ひた走る
四、無言歌
視界いっぱいの抜けるような青空に、洗濯物が白々と翻る。
深く息を吸うと、心地よい涼気が手足の先まで行き渡った。日課の重労働も、皆ですると賑やかで楽しい。
そこへ蒼紫が小さな爆弾を落とした。
明日、恵の出立に合わせて、自分たちも京へ帰ると言うのだ。
「えー! どうしよう、お土産まだ全然買ってないー!」
「いらん。遊びで来たわけでないことは皆知っている。」
「そんなのお近さんたちに通用するわけないよーう。薫さーん。」
もう洗濯の手伝いどころではない。泣きつかれて、薫は操を連れて出掛けた。弥彦も、これは野次馬根性でついて行った。もっとも、口ではどう言っていても、やはり操との別れが寂しいには違いない。
やいのやいのと三人が出掛け、蒼紫も室に戻り、残された剣心は不思議な感覚に包まれた。
発つ人に同調して浮き立つ心と、残る自分の寂寞がないまぜになった、不安定な感情。
見送る者の感慨は、流浪を続け、常に去る側の人間だった剣心には、ほとんど馴染みのないものだった。
恵は会津へ発ち、蒼紫と操は京に帰る。そして剣心には新しい生活が待っている。
多くの物事が急転しつつあった。
自分で選んだ道に悔いはない。ただ、選べなかった道の先が気がかりだった。それとも選ばなかった人間にはそんな資格もないのだろうか。
だがその前に話しておかなければならないことがある。
つらつらと考えながら残っていた洗濯物を干し終えた。胸を開いて大きく伸びをすると、空の高さに眩暈がしそうになった。
そこへ声がした。
「よう。喧嘩しねえか。」
言うまでもなく左之助だった。先刻から、預けた逆刃刀を肩に担ぎ、手伝うでもなくうろうろしていた。
取れとばかりに刀を突き出し、「しようぜ、喧嘩」と繰り返す。
剣心はたすきに掛けていた紐を左之助に放って、苦笑した。
「お前の駄々っ子には困ったものだ。」
困れ困れもっと困れ、と真顔で言うのを尻目に、道場から木刀を拝借してきた。
逆刃刀は左之助に持たせたまま、河原に向かう。怪訝そうな視線を左手に感じて言った。
「言っておくが左之。右手は使用厳禁だぞ。」
「ああ?」
言われてようやく木刀の理由に思い当たったらしい。複雑な感情がいくつか面上を通り過ぎ、大人びた表情に収束した。
「んじゃおめえも奥義はナシだ。」
「おろ?」
「勝負は平等でなけりゃな。ま、得物が木刀じゃあ、どのみち撃てやしめえが。」
悪戯小僧に戻った左之助が、にやりと笑った。
「ほおう。試して欲しいか?」
「だからナシだっつってるだろ馬鹿野郎。」
河原に着いてさらに少し移動し、通りを外れた土手陰で足を止める。
「この辺でよかろう。」
と、剣心が間合いをとった。
「これはどうするよ。」
「その辺に置いておくさ。だれも来るまい。」
左之助は黙って首を竦め、言われたとおりに鉄拵えの鞘をゆっくりと地面に置く。
「ほんじゃま、軽くいくと……」
屈めた身体を起こす瞬間、左之助の左足が地面を蹴った。
「するかあっ!」
一気に懐に飛び込み、刀の間合いを殺す。と見えたのは一瞬。左之助が振り出した拳は残像をすり抜けて空を切った。
「ちぃっ。」
勢いを殺さずそのまま加速する。が、それを待つ剣心ではない。風と戯れるように右に左にと跳んだかと見るや、射抜く眼差しを残して掻き消えた。
上、と見上げた左之助の顔に影が落ちる。
「飛天御剣流――」
一瞬の空白があった。
「龍槌閃。」
手加減はしていない。だが、木刀とはいえ空から撃ち下ろす衝撃をまともに受け止め、それでも左之助は倒れない。
「やっぱ凄えや。」
そう呻く左之助に、それはお前だ、と心の中で言った。
着地した瞬間を逃さず、二撃目が来る。
「っらあぁー!」
見切られるのは承知なのだろう。左之助は直線で突っ込んでくる。平青眼に構えて迎えた。
「その打たれ強さと、」
木刀は真剣に比べて重心が散る。刀身の軽さが速さを殺ぐ。体についてこない得物のもどかしさを、力ずくでねじ伏せた。
「馬鹿正直さがな。」
飛天御剣流、九頭龍閃。
