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ひた走る


八、神谷家の人々


 珍客があろうがなかろうが、剣路の一日はいつも通りに始まる。
 神谷家は、家屋敷の規模に比して住人が少ない。
 使用人はなく、家族三人の他には、内弟子の央太と、秋に祝言を挙げて離れに住み始めた弥彦夫婦がいるばかり。
 炭を熾し、雨戸を外し、水を汲み、外回りを掃き、灰を漬けておいた水からうわずみを取って洗濯用の灰汁あくを得る。
 子どもの朝は多用である。
 くだんの珍客がようやく起き出してきたのは、朝食を終え、燕と二人で取りかかった洗濯もほぼ済みかけた時分になってからのことだった。
「あら、左之助さん、おはようございます。」
「いよーう。」
 燕の爽やかな挨拶にのっそりと片手を上げて応える蓬髪鬚髯しゅんぜんが見るからにむさくるしく、剣路はこれ見よがしに眉をしかめて顔を背けた。
 だが左之助は気にとめる風もなく井戸端で水を使い始める。日も高くなったとはいえ、師走の朝の寒空に水は冷たい。諸肌を脱いで頭から水を浴びると、温かい肌に触れて、湯気が立った。
 それを、剣路は思わず凝視した。
 肩から背にかけて、凄まじい傷痕があったのだ。まだ治って間もないらしく、なめし皮の強靭さがみなぎる背中に、ひきつれた傷の肉色だけが脆弱なぬめりを帯びている。のたうつ傷痕は禍々しく子どもの目を引きつけた。
 両手に持った手拭いをその背にかけて無造作にこする様は、腕の動きが力強いだけに、我が身を鞭打つ自虐にも似て、見ている方が落ち着かない。その傷が今にも引き裂けて血を噴きはしないかと、剣路の目は引き剥がし難く男の背中に留まった。


 庭の落ち葉を集めていると、手なぐさみに草笛を鳴らしていた男が剣路に話しかけてきた。
「ようよう。」
 取り合わずに手を動かしていると、のそりと座りなおす気配がする。
「おい、坊主よ。」
「そんな人ここにいない。」
「可愛くねえぞクソガキ。」
「剣路。」
「ちびすけ。」
「剣路!」
「豆剣?」
「け、ん、じ!」
「そんじゃ剣坊。」
 諦めて、せめて思い切り険しい顔を作って振り向いた。
「なに!」
「遊んでやろうか。」
 信じ難く図々しいこんな男を相手に、こちらが我慢をする必要は覚えない。能うかぎりの反発を叩きつけてから顔を逸らし、ことさら大きく箒を動かし、重ねて「なあなあ」と言うのにも返事をしないでいると、今度は何も言わずにずんずん近寄ってきた。
「おれは忙しいの!」
 誰かと違って、と、箒の柄を鋭く鼻先に突きつけると、男の目が楽しそうに光った。
「へええ。いいねえ。」
 口の両端が切れ上がって笑った形になっているが、目が笑っていない。真剣そのもの、瞳孔が収縮して、黒目がちの眼球が刃物のような視線を放っている。
「仕込みは弥彦か?」
 結局乗せられたことがさらに腹立たしくはあったが、昨日から気になっていたことを、剣路は思い切って訊いてみることにした。
「あのさ、エモノは使わない人?」
「獲物?」
「体術系? 流派とか?」
「ああ、得物か。――いんや、使うぜ?」
 そう言って、彼は拳を捧げるように差し伸べた。
「そ……れは、武器じゃない。」
 一瞬気圧された反動が、剣路の口調を尖らせる。
「そっか、なんだ、無手なんだ。じゃあ弥彦さんの勝ちだな。」
 答えないままおもしろがるように眉だけを上げた男の様子は、続きを促しているようにも、「そうかな」と言っているようにも見える。
