ひた走る
七、帰り道
その黒い太陽を、冷ややかに見上げている男があった。
銚子をはるか沖の海上。
日蝕の凶は洋の東西を問わない。黒い肌や青い目の男たちが畏忌の呻きを放つ中、だが男はひとり異なる感慨をもっている。
糧食はとうになく、水も今日には尽きる。
船煙を待ち、島影を待ち、雨を待ち、何かを待つ、昼と夜。飢えよりも渇きよりも、絶望が彼らを呪っていた。
また一人が狂った。
飢饉を逃れてアイルランドから移り住んだ青年は、新天地だったはずのその国で、今度はその出自に苦労を強いられている、彼らの不幸な母を一声呼んで、海に飛び込んだ。
男の乾いた眼がそれを見ている。
憐憫はない。
ただ、死ぬ身ならその血肉を置いてゆけ、と思った。
それを禁忌とは、もう感じない。
周囲は果てもない水の牢獄。
頭上には黒い日輪。
だがそれでも、世界よりも天道よりも変わらないものがあった。
この期に及んで尚もただ一つのその真実を、白い太陽と黒い太陽に知らしめたい。
取り出して、大声で叫んで、突きつけたい。
男はこみ上げる哄笑をこらえて、天を仰ぐ。
不吉に輝く太陽よりも黒い眸に、今は獣の力が宿っている。
*
「あ。見てホラ、剣心、パン屋さん!」
弾んだ声を上げて、薫が袖を引いた。
景気のいい太鼓と糸にのせて、洋装の男女が「パンー、パンー」と呼ばわる賑やかな声は、師走の通行人の速い足も止める。
「パンー、パンー! 木村屋のパンーー!」
パンの入った樽を背負ったシルクハットの男性と、長いスカートの女性。洋装の女が三味線をかき鳴らしているのがかえって異風を感じさせて、物珍しがられている。男の声は奇妙に甲高い。
剣心が、目をそちらに向けたまま、薫に言った。
「買って帰ってやろうか。」
すっかり東亰名物となった銀座木村屋のあんぱんは、薫だけでなく、今年八歳になる剣路の好物でもあった。
「そうね。長いお留守番で寂しかったでしょうし。」
「京土産にはならぬがな。」
汽車に蒸気船を乗り継いで、それでもやはり往復と法要で十日を要した。
乗り物疲れの気分転換にと、新橋から乗った人力車を随分手前で下りたが、じき家に着く。
馴染んだ塀が見えたところで、薫があんぱんの包みを胸に抱いたまま、つと足を止めた。
「おろ?」
「ねえ、剣心。私がさっき言ったこと、憶えていてね。今は判らなくていいから、憶えていてね。きっと忘れないでね。そうしていつか思い出して。」
「薫殿……」
「いつか、それがあなたに必要になったときに。」
妻になっても、母になっても、大雑把でさばけた気性は変わらなかった。だが時折こんな風な不可思議な表情を見せるようになった。未来と諦観の間の、優しさと拒絶の間の、寛恕と嫌悪の間の、女の顔。
この顔の前に、剣心は言葉を持たない。これまでにも幾度か、こうして沈黙したことがある。
この沈黙を破るのは、いつも薫の役割だった。
だが、この日はちがった。
突如、空気を裂いた、子どもの悲鳴。
邸から聞こえてきた甲高いその声は、紛れもなく剣路のものだった。
*
小学校の帰路、家の少し手前で、顔見知りの豆腐売りに行き会った。
土曜日は午前で終わるため、帰りが早いのだ。
「よう、坊。てめえんちの前に変なのがいるぜ。気いつけなよ。」
「あ、お豆腐のおじさん。変なのって? 表? 裏?」
剣路が平静な顔を傾けて訊ねると、行商帰りの男が白い息で言った。
「さ、それが表だからよ。風体のわりいのが。だれか大人は居んのかい? 道場は休みなんだろ?」
「練習試合。でも央太さんがいる。」
「そうかい。そんなら心配もあるめえが、まあ、また後で寄ってやらあ。」
「うん、ありがとう。」
足取りが無意識に忙しなくなる。
剣心と薫は法事で京都に、弥彦をはじめ道場の面々は旧知の道場との練習試合に出かけており、留守居は央太と剣路の二人だけである。
裏なら父の客かもしれないが、表ならちがう。父に相談に来るものは皆、その程度のわきまえはある。
辻を曲がると、たしかに人がひとり、地べたに座り込んでいるのが見えた。
男だ。
十二月の寒空にシャツ一枚で、無帽。閉じた表門の戸板にもたれて脚を投げ出し、頭はがっくり前に落ちている。といってどこかが悪いわけでもなさそうだ。薄地のシャツの下で、胸が規則正しくゆっくり上下している。
