ひた走る
六、日蝕
最初に手紙が来た。
央太が上京して三年が過ぎた春のことだった。
これから上野で花見という弥彦が道場を出た直後に、それは届いた。
「弥彦さん、これ!」
宛名は剣心。央太が手紙を持って追いかけると、弥彦も飛び上がって驚いた。
「なにー! 左之助から?! すげえ、ほんとかよ!」
思わず手放した角樽を、燕が辛うじて受け止めた。
「兄さん、どこからって?」
「いや、場所は………ハアッ?!」
「お、お兄さん?!」
弥彦が素っ頓狂な声を上げ、燕はせっかく受け止めた酒樽を手から滑らせた。
「え? あれ? っていうか、えっとー……」
二人の凝視に、央太は狼狽して、掌を胴着にこすりつける。
「兄さんって、おい、お前って左之助の弟なのか?! なんだそりゃ、聞いてねえよ!」
「えーと、えーと。じゃあ、剣心さん、言ってない? だって去年、父さんが来たときも……」
「くっそ、またかよ、剣心のヤロー。てか、じゃあアレぁ左之助の親父さんだったのか。ああ、くそ、道理で癪に障るはずだ。」
「ちょっと弥彦くんってば。」
「え、いや、あの、えっと、父さんは父さんだけど、だから姉さんは姉さんっていうか妹で……」
興奮した三人が滅茶苦茶な言葉を飛ばしあっている頃、神谷道場の古顔たちはひと足先に上野の花の下にいる。
剣心一家に、福島から恵、京都から蒼紫と操――。
近代交通の恩恵で易くなった、それでも五年ぶりの、懐かしい顔ぶれ。
そこに弥彦の衝撃がやってきた。
宛てられた剣心が封を切ったが、周囲の鬼気迫る注視のせいか、手が浮いている。
―――蒙古で元気にやっている。あれから亜米利加、欧州、亜剌比亜と渡ってきた。もう少し遊んだら一度日本に帰る。そのときは旨い白飯とみそ汁を頼む。
一瞬の沈黙の後、呆れた叫び声が錯綜した。
「あのバカ、世界一周?!」
「冒険家にでもなるつもりか?!」
「っていうか、五年もなしのつぶてだと思ったら、いきなりこれ?!」
「えー、アイツって外国語とかできるの?」
「できるわけねーだろ、左之助だぞ? お前、なに言ってんだよ。」
その大騒ぎの外で、剣心はふう、とため息を吐いた。
手の中の紙に目を落とす。
紙からは、知らない匂いがした。
短い文面。
どうやら自分は左之助の文字をほとんど見たことがなかったらしい。懐かしさよりも、こんな字を書くのだったのか、と、そんなことを今さらのように思う。
そして気づく。自分が驚くほど無知であることに。
彼はいつどこで誰に文字を得たのだろう。赤報隊でか。いや、短すぎる。幼すぎる。だが、ならばその後の彼の少年期は、必ずしも過酷なだけのものではなかったのかもしれない。誰かが彼に、文字と心を注いでくれたのかもしれない。そうであったらいい。いや、きっとそうなのだろう。自分は、与えられた文字と剣術の向こうにあった気持ちを、知らず踏みにじり続けたが、彼なら違ったろう。
彼に似た鋼の優しさの、彼らの父親を思い出した。
見慣れない金釘流が急に体温をもつ。
目尻が緩むのを覚えながら顔を上げると、蒼紫と目が合った。
「遠いな。大陸も北海道も。」
無口な男が珍しく自分からそんなことを言う、その気持ちは剣心にはよく判る。
北海道。
斎藤一は今そこで任務についている、と、ついさっき他ならぬ蒼紫が剣心に告げたのがその地名だった。
そっと手紙をたたんで懐に納める。
「男は、不器用にござる。」
返事はなかったが、少し顎を引いたらしいのを視界の端に捉える。
賑やかな輪に交じると、今度は央太のことで剣心が詰られた。
夏になって、アメリカから木箱が届いた。
差出人は覚えのない日本名。宛名は神谷道場になっている。相談の末に開けてみると、砂糖がぎっしり詰まっていた。
どうりで重いはずだわ、と薫が目を瞠って言った。
「すごい、上等の。それもこんなにたくさん。お砂糖屋さんができそうよ? でもどうして? それにこれ、だあれ?」
「さて……? おろ、底になにか。よっ……とこらせ。」
