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ひた走る


五、剣心


 正月の門松も取れて数日が経ち、剣心の生活はようやく日常に戻りつつある。
 目の回るようなひと月だった。
 神谷邸に来て初めての正月。三十路を迎えるこの年、剣心は自分が年迎えのならわしについて全くといっていいほど無知であることを改めて知った。薫はともかく弥彦にさえあれこれと手抜かりや買い洩らしを指摘され、あまりの無知加減にだれより自身が驚いた。
 門松は二十九日に立ててはいけない。注連しめ飾りは太い方が右。床の間の室礼しつらいは鏡餅と屠蘇とそ器と花。首の落ちる花は飾らない。
 幼年時代を比古の元で過ごし、その後は倒幕活動と流浪生活が続いた。根なし草の日々のなか、それでも季節季節の行事や風物は見覚え聞き知ったものの、まともに正月を迎える準備はしたことがない。冬至に柚子湯を使うことを知ってはいても、おせちのどの重に何を詰めるかは判らなかった。
 畑違いとはいえ本職の妙に指南を受けたためそこはかとなく関西風のお重になってしまったが、唯一口うるさく指摘したであろう食い道楽はもういない。さすがに白味噌の雑煮には薫と弥彦が揃って異を唱え、すまし汁に何故か金時人参と小芋の入った妙な折衷雑煮が祝い膳に並んだ。
 そうしておろおろと右往左往しながら、ときどき、ふと不思議な感覚にとらわれた。
 左之助がいなくなってまもなく三月みつきになる。
 弥彦が引っ越したり、津南の新聞に協力したり、正月の準備をしたりで何かと立て込んだとはいえ、毎日があまりにもこれまで通りだった。
 もっとなにか変化があると思っていた。あるいは、なにかの拍子で、最後に二人で会った夜のような苦しみがまた襲ってくるのではないかと懼れてもいた。あんなに近しかった唯一の人間がいなくなったのだ。なにも起こらないはずがない。大きな波を、覚悟していた。
 だが彼の日常は変わらなかった。
 変わらず目覚め、家事をこなし、食事をして、床に就く。弥彦の稽古に付き合い、薫と出かけ、町内の行事に参加する。なんとなく時間を持て余したり、つい飯を炊きすぎたり、眠り損ねて朝まで起きていたりすることもなくはなかったが、概ね問題なく日常生活を営んでいた。
 日々は静かに過ぎていく。