ならず者か、行き倒れか。
いずれにせよ、昼日中、この道場の門前に眠り込むとは、まっとうでない。
勝手口に回る足は、自然と駆けていた。
「央太さん、表に変な人がいる。」
「ああ、剣路くん、おかえり。……え? なに? 変な人?」
央太が瞬時に鋭利な顔になった。
木刀を手に外から表に回りながら訊ねる。
「道場破り?」
「とかっていうんじゃなくて。けどなんか変。男の人なんだけど、なんかぐったりしてるっていうか、でもへばってなくて、どっちかっていうと寝てるっていうか。」
「寝てる?! うちの前で?」
行き倒れかな、と、警戒に怪訝の色が混ざる。
曲がれば玄関という角で一旦止まり、いざという時に備えて下駄を脱ぐ。袴に挟んでいるところへ、馴染みの魚売りが通りかかった。
「なんでえなんでえ。どうした、喧嘩け?」
「え、ああ、め組の新さん。いえ、そういうわけじゃないんですけど、ちょっと怪しいのがいるらしくて。」
新介、魚の行商だが、あだ名を「め組」、生粋の柴っ児で、央太はおろか弥彦や剣心よりさえ、神谷家とのつき合いは長いという。
「なに、怪しいの。」
と、担いでいた盤台を下ろし、天秤棒を抜き取った。
「なんなら助けるぜ。っても、おめえら二人にゃあ、要るめえが。」
育った環境によるのか両親の血によるのか、いずれにせよ剣路の腕は八歳の身で大人にも遅れを取らない。「聞き分けがないのは父親ゆずり、すぐ騙されるのは母親ゆずり、天然ボケはどっちもゆずり」などとからかい草にしながらも、剣術の筋のよさは弥彦も認めるところである。
また央太も、師範代の免状こそ受けていないが門下筆頭の腕前。頭もいい。学校に行き始めたのは九歳とやや年長になってからだったが、みるみる及第して級を進み、十四歳の年限を待たずに、十三で卒業した。気立ては穏やかながら、洞察と理に長けていることで一目置かれてもいる。
塀の端から、顔を三つ、ぬっと出した。
なるほど、いる。
だが一見ほどに怪しくない、と央太は観た。
剣路の言うとおり、力尽きて座り込んだような姿勢でありながら、本当に力尽きてはいない。外見は相当くたびれた様子で、伸び放題の蓬髪と髭が顔を覆ってはいるものの、手足の芯はある。そしてよく見れば、顔も身体も衣類も、一見ひどく汚れてはいるが、それも染み付いた汚れではない。
剣路の警戒を呼んだのは、風体の胡乱さではない。周りを圧する一種異質の気を男がまとっているせいだ。それが鋭敏な剣路に障った。
そう思った央太は、二人を待たせて、男に近寄った。
神谷活心流といえば、その実力と腕利き揃いが評判で、界隈といわず広く周辺にまで豪名を響かせている。その正面玄関に、真っ昼間から座り込むとは。
この尋常でない気配さえなければ、よほど腕に覚えがあるか、あるいは何も知らない余所者かとも思っただろうが。
近くで見ると、通った鼻筋が、思いがけず若かった。濃く伸びた髪と髭のせいで、遠目に老けて見えたらしい。大きな身体は見事に均整が取れている。手足が長く、布越しにもわかる鍛えられた筋肉と灼けた浅黒い肌は、男が日常的に身体を使う人間であることを語っている。
そして、両脚を大きく投げ出し、無防備に見えて、そうでない。だが刺々しくもない。
迂闊に近づけない気配に間合いを読みかね、腰をかがめて顔をのぞき込もうとしたとき、男が目を開き、顔を上げた。
瞑想を解くような、静かで無駄のない動作だった。
まなじりの切れた黒々とした目の、思いがけず明晰な光に、央太は一瞬たじろいだ。眼光の強さに思わず後じさりそうになったが、すぐ気を取り直して、穏やかに声をかけた。
「うちに何かご用でしょうか。」
「ああ? うちぃ? ってこた、おめえ……」
凛々しい眉を寄せて目をすがめた男の顔にある何かが、央太の中の何かと何処かを刺激する。
なんだろう。何か思い出しそうな。
思わず手を顎に当てて首を傾げる。
男も、探るような表情になって、央太を見つめている。
その様子を見ていた魚屋と剣路が、ともあれ乱暴な話ではなさそうなのを察して、小走りに駆け寄ってきた。とはいえ、新介の手には長い棒が握られたままではある。
「なんでえなんでえ。何がどうしたって」
いうんだ、と、言い得ず、め組が顎を落とした。目と口がみるみる大きく開き、指は男を指して小さく震え始める。
