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ひた走る


一、夏から秋へ


 ひゅうと冷めた風が吹き、剣心はハッと目が覚めた。
 知らない間に眠っていたらしい。だが長い間ではない。荒れた廃堂の軒にかかる月はほとんど動いていない。
「来ない、か……?」
 呟いて一旦腰を上げかけたが、思い留まって座りなおす。ところどころ腐りかけた床のぎいぎいと鳴る音が、待つ身にはやけに響いて聞こえ、わけもなくひやりとした。
 馬鹿々々しい。
 静けさが戻ると、今度は自分の鼓動が気になりだした。暑さのためではない汗が掌と腋をじっとりと湿らせるのを感じながら、そっと壁にもたれて目を閉じる。
 ゆっくり息を吸うと、早くも秋をしのばせる湿った匂いが鼻腔に満ちた。
 また季節が移ろうとしている。
 三月前東亰を離れたときは、もう二度と戻らないつもりでいた。だがこうして東亰で夏を見送っている。京都で神谷に留まる決心をしたとき、左之助から離れる覚悟をした。なのにこうして人目を忍んで逢っている。どうしてこんなことになったのだろう。
 切れ切れの光景がとりとめもなく目の裏に入り乱れる。
 また少しまどろんでいたのだろうか。
 風が止んだ。
 と思って顔を上げると、いつのまにか左之助がいた。木の幹にもたれて立っていた。今来たという様子ではない。
「……いよう。」
「左之。来ていたか。」
「よく言う。今にも泣きそうな顔しやがって。」
「そうか?」
「そりゃあもう、大雨必至。」
「じゃあ、そうかもしれない。お前に待たされたせいだ。」
「ふん。」
 剣心がふわりと笑い、左之助がその髪をくしゃりと乱した。
 左之助はさし入れた指をそのままに、形のよい頭を腕に抱き込んだ。
「悪い。」
「いや。」
「心配すんな。俺が来るっつったら是が非でも来るんだから。」
「うん、知ってる。」
「お前と違って嘘はつかねえからな。」
「俺と違っては余計だ、馬鹿。」
 そう言って素直に身体を預けてきた剣心の顎を左之助が捉えた。
「珍しいな。」
 なにが、と剣心が小首を傾げて目で問う。
 お前が呼び出すなんて。
 ついこぼれた言葉の続きを飲み込んで、左之助が口にしたのは別のこと。
「こんな服装なり。」
 と言って剣心の袂に触れた。生成りの縞綿絽。しゃりっとした生地が左之助の指にさらりと流れる。その極薄の透ける単衣ひとえの下には麻の夏襦袢。
 言ってから気づいた。
「おっと、こいつはもしかして、小せえ嬢ちゃんの。」
「ああ。」
 うなずく顔が柔らかくほころんでいる。
「一昨日、店がひけた後でわざわざ届けに来てくれてな。今日、早速おろさせてもらった。」
「にしても、あの歳で、こいつぁまた粋な。」
「あ、見立ては妙殿が。」
「なるほど。しかし手早い。」
「うん。俺も驚いたよ。」
「襦袢もだろ?」
 またうなずいて、今度は剣心が大切そうに袂を掲げた。
「いい稽古になるからと。だが小さな土産に過分な返礼だ。却って悪いことをしたか。」
「バカ。嬉しいんだよ、お前がこうして無事に帰って来たのが。わかってんだろ。」
 左之助が小突くと、小突かれた手に自分の手を添えて、剣心はそっと目を伏せた。
「ああ。」


 京都から帰った日。妙と燕と小国医師が一行を迎えてくれた。
 五人だれひとり笑顔で発った者はなかった。
 これまで世話になった礼はおろか、出発すら知らせず失踪した剣心。人にも店にも当たりちらして迷惑をかけた挙句、勢いに任せて後を追った左之助。薫は失意と不安もあらわに、杖と弥彦にすがるようにして京に向かった。弥彦は十歳の身でその薫を支え、必死の形相をしていた。そして剣心が瀕死の重傷と聞いて薬箱ひとつで飛び出した恵。