砂糖袋の下敷きになっていた手紙を取り出すと、手紙は思いがけず分厚かった。とりあえず箱を台所に運び、茶の間に腰を据えて封を切る。達者な文字が、送り主の素性と荷物のいわれを語り始めた。
薫の淹れた茶を飲みながら、剣心はそれを読み進む。数枚が過ぎたところで、薫が訊いた。
「なんて?」
「維新の後、広島から米国に移住したそうだ。二年前、桑港の近くに、念願の砂糖農園を持てた、その後は順風満帆だ、と……」
「まあ……」
と、相槌を打ちながら、薫は続きを待っている。それが自分たちにどう関係するのか。
「礒野氏は、」
荷の送り主は、名を礒野金吾といった。
剣心は細かいペン文字を目で追いながら、かいつまんで説明していく。
「一旦布哇に行った。布哇は米国資本の製糖業が盛んでござる。砂糖の仕事を覚え、資金を蓄えようと思ったらしい。」
ハワイには日本からの移民が多い。
慶応三年、ハワイ王国駐日領事ユージン・ヴァン=リードが、幕府の許可を得て、甘薯農場の労働者を募集した。幕府は瓦解したが、翌年五月、ヴァン=リードは、応募者百五十三名を無旅券でハワイに送り出した。これを皮切りに、日本からハワイへの移民は続く。
「だが、布哇へ向かう途中、あと少し、というところで船が座礁した。」
「え。」
「あわや沈没、というときに、ある乗客が、海に潜って………」
と言ったきり、しばらく言葉が途切れた。
「剣心?」
長すぎる沈黙を訝る薫に、少し掠れた声が、岩を打ち砕いたそうだ、と、語った。
薫ははっと背を伸ばした。
剣心の手が紙を繰り、目が文字を追う。
「船は無事布哇に着き、礒野氏は家族も財産も失わずにすんだ、今の自分があるのは彼のおかげだ、と。」
「剣心、それって……!」
「皆で礼をしようとしたが、受け取らない。」
―――俺が死にたくなかっただけだ。礼を言われる筋合いじゃねえ。
「頑として拒んで、押し問答の末に言ったそうだ。」
―――もしアンタらがいつかすっげえ金持ちになったら。
見知らぬ男の几帳面な文字から聞こえる、なつかしい声。
―――腐るほど金が余って困るようになったら、そんときに。
「日本の、ここに、送れと。」
―――つっても異国の金も使い途があるめえ。
「だから、礒野氏は、農園でできた砂糖を……」
―――砂糖でも珈琲でも、アンタらの産物を、送ってやってくれ。食いしん坊揃いだからきっと喜ぶだろうよ。
文字から字間から行間から、鮮やかすぎる情景が立ち現れる。
剣心は無言になって読み進んだ。
ときどき、紙を繰る乾いた音がした。
ずいぶん時間が経って、最後の一枚を繰り戻した剣心は肩で息を吐いた。
トンと卓に立てて揃え、黙って薫に手渡す。
薫が手紙に目を走らせ始め、剣心は背を向けて縁に出た。
五年。
変化は、気づけないほど緩やかに起こっていた。
ずっと変わらず続くものなどない。孤独と絶望でさえ永遠ではなかったように、喪失の苦痛も虚無も、気がつけば違うものに姿を変えていた。
だが、河底の石のように磨り減っていくものがあれば、雨だれが石を穿つように深まっていくものもあるのだ。
こんな不意打ちは勘弁してくれ。
そう思いながら、柱にもたれた。中庭の土の白さが目に鋭く、瞼を閉じる。
ハワイ、アメリカ。たしかその後がヨーロッパ、トルコ、そして清。それとも今はもうどこかちがう土地にいるのだろうか。
その旅路の果てしなさを、今さらのように思った。闘いつづける彼の闘いを思った。どうしようもなく熱いものが、暴れ出しそうになる。
座敷から、手紙を読み終えた薫が、さっき剣心がそうしたように、大きく息を吐いて束を揃える音がした。
「すごい。すごい人がいるものねえ。」
薫は磯野氏の人生の方に感銘を受けたらしい。京都行でさえ大旅行に思える薫は、由太郎も左之助も、まるで地の果てに行ってしまったように感じている。それが、世の中には一家揃ってアメリカに移住する日本人がいるのだ。それも一組や二組ではない。そんな人生があることさえ、想像もつかなかったというのに。
「剣心が言ってたのって、こういうことだったんだ。」
「おろ?」