さすがに九撃同時とはいかなかった。とはいえ、限りなく不可避に近いはずの九本の剣線に、左之助の目はたしかについてきていた。そしてやはり倒れない。そればかりか、間髪入れずに拳を構えている。剥き出しの闘志を剣心に叩きつけている。
打たれ強さより奇跡の技より、闘いの中で見せるその清冽さに驚嘆する。
彼の一挙手一投足を脳裏に刻み、不屈の双眸を胸に焼き付けた。
この魂に応えるものをこれより他に持たない。
鞘代わりの左手に木刀を収めて腰に添えた。右手を下から柄にかけ、左足を引いて腰を落とす。重心は爪先、手の内は無心。
抜刀術の体勢だ。
左之助が敏感に反応して身体を起こした。目に楽しそうな光が踊っている。
「ずいぶん粋な真似をしてくれるじゃねえか。」
口の端に刃物のような笑みを閃かせて言った。
右前の左構えを解き、右腕を撓め、あらためて構え直す。秘技を宿した右拳を確かめるように開いて閉じる。それを三度繰り返した。軽く握り締めて呼吸を整え、左腕を緩く前方にかざす。
「いくぜ。」
「ああ。」
風にそよぐ草が足首を洗う。寸も動かず構えたまま、視線だけが烈しくぶつかり合った。
高まった闘気が昇華して穏やかな静けさに転じた瞬間、左之助の足が地面を蹴った。
「おぉりゃあああああ!」
剣心は動かない。
後の先。
間合いを見切って技を出すのは、神速の流儀の常である。その一瞬を逃さず、理屈ではなく身体が動く。
「うおおおぉぉっ……!」
二筋の風が交叉した。
草の絨毯に、左之助が大の字になっている。その傍らには、片膝を抱えた剣心の姿。並んで川面を見ながら、風に吹かれていた。
「手え出せ。」
言われて剣心は黙って右手を差し出した。
「左。」
左之助がぎろりと睨む。
無言で苦笑しつつ、だが素直に左を渡す。左之助の眉間に険しい皺が出来た。
抜刀術の強みは二つある。
ひとつは刀身が隠れるため相手に間合いを見切らせずにおけること。もうひとつが、最高の速度を得られること。ただしそれは鞘を刀身から抜く勢いを利用して可能となる。つまり、本来、木刀で抜刀術はなしえない。
だが不可能を可能にしてこれまでを生き延びてきた希代の剣客は、左手を鞘代わりに木刀の最速を出した。
手指を鯉口にしたのだ。
そうして得た目にもとまらぬ速度の代償に、左の親指の付け根が見るも無残に爛れていた。もはや擦り傷ではない。火傷の患部だ。摩擦の凄まじさはどれほどだったろう。
「馬鹿が。無茶しやがって。」
左之助が掌に包んだその手をじっと見て、ぼそりと吐いた。
勝負は一瞬だった。
相打ち狙い、と剣心は読んだ。
させない。一打で墜とす。
左手の鯉口から鞘走らせた木刀を、限界ぎりぎりの強さで撃ちつけた。左之助の左肩で甲高い衝撃音が鳴り、瞳孔が麻痺する。長身が揺れる。崩れた、と見えた瞬間、ふいに黒目が収縮して、凄まじい闘気が立ち上った。“やはり”と“まさか”、二つの言葉が同時に頭に浮かんだとき、左の脇腹に何かがとんと当たった。
「無茶はどっちだ。まったく。手加減という言葉を知らぬのか。」
「するまでもねえ。どのみち撃ち損ないさ。」
「これでか。よく言う。」
呆れ顔で言いながらも、指先で自分の脇腹をつつく剣心の声には素直な感嘆の響きがある。
京都で再会したときにも一撃食らってはいたが、あのときとは威力が段違いだった。
片肌を脱いで見れば、そこはうっすらと赤く色づいているばかりで、激しい拳打の名残りはどこにもない。
だが、それこそが技の威力を物語っている。
拳が軽く触れた一点から身体全体に波のような振動が広がっていき、その直後に激しい衝撃と熱がきた。力ではない。波動なのだ。体を内側から支配する波動。圧倒的な破壊力。だから外傷が残らない。思い出すだけで血が騒いだ。
「手足が千切れ飛んだと思ったが。よくまあ生命があったものだ。」
それを聞いて、いでで、と呻きながら左之助が身を起こした。
「てやんでえ。その言葉、そっくりそのまま返してやらあ。」
そう言う左之助の胸には、左肩から斜めに一筋、赤黒い太刀痕が凄まじい。袖に腕を入れながらそれに目をやって、さすがに気術なさそうに剣心が肩を竦めた。
「それよりお前こそ手を痛めたろう。ちょっと見せろ。」
「ふん。これくらい、いつものことだ。屁でもねえ。」
