ひた走る
三、左之助
左之助は夜道を走っていた。
目指すは東亰。
彼がどうなっているかは判らない。今さら戻っても、もう手遅れかもしれない。だが戻らずにはすませられない。
今度こそ約束を果たすために、左之助はひた走りに走っていた。
耳元でごうごうと風が鳴る。吸う息。吐く息。鼓動。足裏に響く振動。
一息ごとに、一蹴りごとに、剣心に近づいていく。
全身が悲鳴を上げていた。声にならない声が体中を駆け巡る。
なにが現実でなにがそうでないかが判らなくなりそうだった。
予告された総攻撃の日。
迎撃の準備は万全だった。剣心にも迷いは見えなかった。
そして闘いの最中、かつてなかったほど気持ちが通じるのを、左之助はたしかに感じた。なにを考えているのかも、なにをしようとしているのかも、手に取るように理解できた。そうして背中を預け預けられて闘っていると、前日の諍いが嘘に思えてきた。そんな口論など始めからなかったのではないか、昂ぶった神経が見せた幻覚だったのではないかと。
だが、それこそ都合のよい幻想だった。
もしかしたら、闘っている間の充足感こそが、ただの身勝手な錯覚だったかもしれない。
そうは思いたくなかった。だが、そうでないならどうして。
暗い視界を、景色が後ろに飛んでいく。
顔が熱かった。心臓はきりきりと痛んだ。
俺か。俺が追い詰めたか。
最低のときに最低のことを言った。お前を守ると誓ったこの俺が。
そうでなくとも人に頼ることの苦手な人間だと知っていたものを。ほんの戯れにさえ、自分からなにかを欲したり救いを求めたりすることこそ彼には何より難しいと、誰よりもよく知っていたはずだったものを。
―――どうして欲しいかはっきり言え。なにがしたいとか、あれが食べたいとか、どこに行きたいとか。
―――少しは自分のことを考えろ。たまにはわがままも言え。
何度そんなことを言っただろう。まるでふざけてのこともあれば、必死に迫ったこともある。剣心は黙って笑っていた。あるいはどうでもいいようなつまらないことではぐらかした。
その剣心が、多分初めて臓腑の底から望んだわがまま。
―――もういい。もう疲れた。このまま静かに眠らせてくれ。
本当に、もうそれしか願うことはないのか。
今も変わらず、それだけを望んでいるのか。
「ひとっ走りしてくる。その間に、答え、出しとけ。」
そう言い捨てて東亰を出た。
思い返すまでもなく、まざまざと目の前に立ち現れる光景。
群がる落人らを叩き伏せている間も剣心は顔を上げなかった。
座り込んで動かない剣心の前に、左之助も座り込んで、目を合わせようとした。
「よう剣心。俺ぁもう頭ん中ぐちゃぐちゃだ。なんもわからねえ。ひとっ走りして、頭からっぽにしてくるわ。なあ、お前もそうだったんだろ。だから毎日毎日杉林走ってたんだろ。俺が六つだか七つだかのガキだった頃によ。」
動かない静かな瞳を見据える。
「帰ってきたときに聞かせてくれ。お前がこの先、どうしたいか。やっぱり落とし前つけたいってんなら命懸けで助けるし、また流浪れるってんならどこまでだって道連れてやる。そんで、もしやっぱり『もう疲れたからこのまま静かに眠りたい』ってんなら、そのときは……」
よどんだ瞳孔。この目に、力強い光を宿していた。傷つき苦しみ、だからこそ優しいぬくもりも宿していた。
「そんときゃ、俺が殺してやる。俺がこの手で、お前を終わらせてやる。そしたら、もうだれにも苦しめられることねえだろ。だれに傷つけられることも責められることもねえだろ。」
罪も償いも後悔も悲しみも離れて、静かに眠れるだろう。
左之助の両手が剣心の顔を包んだ。皮膚は埃と垢でかさつき、強く触れるとさらさらと崩れてしまいそうだった。
「安心しろ。今度だけは、お前がなにをどう選んでも、俺はお前の言う通りにしてやるから。なにも訊かない。なにも言わない。ただ、お前の言う通りにしてやるから。けど、これだけは忘れんな。……剣心、俺は絶対にお前を裏切らない。」
