ひた走る
二、人誅
「剣心? 剣心ならさっきまで見舞いに来てたぜ?」
「お見舞い? だれの?」
「ヒゲメガネ。」
「ヒゲ……あっ。」
薫に付き添って、左之助は再び浦村の病室を訪れた。
「なに、謝ることはありませんよ。」
これでも氏族の端くれ。戊辰、西南と二度の戦争を経験している、と浦村は言った。元から線のような目の目尻に数本の皺ができて、微笑んだことが判った。
そして薫に託された、剣心への伝言。
「我々警察でできることならいくらでも力になると。それと、娘のことは気にする必要はない。いずれ必ずわかってくれるはず、と。」
薄々事情を察した薫が、娘の背中に軽く会釈をして、病室を出る。
「こっちは心配無用。嬢ちゃんは剣心の心配だけしてりゃいいよ。」
右手の具合を案じる彼女を、左之助は何気ない口調でいなして帰した。
『てめえの落とし前はてめえでつけろ。』
ひとりになると、言葉の残滓が口に苦く戻ってきた。
あれ以来、まともに話をしていなかった。
あの日。
剣心は日も高くなってから、幽鬼のような姿で神谷邸に戻ってきた。
その夜聞いた、長い昔語り。
目を閉じたまま、剣心は淡々と語った。
語られる内容よりも、語る口調の静けさと聞く側の張り詰めた空気が、左之助には辛かった。
まだ話していないことがある、と言った過去にちがいない。
もう少しだけ、このままで。
そう囁いた、押し殺した悲鳴のような声を思い出す。すがるように首に巻きついていた腕の力を思い出す。
ほんの三日前。果てしなく遠い一昨々日。
息を詰めて聞き入る薫たちの緊張がどんなに彼を追い詰めているだろうと思いながら、と言ってどうすることもできず、ひたすら気配を殺して、その時間を耐えた。
総攻撃まで十日。
その十日の時間がなによりも剣心を苛むことを、雪代縁という復讐者はきっとわかっていたのだろう。
いつも通りに朝食を食べ、薫と弥彦はいつも通りに稽古をして、剣心はいつも通りに洗濯をする。道を行く瓜売りから西瓜を求め、それを井戸に吊るして冷やし、稽古の後、皆で食べる。幾日目だったかには、仕立てを頼んであった新しい晴れ着が届いたりもした。京都から帰って以来芝居に凝っていた薫が、十一月の顔見世に皆で行こうと言って奮発したものだった。左之助と弥彦の分まで誂えたのは、初めての正月に備えてのことでもあった。
「馬子にも衣装っていうもんね。」
「お。さすがに自覚があるんだな。」
「あんた達のことだわよ!」
なんだかんだ言いながらも嬉しそうな薫に弥彦が憎まれ口をきき、薫が拳を振り上げる、そんないつも通りの日常。
一見穏やかな、その実、薄氷を履むような日々。
その、奇妙な静けさが支配する長い長い九日間が、ようやく終わろうとしている。
襲撃予告の日まで、あと一日。
この日も左之助は真面目に小国診療所を訪れた。
この八日間、彼は治療に専念し、主治医の言いつけをきちんと守っていた。半ば嫌がらせで言ったにもかかわらず本当に酒まで断ったのには、言った恵の方が驚いた。驚き、そしてその素直さに闘いの厳しさを感じ取って、彼女もまた胸中に覚悟をもった。
一日も欠かさず診察にやってくる、それも明日限り。できる限りのことをしておきたかった。だが、この日は不思議と患者や客が立て込んだ。
「どうせ暇の身。俺は最後でいいぜ。」
その言葉に甘えて、左之助を待たせた。
剣心がやってきたのは、そうして待たされて手持ち無沙汰な左之助が、診療所内をうろうろするのにも飽き、昼寝のできそうな場所を物色し始めた頃だった。
「左之。」
「……おう。」
久しぶりに剣心の顔を見た気がして、左之助は一瞬言葉に詰まった。
「どうした。お前ぇも治療か?」
「いや、拙者は見舞いに。」
「ああ、ヒゲメガネ。」
見舞いではない。謝罪である。
だが、頭を垂れた剣心に、浦村は言った。
「何を言うのですか。私達はあなたに助けられたのですぞ。緋村さんが来てくれていなければどうなっていたことか。」
そのとき、部屋の隅でかぼそい声がした。