左之助に東亰は狭すぎる。そう言って、剣心は左之助の旅立ちを予見した。結局あんな形になってしまったのは心外だったが、結果に変わりはないのかもしれない。
「なんだかわかんないけど、頑張ってるみたいね、あいつ。」
「ああ、そうでござるな。」
薫は紙束を丁寧にたたみ直して封に戻すと、春に左之助の手紙が来たときと同じように、神棚に上げて、手を打った。
剣心は台所に行き、箱の前にしばらく佇んだ。
それ以来、ときどきそんな風な荷物が外国から届くようになった。
そう頻繁ではない。年に一度か、二度か。手紙があることもあれば、ないこともあった。日本人からのものもあれば、外国人からのものもあった。
ハワイから珈琲豆。礒野氏と同じ船で行った日本移民が送ってきた。ドイツ製の磁器の洋食器セット。手紙がなく、事情はわからなかったが、多少学のある門下生たちの見解で、差出人は名前からしてドイツ人ではなくフランス人だろうということになった。
それからイギリス製のランプ。なぜかインドから発送されている。これには外国語の手紙がついていた。今度は門下生たちでは解読できず、人づてに訳してもらった。それも幾分怪しげではあったが、それによると、どうやら送り主の何某というイギリス人は、数年前エジプトに滞在したことがあり、そのときに仕事で出掛けた先のオスマン帝国で左之助と知り合い、何か世話になったらしい、ということは判った。聞くだけで目が回りそうな規模の話に、おかげで世界地理に明るくなる、と皆で笑い合った。
早暁。
まだ日も昇りきらない台所に、米の炊けるあたたかい匂いが漂っている。
剣心は先に炊き上がった分を手際よく丸めていく。そこへ薫が顔を出した。
「今日は早いのね。」
「ああ。暑くなりそうだから、朝のうちに、と思ってな。」
そうね、と言って、薫も肩を並べて手伝い始めた。
やがて大量のおはぎが完成した。いつものように、家で食べる分を重箱にとり、残りを半切に詰めていく。大きな円桶五枚がちょうどいっぱいになった。重ねて風呂敷で包み、固く結わえる。
「行ってくる。」
薫に見送られて、家を出た。
早朝とはいえ、八月といえば暑さも盛り。まして重い荷を担いでの道中で、落人群に着く頃には額や背中に汗が滴っていた。
明治が二十年になっても、ここは昔と変わらない。世の中に弾き出された人たちが肩を寄せ合って命をつないでいる。
例月よりかなり早い時間だったが、すでに門の周りに子どもたちが剣心を待っていた。目聡く見つけて、まだ遠いうちからさかんに細い手を振っている。それでも門より外へは出てこようとしない彼らが、はじめの半年ほどは痛ましかった。そう感じなくなったのは、その光景に慣れたせいでもあれば、そこでの暮らしが傍に見えるほど辛いだけのものではないことを知っているからでもある。
一人が伝令に走った。じゃれつく子どもたちをあしらいながら、いつもの広場まで行く。半桶五枚分のおはぎは、あっという間になくなった。それから、すっかり馴染みになった面々としばらく雑談をした。
無論、最初からこんな風に歓迎されたわけではない。
ここは“外”の人間に厳しい。まして、剣心は一旦やってきて出て行った身。風当たりは、より以上だった。飢えより強い誇りで、彼らは剣心を拒否した。得物がなくとも、力で敵わない剣心ではない。だが主旨がちがう。剣心はおはぎがぎっしり詰まった桶を残し、何も言わずに立ち去った。翌日、神谷家の木戸口に五枚の半切りが置かれているのを剣路が見つけた。桶はきれいに洗ってあり、青い花をつけたつゆ草の一本が添えられていた。
そんなことが幾月か続いた。
あるとき、男が訊ねた。
「あんた、なんでこんなことするんだ?」
その男には見覚えがあった。五年前、しばらくここにいたときに、言葉は交わさなかったが、何度か見た顔だった。
「友人が……」
片目を布で覆った昔と変わらない顔に、皺がずいぶん深くなっているように見えた。
「国を追われた親友が、異国の地から、砂糖を送ってくれたのだ。」
「へ?」
「箱いっぱいの大量の砂糖でな。とても家では食べきれぬ。人に配ろうかとも思ったが、もっとなにか……」