「だって竹刀を使ったら勝負にならない。だからあんたに合わせてたんだから。」
「なるほどねえ。」
 と口では言いつつ、片頬を歪めた毒のある微笑がその言葉を裏切っているのが剣路の癇に障る。
「なんだよ。何がおかしい!」
「いいや、なんも可笑しかねえぜ? だがそう思うならやってみっか?」
 上背のある身体を二つに折って上から覗き込んできた男の気配に総毛立つ。
「……で、でかいだけのヤツになんか負けるか!」
 ひと呼吸してようやくそう強がり、竹刀を取りに道場に走った。
 男に晒した背中がちりちりとざわついておさまらない。


 数回打ち込んだ時点で、剣路はすでに後悔していた。
 慣れた竹刀にすればよかった。相手の体躯に張り合おうと一寸いっすん長い道具を選んだが、勝負が厳しい程わずかな自由度の差が大きく作用する。
 男は剣路の力を測っているのか軽んじているのか、それまでの攻撃をいずれも避けずに受けていた。最初は腕。次が肩。逞しい筋肉は、手加減のない打ち込みを深々と受け入れる。瞬きもしない額を打つのは平気だったが、その次にわざとのように向けたままの背中を打たされ、手が怯んだ。迷った竹刀が、避けきれずに、あの凄まじい傷跡を打つ。布の下の肉を打ち据える手応えに、目を瞑ったまま、顔を背けた。
「甘えのは母親ゆずりってか。」
 ゆらりと向き直った男が、ゆっくりと両腕を開いて腰を落とした。
 くる。思った瞬間、身体が横に跳んでいた。動きを読んだわけではない。そんな余裕はなかった。動物的に屈めた頭の上を、重量感のある突風がなぎ払う。さらに飛び退き、休みなく身を揺らして、敵の手を回避する。
 何も考えられなくなった剣路の手足を、恐慌寸前の緊張が動かしていた。
 頭の芯が冷たく燃えて、背筋がぴりぴりと痙攣している。これまでどんな相手と対峙しても恐怖という感情を覚えたことがない。だが、かつてない自分の身体反応が、まさにその恐怖のためだということは、認めないわけにはいかなかった。
 ようやく安全な間合いまで逃れて、竹刀を青眼に構えた。
 息を整え、無理やり唾を飲み下すと、干からびて張りついた咽喉が、何か塊じみたものを嚥下した。
 怖れるな。怖れるな。
 必死に自分に言い聞かせる。
 怖れるな!
 勝機は必ずある。と、弥彦はよく言う。
 相手も人間だ。と、これは央太が言う。
 どんな偉そうで強ぶった男の人だって、最初はおぎゃあって泣きながら生まれてきたんだから。
 母の口癖を思い出し、ふっと呪縛がとけた。
 そうだ。この男だって昔は子どもだったのだ。今の自分と同じような。いや、もっと弱虫だったかもしれない。そうだ。洟垂れの泣き虫だ。それに決まった。
 そう思うと、巌のように大きくそびえて映っていた男の形影はみるみる小さく萎んで、元の人間の姿に戻った。
 怖れるな。
 湖面が凪ぐように、気持ちが静まっていった。
 足がひとりでに動き始めた。身体が軽い。取り回しにくいと感じた重い竹刀が、不思議と身体に馴染んでいる。誰かが動かしてくれているのかと思いたくなるほどの動きの軽さに、自分で驚いていた。
 どうしてこんな風に動けるのだろう。第一、こんな身ごなしをいつか誰かに習っただろうか。
 ひらりひらりと動いて相手を牽制しながら、頭の片隅でそんなことを考えている。それをまた離れたところから観察している自分もいる。かすかな既視感。いつかどこかで見た情景。だが同じではない、微妙で決定的な齟齬がある。
 不可解に錯綜した意識を離れて、身体は機をうかがって軽やかに動き続けている。