言ったきり、動かない。剣心も圧して見せろとは言わなかった。強いて確かめるまでもない。その一撃を受けたのは剣心なのだ。身をもって知った拳打の威力からも、折角治りかけた右手に大きな負荷がかかったことは明らかだった。
「左之。お前もう少し我が身を……」
厭え、と言いかけて苦笑する。
「まあ、お互いさまか。」
「つうかてめえが先に仕掛けたんだろうが。」
「相すまぬ。」
苦笑いのまま、どさりと後ろに身を倒した。大の字になると、空に緑の縁取りができた。
右手を伸ばし、丈高い草の中でそっと指先を探る。
絡んできた指を握り返して言った。
「左之。お前は、いけるところまで、いけ。」
手に力を込めると、それより少し強い力が返ってきた。
「立ち止まるな。」
吐き出す声が震えるのを、かろうじて抑えた。
きっと左之助は知らない。
どれほど焦がれているか。溺れているか。
たった半年。
奪われた心はすっかり彼の色に染まってしまった。闘う背中を横顔を、何度も見た。猛る咆哮を何度も聞いた。そのたびに惹き込まれて囚われて、もうどこまでが自分かも判らない。彼を失ってどうなるかも判らない。
だが。
だがしなければならないことがあった。自分で自分に課した責務を放棄することはできない。
「お前の言うように、俺の思い上がりなのかもしれない。不幸にするのかもしれない。けど、やっぱり俺には……この生き方しか、見えないんだ。」
長い沈黙が落ちた。互いに口を閉ざしたまま、そのままどれほど草のざわつく音を聞いただろうか。
「たく、つくづく不器用な野郎だな、おめえはよ。」
さばけた軽い口調。殺した悲鳴に貫かれて、剣心は強く目をつむった。
「左之……」
目を開けると、空が昏いほど青かった。
「左之、俺、思ったんだ。なにが幸せかなんて、だれにもわからないんだって。だったら、いらないと言われるまで傍にいようかと。……心はやれなくても、一緒にいるくらいのことはできる。それで彼女を幸せにできるのか、余計傷つけるだけなのかはわからないけど。」
それがどれだけ残酷な言葉かは判っていた。
「でも俺は、自分のためには、生きられない……」
思わず指に力が籠った。さっきと同じように少し強い力が返ってきて、胸が詰まる。
この期に及んでなお応えてくれるこの手を、自分は捨てるのだ。
不実で身勝手で愚かな選択。男だろうが女だろうが、強かろうが弱かろうが、傷つく痛みに大小はないものを、薫への責任と左之助の将来を口実に、また逃げているだけなのかもしれない。これが過ちなら報いは全てこの身に、と思う。
「まったく、相も変わらずお前らしすぎて呆れっちまう。」
「左之……」
「んなこと言われちゃあ、なんも言えねえわなあ。」
左之助はそう言って、固く握り合わせたままの手を二、三度軽く揺すった。無骨な振動が励ますような力強い温もりを剣心に伝えてくる。
「左之。」
「よう、俺にしてやれることは残ってねえのかよう。」
「左之……」
剣心は返す言葉を失って、唯一の祈りのように左之助の名前を唱えた。
もう充分だ。充分もらっている。
何度も喉まで出かかった言葉をまた呑み込んで、目を瞑った。
「まあいいや。おめえはおめえの仕事をするさ。その代わり俺も自分のしたいようにするからな。口出しすんなよ。」
「左之?」
どうしようというのだろう。こんな言い方をする以上は、きっと自分に関わることのはずだ。思わず身を起こすと、左之助が柔らかく笑って剣心を見ていた。
怖いほど優しい笑顔だった。
だが、そのとき左之助が何を考えていたのかは結局わからないままになった。
次の日、京と会津へ旅立つ二組を見送った直後、左之助は警官隊に追われて逃亡した。
浦村は左之助が指名手配になった事情を説明した後、自分の力では及ばない、と言った。
そして剣心を見て言った。
「なにかできることがあれば、言ってください。尽力します。」
これまでの経緯と剣心の為人を知る浦村は、多くを口にしない。
しかし相手は長州の維新志士で陸軍高官。ならば抑える方法もあるだろう。力は及ばなくても取り次ぎならできる。
言外の厚意に目礼で応えて、警察署を後にした。
その日から剣心は時間が許す限り左之助を探した。