剣心は声を途切れさせて目を瞬いた。
「だれかに、食べて、もらいたくて……」
そう言って、剣心は微笑んだ。
男は、くたびれた袴に小さな染みが広がるのを黙って見つめていたが、しばらくして思い出したようにふっと笑った。
「じゃあ俺らは正真正銘の棚ボタってわけだ。なあ、剣客さんよう。」
すでに丸腰の身。そんな風に呼ばれるのはいつ以来だろう。
一瞬の間をおいて、そうでござるな、と、潤んだ声で剣心も笑った。
それから四年。
礒野氏の砂糖はとうにない。
そもそも米や小豆は持ち出しだった。その砂糖が尽きるまで、と剣心は考えていた。いくら道場が繁盛しているとはいえ、そうそう物好きな道楽で家計に負担をかけるわけにはいかない。だが薫が、子ができても変わらない鷹揚さで、言ったのだ。
「どうして? 弥彦や左之助に比べたら小鳥の餌みたいなものだもの。せっかくお友達も増えたんだし、続けたらいいじゃない。」
東亰広しといえども、落人群の住人を“お友達”と言い放つ女性も多くはあるまい。剣心は半ば呆れつつ半ば真剣に感服し、素直に勧めに従った。
命を焦がすあの激しい思いを、妻に覚えたことはない。彼女もまた自分に対してそうであることを剣心は知っている。だが、結婚生活というよりはむしろ共同生活に近いこんな有り方も、けして間違いではないのではないか。惚れた腫れたばかりが人生ではなかろう。穏やかで静かな、これもまた幸せのひとつの形であっていい。
人影のまばらな往来を歩きながら、そんなことを考えていた。
家に帰ると、門先がなにやら騒がしい。
見ると、輪の中心には洋装の紳士が二人。うち片方は異人である。
薫がいち早く剣心に気づき、あからさまな安堵を見せて対応を剣心に押しつけた。
大雑把なくせに妙なところでとんだ内弁慶になる。そういえば昔から肝心なときに限って腰を抜かしていた。
道中の思考に引きずられてそんなことを思い口元が綻んだのを、客は歓迎と解した。
スイスから来たカール・ハントケ氏とその通訳は、剣心に向き直って改めて自己紹介をし、こう言った。
「ハントケ氏は日本の工芸品を求めに来とられるのですが、ひとつ探しとられる印籠がおありで。」
「それはそれは。……で?」
それなら場所がちがう。町の剣術道場では印籠も根付も扱っていない。
どうしてこんなところに?
「母国で知り合った日本人に、ここに行けと言われたそうなのです。」
もしや、と、場にいた面々は顔を見合わせた。
遠来の客が取り出した「紹介状」は、案の定、左之助の手によるものだった。
―――漆屋の何某堂に連れて行って、俺の印籠と同じやつを作らせてやってくれ、云々。
一同は呆れて口を開けた。
もちろん左之助に、である。真剣そのもの、期待に目を輝かせているスイス人に、罪はない。
立ち話でもないだろう、ということで、とりあえず客間に通して茶を供する。
皆は稽古に戻り、剣心と薫で応じた。
「もう何年も前のことになりますが。」
と、ハントケ氏は話し始めた。
氏は、商用で出かけたスイスの何処やらいう街で左之助を見かけた。東洋の美術に関心が深く、いつか自分で極東を訪れたいと思っていた彼は、左之助の服装と背中に書かれた字に目を引かれた。
「おお、これはチャイニーズレターですね。」
「いいや、日本語だ。」
「いえ、これはチャイニーズレターです。」
「わかんねえオッサンだな。日本語だっつってんだろ。」
磁器をチャイナ、漆をジャパンと呼ぶように、漢字をチャイニーズレターという。
言語と文化の異なる者どうしにありがちなそんな間の抜けたやりとりが最初だったものの、不思議と馬が合い、短い滞在期間の間に、幾度か食事を共にし、自邸にも招いた。
ふとした折に、左之助の印籠が氏の目についた。
「おお、これは素晴らしい。」
隙間もないほどの馬の絵で埋め尽くされた印籠。凝った構図の、精緻な沈金。よく出来た細工だった。