 不規則な緩急に惑ってか、男の動きは止まっていた。足を開いてどっしりと構え、剣路をじっと見ている。
 もう恐怖はない。
 だが、研ぎ澄まされた剣路の感覚は、男の変化を察知していた。
 遊びまぎれのはしゃいだ気配が消えている。
 獲物を仕留めようとする禽獣にも似た。
 これが殺気か。
 怖くはないが、ぞくぞくと震えが這い上る。
 この間合い、この動きを、やぶる方法を、多分、知っている。
 瞬時に肚をくくり、深く膝をたわめたとき、男が笑った。
 その姿から目を離さず一旦横とびに跳躍し、斜め後方の木の幹を踏み台にしてさらに跳ぶ。だが狙った高度には到底届かない。食いしばった歯がぎりっと鳴る。
 一瞬の無重力、そして落下。その瞬間を逃さず、竹刀を振り下ろした。
 だめだ。
 だめだ、遅い。まるで遅い。
 愚鈍な竹刀の動きに、憎悪にも似た焦慮が沸きあがる。
 父の一撃は風のように速かった。光のように鋭かった。
 絶望的な劣等感の耐えがたい重量に耐えながら、全身の力を竹刀に集める。
 自分の非力に顔が歪んだ。揺れる視界のなか、男の顔が影に入る。眩しそうに目を細めている。口が小さく開閉する。
 全てが緩慢に見え、世界は音を失った。

 固く隆起した筋肉を打つ手応えで、剣路は我に返った。
 たわめた鋼のように張り詰めた皮膚は渾身の一撃をなんなくはね返し、勢い余った剣路の体勢を崩した。
「直伝かよ。こいつぁおもしれえ。」
 自分を見上げた男の口の動きを、ようやく音として、言葉として認識したのは、着地しそこねて地面に転がった後である。
 大きく喘いで息を整える剣路に、男が言った。
「だが教えちゃいめえ。見て盗んだか。」
「だ……だったらどうした!」
 父がひとりで稽古する姿を覗き見たことがあった。咄嗟にそれを真似た。跳躍力の不足を木の幹に頼ろうとしたが、十分ではなかった。ひとの技術を吸収することは何らやましいものではないが、高さも、速度も、おそらく切れ味も、あまりにも何もかもが違いすぎた。それが見透かされている。運動のためではない熱で顔が火照るのを感じた。
「盗んで悪いか!」
「いいや? ちっとも? 所詮猿真似だがな。」
 真顔でさらっと言われたのが、皮肉に笑われるより余程こたえた。ぐるぐると渦巻いた激しい感情が、やがて頭の一点に集束する。
「サルの相手だ。猿真似で十分だろ。」
 深い藍色の眸を冴え冴えと光らせて剣路は言い放ち、左之助に切っ先を突きつけた。



「なんだ? 左之助のヤツまた騒いでんのか?」
「あの声、剣路くん?」
 何をしているかも明らかな二つの声と物音に、二人は顔を見合わせた。
 弥彦は昼休憩、央太は所用の外出から帰宅したところである。
 庭に回ると、案にたがわず、大きいのと小さいのが暴れ合っていた。
「あら、二人一緒?」
 おかりなさい、と迎えた燕の口調はのほほんとしている。
 左之助と剣路の戯れあいを凝視する二人の視線を誤解して、にっこり笑って髪を揺らした。
「ついさっきからなのよ。いい遊び相手ができてよかったわ。」
「どっちに?」と妙に冷静に考えたのは央太の方で、それどころではなかったのが弥彦だった。
「……ちょっと待て。ちょっと待てちょっと待てちょっと待て!」
 他に言葉を知らないように繰り返すうちに、誰にともない呟きは次第に大きくなっていき、最後は悲鳴に近かった。
「弥彦くん? どうしたの?」
 妻になっても、娘じみた「くん」の呼称は変わらない。ちょっと待て、なんだよそれ、と狼狽著しい弥彦に代わって、央太が説明した。
「剣路くん、なんか動きが変なんだ。」
「え?」