「そうしたら、最初から、こんなことには……」
震える声は、隅に佇んでいた娘のものだった。内気そうな外見に見合って、消え入った声は細かった。しかし、ほとんど物理的な刺々しさを孕んでもいた。顔も上げずにじっと花瓶を見ている。
「やめなさい。」
「だってお父さん! あの変な人はこの人を」
と言って、娘は剣心に人差し指を突きつけた。顔は父親に向いている。こちらを見ようとはしない。
「この人を狙ってたんじゃない! あたし達には関係な……」
「いい加減にせんか。私はお前をそんな恩知らずに育てた覚えはない。」
「署長殿。ご令嬢の言う通りでござる。拙者のせいで、なんの関係もないあなた達をこんなことに巻き込んでしまった。」
「緋村さん。そんなことを言わんでください。我々がどれだけあなたに助けられたと思っているのですか。」
「だが拙者と関わってさえいなければ……」
「じゃあ、もう来なければいいんだわ。」
娘が言い、浦村がそれ以上言ったら親子の縁を切る、と声を荒げた。
日頃の剣心なら、なだめるなりさりげなく辞去するなりして、場をおさめていたただろう。だが、この日、彼は白い顔をいっそう白くして、その場に立ち尽くした。見かねた左之助が二人に声をかけ、ほとんど引きずるように剣心を連れ出さなければ、親子の口争いはどこまでも深みにはまっていったかもしれなかった。硬直した剣心を廊下に引きずり出しながら、あの夜の昔語り以来ずっと胸にくすぶっていたわけのわからない苛立ちの正体を左之助はようやく理解した。
「ちょい顔貸せ。」
裏庭に連れ出し、手近な石に座らせた。
おとなしく座った剣心の足元に左之助がしゃがみこみ、うそ白い顔を見上げる。
左之助の面上には、険しいような気遣わしいようななんとも言えない表情が浮かんでいる。
じっと見つめられて、剣心が口を開いた。
「大丈夫でござる。覚悟はできている。この現実を守るために拙者は全力で闘う。後のことは、明日が終わってから……。」
かすかだが笑みさえ浮かべ、口調は穏やか。
覚悟を決めている、という言葉に嘘はないようだ。
だが。
「よう剣心。この際だからはっきり言っとくが。」
と、目を合わせた。明日は厳しい戦いになるだろう。一滴でも彼に力を。祈る気持ちで口を開く。
「一人でなんもかも背負うな。お前は独りじゃねえ。みんないる。俺も、いる。みんなお前を大切に思ってる。お前に幸せになってほしいと願ってる。それを、忘れんな。」
伝わるだろうか。伝わってほしい。通じてくれ。
「ありがとう左之。お主が言いたいことは判ってる。と思う。」
剣心は穏やかな表情を変えずに言った。
「だが現実はそれでは済まぬ。お主らが何と言ってくれようと、過去から逃げることはできない。抜刀斎の名前は危険を呼び寄せるし、拙者の存在は皆を危険にさらす元凶となっている。拙者のせいで、お主らを関係のない闘いに巻き込んで傷つける。それが」
耳障りな単語に神経を逆撫でされ、左之助の眼光が急に険しくなる。
「それ、もういっぺん言ったら殴るぞ。」
「え?」
「さっきヒゲメガネにも言っただろ。なんの関係もないあなた達を巻き込んだとか何とか。んなこと言われりゃだれだって気分悪いぜ。」
なんの関係もない。赤の他人。ただの知り合い。相手にとって自分はその程度の存在か、と。
「ちがう、そんなつもりで言ったわけでは。ただ、拙者がいたからこんなことになった、いらぬ闘いに巻き込んで迷惑をかける、それが申し訳なくて。」
「だからそれをやめろって言ってんだ。つうか、俺もか?」
「え。」
「俺も“関係ない”のか?」
「そ……」
「なあ、おい。覚えとけ。」
左之助は、ささくれ立つ心を必死になってなだめた。
俺が突っかかってどうする。明日は決戦だというのに。今は少しでも彼の気持ちを強くすることを考えなければ。
深く息を吸って、できるだけゆっくりと言う。
「お前はみんなのもんかもしれねえが、俺はお前のもんだ。お前に降りかかる火の粉なら喜んで被ってやらぁ。」