ウィーン、パリの万博以来、ハントケ氏も例に漏れず日本の漆に熱中していた。彼は譲ってもらえないだろうかと申し出た。もちろん相応の謝礼はする、と。左之助は断った。彼は相応どころか、同じものが十個はできる金額を提示した。だが左之助は動かない。いくらなら譲ってくれるか、と訊いた氏に、「金額の問題ではない」と左之助は言ったという。
「ツレにもらったんだよ。悪いが諦めてくれ。その代わり。」
これを拵えた目利きを紹介しよう。もしいつか日本に行くことになったら、彼を訪ねるといい。きっとこれよりもっといいものを用意してくれるだろう。
「ということで、その漆商殿を紹介していただければ、と思っておる次第なのです。」
と、通訳は話を締めくくった。
「まあ、そうだったんですか。」
室に落ち着いたせいか左之助の知人だとわかったせいか、すっかりいつもの調子で、薫がそう受けた。
「それにしてもまあ、よくまあ、はるばるこんなところまで。」
と、改めてハントケ氏を見る。日本贔屓というだけあって、ハントケ氏はズボンの膝を気にしながらもきちんと膝を揃えて正座をし、両手で茶碗を傾ける姿もなかなか様になっている。
遥かヨーロッパから海を越えて日本までやって来たのだ。できることなら望みを叶えてあげたい。
薫は心細そうに剣心に首を傾げた。
「知ってる? その漆屋さん。私、聞いたことないわ。」
「表斎堂か……。うむ。多分だが、ひとつ心当たりが、なくはない。」
善は急げ。
その足で漆商を訊ねることにした。
剣心は薫に断って央太を伴った。
「済まぬな、稽古中に。」
「いえ、全然。」
そう遠くはないが、酷く暑いので、人力車を使う。道中、剣心は央太にハントケ氏の話を語った。
その佇まいは、全く商家らしくなかった。
格子の戸はしんと閉てられ、軒先に珍しい木賊色ののれんが掛かってはいるものの、屋号も紋もない。白木の表札に記された「村木」の文字が、よく見れば墨ではなく漆絵の手法で書かれているのだけが、かろうじて生業をしのばせている。
「喰えねえ店だろ。ジジイも喰えねえぜ。目は利くがな。」
いつだったか、たまたま一緒に前を通った折に、左之助がほろりとそんなことを言った。
例の根付もここの拵えだ、とも。
たのもう、と、奥へ声を通すと、待つほどもなく奥から出てきたのは、主人と思しき品のいい男性。来意を告げると、すぐに座敷に通された。その対応といい、年季の入った数奇屋の普請といい、床の間の室礼といい、相当な商いをする店らしい。
改めて挨拶を交わした主人に、剣心は事情を説明した。欧州人の発注となれば、もちろん店にとっても悪い話であるわけはなく、主人は謹んで了解した。
ただ困ったことに、左之助の名前にも馬尽くしの沈金にも心当たりがなかった。
「一度図案を起こしますので、まずはそれからのご相談で如何でしょう。」
ハントケ氏が通訳とやりとりをしている横で、剣心が懐から印籠を取り出した。それ自体は日本地図を描いた国尽くし柄のどうということのない平凡なものだったが――。
「この根付、参考にはなるまいか。元はこれと対でござった。」
提げ緒の先の箱根付を、主人に示した。十二支が絡み合った図案の緻密な沈金。からくりで箱が開くと、中には小さな象牙の猫が寝ていた。
「や。こ、これはまさか、まさか表翁の作……?!」
驚いて膝を立てた主人は、手を打って人を呼び、小声で何やら言いつけた。ほどなく細かい足音がして、福々しい老人が現れた。
主人の父親で、今は楽隠居の先代。
折り目正しく指を突いた村木孫三郎氏に、主人が事の経緯を説明し、剣心が補った。
聞き巧者な老人は、深く頷きながら絶妙の間で相槌を打ち、驚き、時に問う。
聞き終えて、感慨深げに息を吐いた。
「なんとなんと。それでわざわざ欧州から。いやはやまったく、まさにご縁でございますなあ。わかりました。難しいご注文ではございますが……」
左之助の印籠と根付を手掛けたのは希代の塗師だったが、彼は既に鬼籍だという。
「他ならぬ斬左さんのご縁です。きっとお気に召すものをお作りさせていただきましょう。」
だが、そう請け負ってから、思い出したように首をひねった。
「はて? しかしよく考えてみれば、ちと妙な。」
「妙。と、仰ると?」
「いえ、実はその印籠は、そのう……」