 弾んだ足音が近づいてきた。
「ねえねえ剣心、背負上しょいあげどっちがいいと思う?」
 右手に緋鹿子、左手には白地に朱鷺色の飛び絞りの帯揚げを振り回している。
「おろ? さあ、そうでござるなあ。薫殿の好きな方がよいのではござらぬか。」
 答えになっていない。
 が、薫は「そおお? じゃあ飛び絞りにしよっかなあ」などと言いながら、足の裏を見せて駆けて行く。
 もう数日前から同じようなことを何度も繰り返していた。いよいよ当日という今日になっても、まだ決まらないらしい。
 春芝居に行くのである。
 嬉しそうな背中を見送り、剣心も自分の身仕度を始めた。
 やはり慣れない一張羅の晴れ着をぞろりと肩に滑らせ、帯を締める。今日は袴は着けない。
 京都から帰ってきて間もない頃に誂えたものだった。妙の影響で芝居に凝り始めた薫が冬の顔見世芝居にみんなで行きたいと言い、蔵の軸が晴れ着に化けた。
 届いた日のことを思い出す。
 よりにもよって縁の襲撃を数日後に控えた緊張の中、届けられた四人分の晴れ着はあまりにも場違いだった。思わずぽかんと口を開けた家人の対応に、当惑した丁稚が届け先を間違ったのではと表札を確かめていた。今となっては笑い話だ。
 結局事件続きで顔見世には行かず、初めての出番は正月になった。左之助のためのひと揃いはしつけを取らないまま蔵にしまった。だがそのときも取り立てて強い感情は湧かなかった。小さな違和感が少しあっただけだった。何かをしまい忘れたか、あるいは間違って余計なものを一緒に入れてしまったか、そういうたぐいの些細な手ちがいの感覚。
 重地の羽織を手に取ったとき、またそれと似た違和感を覚えた。
 首を傾げて身頃を上から順にぽんぽんと押さえ、ひととおり確かめてから部屋を出た。
 薫は既に仕度を終えていた。まだ早いが弥彦も来ている。念のため、かかしのように両手を広げて裏返りながら、二人に訊いてみた。
「どこかおかしくはござらんか?」
「うううん、全然。やっぱりいいわね、そういう格好も。ねえ弥彦?」
「ああ、七五三みたいでカッコいいぞ剣心。」
「アンタねっ!」
 このところとみに生意気に拍車のかかった弥彦がお約束の減らず口を叩く。それに留守を預けて二人で家を出、途中で妙たちと合流して人力車で芝居茶屋へ向かった。
 新富座の周囲は晴れがましく華やいでいた。三年前に火事で焼け、去年再建が成ったばかりとあって、瓦は黒々と漆喰は白い。劇場の正面には、役者の名前の入った幟が翻り、その合間からまねきや演し物の絵看板が覗いている。
 はしゃぐ妙と薫の横で、燕が小さく口を開けていた。
「燕殿も初めてでござるか?」
「えっ。ええ、あの、小さな小屋とかはあれですけど、こんな立派な。き、菊五郎さんとかも出るんですよね。どうしよう……」
 といっても無論客席で見るだけである。期待が興奮ではなく緊張に向かうところが燕らしい。胸の高さにある頭に剣心が手を載せた。
「拙者もでござるよ。いささか緊張していたのだが、仲間がいてよかったでござる。」
 案内に連れられて劇場に入ると、中の造りは文明開化だった。壁にガス灯、天井には巨大なシャンデリア。
 物珍しく見回しつつ席に着いた。女二人と子どもに剣心。小柄ばかりの顔ぶれで、四人掛けの枡に火鉢を置いて、それでもまだそれなりに余裕がある。
 ほどなく始まりを知らせるの音が響いて、定式幕が引かれ始めた。
 カカカカカと刻み、幕が開ききったところで止め柝が入る。
 カツーンン――。
 硬い打音の余韻が、一瞬、剣心から音を奪った。
 無音の鳴振に放り込まれて、またあの違和感を覚えた。
 軽く首を振ってやり過ごし、舞台に目を向ける。
 口上に続いて賑々しく鳴り物が入り、曾我兄弟の物語が始まった。


