、神谷の家の人々を支え、彼らの矜りとなり目標となり、また剣心の拠り所になっていたのだとは。同じ地球上のどこかで闘っているであろう左之助の存在が剣心を動かしていたとは。そして、その奇跡のような平穏の真ん中で、現実という虚無に蝕まれていく者もいるのだとは。
「さすがにどこかで野垂れ死んでいるのかと思ったが。」
「てやんでえ。この左之助さまが、そう簡単にくたばるかよ。」
「どれ、足はあるか。」
「へ?」
 左之助は知らない。
 自分が去った後の廃寺で、東海道の山中で、春夏秋冬の東亰で、穏やかな日常の中で、行き方を見失いそうになる度に何が剣心を支えてきたのかということを。いつか彼が帰ってくるその日が剣心にとって何であったかも。、危うく保たれてきたかぼそい糸が、取り澄ました芝居がかった言動の下で、今この瞬間に音もなく切れたことも。
「おや、あるある。ではしかと生き身らしい。」
「………。」
「確かめておかねばな。お前の場合は殺されてもそうと気づかず帰って来て、や、俺は死んでいたのかとでも言いかねまい。」
「……減らねえ口も変わりやがらねえ。」
 剣心もまた気づかない。
 苦笑いの奥の狂おしいような目の光が自分の目の錯覚でも光線の加減でも願望が見せた幻覚でもなく、それこそが左之助の真情を吐露していたのだとは。背中を乱暴に叩く大きな手が腑抜けてんじゃねえと叱咤していると感じたことこそ錯覚だったとは。
 青年から一人前の男へと逞しく脱皮した体つきに九年の歳月の意味の違いを痛感した剣心は、何が彼を鍛えたかを知らない。左之助の強さが自分ゆえの強さだとは想像できない。まして、だからこそ彼は剣心が予想する以上に強く、また同時に剣心が思いもよらないほどに弱いのだとは思いも至らない。
 剣心の目に、道は二度と交わることなく二筋に別れているように見えた。
 左之助の目には、どこまでも二筋のまま、寄り添ったまま続いているように見えた。


「え、やだ。ちょっとアンタやめなさいよ。お腹こわすわよ。」
 突然聞こえてきた薫の声が自分に向けられたものだと、左之助はすぐには判らなかった。ねえってば、とあんぱんを持つ手を制されてハッと目を上げると、いつの間にいたのか、呆れ顔の下に懸念の覗く薫の顔が間近にあった。
 無意識のうちに、拾い集めて持ったままになっていた泥まみれのあんぱんにかぶりついていたらしい。口じゅうが泥の味で、しかも餡のおかげで中途半端に甘い。思わず飲み下すと、泥味が胸一杯に広がった。
 一気に現実が息を吹き返す。
 座り込んだままの尻の下の地面の冷たさ。うららかな小春日和の陽射し。厨から漂ってくる炊事の音と匂い。そこに混じる女子どもの声は燕と剣路のもの。塀の外には、行き交う下駄の音に物売りの声、昼どきの喧噪。
 黙り込んだ左之助の手元に、剣心の手が伸びた。
 そして半分残った泥ぱんをひょいと取り上げたまではよかったが、
「どれ」
 言ったかと思うと、顔に似合わぬ大口を開けて思い切りよくそれを放り込んだのには薫も央太も左之助も驚いた。
 剣心は「うむ、うむ」と、どこ吹く風で泥あんぱんを賞味し、
「左之も大人になったらしい。」
 わけのわからないことを言って、ますます周りを唖然とさせた。
「剣心まで何やってんのよ、もう。馬鹿してないで、お昼にしましょ。」
 思えば二人は長旅から帰ってきたばかりで、足も洗っていない。
 左之助もよっこらせと腰を上げた、そこに央太が寄ってきた。
「あのさ、ずっとなにか言わなきゃと思ってて。昨日から何だったっけかって気になってたんだけど。」
「おう?」
「思い出した。うまじゃないよ、さるだよ。」
「へ。」
「おろ?」