抑揚を抑え、声を低めた。とはいえ、天は知らず、人に憚る内密の誓い。
剣心はぎょっとして辺りに目を走らせた。
「馬鹿、場所をわきまえろ。」
白かった頬に血の気が通り過ぎた。澄んだ声で続ける。
「それに、それとこれとは話がちがう。縁は、あれは、拙者の業にござる。縁の怨みは、拙者がひとりで負わねばならぬ。」
その言い方が無性に腹立たしかった。“関係ない”と同義だと思った。やっぱり届かない。目の前にいるのに、言葉も気持ちも、彼に届いていない。胸に巣食っていたもやもやがあふれ出して、左之助を呑み込んだ。
さっき浦村の病室で突然気づいたのだ。あのときもそうだったことに。
過去を語った長い夜。剣心は、話の間中、だれの顔も見なかった。ほとんど目も上げなかった。聞き手の緊張と動揺に責められてのことだと、あのときは思っていた。わけもなく腹立たしくて、そんな話はもういらないと皆を蹴散らしてしまいたい衝動に何度も駆られたのは、そんな剣心が見るに忍びないせいだと思っていた。
だが違った。
彼は自分たちに過去を語って聞かせていたのではなかった。ひとり十四年前の過去にいた。明治十一年の現実ではなく、幕末の閉じた時間のなかにいた。そして今もいる。だからあんなにもどかしかった。だからこんなにも遠い。なにひとつ、届かない。
「クソ……なんでだ。」
ぎりりと噛みしめた歯の間から、しゃがれた声が出た。
『罪に苛まれようと、罰を与えられようと、生きようとする意志は決して捨てぬ。』
あのとき剣心はたしかに生きようとしていた。目的はなんであれ、少なくとも前を見ていた。
頬の肉が震える。爪が食い込むほど握り締めた左手も震える。
その意志はどこへ行った。師に得た光明を、どこへやった。
船舷をうつ波の音が、左之助の耳に甦る。
海は黒々としていた。船体が大きいため、水面は怖いほど遠い。
「大丈夫でござるよ、安慈は。もう救世の道を踏み違えることはあるまい。」
「だといい。」
飛ぶように流れ過ぎる海面のきらめきを、見るともなしに二人で見ていた。
「それに、安慈だけじゃねエ、あいつらも。」
剣心が顔を上げた。その顔に、あいつら?と疑問符を読んで、左之助が言った。
「瀬田宗次郎。四乃森蒼紫。その他モロモロ。」
「……ああ。うん、そうだな。せめて生きている者には。」
返事に間があったのは、張には「他の十本刀なんかどうでもいい」と言った左之助のその反応を意外に思ったせいか、半ばで止めた先の言葉のせいか、あるいは。
左之助は体をひっくり返して欄干にもたれた。切れのいい動作で帆柱を登っていく船員の姿を目で追いながら、思い返す。
比叡山で闘っている間中、いやというほど見せつけられた。
大切なものを理不尽に奪われた悲憤。強くなければ生きられなかった弱さ。なにかを憎む以外の闘い方を見つけられない暗闇。時流に踏み潰された怨み。
彼らは皆、剣心に会う前の、あるいは剣心に会えなかった自分だった。自分の居場所が向こう側でなかったのは、志々雄に会う前に剣心に会ったからにすぎない。宗次郎のように志々雄に拾われていたら、あるいは喧嘩屋時代にどこかで誘われていたら、自分があそこにいても不思議はなかった。
この男がいたからだ。
思って、横に立つ人物を見下ろした。
不殺の流浪人。十本刀の死さえ彼には不本意らしい。
「あんだけの闘いだ。こっちに人死にが出なかっただけで良しとしねえ。」
剣心は相変わらず波に目を向けたまま、応えはない。
甲板の風はつよい。船首はなおさらだ。ごうごうと唸る風に服が痛いほどばたつく。
小さな呟きを、危うく聞き逃すところだった。
「師匠を殺しかけたよ。」
「? なに言ってやがる。あの人なら十本刀総出に志々雄つきでも朝飯前だろ。」
「ちがう、拙者がだ。奥義伝授の修行で。」
左之助は驚いて剣心の横顔をまじまじと見た。
生と死の間での修行。飛天御剣流、最後の奥義。人斬り抜刀斎に立ち戻らずとも己の全力を引き出すひとつの光明。