と、気恥ずかしそうに頭をかいて言うことには。
「ええ、なんと言いますか、まあ平たく言えば、なんぞのかたと言うか何と言うかで、確かに私が差し上げたといえば差し上げたものではございますが、どうでしょう、そんなそれを恩義に大事になさるようなものでは、と思いまして。これはもしやウマ違いかもしれませぬ。」
「え。あ、いや、だがまあ、馬に違いはござるまい。」
そんなことを言い合う二人の手元に、気づけばハントケ氏がじりじりとにじり寄っていた。
「オオ……」
言うまでもなく、精緻な細工の根付に目が釘付けになっている。
結局ハントケ氏は両者を対で依頼し、ついでに他にもあれやこれやと話を拡げ、喜色満面、赤い頬をさらに赤くして漆商を後にした。
ホテルへ帰るスイス人たちの車を見送り、剣心と央太は帰路についた。二人なら徒歩である。
この年、央太は十五になる。同年代の男子に比べると小柄だが、それでも背は剣心を越しつつあった。
肩を並べて歩き始めてまもなく、央太の前にさっきの印籠がすっと差し出された。
「左之が。」
剣心の指先が根付を弄っている。
「左之が持っていたものでござるよ。」
渡されて手にとった。見ればますます見事な細工だった。今にも動き出しそうな十二の動物が、巧みに絡まり合っている。それに箱の中で寝ている猫の可愛らしいことといったら。
「十二支話だ。知っておろう?」
訊かれて央太は頷いた。動物たちが十二支の椅子をめぐって競争する謂れ話。猫はたしか日を誤った。牛の背中に乗っかり、ずるをして一番になった鼠に、騙されたか何か悪さをされたかしたのではなかっただろうか。そのせいで猫は鼠を追いかけ回すのだ、と、昔、だれかに聞いたような記憶がある。
「元はな、印籠と根付で干支尽くしの一対だった。」
「?」
「根付は十二支で、箱の中にご愛嬌の出遅れ猫。印籠は、生まれの午尽くし。」
「……え?」
「ん?」
「兄さん、午でしたっけ?」
「おろ? ちがったか?」
逆に訊かれて、央太は「そうだったそうだった」と鼻の脇を掻いて笑った。そして訊いた。
「でもじゃあ、どうしてばらばらに?」
「十二支に午ではあまりにそのままで野暮だと言って。」
剣心は懐かしむように目を細めた。
「拙者の瓢箪根付と交換しろ、と。」
「交換。」
「ああ。なんのことはない、柘植の、ただの瓢箪だったから、物が釣り合わぬと言うたのだが、洒落がいい、とな。」
「洒落?」
「わからぬか?」
瓢箪と、午、馬、ウマ……。なんだろう? 首を傾げた央太の前に、剣心は悪戯っぽく目を光らせて、指で宙を叩く仕草をした。人差し指と中指をのばして揃え、すっと前にすべらせて、とんと打ちつける、囲碁か将棋の手を指すような……。
「ああ、駒?!」
馬は駒。
瓢箪根付と午尽くしで、つまり瓢箪から駒。嘘から出たまこと。
洒落というより、相当に馬鹿馬鹿しい。央太は思わず呆れ顔になった。横を見ると、剣心も笑っている。
「ついでにこっちは盗り物尽くしになった。」
国盗りに干支盗り、というところだろうか。
ふいに剣心の顔からふっと笑みが落ち、なんとも言えない表情になった。だが頼りない空白はすぐに消え、いつもの笑顔が央太に言った。
「それは、お主が持っているといい。」
「え。い、いいですよ、だめですよ、そんなの。」
どうせもう使わない、そんなの自分もだ、と、押し問答をしているうちに、道場に帰り着いた。
なぜ譲ろうとするのか、そしてなぜ受け取れないのかは、二人ともなにも言わなかった。
それから数日が経った蒸し暑い朝。
薫が例月の寺参りから帰宅したところへ、ハントケ氏が通訳を伴って再訪した。スイス人は、先日の礼にと言って、上等の白生地を風呂敷に包んで携えていた。異人から反物を貰うというのも妙な話だが、どうやらよほど日本に傾倒しているらしい。
そして、「それからこれを」と、封筒を取り出した。
「?」
今日は剣心と薫に加えて、先日連れ立った央太も同席している。三人が注視するなか、白人特有の赤っぽい指が中身を引き出した。