 どっと歓声がわき、剣心はハッと目が覚めた。
 いつのまにか居眠りをしていたらしい。
 芝居は一幕目が終わったところとみえ、柝にのって幕が閉まってゆこうとしていた。見ると妙と薫は盛んに呼び声をかけ、燕は頬を染めて袂を揉んでいる。見てもいないのに同調するのも憚られて大人しくしていると、燕が横から剣心を見上げ、首を傾げてほほえんだ。
 おはようございます。
 そんな控え目な微笑に、同じ微笑で応える。
 長い幕間まくあいには、茶屋に戻って食べたり飲んだり喋ったり、界隈をぶらぶらしたりもした。いずれにしても女三人はとにかく口が忙しいが、なんとも嬉しそうにはしゃぐ彼女たちを見ているだけで、剣心の顔もほころんだ。早目に席に戻り、のんびりお茶をすすっていると、ほどなく二幕目が始まった。
 幕が開くと、今度は川の渡し場。安珍清姫、と妙が説明してくれた。若僧の安珍に恋した清姫が大蛇となって彼を追う。道成寺だ。
 これは清姫が恋人の隠れる寺へ行くために川を渡ろうとしているところらしい。
 と、短く三味線の一撥ひとばち
 ベィンンン――。
 一のいとの開放絃。
 太棹独特の、さわり・・・の効いた低音がにじんだ。棹に触れた部分から他の二絃が共鳴して、ざらい和紙に薄墨を刷いたようにじんわりと鳴る、壱越いちこつ。音の同心円が、深いすり鉢に立ち上がっていく。
 鳴振が剣心を揺さぶり、またあの違和感に襲われた。なにかを掛けちがったような、なにか大事なことを忘れているような、居心地の悪さ。上顎に海苔が張り付いたようなもどかしさ。
 小さく肩を揺すって、意識を舞台に向ける。
 花簪の姫が渡し守に「その舟早う渡してたべ」と仕草で懇願していた。だが、むくつけき赤顔の船頭は、太い眉をぴくぴくさせて、姫を邪険に拒む。
「ほう。」
 思わず嘆声が出た。
 人形振り。
 番付にも看板にもそうあり、妙も言っていた。人間の役者が文楽の人形に扮して、人形浄瑠璃そっくりのぎこちない動きをして見せるという趣向だ。背後には人形遣い役の後見がつき、本当に役者人形を操っているような仕草をする。
 それにしても、小さな操り人形が巨大化したと錯覚を覚えるほど、その挙動は巧みだった。身振り手振りは直線的で、関節からはキリキリと音が聞こえてきそうだ。なにより、自分の意志ではなく他人の手で肢体を振り回されているような不安定感と、役者の生身を感じさせない空虚さが、一種の異様を孕んで、剣心の目を惹きつけた。
 姫が身をよじる。と、首がカクカクと頼りなく振れ、簪がしゃらんと揺れる。渡し守に差し伸べ拝む指先は強ばったまま。押し問答が続き、やがて、粗野で無情な船頭が、滑稽さえ感じさせる乱暴な身振りで渡しを拒み、上手かみてに引っ込んだ。
 あとは独断場。岸に残された娘が、人形遣いの手に操られて、恋情を語り、嘆き悲しみ、怨み、憤って身悶える。
 ふいに姫が川に身を投げた。
「あっ。」
 女が川に飛び込んだというより、人形が台から突き落とされたように見えた。
 同時に浅葱の波布が一気に大きく持ち上げられて、舞台上を隠す。その一瞬の間に、黒子が渡し場の岸を取り払い、張りぼての松の木を持ち去る。
 そして人形は人間になった。
 もはや、舞台は一面、川の激流。そこで女が水にのまれながらもがいている。人形遣いの姿はすでにない。
 三味線の撥が荒々しく撥皮を打つ。太棹三味線の早いいとにのって、空ろな人形から生身の女になった姫は、しんなりと指を反らせ恋しく目を光らせ、流れに逆らう。やがて女は人から蛇に化身して、隔てる川を一心不乱に泳ぎ渡っていった。
 ――不思議や立浪逆巻きて
   髪も逆立つ浪がしら
   抜き手をきって渡りしは怪しかりける――
 義太夫はそう謡う。
 だが、怪しいどころか、恋しい余りの一念で命がけで水を掻く様子に、客席のあちこちから洟をすする水音が聞こえた。役者の名前を呼ばわる声が乱れとび、大きな歓声のなか、三味線がひときわ狂おしくかき鳴らされ、幕が閉まった。
 我に返ると、女三人は涙ぐんでいた。
「いやあ、もう、やっぱり役者がちがわはるわ。」
「すっごいよかったー!」
 妙と薫は興奮もあらわに、そして燕はやはり無口に感動している。
 同意を求められて剣心も素直にうなずいた。
「見事でござった。驚いたでござる。」
 三味線の律動に洗われて少し気持ちが騒いでいたが、そんなことは無論言わない。
 また長い幕間があって、大切りは忠臣蔵。よく知られた話とはいえ、朝から丸一日の見続けで、燕と剣心はもちろん、薫や妙ですらめっきり疲れ、途中をしばらく茶屋で休んだりもした。そうして長い芝居の間にこれまた長い幕間を何度もはさみ、夜もかなりの時間になってようやく終演となった。
 念願の新富座芝居を堪能しすぎるほどに堪能して、劇場の瓦斯灯やら茶屋の提灯やらの光の海を後にする。

「あ」
「どうかした?」
「いや、なんでもござらんよ。」
 小さな呟きを聞きとがめた薫に笑い返して、人力車に乗る。
 ガタガタと揺れる車上。
 流れる街並みに顔を向け、しっかり目を閉じて、気持ちを鎮めようと努めた。
 妙と燕の後姿を見ながら茶屋ののれんをくぐり、薫の手を取って俥に乗せたとき、剣心はまったく突然に気づいたのだ。
 たびたび煩わされていた違和感の正体。頭の片隅にひっかかったもどかしさの理由。
 どうして忘れていたのだろう。
 他でもない。
 左之助に大切なことを言いそびれていたというのに。
 一度きちんと言っておかなければ、と思っていたはずだったのに。
 ずっとずっと、気にかかっていた。行ってしまう前ではない、もっとずっと前からだ。闘いが終わってから、もう少し落ち着いてから、墓参を戻ってから、恵たちが出発してから……。
 そうして引き伸ばしているうちに例の手配騒ぎが起こり、すっかり忘れていた。
 いや、ちがう。
 忘れたふりをしていた。