最初は自分も一緒に行くと言い張った弥彦も、厳しい顔で密偵を撒けるのかと問われて大人しくなった。
もとより神谷に連絡が入ることも大いにありうる。数時間おきに一旦戻ってはまた出かけ、心当たりの場所を訪ねた。左之助の友人、知人にも消息や噂を訊いて回った。人目を忍んだ廃堂にも度々立ち寄った。
そんなことが何日か続いた。
五日目だったか、六日目だったか。
夜更け。
しつこくつけ回す密偵を撒き、大きく迂回する道からいつもの寺に足を向けた。破れ門をくぐり、茂り放題の庭から本堂の横手へ。広い境内に点在する堂舎のひとつ、大木に寄り添う小さな一堂。建具の外れた柱間に大きな蜘蛛の巣がかかっているのが遠目にもはっきりと見て取れる。
踏み均した草が乾いた音を立てるのを聞きながら、剣心は深々とため息をついた。
人前でこそいつも通りに振る舞っているが、ここにいる間は平生殺し通している激しい怒りを開放する。それがこの数日の習いになっていた。険しいというよりも荒んだ表情で刀を外し、縁から堂に上がった。
そのとき、ふいに耳に飛び込んできた声に、剣心はぎょっとした。
「しっかりしろよ、おい。」
聞き違えようもない、なつかしい声。
影になった奥の壁にもたれて、左之助が座り込んでいた。
「なんて顔してやがる。」
そう言ってからりと鷹揚に笑ったが、声の端が苦く滲んだ。
日頃の剣心なら、潜んでいる左之助の気配を察知しないはずがないのだ。だが、無防備と散漫を、左之助は咎めるにも咎められない。
「左之。」
剣心は思わず駆け寄りそうになる自分をかろうじて抑え、ゆっくり敷居をまたいだ。
「いつ来た。」
「さあ。日暮れ過ぎかな。久しぶりに、よく寝た。」
「そうか。」
少しやつれた、と剣心は思った。
無理もない。
人目を避けて逃げ隠れる人間に、それはきっとどんなに剛毅な男にとっても、一日は果てしなく長い。まさか死罪にはなるまいが、捕まってしまえばそれさえ相手の手中でもある。先の知れない身で闇に潜んで渡る数日の時間が、左之助を研いでいた。多くの人がすっかりそれが彼だと思い込んでいる陽気な明るさが削ぎ落とされ、その奥に隠されていた危うさ鋭さがむきだしになっている。
獰猛な肉食獣の目に昔を思い出しながら、歩み寄る。隣に腰を下ろそうとすると、左之助が自分の前の床を叩いた。剣心は少し迷ってから、黙って言われた場所に座った。
「バーカ、なんだそりゃ。」
膝を揃えて正座した様子に左之助が噴き出し、剣心の体をぐいと引いた。
「ちょ……左之っ!」
左手で左腕を引かれ、くるりと回転して背中から倒れこんだところを両腕で抱きすくめられて、剣心は慌てる。
「お、おい、よさぬか。もうそんな……」
そんな、なんだと言おうとしたのか。口ごもった言葉尻に低い声が被った。
「最後だ。大目に見ろ。」
剣心の体がぴくりと動いて、おとなしくなった。
左之助は、硬く懐に収まった剣心をきつく抱き締め、肩に顔を埋めた。その腕に、躊躇う手がそろりと触れる。
最後。
少し不貞腐れたぶっきらぼうな口調が剣心の耳に残った。照れくさい、あるいは恥ずかしいときに、この青年はよくこんな言い方をする。それから、哀しいとき、悔しいときにも。
剣心は奥歯を噛みしめて大きく息を吸い、衝きあげる激情を押さえつけた。
「左之。委細を話せ。」
腐れた野郎をぶっ飛ばしただけだ、と言うのに食い下がり、根掘り葉掘り事情を聞いた。
谷十三郎。不動沢何某。比留間喜兵衛、伍兵衛。浦村が口にしなかった名前も出た。それらを頭に叩き込んでいく。
覚えず、指に力がこもった。
去るのは覚悟の上だった。だがこんな別れ方は想像もしなかった。
自由に生きて欲しかった。自分などに囚われることなく、自分の人生を見つけて欲しかった。だから離れると決めたのだ。一時は傷つけてしまうとしても、きっとそれが最善だと思ったからだ。
赤報隊の悲劇に一度は歪めかけた道を、今度こそまっすぐ生きて欲しかったからだ。
なのに、また。
「………不当だ。こんなこと、まちがってる。」
きしむ歯の隙間から、絞るような囁きが漏れた。
「剣心。」
「こんな風にお前を貶めるなど、許さない。」