央太と剣路は、そんな魚売りの様子を呆気にとられて見つめた。
それこそ、何がどうしたというのか。
手から落ちた天秤棒がガランと音を立て、め組こと魚屋新介の咽喉から、悲鳴じみた声が出た。
「あ、あ、あ、あああ、あんた! あんたあ、左っ、左左左、左之さんじゃねえか!」
驚いたのは央太である。
勢いよく男を振り返り、まじまじと顔を見る。
左之さん。
昔馴染みの多くは、彼の兄をそう呼ぶ。
彼の知らない、彼の兄のいろんな姿を、彼らは知っている。
だが実のところ央太は左之助の顔をほとんど覚えていなかった。記憶に鮮明なのは赤い鉢巻きと後ろ姿の惡一文字ばかりで、顔は茫洋としてあやふやなのである。
数か月前の日蝕の朝、スイス人の客に写真を見せられたときも、そういえばこんな感じだったな、と思った程度だったし、写真自体が何年も昔のものでもあった。
かすかに知っているその顔を、今度は意識的に重ね合わせ、そこに共通するものを見つけようとした。
だが風貌の変化が直列にはつながらない。
ただ、顔貌はともかく、この眸には覚えがあった。そしてさっきの眉のしかめ方。気になったはずだ。
郷里の父に似ていたのだ。
男が口を開いた。
「おう、そういうてめえは魚新じゃねえか。なんでえてめえ、老けやがったなあ。」
底響く声でそう言って、咽喉の奥で転がすように笑う。
いとも楽しそうな笑い声も、彼らの父にどこか似ていた。
興奮した新介が「いつ帰ってきた、どこに行ってた、何をしていた」と、唾を飛ばして矢継ぎ早に問いたてるのを聞き流し、黒々と深い目が横に流れて、剣路を見た。
「そんでおめえはどうした。またえらい小っこくなりやがってよ。」
剣路が思わずめ組の背中に隠れたのを見て、今度は痛いほど静かに笑って、そして左之助はどうと地面に倒れた。
「左、左之さんっ?! なんだどうした、アンタどっか悪いのかい?!」
「………ういー、腹へったあ。おう、央太ぁ、なんか食わしてくれや。」
気の抜けた声で、そう言った。
情けない。
はっきりとそんな言葉で考えこそしなかったものの、黙って飯櫃をどんと置いた央太の心中は複雑だった。
人から聞かされる話に幼時の記憶を大切に温め続けて、七年の間に兄はすっかり彼の英雄となっていた。玄関でいきなり名を呼ばれたときは、覚えていてくれた、自分と見分けてくれた、と気が沸きもした。だが、いま目の前にいる行儀の悪いお替わり魔は、古い写真の人相以上に、央太の中の左之助からこそ程遠い。
また、剣路は剣路で、さっきから不信と反発と不安のない交ざった様子で遠巻きに様子をうかがっていた。
彼はこんな環境に生まれ育ちながら、生来の性分だろうか、子どもの常では済まないほどに人見知りのきつい子だった。同時に、人を見る。相手に応じた態度を返す。おもねるという意味ではなく、相手を映す鏡のように、強い相手には強く、弱い相手には優しく、邪な者、不躾な者にはそれ相応の返礼をする。
そんな剣路である。心象のよくない登場に、蓬髪に無精髭のむくつけぶり。加えて、先刻来の無遠慮な振る舞い。普段なら、視野にも入れないか、あるいは手酷く拒絶していたかもしれないが、央太の兄であり、両親達の古い馴染みでもあるとなれば、まさか追い出すわけにはいかない。しかも、両親も道場も留守の今、家を守るものは央太と自分しかいない。土間の端からこっそりと、だが厳しい目で、その不思議な空気を放つ珍客を見張っていたのである。
いつもより用意の少なかった食事を、左之助はあっという間に食べ尽くした。
「腹へった。」
箸を置きながらの唸り声に、央太の眉間に皺が寄った。
二人分を三人で分け合った惣菜類はいざ知らず、め組が帰国祝いにと捌いてくれたふるまい鰤のほとんどが左之助の胃袋におさまったのだ。
たしなめるべきかとも思ったがそうはせず、黙って膳を下げようと膝を立てたとき、細かい靴音が響いて、勝手口に燕が姿を見せた。
肩で息をしている。
店の制服に頭飾りもそのままの姿を見て、左之助が言った。
「ほ、こりゃ、小せえ嬢ちゃんか。こりゃまたおめえ、」
そこで言い止したのは、戸口でしゃがみこんだ燕が声を殺してむせび始めたからだ。細い肩を震わせ、嗚咽の漏れる口を片手で押さえ、もう一方の手で戸にすがっている。