 薫と冴から頻々と届く手紙におおよその事態を知らされていたとはいえ、そんな彼らを東亰でただ待つだけの彼女らにこそ、この三か月は長かった。
 やっと帰ってくる。しかもみんな揃って元気に。
 妙たちは体を弾ませて迎えの仕度をした。恵が行った後も代わる代わる手入れを続けていた屋敷に新しい花を活けて水を打ち、膳をしつらえた。老体の小国医師も足取り軽く雨戸を外して回り、せっせと縁台を出してきたりもした。
 そうして心尽くしの料理とねぎらいで迎えてくれた三人に、剣心は深々と頭を下げて心ばかりの土産を手渡したのだった。
 赤べこと小国診療所には伏見大社の御札。小国医師には恵が見つけた京の古い薬草指南書。妙と燕には薫が選んだ半襟と、京名物の針をひと組ずつ。残暑の厳しい道中ということもあって本当にささやかなその土産を、三人は渡した方が気術なくなるほど喜んでくれた。
「ほうほう。こりゃ珍しいわい。」
「でしょう? やっぱり土地土地の慣いがありますものね。参考になります?」
「おお、なるとも、なるとも。貴重な資料じゃ。さすが恵君じゃな。」
 性懲りもなく尻に伸ばされた手を、恵が馴れた手つきでぴしゃりと払う。
「もう! いい年齢とししてなんですか、先生ったら。ほんとに油断も隙もあったもんじゃないんだから。」
「いたた。これこれ、年寄りは労わるものじゃよ。」
 相変わらずのやりとりに笑い声が上がる。
 そこに、これまたいそいそと包みを開いていた妙のひときわ弾んだ歓声が被さった。
「いやあ! レースの半襟やなんて、うち、初めて! お洒落やないの。」
「でしょ!? よかった、妙さんならきっとそう言ってくれると思ったの。気に入ってくれた?」
「そら、もう! 舶来物はこっちにもようけあるけど、こんなん、見たことあらへん。こういう生地を、あっちではこんな風に使うんやねえ。いやあ嬉し。今度のお芝居に掛けて行こ。ほんまに、おおきに。」
 そう言って押し戴き、「燕ちゃんは、どんなんいただいたん?」と、少女の手元を覗き込んだ。
「まあまあ可愛らしい、梅の縫い取りの。前に締めてた、あの黒の梅の帯に、きっとよう合うわ。」
 だが、内気な少女は、その刺繍の梅の花さながらに頬を染めて手の中の布に見入ったまま言葉もない。
「よかったやないの、燕ちゃん。よう、お礼、言うときや。」
「あ、あの、でも。でも私、いいんですか、こんな上等な……。」
「なに言ってるの、燕ちゃん。遠慮なんかなしよ。」
「そうやよ。こういうときは“おおきに、またよろしゅう”言うてありがとういただいたらええんよ。」
「だって、それに立派なお針まで……。」
「せやせや。こっちもおおきにえ。はり清はんのお針はほんまに良うて、うち、もう、ずっとこればっかり。これは冴が?」
と、薫を見た。
「うううん。実は左之助なのよ。」
「ええっ。左之助はんが?」
 驚く妙に薫が事の顛末を説明し、最後は剣心が引き取った。
「とまあ、そんなわけだから燕殿。」
「は、はいっ!?」
 突然呼びかけられ、燕は思わず背筋を伸ばして返事をする。
「遠慮は無用にござるよ。」
「そうよ。気がねなんかせずに使って? ね?」
 やさしく笑う二人の顔を見比べる目に、ふっくりと涙が盛りあがる。その小さな肩を妙が背後から両手で励ました。
「ええ時に、ええもんやっとくれやしたな。この子、せんからお針習うてるんですよ。」
「まあ、そうだったの。」
「ほうほう、それは好都合でござった。」
「た、妙さん!」