だれもが安心して暮らせる平和な世の中になるはずだったのだ。虐げられ苦しんでいた人々こそ救われるはずだったのだ。
「なのに、どうして……」
これが“新時代”かと思うと、血が逆流する。私利私欲にまみれた権力争い。市井の人々を踏みにじる国策。官憲の横暴。多すぎる血を流し、この手で作り出した醜悪な現実。
そんなものに傷つけさせはしない。そんな手出しを許すつもりはない。
熱くて冷たい憤りと怒りが剣心のなかで渦巻いて、ひとつの決心を生んでいた。
「許せるものか。……左之、早まるなよ。」
「おうおう、待て待て。お前こそ早まんじゃねえよ。」
重い呻きに、左之助が口を開いた。
剣心は黙って、思いつめた目で自分のつま先を睨みつけている。
「よう剣心。言っとくが手出しは無用だぜ。これあ俺の喧嘩だ。白いものを黒にする“正義の権力”。こいつは俺の相手なんだよ。十年も前からな。絶対、手え出すな。」
「………」
「ほとぼりが冷めるまでちいとフケるだけのこった。大したことじゃねえだろうが。」
それは剣心にもわかっている。実際に重傷を負わせたとはいえ、半ば以上は谷の私怨。そして彼には探られれば痛い腹がある。今回は阿片を密造していた恵のときとは事情がちがう。
とはいえ。
「……嫌だ。俺は嫌だ、こんな理不尽な話。どうしてお前が……!」
剣心の指に力が増す。先の白くなった朱い爪が左之助の腕に食い込むのにも気づかない。
「馬っ鹿、今さらなに言ってやがる。お前、俺がなんでこんなもんしょってるか忘れたかよ。」
左之助が背負うもの。
惡一文字。そしてその意味。
忘れるわけがない。だから許せないのだ。
だが、どちらもあちら側にいた自分が口にはできない。
「喧嘩だって言ったろが。なんでもいいから最後に立ってりゃ勝ちなんだよ。ブタまんじゅうなんかお先が知れてる。権力なんざ所詮借りモンの武器、失くしゃあしまいだからな。放っときゃ勝手に自滅する。そんだけのことだ。」
左之助が正しい。あんな男は、まともに相手をするだけの価値もない。
だが、頭が理解しても剣心の血が納得しないのだ。奥歯がきりりと鳴る。いつのまにかしっかりと胸に抱きかかえていた腕に顎を埋めると、言い聞かせるような呆れたような、芯の太い声が頭の上でした。
「おう、腑抜けてんじゃねえよ。おめえが負けてどうする。」
出会った頃の攻撃的な気にも似ているが、それではない。数日前に河原で触れたあたたかさも感じるが、それだけでもない。複雑にあざなわれた深いものが、後頭部から直接頭の中に響いてくる。
「権力に権力で立ち向かや、向こうの権力を認めることになっちまうだろうが。そんなもんに負けんな。こんなことで傷つくな。なにが手配、上等じゃねえか。嬢ちゃんの味噌汁のがよっぽど怖えや。」
「左之……」
「悪名結構。とことん逃げてやる。生きて、生き抜いて、逃げのびて、自分の行き方を貫く。それが俺の悪党魂だ。それにどのみち、権力も暴力ももう全然痛かねんだよ。……ほんとに大事なもんを見つけちまったからな。」
剣心がはっと息を詰め、左之助がいささか気まずそうに身じろぎした。ボソリと呟く。
「……わりィ。」
剣心の首が小さく左右に揺れた。
思いは同じだった。だがそれを口にする資格がない。
「また帰って来らあな。」
口を開きかけて止まり、黙ってうなずく。口を開けば、残酷な言葉が出てしまいそうで何も言えなかった。
「その間にお前はしっかり嬢ちゃん幸せにしとけ。」
再度うなずき、ことりと落ちた頭がそのまま止まる。
ふう、とため息が聞こえて、左之助の口調ががらりと軽くなった。
「俺ぁお前と違って嘘はつかねえ……よっ!」
勢いよく言い切った言葉と同時に後頭部にがつんと頭突きがきて、剣心は思わず悲鳴を上げた。
「馬鹿、痛いだろ、石頭!」
ちかちかする頭を振るい、ぴしゃりと腕を叩きながら文句を言う。
「それに、俺と違っては、余計……だ……」
和んだ後に、思い出してしまった懐かしい空気がひどく重くのしかかってきた。
剣心は無言で左之助の腕を引き絞った。
(左之。)
唇を噛んで、狂おしさを呑む。名前さえ、自分の口から出た途端、彼を傷つける刃になる気がした。