蒼紫と戦ったときに、そうは聞いていた。驚いたのは、剣心が比古を殺しかけたことに対してではない。秘伝の流儀の遣い手が、奥義の真髄に触れかねない修行中の出来事を口にしたという事実に対してだった。
呆気にとられて凝視する。
剣心が顔を上げて、左之助を見た。相も変わらず、心情をうかがわせない静かな表情。左之助の視線を軽く受け止める。
「だが、力を得るというのはそういうことだろう?」
見つめ返す目の奥はやはり読めない。ただ、ひどく強い光を放っていた。
左之助はその目に半ば気圧されながらも、自分が二重の極みを会得したときのことを思い出して呟いた。
「ああ、おう。そう、だな……。」
自分の声が掠れたのが忌々しかった。
ふいに剣心が視線を落とした。つられて下を見ると、包帯でぐるぐる巻きになった手。思考の同調に胸が騒ぐ。訊いてみたいことはいろいろあったが、今さらどうでもいいようにも思えてやめた。
剣心の手が左之助の右手に伸びた。だが、すくいあげるように下から近づいた指先は触れずに止まる。その代わりとばかりにじっと包帯に視線を注いで、左之助にというより手に向かって囁いた。
「無事でよかった。お前はもっと自分を厭え。」
左之助は一緒になって自分の右手を見下ろしながら、口の端で笑った。
「おう。後でよっく言ってきかせとくぜ。」
指先で剣心の掌を軽くつつくと、小さな戯れに剣心の顔がほころび、そして続いた言葉に苦笑した。
「ま、お前にだけは言われたかねえってコイツも思ってるだろうけどよ。」
――他人を守るのもいいが、てめぇの身も大事にしろ。
ことあるごとに、左之助は剣心にそう言った。怒鳴ったこともあれば、ほとんど泣きそうだったこともある。いくら言葉で言っても届かないことを知りつつ、それでも言わずにはいられなかった。そして言うたびに自分の無力さを見せつけられてきた。だからこそ、あのときの言葉と視線が骨身に沁みた。
――罪に苛まれようと、罰を与えられようと、生きようとする意志は決して捨てぬ。
佐渡島方治の部屋で蒼紫と闘ったとき、妄執に凝り固まった蒼紫に剣心は言った。今のお前は“最強”を口実に自分を殺し、現実と未来から目を背けているだけだと。あのとき、剣心の目は、眼前の蒼紫を通り越して左之助を見ていた。初めて見る種類の光を放っていた。それは自分に向けられた言葉だと左之助は直感した。
罪と罰を口実に自分を殺して生きてきた。だが捨てること死ぬことは容易い。失くしてならないのは、自分が生き抜く意志。前に進む覚悟。剣心はそう言った。
事態は自分のあずかり知らないところで進展していた。抜刀斎に脅かされていると思っていた剣心も、いつのまにか既にそんな境地は脱却していた。何度繰り返しても言葉は届かなかったが、彼は自力でそこに辿り着いたのだ。
ひっかかるものが、なくはない。だが、剣心がそれを語る相手に自分を選んでくれたことだけで充分だと思った。その光明を諭したのが自分でなくとも、一生を償いと贖いに捧げようとしているとしても、少なくとも彼が前に向かって生きようとし始めたことが、左之助は素直に嬉しかった。
横を見ると、剣心はまだ飽きもせず左之助の右手を見ていた。注がれる視線がくすぐったくなり、左之助は人差し指をくるくると回してみた。狙い通り、動く指先に剣心の目がついてきた。次第に描く円を大きくしていく。何周かしたところで剣心がたまりかねたように噴き出した。
「ばか。俺は蜻蛉か。」
背中を掌で叩かれて、左之助も声を上げて笑った。顔を上げると船首楼が視界に入った。晴れ晴れとした気分だった。
「よう、上がってみようぜ。」
左之助の指の先を追って、剣心が目を丸くした。
「え? いや、操舵室はまずかろう。おい左之! 子どもでなし、探検もたいがいにしておけ。」
だが左之助は剣心がついてくることを疑いもしない。返事も待たずに歩き始めた惡の字を、呆れながらも剣心が追う。
「こら、お前のこれは年中正月か。」
追いついて、左之助の耳をつねる。
「痛えって。」