「ええやないの、隠さんかて。」
「だって……。」
 消え入りそうな風情の少女に、妙がさらに追いうちをかける。
「そや! 燕ちゃん、お礼になんぞ仕立てさせてもろたらどない?」
「えええええっ?!」
「単衣やったら、もう縫えるやないの。」
「わあ、そうなんだ。すごいじゃない。」
 目を回して硬直している当人をよそに、妙と薫はすっかりその気である。
「ね、ね、じゃあ、剣心の薄物を縫ってあげて? ほら、ずっと着たきり雀だから。」
「おろ? せ、拙者でござるか?」
「せやせや。剣心はん、元はええんやさかい、ちょっと洒落たもんでも着はったら、きっと男振りも上がらはる。ほんで一緒にお芝居でもどうどす? こないだでけた新しい新富座いうたら、そらもう立派なもんどすえ。」
「ワァ、妙さん、もう行ったの?」
「うううん。今度初めて行くんよ。次は薫ちゃんも一緒に行こな。」
「うん!」
「剣心はんもどすえ。」
「い、いや、拙者はそのような……。」
「いいじゃない、剣心、たまには。」
「そうどす、そうどす。そやけど、まあその前に、とりあえず燕ちゃんの夏物やな。」
「おろ〜。そそそそれより折角だから弥彦にでも……。」
「あの子は一生あれでいいの。」
「それとも剣心はん、お嫌どすの? 燕ちゃんの縫うたもん着るのが。」
「やだ。剣心ったらひどい。」
「えっ……。」
 結局、やいのやいのと寄ってたかって騒ぐ女二人と、今にも泣き出しそうな燕の不安顔に剣心が降参した。
「ではひとつよろしく頼むでござるよ、燕殿。」
「は、はいっ、がんばります。あの、これ、ほんとにありがとうございました!」
 ひときわ力を込めて燕が言った日から幾らも経たずに届けられて剣心と薫が驚いた、その薄物がこれだった。
 もう秋が近い。折角だからと、生憎の雨だった昨日をやり過ごして早速手を通し、赤べこに着姿を見せに行ったのが今日の午後。帰りに、留守の長屋に符牒の石と小枝を置いてきた。ふと、このかまいたがりの食いしん坊が丸二日も顔を出さなかったことに今さらのように思い至って、剣心は身体を離して相手の顔をじっと見た。
「どうした?」
「いや、なに。燕殿がこれを届けてくれたときにな。」

――すみません。せっかくのいいお針といいお生地だったのに、やっぱり手がよくなくって……。あの、来年はもっと上手に縫わせていただきますから!

「ほ。あの嬢ちゃんが、そんなことを。」
「うん。そう言って、真っ赤になって、俯いて。」
 鬼灯みたいだったと思いながら、自分の言葉につられたように俯いた。
「素直な、いい子でござる。」
「だな。」
 来年はもっと上手に縫わせていただきますから。
 その言葉にこめられた思いをかみしめ、褄を繰った。ところどころ千鳥が歩いた針目に、一生懸命縫ってくれたであろう小さな手が映って、剣心の顔がほころぶ。
 ふと、その目が翳った。
 でもあの子は。
 俺が人斬りだったことを知らない。たくさんの人を殺したことを知らない。自分の妻さえこの手で斬り殺して生きているということを知らない。知ればどう思うだろう。どんな目で俺を見るだろう。
 そのまま思考の淵へ沈んでいきそうになる剣心を、左之助の声が引き戻した。
「弱音ぐらい、吐きゃがれ。」
「え。」
「俺に無理するな。お互い疲れるだけ損だ。」
 言って、左之助はごろりと仰向けに身体を投げ出した。大の字になって目を閉じる。
 そうして神経を澄ませると、また右手が熱を持って脈打っているのがわかる。