「バッカヤロー、泣いてんじゃねえよ。」
くぐもった声が言って、左之助の腕が苦しいほど強く剣心を締めつけた。
「……さらって行きたくなっちまうじゃねえか。」
気が遠くなりそうだった。
首にかかる息の熱さに耐えて、どのくらいそうしていただろうか。
剣心の唇が震えながら小さく開いたとき、ふいに腕の鎖がほどけた。
左之助が勢いよく立ち上がり、それから剣心の二の腕を掴んで立たせた。
今度は正面から顔を見据える。
「そろそろ行くわ。ちょいと、いろいろ準備があってな。知り合いに手はずを頼んであるんだが、昼間は動きにくくてよ。」
静かな笑顔をぼんやりと見上げて、剣心は小さく首肯した。
こんな顔をしている男に、だれが何を言えるだろう。
「多分、二、三日うちだ。そんときゃ、なんとかして知らせる。」
またうなずく。今度はなんとか笑えたはずだ。
「またな。」
「ああ。」
今度こそしっかり笑って見せ、肚の底から声を出すと、左之助の顔になつかしい不敵な笑みが閃いた。
背を向けて行きかけ、つまずいたように足を止める。
「っと、そうだ。」
「?」
「餞別。」
やんちゃ坊主が振り向いた。
「貰ってくぜ。」
「え……」
振り払う間も抗う暇もない。目を丸くして硬直する剣心に「じゃあな」と明るい声をかけて、左之助は走り去った。
振り返らない背中が見えなくなって、剣心はたまらずしゃがみこむ。
夢のようにかすめていった唇のぬくもりよりも、束の間顎を捉えた指の感触が、ぞっとするほど膚に残った。
手で覆った口からむせぶ声が溢れる。
「どうして、今、なんだ……。どうして、今頃に、なって……」
今さら考えてもどうにもならないことばかりが頭の周りをぐるぐるとすごい勢いで回っている。
もしも。
あるいはもしも。もしも、もしも……。
この世で最も無意味で空しい言葉が際限なく湧いてくる。
右手で口を左手で胸を押さえ、剣心は縁にうずくまった。
喉と胸の間に灼けた針が埋まっていた。
傷の痛みなどそれを超える気迫と覚悟で耐えればいい。闘いにおく身に、苦痛は自律の範疇。これまでも耐えてきた。荒い修行にも、数々の死闘にも、罪の呵責にも、平穏の甘い苦汁にさえ耐えてきたのだ。まして自分で選んだこと。耐えられないはずがない。
ないのに。
剣心の身体が大きく傾ぎ、ふっつりと倒れた。
風音に似た息の間に、幽かな声がまじる。
「……て………け…………」
言葉をなさないままいくつかの音が絞り出されて、途切れた。
土塊のように動かなくなった剣心に、やがて暁光が射す。
剣心はぱたりと出歩くのをやめた。
いずれ向こうから何とか言ってくるだろうから、という理由に薫と弥彦は納得した。むしろ根を詰める剣心を心配していたらしく、薫などは明らかにホッとして見えた。
が、手配の日からすでに七日が過ぎている。
「とにかく! 左之助が出て来ねえと、どう動くにしても始まらねえ!」
いきり立つ弥彦とは対照的に、薫は沈みがちだった。
「本当にどこへ消えちゃったのかな。それに、どうして私たちに黙ってたんだろ……」
水くさい、と、裏切られたような寂しさあるいは無力感を感じているのだろう。
剣心は淡々と言った。
「話せば拙者らも当然動く。」
剣心が、いや、抜刀斎が動けば、話は簡単だ。
「だがそれは左之が許さず殴った谷卿と同じやり方になる。」
「そっか。そんなの左之助が好むはずないもんね。」
「馴れ合いは左之の最も嫌うところ。自分の始末は必ず自分でつける。あいつはそういう男でござる。」
腑に落ちる理屈ではないが、他人に説いて聞かせる分には障らない。話の筋はそれで正しいのだ。だが、なぐさめ草を求めていた薫よりも、警察の片手落ちに憤る弥彦の方が、少し冷静だったようだ。
「剣心、なんか左之助には容赦ねえな。」
真剣な表情に、子どものなかの男がのぞいている。
剣心の顔に夕陽のような微笑が浮かんだ。
「そうでござるな。あいつは一人前の男だし、何より拙者の唯一の友人でござるからな。理念どころか死線すら共にした同志は今まで何人もいたが、そんな人間は、いなかった。」
そしてこれからもいないだろう。
「そっか……」