「動きが違う。うちの型じゃない。もっと攻撃的っていうか、実際的っていうか、ええっと……」
 この心優しい女性に向かって、あれは実戦に適した、つまり斬られずに斬ることを目的とした殺人剣であろうとは、央太は言いづらかった。話を逸らせて、濁した言葉尻をとりつくろった。
「けど、あんな技、誰に教えてもらったんだろう?」
「誰ってんなもん剣心に決まって……つうか聞いてねえよ! くっそ、むかつく!」
「え、じゃあ……?」
「あれが?!」
 央太と燕が勢いよく二人を、否、剣路を見る。
「まちがいない。全然できてないし、ボロボロだけど、あれは、飛天御剣流だ。」
 あたりを憚るように押し殺した声で弥彦が囁いた。まるで世界中が聞き耳を立てているとでも言わんばかりだった。
 注視する三人の間に沈黙が充満する。しばらくして、央太が首を傾げた。
「だけどあれって、剣路くん、もう……」
「ああ。限界だ。もって二本。」
 央太が戸惑いがちに言いよどんだ続きを、弥彦がきっぱりした口調で言い切った。
 剣路の疲弊が著しい。汗まみれの顔を苦しそうに歪め、大きく全身を喘がせている。力の制御も利かなくなっているらしく、全力で打ち込んだ竹刀をかわされると、目に見えて体勢が崩れる。軽く肩先を突かれただけで、踏みとどまれずにもんどりうった。
 剣路が竹刀を支えになんとか立ち上がったとき、左之助が「っし」と言いながら、ぱんと手を鳴らした。打った両手を降参を示すときのように掲げ、豪胆に笑う。
 試合終了の合図だった。
「遊んだ遊んだ。腹減ったなあ。」
 気楽な調子で左之助は言ったが、剣路は、それに答える代わりに、竹刀の切っ先を左之助に向けて突き出した。肩で息をしながらも、深い藍色の眼は鉛を流したような銀色の輝きを帯びて左之助を睨みつけている。まだだ、まだ終わらない、終われない、という強烈な意志がみなぎっている。
 左之助はおやおやというような顔を作ってそれを見返し、
「いい眼しやがる。」
 ふっと短く微笑んで、そして瞬時に表情をあらためた。
 炯々とした眼で剣路を睨み返し、低く宣告する。
「あと一本。それでしまいだ。」
 剣路も小さく頷き合意した。
「出し切れ。」
 言われるまでもない。
 平青眼に構え直し、肩をほぐして呼吸を整える。立ち位置を改め、ゆっくりと瞬いて、意識を研ぎ澄ます。
 そのとき剣路がふと何かを思いついた顔になって、力を抜いた。構えを解き、いったん上げていた剣先を思い切りよく右下に下げる。下段の構えをそのまま右後方に開いた形で、足は左が前。重心を中心に置き、ほぼ直立の姿勢になった。
 それを見て央太が呟く。
「脇構え? 剣路くん、一体なにを……?」
 敵に身体を晒す脇構えでは、身体の前で構える場合と異なり、武器による牽制防御ができない。相手の動きに素早く応じることができる利点もあるが、打突を主とする竹刀剣術には向かず、稽古もしたことがないはずだ。あれも飛天御剣流の技なのだろうか。
 そう考えて隣を見たが、弥彦はおし黙ったままで、険しい視線が二人に向いて動こうともしない。
 燕も不安を覚えた様子で夫と央太と向き合う二人にかわるがわる目を向けていたが、弥彦の身体がぴくんと弾んだのを見て、そっと訊いた。
「弥彦くん? どう……?」
「ちょ……バカ、おい、やめろ! てめえ何を……!!」
 視線の先には左之助が腰を落として構えをとっている。
 右腕を十分に引いてたわめて半身になった構えの何が弥彦をそこまで狼狽させるのか、燕はもちろん、央太にもわからなかった。