 ほとんど治ったと油断して荒く扱ったのがたたったと見え、この三日ほどひどく疼き続けていた。今日は朝から加減がよかったが、調子に乗って動き回ったせいか日が暮れてから痛みがぶり返して難儀した。ようやく鎮まった頃には、もう夜更け。慌てて夜道を走ったおかげで、折角水を浴びてさっぱりした体がすっかり汗まみれになっている。そして右手には、ときどき思い出したように骨を削る疼痛が走っていた。必殺の力を得たのはいいが、こんなことでは困る。右拳一本に負う技というのも考えものだ。
「損?」
 不思議そうな声が降った。剛い髪に細い指が戯れる。
「おう。お前、自分でどう思ってるか知らねえが、それで結構顔に出るからな。お前が無理する、俺が問い詰める、お前しらばっくれる俺怒る。結局お前が泣いて暴れて白状して終わり。どうだ、お互い疲れるだけでいいとこなしだ。ちがうか。」
「俺のせいみたいに言うな。お前がしつこいのが悪い。」
「よく言う。自分の強情を棚に上げて。」
 笑って反論しながら、左手を伸ばして剣心の髪をほどいた。さらりと流れて腕をくすぐるその一房を指に巻き取って手繰り寄せ、唇を合わせる。触れるか触れないか、そっと擦り合わせるだけの静かな口づけ。間近に見る顔のなか、緩く開いた目と唇と頬の傷だけが夜の闇につやつやと浮いている。
 その頬に、左之助の手の甲がそっと触れる。剣心が髪を揺らした。
「さの、手は?」
「あんまりよくねえ。よう、いつかみたいにお前ぇがしてくれるってのはどうだ。」
「馬鹿。二度はないと言ったろう。片手でがんばれ。」
「ったく。最近のお前ェはべろべろ皮が剥けやがって。」
「次はらっきょうか。失敬な。」
 言葉の合間に唇を啄ばみ、手は肌を求め合う。
 せわしい息遣いと衣擦れの音に、鈴の鳴るような虫の音が混じった。
 いつのまにか重たげな雲が流れ込んで、青かった夜空をおおかた覆ってしまっている。雲に隠されたか傾いたか、月はもう見えない。


「もうしばらく、このままで。」
 左之助が身を起こそうとすると、左の脇に頭を埋めた剣心が、珍しくそんなことを言った。
「冷えるぜ。」
「お前が、温めてくれればいい。」
 ますます珍しい科白に、左之助は黙って肩を抱いた。やはり細い、と思った。片腕に泳ぐ華奢な肩は、いつも腕の記憶よりわずかに細い。抱き締めるとよく鍛えられた硬い筋肉が掌を跳ね返す、それがかえって骨格の小ささを感じさせた。
 その細い肩が少し上下して、剣心が顔を寄せてきた。
「まいったな。弱音を、吐きそうだ。」
 剣心の声に苦笑が滲む。
「だから吐けって。」
「それができればな。」
 こんな袋小路に行き詰まりはしない、と思う。
 わけの判らないままとりあえず以前と変わらない日常が始まりはしたものの、東亰に“帰って”きてからというもの、剣心の頭はずっと混乱状態が続いていた。
 ここに根を下ろす覚悟をした。した以上、当たり障りのない付き合いだけで済ませるわけにはいかない。最近は意識して人と関わるよう努めている。だが、たったそれだけのことがこんなに大変だとは思わなかった。
 思えば、生まれてこの方、骨を埋める覚悟で生きたことがなかった。人との関わりもそうだ。腹蔵なく話したり、人を頼ったり人に欲したりするのは苦手だった。そのためだろうか、妻を娶ったときでさえ、生命ある限り守ると誓いはしたが、その相手の身の上は知らなかった。いや、知ろうとしなかった。

 幾度となく思い返してきた光景がある。
 満月。物陰に潜んで人を待っている。前方に提灯のあかり。足音。男たちの話し声。
 京都所司代、重倉十兵衛殿とお見受けする。私怨はないが、新時代のため、あなた方には死んで頂きたい。
 ひとり。
 ふたり。
 石地さん! 重倉さん!