弥彦が口をつぐみ、そして何かを言いかけたときだった。
「あのう……」
裏の板塀越しに顔がのぞいた。
修だった。
左之助が彼らを待っているという。
日が落ちるのを待ち、連れて行かれた先は港の船着場。
渡しにでも使うような小舟の上に、左之助が勇ましい様子で仁王立ちになっていた。
「なに、ちょうどいい機会だ、このまま狭い日本におサラバして、ちょいと世界でも見に行こうかと思ってよ。」
駆けつけた側の切迫した声を、左之助はいつもと変わらないふてぶてしさでさらりと流す。
だが、ろくに話をする間もなく、甲高い呼び子が響き渡った。
左之助は、神谷邸の縁側にいるときとあまりにも同じ調子で薫をからかい、少し真面目に弥彦を励まし、そして剣心と笑みを交わした。
「左之――。」
剣心は足を踏み出した。しかし言うべき言葉がなかった。
あの夜、知った。
左之助は自分が思っていたよりもずっと先にいた。ばかりか、踏み越えて飛び立ってくれることを願ってうずくまるばかりだった剣心に強烈な熱を移していった。
負けられない、と思う。
不当な力にも、過去にも、自分にも、左之助にも。
そんな気持ちを言葉でどう伝えていいのかわからなかった。代わりに無言で掌を打ち合わせた。乾いた破裂音が鳴った一瞬、時間が止まる。どんな言葉よりも溢れるすべてをぶつけ、そして多分受け取った。
警官隊の呼び笛が遠ざかり、ささやくような水音が息を吹き返したのを潮に、舟は桟橋を離れた。あたりに灯はなく、黒い海に黒い舟影が小さくなっていく。
黒い背中の見えない惡の字を、三人は同じように黙ってそれぞれの思いで見送った。
「いつか剣心が言ってた通りになったね。」
薫が柔らかい声でそっと沈黙を破った。
「“別れではなく旅立ち。終わりではなく始まり”……だから、少し寂しいけど、我慢しなくちゃね。」
「ああ。少し寂しいけれど、我慢しなくてはな――。」
剣心も言った。
だが、薫にはそう返したものの、心のどこを探しても、不思議と寂しさが見当たらなかった。あの夜感じた気が狂うほどの痛みも後悔も、もう去っていた。あるのはただ、不当な追捕を逃れてくれた安堵と、前途への祈りと、これから彼を知る世界に対する、いわく言いがたい誇らしさ。
偽りでも強がりでもなく、自分で自分が信じられないほど晴れやかな心持ちだった。
よかった。
本当に心の底からそう思い、そしてこれからのことを思って、気を引き締めた。
しばらく雑事が立て込んだ。
今後の段取りをつけたり弥彦が引っ越したり、ちょうどそこへ赤べこの再建が重なったりして、ようやく身辺が落ち着いたと思った頃には、もう師走。ひと息つく間もなく、年迎えの喧騒に巻き込まれていった。
「号外号外!」
十二月のある日、弥彦がそう叫んで駆け込んできた。
「聞けよ、剣心! 大成功だぜ!」
喜色満面、声が弾んでいる。
「なにがでござる?」
「谷の野郎だよ! かなりヤバイって。てか処分確実だって!!」
今日、赤べこで、客の陸軍関係者の話を小耳に挟んだという。
いくら維新の功臣とはいえ、脱獄囚を使ったのはまずかった。軍の体面を損なうこと甚だしい。しかもあれだけ大々的に新聞が騒いでは収まるものも収まらない。上も処分を決めたそうだ。
と、それなりの位にありそうな男達が話していたというのだ。
「やっぱ剣心はすげえよなぁ。」
「おろ? 拙者は月岡殿と世間話をしただけでござるよ。」
弥彦は頬を紅潮させて言ったが、剣心は茫洋と笑って、いつもの昼行灯。
左之助がいなくなった後で剣心がなにやら動いているのは弥彦も知っていた。話してくれることなら剣心の方から話すだろうし、話すつもりがなければ訊いても話さないだろう。そう思って放っていた。
ある日、津南が発行した錦絵新聞を見て、これだったか、と驚いた。
左之助手配の原因となった件の事件の告発記事だった。
涼しい風体の青年が、いかにも憎々しい悪漢どもを踏みつけにし、脂ぎった小男の襟首をつかんでいる。小男は見苦しく泣き叫びながら許しを請うている。
絵師月岡津南の冴えた筆は、事件の輪郭とそこに絡む五人の人となりを、見事なまでの鮮やかさで描き出していた。