 あのとき――。
 剣心は思い返した。
 縁が神谷道場を襲撃した、あの夏の終わりの闘いの夜。
 前の日にあんなにひどく傷つけたにもかかわらず、闘いの中で左之助はいつもと変わらなかった。どころか、いつも以上に正実で鮮烈だった。
 もしかしてまだ失ってはいないのかもしれない、ならばこれを乗り越えればきっと損なったものを取り戻せる。
 そう思った。
 だが、剣心は守るべきものを守りきれなかった。


 そして逃げた。



 それに気づいたのは、一体どれほどの時間が経った後だったのだろう。
 数時間どころではない、何日も過ぎていたはずだ。
 どこか乾いたところにいた。
 よく知っているところだった。
 ここでは、足を持ち上げて前に出す、それだけのことが途方もなく難しい。周囲の物音や人の声が遠い。世界に触れられない。時間も流れない。
 何を思うでもなく何を見るでもなく、ただ佇む。自分が砂の塊になっていく。
 何度もここに来た。巴を失い、やっと知りかけた生き方を見失い、凍えた身体をひきずるように諸国を流浪れながら、何度も堕ちてきた。
 どうしたら、歩き出せるのだったろう。
 その方法が思い出せずにいた。


 先に燕の声が聞こえた。
「剣心さん、お願い。弥彦君を助けて……」
 泣いていた。
 頭の中にいろんな景色が見えて、誰かが誰かと話を始めた。
 そんなこと、言われても、困る。
 ――どうして?
 だってもう疲れた。もういいんだ。
 ――それでこれからどうするつもりだ?
 別にどうも。もう、どうでもいい。
 ――どうでもいい?
 そうだ。
 ――何もかも?
 ああ。
 ――ほんとに?
 ――言えよ。
 ふいに、ちがう声が割り込んだ。
 ――どうしてほしいとか、
 ――弥彦君を助けて。
 ――なにがしたいとか。
 ――帰ってきたときに聞かせてくれ。
 ――おねがい、
 ――お前がこの先、どうしたいか。
 ――助けて……。
 泣きじゃくる声と、泣きそうな声。
 燕が地面に崩れて泣いている。
 左之助が自分の顔を手挟んで何か言っている。
 これは、夢か?
 そのとき、左頬に強い衝撃が走った。
 覚えのある拳。口中の血の味は現実。
 ちがう、夢ではない。
 突然、鮮明に思い出した。
 そうだ、左之助が来たのだ。
 来て、そして去った。だがこんな朽ち果てることを待つだけの物体に「どうしたい」と訊ね、彼を裏切り続けた身に傷ついた愛しい拳をくれた。そればかりか――。
 ――弥彦君を助けて。
 ――救えねえなら……。
 ――助けて……。
 気がつくと、それでも捨てられなかった逆刃刀を、必死に握り締めていた。



 いつも傷つけてばかりいた。誤魔化して、逃げて、はぐらかして、ずるばかりしていた。
 出会った最初から、言葉で紡いだ絆ではなかったが、それでも口に出して言わなければ伝わらないことがあるし、どうしても言わなければならないこともあるというのに。
 治りきらない傷口を掻き回すのを恐れて、最後まで伝えないままにしてしまった。
 あの乾いた場所から連れ戻してくれたのはお前だと。ちゃんと聞こえていた、聞いていた、覚えている、そして忘れない。かけがえのないものをたくさんもらった。あのときも、あの後も、その前も、ずっと前も、いつもいつでも、だから今日まで来られた。これからも、やっていける。
 出会えてよかった、と。

 でも、本当に?