 あきらめろ。
 一合。二合。……三合。
 切り払った手応え。頬に走った刃先の感触。指先の血。断末魔の、涙。
 克明に辿る。鮮明な映像。生々しい感触。だが痛みや苦痛を感じるわけではない。ただくっきりと思い出すだけだ。
 狙ったのは京都所司代だった。たまたまあの日あの男が同行していた。あの日でなければ。彼でなければ。あるいは自分でなければ。
 だが回想のなかでさえ、なにひとつ変えることはできない。
 男を殺し、女を殺し、生き残る。なにも生まれなかった。小さな哀しみと怨みだけが残った。国が生まれ変わる大きなひずみのなか、取るに足りないありふれた一幕だったろう。砂粒ほどの悲劇あるいは喜劇。だが剣心の一生を狂わせるにはそれで充分だった。
 あのとき狂い始めた輪が、いまも空転し続けている。
 それは自分が死ぬまで背負い続けるべき狂気。覚悟はとうにできているつもりだった。だが、その覚悟はあくまでも自分が受け止める覚悟だった。
 硬い腹に這わせていた指を、握り込んだ。
「まだ、話していないことがある。」
「昔のことか?」
 剣心が囁き、左之助が訊いた。
 髪をすく手の温もりに頭を委ねたまま、剣心がうなずく。
「だから無理すんなつったろ。言いたくないならしまっときゃいい。」
「さっきは言えって言った。」
 剣心が口を尖らせた。
「今のことはな。昔は昔だ。誰だって色々あらあ。全部ほじくり返してられっか。」
 誰にだって語りたくない過去のひとつやふたつはある。
 薫もそう言った。
 左之助はともかく、その朗らかさに似つかわしくない乾いた科白を彼女がどんなつもりで口にしたのかは知らないが、それで済むことと済まないことがある。
 騙す気も隠す気もなかった。ただ、できれば話したくなかった。
 行きずりならそれでもいい。だが、ここに居座るなら、黙し続けるわけにはいかない。
 また傷つける、と思った。もう充分傷つけたのに。
 信頼と誠意に臆病と不実で応えた報い。人斬りの罪を償うはずが、勝るとも劣らない罪を重ねているだけのような気がする。いつ死んでも殺されてもかまなわないと思っていたこれまで、生きることはあんなに容易だったのに、生きたいと願った途端、足がすくんで一歩も前に進めなくなってしまった。罪と秘密にまみれてそれでも生を願う身には、暴かれることが何より恐ろしい。
 きつく目を瞑り、声を立てずに悲鳴を上げる。
「それに、昔のことなんか。俺は別に、今さらなに聞いたってなんとも思やしねえよ。」
 声というよりも振動が、頬を乗せた左之助の胸腔からじかに伝わり、体の奥に沁みていった。
「そんなに甘やかすな。」
 すがってしまいそうになる。続きは胸に納めた。
「甘やかしてなんか、ねえ。」
 左之助が体を入れ替えて剣心を組み敷き、ほとんど口移しに言った。口の端で笑った顔に、獰猛な目が光っている。
「悪いが俺はとことん自分勝手でな。お前がここにいりゃ、過去なんかどうでもいいんだ。だからいつだって自分のしたいようにしてきたし、これからも、する。てめエもちっとは見習えってんだ。」
「お前は少し遠慮を知れ。」
 間近に迫る顔を、わざと乱暴にぴしゃりと両手で挟んだ。
 傍若無人を装うやさしさが心に痛い。
 出会った最初からそうだった。自分とはひどく異なる健やかさに驚かされ、教えられ、泣かされる。離れられるわけがなかった。それがすでに甘えだと、嫌というほど判ってはいながらも。
「もう少し。」
 腕を首に絡めて首筋に囁いた。
「もう少しだけ。」
「おう。好きにするさ。」
 静かな声を耳に流し込まれて、剣心の腕に力がこもる。
 たしか明日も浅草で宴会だと言っていた。朝のうちに気を静めておこう。
 思って目を上げると、空は灰色の雲に厚く覆われていた。




2004.12.02/ひた走る1―夏から秋へ
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