「先日お見せしようと思ってすっかり忘れていました。」
封筒から両手に少し余るほどの大きさの四角い紙が現れ、三人は息を呑んだ。
写真だった。
数人の人物を写したモノクロームの写真。故国の邸で彼の家族を撮ったものに見えた。
場所は居間だろうか。布張りの長椅子や茶器を載せた卓が置いてあり、奥に暖炉とドアが写っている。部屋の隅には大きな中国の壺、マントルピースの上には香炉や磁器、壁には赤絵の絵皿などが多数飾られているあたりが、いかにも東洋趣味のハントケ氏邸らしい。
夫人と少女は長椅子に座っている。少女の足元に小さな毛むくじゃらの犬。ハントケ氏は夫人の斜め後ろに立ち、妻の肩に手を添えている。その横に少年が二人。二人は写したように瓜二つで、父よりも母に似た線の細い顔立ちに、両親と同じ淡い色の髪をきれいに後ろに撫でつけている。
そしてその隣に、剣心のよく知る人物がいた。
ひとり異質な黒い髪と目。半纏に鉢巻き。
心臓を鷲掴まれて、束の間、周囲が消えた。
記憶にある通りの姿を、初めて見る思いで見つめる。やや緊張したような面持ちで剣心を睨みつけている、白黒の風景の中の小さな左之助。何ひとつ変わらない。だが、異国の部屋に佇む姿は、あまりにも遠い。
乖離は、かえって生々しく歳月を捻じ曲げた。
何年も何年もかけてなんとか鎮めようとしてきたはずのものが、いとも容易く暴れ出す。
天地が、ぐらりと揺れた。思わず踏みしめた足の下で、土が濁った音を立てる。その音に我に返って、出かかっていた名前を唾と共に呑み下した。
「あの……」
三者三様に息を詰めて写真を凝視する彼らの様子に、ハントケ氏と通訳氏が戸惑いがちに問いかけた。
「ど、どうかなさいましたか?」
「え、あら。いえあの、すみません。突然だったもので、ちょっと、びっくりしただけです。」
まだ言葉の出ない剣心の横で、薫がやや恥ずかしそうに笑って、そう答えた。
「ご家族ですの?」
写真に目を戻して訊く。
「はい、妻と子どもたちです。息子は双子です。サノスケさんを宅に招いたときに、記念に撮ったものです。」
「へえ」と、薫はまたまじまじと写真を見た。央太も食い入るように写真に、否、左之助に見入ったままだ。剣心は隣で頷きながら、やや空ろな目をハントケ氏と通訳に向けている。
ハントケ氏が通訳に小声で何か言った。通訳が返す。何度かやりとりが続き、通訳氏が向き直った。
「あのう。よろしければこの写真はそちらに進呈すると言うとられます。」
「えっ?」
「先日もお世話になりましたし。」
「そんな、とんでもない。こちらこそ、結構なものを頂戴しましたわ。大したこともしてないのに。」
「いやなに、それはそれ、これはこれ……」
だから遠慮なさらず、と、通訳が言いかけたのを、薫が突然強い語調で遮った。
「いいえ、いいえ! いいんです、本当に。左之助はもうすぐ帰ってくるんです。だからいいんです! 帰ってきたら写真も撮れるし、日本の写真だってどんどんよくなってるし、写真くらいいつでも撮れるし……」
硬い表情で早口に言い募る薫に、男たちの視線が集中する。胸高の帯のあたりで握り締めた両手が白い。
剣心は、強張った表情で言葉を途切らせた薫の肩にそっと手を乗せ、客人に向かって言った。
「驚かせて申し訳ござらん。妻は写真を撮ると魂を抜かれるといって怖れているのでござる。それでちょっと取り乱してしまって。」
そう言われて、異人組は「ああ、なるほど」という顔になり、それから薫を安心させようとしてか、満面の笑みを浮かべた。
居心地悪そうに俯いた薫の横で、剣心が穏やかに言った。
「ご好意、かたじけない。だが貴方にとっても思い出の一枚のはず。貴重なものを、見せて頂いただけで、拙者らは充分にござる。」
日本贔屓の遠来の客人は、しばらく「ジャパニーズフェンシング」を見学し、午後はどこやらへ日蝕の観測に行くと言って早々に帰って行った。
それを見送って薫は道場に向かったが、その横顔に写真を固辞したときの翳が戻っているのを見て取り、剣心と央太は黙って顔を見合わせた。
―――いいえ、いいんです!