 本当にそんなことを言い得ただろうか。第一、言ってどうなる。だから、気づかないふりをして、忘れたふりをして、怒ったふりをして、忙しいふりをして、封じてしまったのではなかったか。言おうと思った心も、彼を失った痛みも。
 痛み――。
 そう、痛み。
 平気だったはずがない。
 谷への報復も正月の準備も、本当はどうでもよかった。ただじっとしていられなくて、何かせずにはいられなかった。洗濯も炊事も掃除も手と身体が勝手にしていた。同じところを何度も拭いたし、洗濯は適当、料理の献立もでたらめ。しょっちゅう飯を炊きすぎて弥彦や薫に笑われた。
 辛さはほとんど物理的だった。床にも入らず朝まで脂汗をかいた夜が幾度あったか数えてもいない。気づかないふりでもしなければ、時間が後ろに去らなかった。
 離れても心で繋がっていられるなどと甘すぎる夢を見た。生きる道がちがうなどと安っぽい理屈で自分を騙そうとした。闘う道なら共に歩けたのだ。互いの志を曲げずに、潰し合わずに、一緒に生きる道があったのだ。気づいたのが遅かった。そしてまた逃げた。これが自分の道で、生き方で、責務。それが彼のため。そう思おうとした。ただ捨てるだけでよかったものを。
 言い訳は、探そうとさえ思えば、いくらでも見つかる。悔やんでももう遅い。もう別々の道を歩き始めてしまった。
 だが最後に行っておきたい場所があった。
 少し遠い。どんなに急いでも、往復して十日ではきかない。
 薫になんと言おう。
 迷って、正直に話すことにした。
「大事な用を忘れていたでござる。会いたい人がいるので、二十日ほど出かけたいのだが……」
「まさか女の人じゃないでしょうね。」
「ハハハ、男友達でござるよ。」
「どこまで行くの?」
 訊かれて、東海道のある宿場町の名を挙げた。
 薫は、山間の小さな宿の名前にやや驚きながらも、「気をつけてね」と、剣心の留守を承知した。
 そこで不思議な泉を見たことがあった。
 自分の心を映す泉、と聞いたはずだったが、剣心が見たとき、それは離れたところにいる人の姿を映していた。水の向こうと話さえできた。
 もしかしてあそこなら、と思う。もしかして、どこにいるかもわからない左之助に、万が一にも会えはしないだろうか。
 自分でも馬鹿げているとは思う。だが、馬鹿馬鹿しくても蜘蛛の糸でも、可能性を見てしまった。心はすでに飛んでいる。もう逃げないと決めたのだ。これが第一歩。行ってみるしかない。そうでなければ、これからの歳月を、また後悔と自己嫌悪にまみれて生きる、これまでの繰り返しにしてしまう。


 剣心は翌朝早くに出立し、そして予定より数日早く帰ってきた。
 きたのだが――。
「えーっ?! 剣心どうしたの、その頭!」
 薫が目を真ん丸にして驚いたのも無理はない。ふっつりと切り揃えたおかっぱ髪が、顎のあたりで揺れていた。襟足で結わえていたときよりも肩から首にかけての華奢さが強調され、かえって若く、どころか、ほとんど幼い印象になっている。
「変でござろうか?」
 と、照れくさそうに笑う姿は、変ではないが、尋常でもない。薫が素直な感想を述べた。
「へ、変じゃないけど……。でも、今年三十って、絶対だれも信じないわね。一体どうしたの? お友達に会いに行ったんじゃなかったの?」
「いや、それが居を移していて会えなかったのでござる。それでちょっと髪でも切ってみようかと。」
 なにがそれでちょっとなのか、皆目脈絡がない。ないが、薫はあっさり「そう」と笑って話を切り上げた。生活能力には欠けるが、薫のこの生半可な男以上にさばけた性格は、剣心にも心地よい。
 それとも、天真爛漫に見えて、実は意外と深い思案があるのだろうか。ふとそんなことも思った。
 薫に言ったように、気が狂うほど会いたかったひとには会えなかった。あったはずの泉はなかった。冬木立にしばらく佇み、伝えたかった言葉は、切り落とした髪と一緒に風に散らした。
 そして剣心は静かに沈んでいった。
 どれほど願っても、人は蛇にはなれない。ただ仄暗い水底に沈んで、ひっそりと泥に埋もれる石塊になる。だが、動かない躯の重さも水には消える。沈んでみれば、激しく荒かった水面もきらきらとまばゆかった。手の届かない光は、狂おしいほどにやわらかく美しかった。
 ふいに、先へ行く薫の背中がくるりと振り返った。
「剣心、疲れたでしょ? 今日はお風呂沸かそっか。っていうか、沸かしてくれる?」
 なかなか結構な言い分である。深い思案どころか、一番の大物は彼女かもしれない。
 素直に降参して、笑って薫に了解した。
 はてしない諦観のなか、それでも左之助が残していった力が泣きたくなるほどの強さで自分を支えてくれているのを剣心は感じる。
 帰ってくると言った。約束は違えないと言った。
 ならばそのときに、いつか左之助が帰ってきたときに、胸を張って会える自分でいたいと思う。
 いつまでも腑抜けてはいられない。負けられない。今度こそもう逃げない。途中で放り出さない。命ある限りここを守り、誓いを果たす。
 それをもって、どこかで精一杯生きているであろう左之助への証しにする。そう言い聞かせて、自分を奮い立たせる。
 春には祝言。
 心残りは、ない。




2004.12.08/ひた走る5―剣心
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