人を権力と暴力で屈服させる卑劣な傲慢と、それに立ち向かう義侠心。
上段に添えられた記事本文よりも、紙面の四分の三を占める絵が、事件の本質を舌鋒鋭く喝破し、見る者に強く訴えた。
新聞とは思えないほどの秀逸な絵が評判になったのか、あるいは事件そのものが注目されたのか、いずれにせよその錦絵新聞は悪漢らの実名と共に噂を呼んだ。
神谷家へは、相変わらず津南を贔屓にしている妙に教えられて弥彦が運んだ。驚かない剣心に「知ってたのか?」と問うと、自分が津南に持ちかけたと素直に話した。
「でもちょっと意外だったぜ、正直。」
「おろ?」
「いや、こういう絡め手みたいなやり方、なんか珍しいなーって思ってさ。」
「ああ。」
と言って、剣心は思い出したように短く笑った。
「絶対に手を出すな、と釘を刺されたのでござる。」
弥彦が怪訝な顔になり、そして一瞬後に強い驚きの表情が浮かんだ。
「左之助か?! でもだって……!」
そんな話をする時間はなかったはずだ。
「手が出せないので、口を出した。」
剣心はのほほんと笑うばかり。
だが弥彦は直感した。
会っていたのだ。左之助が姿をくらませていた、あの七日の間に。
では、錦絵新聞で初めて知った詳細や比留間兄弟の関わりも、弥彦たちが勝手に思いこんでいたように津南の情報収集能力によるものではなく、左之助が剣心に話し、剣心が津南に聞かせたものだったのだ。だからだったのか、と、ようやく納得した。
「おい剣心、なんだよそれ! 水くせえじゃねえか!」
「すまぬな。」
全然そうは見えない顔で言う。
「まあいいけどさ。どうせ今さらだし。」
これ見よがしにため息をついたが、弥彦は喉にひっかかっていた小骨が取れたようにすっきりした気分だった。
いくら男として認めているとはいえ、いや、認めていればこそ、その無二の親友があんな不当な扱いを受けて剣心が動かないということが、弥彦には不自然に見えて仕方なかったのだ。
弱い者いじめや権力者の横暴を黙って見過ごすなんて剣心らしくない。
それに、追われて尻尾を巻くように逃げ出すなんて、左之助も左之助らしくもない。
妙にわかった風なことを言って見送る剣心と薫の姿に、弥彦はモヤモヤした気持ちを抑え切れずにいた。
やっと腑に落ちた。やはり剣心も、いや、剣心こそ怒っていたのだ。だが、手を出すなという左之助の意地を立てた。左之助は、半分は意地、後の半分はおそらく自分で言った通り単なるきっかけだった。そして剣心は剣心で決着をつけた。
手が出せないので口を出す。
ほとんどどころか完全に屁理屈だ。しかし屁理屈も理屈だと言えば言える。
事件が事件だけに、津南も気魂を籠めただろう。絵師は血がしたたるほどの生々しさで現実を突きつけ、多くの人のなかに抑圧されている不正への怒りを揺り起こしたのだ。
あの刷り物は彼らの義憤の凝塊だ。それが世論を動かした。
こういう闘い方もあるのだ、と弥彦は思った。
剣心は痛みを知っているから強い。人を守るという目的を見失わないから、闘い方を誤らない。たとえば自分の意地や見得や体面にこだわらない。人の誤解や否定に動じない。本当の強さというものがどういうものであるかが、おぼろげながら見えた気がした。
「やっぱ剣心はすげえや。」
弥彦が繰り返した。
だが、「それは月岡殿でござるよ」と言って気の抜けた笑みを浮かべた剣心はやはりつかみどころがなく、何をどう感じているのかはわからない。
「でもさ、この新聞、なんで左之助のことはあんま書いてないんだ? 折角ならもっとパーッと派手にカッコよく書いてやりゃよかったのに。」
「それでは意味がござらんよ。」
「?」
「身内だとバレては元も子もない。それに、あまり詳しゅうては月岡殿に詮議が及ぼう。」
「あ、そうか。」
だから左之助だけが無名の「惡の男」として登場するのだ。
本当に、一体どうすればこの人に一歩でも近づけるのだろう。
弥彦は出会ってからというもの幾度となく抱いた感慨を新たにした。
年が変わるのを待たずに谷は罷免された。
2004.12.02/ひた走る4―無言歌
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