「お? おうおうおうおう、どうした、嬢………おい、なんかあったのか。」
目を丸くして言いかけ、途中でハッと鋭くなった顔と声が、央太を振り返った。
「もしかして誰か。」
質す目が央太を射抜く。
何か不幸があったのか、と、険しい目が訊いていた。
咄嗟に首を大きく左右に振ったのを認めてから、左之助は土間に下りて燕に歩み寄った。
「どうしたい、嬢ちゃんよ。え?」
昔と変わらず小さな肩に伸ばしかけた手が、涙まじりの潤んだ声に、ぴたりと止まった。
「よか……た、左、左之助さ、無、無事……に……よかった……」
静かな板の間に、燕のすすり泣きが響く。
左之助がひとつため息をついて、痙攣の止まらない燕の頭をグシャグシャとかき回した。
「ったく、いくつんなっても変わんねえなあ、あんたはよ。」
そう言って柔らかく笑う左之助を、剣路の深い藍色の眼がじっと見ていた。
それから、次々と知己がやって来た。
魚売りのめ組が注進に回っているらしい。現に燕も、馴染みの深い「赤べこ」に真っ先に駆けつけてくれた新介から話を聞き、店を外せない妙の名代も兼ねて飛んで帰って来たのだった。
すぐに帰る者もいるが、腰を据える者も少なくない。皆がなにがしかの食べ物や飲み物を持ってきて、盆と正月が一緒にやってきたような大騒ぎになった。
夜になって道場連中が帰ってきた。既に知らせはいっていたが、とはいえ、門下生のほとんどは左之助を知らない。弥彦だけが、防具の片付けもそこそこに、剣士らしからぬ騒々しい足音で駆けてきた。
「左之助――――!!」
突進した弥彦がその勢いのままに左之助に飛び掛かり、左之助が軽くいなして反撃した。
心得た周囲がすかさず割れものを除け、二人は器用に間をぬって外へ転がり出る。
そのまま、当然のように取っ組み合いになだれ込んだ。
獣の子がじゃれるように乱暴に絡み合いつつ、興奮と昂揚が二人の全身から迸る。左之助の腕が弥彦の首に回り、力が入る直前に弥彦の頭が下に抜ける。しゃがんだ続きに腕を脇に抱え込もうとしたが、逆に身体ごと当たってこられて、弥彦がよろめいた。
たたらを踏んだ弥彦の背後に左之助が回る。だが間一髪で弥彦は横に跳び、剣術の残心の足さばきで振り返った。
見合って、間をはかる二人を、居並ぶ面々が嬉しそうにはやす。
「やっぱり左之さんだ。変わってねえなあ。」
「見かけは老けたがな。」
「老けたってえより、あれじゃあ熊だよ。なんだよ、折角の男前がさ。だれか見てやんなよ。」
「熊か。こりゃいい。」
どっと笑い声が沸き、弥彦も思わず失笑した。
「つうか、やい、熊! てめえ、生きてるとか死んでるとか、手紙くらい寄こせってんだ、バーローが!」
「手紙?」
睨み合いつつ、左之助がじりっと右に弧を描いて動く。弥彦も動く。その瞬間、
「出した」
ろうがっ!と叫んで、左之助の左足が地面を蹴った。が、同時に弥彦も直進している。間合いが死んで、互いの腕を掴んで競り合った。
「大体、死んで手紙が出せるかよ。」
囁く左之助の頬に、獰猛な笑いが走る。
同時に跳び退り、弥彦が間髪入れずに踏み込んだ。
「るせえ! ヤキモキさせやがって、この抜け作!」
左之助は上体をわずかに横滑りさせて、繰り出された拳をよけた。残った毛髪が弥彦の拳に当たる。と、思った瞬間、背後から左之助に首を取られた。頭を反らせて頭突きで反撃し、その後は、くんずほぐれつ、ただのどつき合いになった。
ひとしきり暴れてようやく気の済んだ二人が、どさりと縁に腰を下ろした。
「よう、クソガキ。ちっとは使えるようになったかよ。」
「フン、てめえが耄碌しただけだろ、えらそうに。」
二人とも、言葉こそ乱暴だが、声も顔も、生き生きと弾んでいる。
皆に取り囲まれて、左之助はあっちにこっちにと返事に忙しい。
その様子を、央太と剣路は、喧騒の輪の外で見ていた。
留守を預かっていた当家の住人ながら、今のこの状況ではもっとも部外者なのが彼ら二人である。
やはり気になるのか場を離れようとしない剣路にそこの雑用を任せ、央太は裏で器や手土産を片付けたり、いつも通り明日の支度をしたりしていた。
2005.12.17/ひた走る7―帰り道
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