「生まれ。兄さんの。午じゃなくて申だって。父さんにも訊いたんだけど。」
「あん?」
「間違いないって。僕が丁度ひと回りだから。なんでそんな風に思ったのかわからないって。でもとりあえず申だからって、言っとかないとって思って。」
「申? なんだそりゃ。ていうか、なんでだ?」
「訊きたいのはこっちだよ。」
「いや、そうじゃねえ、だからなんで藪から棒に」
「左之。お主、薄情者の上に嘘吐きか。やれやれ全く。」
「人聞き悪りいこと言うない。俺だって初耳なんだからよ。それになんだ、薄情者ってえのは。」
「もう少ししたら帰るから味噌汁がどうとかいうふざけた手紙が来てから、ひい、ふう、みい、よう、かれこれ五年だ。」
 これ見よがしに指折り数えて、剣心が言う。
「便りはなし、行方も知れず。それなのに砂糖やら洋燈やら何やら荷物は来るわ異人は来るわ。先だってなぞ、どこぞでここを頼れと聞きつけたとわざわざ芸州からやって来た一家が」
「だーかーら! 二通目が届かなかったんだっつってるだろが! なんべん言やあ判るんだテメエらは!」
「……兄さん、剣心さん今帰ってきたとこだからそれまだ知らないし。」
 横から口添えした央太の冷静さがかえって火に油を注ぎ、左之助はおそろしい早口で昨日からいやというほど繰り返させられた「その後の足取り」を話しはじめた。
 いわく、内蒙古から天津に抜けようとして方角を間違った。海に出たと思ったら海ではなく内陸の大きな湖だった。現地に住み着いていた日本人に世話になってしばらく過ごし、いきがかり上、西に向かう彼らと一緒に行動することになった(寄り道をするので遅くなると報せる二通目の手紙を居残る在露日本人に託したのはこの時である)。彼らと別れた後、アラビア海から東に向かう船に乗ったが、行き過ぎてアメリカまで行った。一文なしになっていたので水夫見習いとして乗り込み、つい数日前に入港した。
 とまあ、嘘ではないが全てではないような大雑把きわまりない説明を外郎ういろう売りの口上よろしくまくしたて終え、なぜだか胸を張る。
 ふん、と鼻から息を吐いた左之助の目が、じっと当てられていた剣心の目と合った。
 久々の再会に特有の不器用な昂揚が立ち消え、危うい沈黙が忍び寄る。
 人知れず行き交う緊張のなか、互いの表情に何か揺れるものを見た気がしたのは、左之助が先だったか、剣心が先だったか。だがそれを確かめる間もなく、高く澄んだ燕の声が食事の支度ができたことを知らせて、呪縛は解かれた。
 左之助に少し遅れて母屋へ向かう剣心に、央太がそっと言った。
「剣心さん、やっぱりすごい。ほんとに当たってた。」
「おろ?」
「方向音痴。日蝕の時に言ってたじゃないですか。西と東を間違ってたりして、っていう……」
 剣心がふき出したのは、央太の殊勝な顔つきと秘密を打ち明けるような深刻ぶった口調が可笑しかったからである。央太もつられて笑い声を立て、自分が笑われたと勘違いした左之助が二人を睨みつけた。
「るせえ。西にずっと行きゃ東じゃねえか。どっちが西で東かなんてこた、要は着きさえすりゃあ、どうでも構わねんだよ。」
 やっぱり滅茶苦茶だと央太は思った。第一結局は右往左往したのだから話が違うだろうとも思ったが、それは口には出さなかった。
 左之助らしいと剣心は思った。あまりに変わらないらしさに、むしろ歳月の長さを強く感じた。
 そうだ、要は辿り着けるかどうかだ、と、左之助は反芻した。口の中はまだ泥の味でいっぱいだった。



2006.06.20/ひた走る9―生還
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