全然そうは見えない顔でふてぶてしく笑って言うのに、ほんとに痛くしてやろうか、と剣心も笑った。
大阪から東亰に向かう船上。
あのとき、剣心はたしかに生きようとしていた。
左之助の脳裏に甦った光景はあまりに眩しすぎて現実とは思えなかった。
あれかこれか、せめてどちらかが夢ならよかった。
「てめえは何にもわかっちゃいねえ。」
届かない剣心の鏡像に、それでも言わずにはいられない。
「だから言ったんだ。うぬぼれるなって。」
薫のことである。
うぬぼれるな。嬢ちゃんの幸せってのは、その程度のものなのか。
北山の杉林で左之助は剣心にそう言った。
剣心は判らないと答えた。判らないがきちんと考えると言った。そして少し時間が欲しいとも言った。あのときの剣心ならきっといずれ彼なりの答えを見出すだろうと思った。
だが、彼らが汽船探検に出たのは、まさにその薫がきっかけだった。
往きから半死半生だった弥彦とは異なり、平気で食事もしていたという。それが帰路では、乗船前から暗い顔をしていた弥彦以上の撃沈ぶり。さすがの恵も、船酔いばかりはどうしようもない。彼女たちを船室に残して左之助が剣心を連れて船の探検に出たのは、若い女が桶にえづく姿を、まして想う男には見られたくないだろうと慮ってのことでもあった。
よほど気の張った往路だったのだろうと思う。そしてその娘の笑顔を守りたいと、剣心も言う。そのくせ、女心には致命的に鈍いのか、船酔いに苦しむ薫を前にしても頓着しない。連れ出そうとしても「拙者はいい」などとほざく。結局、恵にやんわりと指摘されるまで気づかなかった。
単に鈍いのではない。なにかが決定的に掛けちがっていることに、本当に気づいていないのだろうか。彼が背負っているものが何であるかは知らなかった。だが知らなくても見えるものもある。
「ざけんじゃねえ。てめえの罪ほろぼしなんかで人ひとり幸せにできると本気で思ってんのか。」
剣心は黙って左之助を見ている。心に届いていないのは判っている。だが硝子玉のような動かない瞳を見ていると、耳にさえ届いていないのではないかとすら思えてきた。
「お前は、昔の罪を償うために嬢ちゃんを幸せにしたいと思ってるんだ。巴さんの身代わりにだ。」
粥も喉を通らないほど思いつめ、初めて乗る汽船に酔いもできず、折れた竹刀の柄で十本刀の一角を崩した薫。それもこれも、ただひたすら剣心のためだったのに。
「そんなことで、ひとを幸せになんかできるか。」
やりきれない。結局過去しか見ていない剣心の周りで、すべての気持ちが空回りしている。
名前しか知らないその女性のことを、左之助は考えてみた。
「そんなこと、巴さんだって望んでるもんかよ。縁ってヤツもお前も、なんでそんな風に……。なんで逝った人を悲しませるようなことばっかり……。」
『望んでるのは、生き残った大切な人の幸せひとつ。失って人生が歪んでしまうくらい、本当に大事に思っていたなら、気持ちを判ってやれ。』
安慈には伝わった。どうして剣心に伝わらない。
表情の欠落した白い顔のなかで、色の失せた唇がふわふわと動くのが見えた。
「……に」
「え?」
思わず聞き返した。
「貴様になにがわかる。」
剣心が口の中で呟いていた。
「知らないくせに。巴のことも、縁のことも、なにも知らないくせに。さかしげに、口にするな。」
剣心の言葉がぽとんと地面に落ちた。
巴のことも、縁のことも、なにも知らないくせに。
細い声は、そのまま細い針になって、左之助の心臓を貫いた。
二人の間に諍いは珍しいことではなかった。元々見解も違えば気性も違う。互いに口も出す、手も出す。しかし、他にはしない容赦のない物言いこそ対等あるいは特別の存在と認められている証しと、なまじな言葉よりもよほど左之助には大きな意味を持っていた。
だがこれは。
「……他人は黙ってろってか。」
思考は停止したまま、口だけが勝手に動いていた。
剣心はぴくりとも動かない。硬い肌が作り物のように左之助をはねつける。
「ああ、そうかい。悪かったな、内輪の話に口出ししてよ。」