 向き合った二人は、それぞれの構えのまま、じっと気を蓄えていく。見合う二人の間に空気の膜が張り詰める。
 緊張の頂点で先に動いたのは左之助だった。
 軸足の指が地面に食い込み、土を掴む。くん、と微かに身体が沈む。
 その瞬間、弥彦が叫んだ。
「やめろ左之助! 殺す気か!!」
「っせえ! 邪魔すんなガキが!」
 叫ぶと同時に左之助の足は地面を蹴っていた。獣じみた咆哮は弥彦に対する返答だったが、目は剣路を離れていない。剣路もまた弥彦の声など聞こえもしない風で、叩きつける目線を外さずに動いている。
 右後方に流した脇構えから、身体の小ささを逆手にとって懐に飛び込み、空いた胴を下から狙う。
 柄頭を握る左手を軸に、円を描いて左上へ切り上げる竹刀の速さに、央太が目を瞠った。
 だが弥彦はそれどころではない。
「左之助――!!」
 竹刀と拳がぶつかる。
 その瞬間一体なにが起こったのか、剣路は判らなかった。
 自分でも目を疑うほど軽く速く身体が動いた。もともと相打ち狙い。いける、と思った。だが、そう思った時、あり得ないことに竹刀が消えた。直後、何かすごい衝撃に全身が撃たれて、息ができなくなった。煙るような粉塵の向こうに、白いほど黒い双眸が光っていた。


 男が素手で竹刀を粉砕したのだという、信じ難い、とはいえ、自分の目で見、身体で知った以上、信じざるを得ない事実をようやく理解したのは、失神から醒めて弥彦に説明を受けた後のことだった。
「ふたえのきわみ……?」
「おうよ。昔、信濃の山奥で明王に会ってな。七日七晩の修行で明王の秘技ってやつをな。」
「みょ、明王さまの、秘技……?」
 剣路が鸚鵡返しに目を瞠った。
 幼い皮膚の下にはまだ激しい闘いのほてりが透けているが、烈気はすでに去っている。あどけなく口を開けて左之助を見上げ、そこで元来の人見知りが今になって顔を出したのか、物怖じした様子で弥彦と央太に寄りかかるような目を向けた。
 左之助と剣路と燕は縁側に腰掛け、弥彦は央太と並んで向かい合う位置に立っている。弥彦は明ければ二十歳。仁王立ちになって肩を怒らせた姿は、剣路の目には頼もしい大人だ。さっきからなんだかんだと左之助に突っかかっていたが、その目がまた何か口実を見つけたらしく、
「つうかてめえ、一ん日でボロボロにしてんじゃねえぞ、罰当たりが。」
 そう言って、左之助の袂を持ち上げた。


 前夜、着の身着のままで帰ってきた左之助に、燕が仕立て下ろしの着物を出した。
 皆の後に湯を使い、さっぱりしたところにそれを着付けた左之助は、粋な唐桟のそのあわせの、身の丈に合った着心地のよさに驚いた。
「おう、こりゃあ助かる。すっかり誂え向きだ。」
「向きじゃねえ、誂えだってんだ、この熊野郎。」
「へ?」
「でも裄と丈が足りないですね。目見当めけんとうだったから。すみません。」
「お前が謝るこっちゃねえっての。」
 いつ帰ってきてもいいようにと、左之助のために用意されてあった着物だった。仕立てたのは燕である。
 そう聞いて珍しく真顔で礼を言った左之助に、燕は慌てて手を打ち振った。
「ち、違います。私は別に。あの、薫さんが。それと妙さんが。」
 燕と弥彦が交互に話したところによると、事情はこういうわけだった。
 あの嵐のような明治十一年、晩秋に左之助が日本を飛び出した、その年。
 それに先立つ夏の終わりに、燕は針をもらったお礼にと剣心に夏物を一組仕立て、
―――来年はもっと上手に縫わせていただきますから。
 不出来を口実に、そう、口約束を取り付けていた。