遠慮というには、口調が強すぎ、表情が必死すぎた。だが、客人らの目には唐突に映ったその態度の奥にあるものが、二人にはよく判る。判るどころではない。彼らもまた同じものを心の底に沈めているのだ。ただ、これまで誰もそのことに触れようとしなかっただけだった。
そろそろ皆が気づいていた。
明治十六年の春に届いた本人の手紙より後の消息が、絶えている。
やってくる順序が逆になっているが、最初に届いたあの手紙が、最後の報せなのだ。
アメリカの砂糖とハワイのコーヒー豆は出国直後。彼らはアメリカに渡る途上の左之助に会っている。次がハントケ氏か、あるいは磁器食器のフランス人。それからランプのイギリス人だ。彼はエジプトから、左之助はヨーロッパから、それぞれオスマン=トルコに入った。その後が、あの手紙にあった、清の奥地。
「もう少ししたら帰る」
手紙にはそうあった。
それから四年、足かけ五年。
もう少し、の範疇なのだろうか。そんな風に世界を渡り歩いている人間とじっと待つ身とでは、月日の流れもちがうのだろうか。
そうであってほしかった。
だが、左之助は、列強諸国の嵐を、くぐり抜けるどころか、敢えて飛び込んでいるとしか思えないほど、真っ只中ばかり突っ切って移動している。東亰の片隅で安閑と暮らす彼らでさえ、昨今の風雲急を告げる世界情勢の危うさを肌で感じずにはいられない。その逼迫した気配が、剣心にも迫る。
帰ってくると言った。嘘はつかないと言った。だが意思とは別の次元で物事が起こることもあるのだ。
強く奥歯を噛みしめたとき、央太が思い出したように「そうだ」と呟くのが聞こえた。足早に自室に向かい、すぐに戻ってくる。そして、手につかんできたものを剣心に差し出した。
「剣心さん、これ。」
例の印籠だった。漆商からの帰路、やる、もらえない、と押し付け合っているうちに道場に帰り着き、うやむやのうちに央太の手に残ったままになっていた。
「やっぱり剣心さんが持ってた方がいいと思う。っていうか、持っててやらなきゃダメです。」
「央太。」
「僕はね。友達はいるけど親友って呼べるような奴はまだいないし、八つんときにここに来て以来、ずっと何不自由ない暮らしをさせてもらってるし、だからほんとはよく判らないんですけど。」
剣心の手にそれを乗せ、一本一本指を折って握らせる。
「身ひとつで異国を放浪してる人間が、どんなにお金を積まれても手放せないって言ってるんだ。相手が身内だからって、譲るとこじゃ、ないです。」
「央太……」
「兄さんが手放さなかったのは印籠じゃなくて根付だ。なんのことはないただの瓢箪でも、剣心さんにもらったからだ。そんなこと、剣心さんだって判ってるでしょ。」
剣心は黙って印籠を握り締める。いや、印籠ではない。根付をだ。
央太は縁に腰掛け、薄曇りの空を仰いだ。
「なんか凄いなあ。」
そう言って、じっと空を見る。
晴れでも曇りでもない、鈍い黄色の陽光に覆われた空は、あまり八月らしくなかった。
それとも日蝕の前には空はこんな風に澱むものなのだろうか。
「親子は血が繋がってるし、生まれたときから親子だし、夫婦は結婚して“今日から夫婦です”って宣言するわけだけど。でも友達ってなんにもないじゃないですか。“今日から友達です”なんてだれも言わないし、逆に言ったからってなれるもんでもないし。だれも、何も、保証してくれないんですよね。変な言い方だけど。」
文明開化とはいえ、やはり日蝕は日の煩いと忌む者も多い。影には毒あり、光には魔あり、熱には病あり。そう信じてはいなくとも、朝から戸を閉てたままの家や、商いを休む店が目につく。神谷道場でも今日は昼前で切り上げ、門下生を帰すことにしている。そろそろ終い稽古に入っている頃だろう。
「僕も死ぬまでにそんな親友ができるかなあ。」
結局今日は稽古を怠けてしまった、と、独り言つ。
いつのまにか、剣心がすぐ傍に立っていた。穏やかな目になっている。
微笑と見えなくもない静かな顔を見つめて、央太は言った。
「帰ってくる。信じましょうよ。剣心さんが言ったんですよ、信じてやれ、って。剣心さんが信じてやらずに誰が信じるんですか。」
「ああ、そうだったな。」
今度は剣心が空を仰ぐ。眠たい太陽が天頂にかかろうとしている。
小さな箱を握る手に力が入った。
「何せあの方向音痴のことだ。まちがって欧州にでも逆戻りしているやもしれぬな。」
ありえる、と笑って、央太が腰を上げた。じきに戻ってくるであろう薫たちのために、井戸に吊るしてあった西瓜を引き上げ、冷えの悪さに首をひねりながら、台所に入る。
その背中が消えるのを待ち、そうっとからくりを開けた。
猫が寝ている。
のの字に丸まって、永遠に続く幸福な微睡のなかにいる。
―――で、出遅れて不貞寝してるこの猫が。
お前、と言って、楽しそうに笑う声が耳元に聞こえた。
剣心は再び空を仰いだ。
吐く息と共に全身に張り詰めているものが流れ出しそうになり、息を詰める。拳を握り、目を閉じると、瞼裏に短い閃光が幾筋も流れた。
明治二十年八月十九日。
この日、千葉から新潟にかけての一帯が皆既日蝕帯に入り、日本列島各地で日蝕が観測された。東亰での最大蝕分は九分九厘。蝕は約二時間に及び、午後四時四十八分に原状を回復した。
2005.04.01/ひた走る6―日蝕
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