ひどく投げやりな声がする。俺の声だ、と左之助は思った。だが、自分のものであるはずのその声が、どうしてそんな酷い言葉を目の前の人に叩きつけているのかが判らない。明日は決戦だというのに。
「だがこれだけは言っとく。今度のことはもうお前だけの問題じゃねえ。襲われんのは嬢ちゃんの道場だ。明日は全力でいく。手が砕けようが腕がもげようが知ったことか。雑魚は全部俺が引き受けてやる、その代わり。」
でたらめに渦を巻く非現実的な視界のなか、剣心が黙って左之助を見ていた。
「てめえの落とし前はてめえでつけろや。」
声が止み、時間が凍った。
これほど剣心を遠くに感じたことはない。これほど世界が不確かに思えたことはない。いっそ険しい目で睨み返してくれればどんなに救われたろう。だが剣心は、冷たさすら含まない、空ろに穏やかな表情で、ただじっと左之助に顔を向けていた。
そして口からこぼれ出た、低い呟き。
「ああ、わかってる。助力、感謝する。」
血の気のない顔に、微笑みの気配さえ漂わせて、剣心は言った。言い終えると、ゆっくりと腰を上げて立ち去った。
左之助はその動きを目で追うこともできなかった。剣心が立ち上がって、顔が視界から消えた。くたびれた袴が目の前で揺れ、わさわさと音を立てた。そして後には、さっきまで剣心が腰掛けていた石と、さっきまで剣心が踏みしめていた地面と、さっきまで剣心が占めていた何もない空間が残った。
左之助は芝生にしゃがみこんだまま、その石のくぼみをぼんやりと見つめた。
言いたかったのは、そんなことではなかったはずだ。戦闘云々よりも心に厳しい闘いだとわかっていた。少しでも支えになりたくて、彼になにかを伝えようとしたはずだった。
頭の中が泥を吸った海綿のようだった。重い身体を引きずり上げて立ち上がる。
とにかく今は明日の闘いを切り抜けることだ。全てはそれからだ。
見上げた空は、いやになるほど澄んでいた。
日が傾く頃、薫はようやく剣心を見つけた。
そこは、燕に教えられた竹林。
「剣心!」
声をかけると、彼にしてはずいぶん驚いた顔を見せた。珍しい反応に、内緒の場所だったのかと気まずさを覚える。
河沿いの道を歩きながら、薫は事情を説明した。
「謝ることもないでござる。」
丁度帰ろうと思っていた、と言う剣心の背中を、じっと見つめる。
滅多に本心を見せない、優しい流浪人。
子どもたちの無邪気な歓声に、少し照れているように見えた。
父が死んでから剣心が来るまでの日々のことを思い出す。
「ねえ剣心。前に言ったでしょ? 『剣は凶器、剣術は殺人術。けれどそんな真実よりも戯言の方が好き』って。」
この人に会っていなければ、と思う。
道場は比留間兄弟に乗っ取られていた。それ以前に、自分の身もどうなっていたことか。
独りではない。そう思えることがどれほど得がたい安らぎかを、薫は知った。
「これからもっともっと平和になって、戯れ言の方が真実になって、そしてみんないつまでも一緒にいられたらいいね。」
また独りになることを思うだけで、指先が冷たくなる。あんな日々には、もう耐えられない。
「だが、それはやはり無理でござるよ。」
「え……。」
話す剣心の、声は柔らかかったが、言葉は厳しい。薫はどきりとして、唾を呑んだ。
「時代は変わった。剣術も変わる。けれど人だけは変わらない。そんなことは、ない。別れではなく旅立ち。終わりではなく始まり。少し寂しいけれど、そういうものでござるよ。」
いつもの優しい笑顔。
こんなときにもこの人は微笑むのか、と薫は思った。
薫の足が止まり、剣心が振り返る。いくつか言葉を交わし、自分とそうも変わらない小柄な剣客と肩を並べて帰路につく。
橙色の空に刷毛で引いたようなしゃがれ声を響かせて、からすが鳴いていた。
明日の先にあるものを、だれも知らない。
2004.10.17/ひた走る2―人誅
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