 薫と剣心が幸せになることを願う幼く純粋な気持ちが内気な少女にそんな言動を取らせたのだったが、翌夏、律儀な彼女は妻となった薫にその話を持ち出した。
「よかったら、また何か。」
 仕立てさせてくれ、と言った燕に、薫はしばらく考えた後で、こう言った。
「じゃあ左之助のでもいい?」
「左之助さん?」
「あいつも大概着たきり雀じゃない? 変に大きいから人のじゃ合わないし、突然帰って来て着るものないのも可哀想だから。あいつ用のって晴れ着しかないのよね。」
 前年の暮れに仕立て、しつけ糸もとらないままで蔵にしまった一組がある。京都から帰ってきて息つく間もなく復讐者の攻撃を受け、今度こそ終わったと思ったら冤罪事件。結局一度も袖を通さなかったそれは、その激しい日々を布と布の間に畳み込めたような、曰く言い難い気持ちを呼び起こす一着でもある。
「うちはいいから、あいつに作ってあげてくれる?」
 それならば、と、その夏は浴衣を仕立てた。長身の左之助なら似合うだろうと、妙が藍の絵羽に決めた。巨大な鯉の意匠を首抜きに白く染め抜き、地色は黒に近いまでに濃く濃く染めを重ねさせた。寸法を、くだんの晴れ着に倣えばよかったものを、誰言うともなく出し憚られて、結局、目尺で仕立てることになった。
 浴衣の次は綿の単衣、次が袷と羽織、さらに袷、思いつきで綿入れまで作り、神谷に用意された行李に、年を追うごとに左之助の着物が増えていった。


 いま左之助が着ているのは、そのうちの一枚である。
 それが、度々の大暴れで、たった一晩ですっかりくたびれてしまった。打たせた打突で布は一気に傷んでおり、右の袖下の縫い目が切れている。
 で、
「つうかてめえ、一ん日でボロボロにしてんじゃねえぞ、罰当たりが。」
 というわけなのである。
 大暴れの半分は弥彦のせいなので、本来、弥彦もそう大きなことが言えた義理ではないのだが、左之助もそこは混ぜ返さずに、再び素直に燕に頭を下げた。
「悪りいな、嬢ちゃん。せっかくあれしてくれたってえのに。」
「いっ、いえ、そんな全然……。っていうか、だから私ちがいますから。」
 昔と変わらず、痛々しいほどの恐縮ぶりに、左之助の目がいだ。
 気の弱さも謙虚なところも変わらないが、弥彦の妻となった燕の底にしなやかな強さが芽生えているのを彼は感じていた。不幸と気苦労の多かった少女に、神谷や赤べこの人たちの間で、やさしく穏やかな歳月が降り積もったことが、かけがえのない僥倖に思える。
「ど、どうかしました?」
「いやあ、世の中にゃ物好きが多いもんだと思ってよ。」
「え?」
 悪戯めかして弥彦を顎で示すと、年若い新妻はぱっと頬を染めてうろたえ、当の弥彦が拳で軽く左之助を打った。
「余計なお世話!」
「いひひひ。冗談冗談。幸せんなれよ、お前ら。」
 やはり茶化す口調で冗談に紛らわせているが、文字通りの意味こそ左之助の真意である。
 燕は彼に大変なことを教えてくれた存在だった。
 いきがかり上ずいぶん長く日本を離れたが、剣心の傍を離れる決心をした、その直接のきっかけは彼女だったのだ。
 九年前のあのとき。
 剣心が落人群に姿を消したあのとき、左之助も弥彦も操も、誰もが彼を励まし叱咤し、奮い立たせ、立ち上がらせようとした。
 燕だけが違った。
 自分が東亰を離れている間に彼女の成したことを、誰の言葉にも彼の殴打にも動かなかった剣心の意識に少女の信頼だけが通じた経緯を、左之助は全てが終わった後に知った。
 くずおれて焦点さえ定まらない相手に助けを乞うことのできる人間がどれだけいるだろう。それほどの信頼がどこにあるだろう。
 省みて、左之助の中にひとつの意志が芽生えた。
 行き場のない慙愧は他人の美質への嫉妬に堕ちることなく、だが、自分の一打と言葉もまたそれ以上に剣心に届いていたことをついに知ることなく、左之助は日本を出た。
 たとえ万策尽きた混乱の中の咄嗟の行動だったとしてさえ、彼女が左之助に示した奇跡の意味は大きい。
 「私そろそろお昼をしないと」と、立ち去る後ろ姿を見送りながら、真面目な顔になって弥彦にぽかりと一発やり返した。


 厨に向かう燕の後を央太が追う。
「燕さん、お昼どうする? 剣心さんたちの分も? もっと遅いかな?」
「どうかしら。でも足りないより余る方がいいわよね? 左之助さんもいるし。」
多めに用意しておこうということである。
「うん……」
 央太が歯切れの悪い物言いをしたのは、それ自体に異があるからではなく、人の家に世話になっておきながら、人並外れて旺盛な食欲に非常識なほど素直な兄のことを考えたからである。遠慮という慎みが彼には全く欠如している。姉との関係や他人との長い生活のために人への気遣いが習い性のように染み付いた央太には受け入れがたい態度だった。
「どうしたの? 央太くん、昨日からなんだか微妙な顔してる。」
「微妙?」
「うん。」
 燕は柔らかく、だが少し可笑しそうに微笑んでいる。
「うーむむ。」
 確かに微妙な気分ではある。思い切って口を切った。
「あのさ、燕さん。うちの兄さんって昔からあんなだったわけ?」
「あんなって?」
「あー。えーっと、うまく言えないんだけど、つまりああいう……」
「はちゃめちゃ?」
 さらりと言われた当を得た言葉に、央太は思わずふき出した。
「うん。昔から?」
 「あのね」と、今ではないところを見る目で、燕が首を傾げて話し出した。
「左之助さんねえ。うちの店の常連さんだったんだけど。」
 無論、赤べこのことである。
「うん。」
「お勘定、いっぺんも戴いたこと、ないの。」
「どうして?」
「さあ。払ってくださらないから?」
「は?」
「だってね。食事してそのままヒョイって出て行っちゃうんだけど、あの人あんまり堂々と当たり前みたいにしてるでしょう。なんだか、ああ、そっか、そういうもんなんだって気になっちゃうの。」
「ってなんだよそれ。そんなのただの食い逃げじゃないか。」
「なんですけどねえ。どうしてかしらねえ。」
「そんな呑気な。」
 どうしてかしら、と言いながら、燕の微笑はいかにもすがすがしい。
 央太もまた、そんな呑気な、と口では反論しつつ、だがどこか理解できる気がした。
 何かそれを許させるものが兄にはあるのだ。威嚇するでなく、おもねるでなく。気まぐれも放埓も倣岸も、兄にあっては欠陥ではなく、それで正当だと、むしろそれがこちらにとって望ましい、そう思えるものに変化する。傍若無人があれほど肌についた人間もそういまい。昨日からの彼を見て央太が感じていたのはそんなようなことだったし、また、人に敏感で殻の堅い剣路をいつになく過敏に反発させたのもその不思議な影響力だったろうとも思う。つまりなかなか他人に馴染まない剣路に間合いを詰めさせる何かが、そこにあったということだ。
「うーん……」
 再度首をひねる央太に、
「大丈夫。しばらく一緒にいればすぐに判ると思う。」
 燕がにこやかに微笑んだ。
 つまりしばらくここにいるわけだ、と、央太は、増加必至の炊事の負担について考察した。



2006.02.11/ひた走る8―神谷家の人々
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