素通りする視線が痛くて、額を合わせた。近づけば近づくほど剣心が遠のく。それでも。
「救えねえなら、せめて一緒に堕ちるさ。」
立ち上がり、拳を引く。毎度のように使うなと言われた右手は、軽く握るだけで疼痛が走った。かまわず力の限り張り倒す。言葉は届かなくても痛みなら届くかもしれないと思った。
振り切った手から、寒気がするほどの激痛が全身に走った。
安慈が編み出した悲憤の拳。
望んだのは、守るための力だった。傷つけるすべてのものから守りたくて、力を望んだ。
『そんときゃ、俺がお前を殺してやる。』
人斬りの血を死よりも懼れていた剣心に、ただ一言そう言ってやりたかった。「だから心配するな」と言ってやりたかった。そのために、抜刀斎をも凌ぐ圧倒的な力を得ようと、命を懸けた。
守るための力だったはずだ。本当に殺すための力ではなかったはずだ。
だが、やさしさで救えるほど甘くなかった。力で守れるほど容易くもなかった。
くずおれた剣心に背を向ける。
「――あばよ。」
口を衝いて出た言葉が何に対する別れなのかは自分でもわからないまま、走り出した。
頭とは別の次元で、足が勝手に動いていた。汗が伝うのも、心臓が喉で跳ねるのもかまわず、ひたすら地面を蹴る。
どうしてこんなことになった。これからどうすればいい。
考え通しに考えた。だが、いくら考えてもわからなかった。
覚えず辿り着いた生まれ故郷で、ならば考えなければいいのだ、とようやく気づき、暴れるだけ暴れて胸のもやもやは捨ててきた。
走りに走って、東亰に着く頃には、頭の中身もどこかへ行っていればいい。
夜に馴れた目が、次の宿場町の影を捉えた。
本庄。すでに武蔵国。
空はまだ暗いが、森は目覚めつつある。夜明けが近づいている。
雲を踏むような頼りない地面を、左之助は剣心に向かって蹴り続ける。
二隻の高速艇が、海を裂いて島を目指していた。
薫が囚われている島に着くまで、さほど時間はかからないだろう。着けば縁との最終決戦。激しい闘いが待っている。だが船上は不思議に落ち着いていた。
あの襲撃予告の日とはずいぶん様子がちがう。と、恵は皆を見回した。
子ども二人は闘志満々だが、剣心はずっと瞑目したままだし、左之助は何度も気の抜けた欠伸をしているし、斎藤と蒼紫はいつもと変わらずなにを考えているか判らない。
もちろん顔ぶれもちがう。だが、それだけではない変化をいくつかの面上に恵は見た。
あれからわずか十日余り。
けれど人を変えるのは時間だけではない。
高く抜けた空が、昨日の情景を呼び起こした。
すがすがしく目が覚め、澄んだ空気を深く吸った。立て続いた騒ぎで体はくたくただったが、心は晴れていた。気を抜くとまた涙があふれそうだった。だが泣くには早い。するべきことが残っている。
そう気を引き締めて診療の準備にかかろうとしたとき、玄関が激しく叩かれた。
「どうしました。急患ですか。」
急いで戸を開けると、最後の一人が凄い形相で立っていた。
「いい? 落ち着いてよく聞きなさい。」
恵は左之助の前に端的に事実を並べた。
薫が生きていたこと。剣心が戻ってきたこと。そして明日が縁の潜伏する島に向かうその日であること。
左之助は口を挟まず、黙って聞いた。ほとんど表情も動かさなかった。にもかかわらず、潮が引くように彼から何かが去っていくのを、恵はたしかに感じた。
彼と自分は似ていると思う。
何をしにかは知らないが、信州まで行っていたという。そして一日で駆け戻ってきた。いや、丸一日走り続けずにはいられなかったのだ。彼を駆り立てたものを思うと、馬鹿の亜細亜記録とでも茶化さなければ、また涙腺がゆるみそうだった。
そして、そうまでして戻って来ておきながら、真っ先に診療所へやって来た。なにを訊ねるよりも、治療を求めた。
強がりと憎まれ口で自分を支える。そういう種類の人間を、恵はいやというほど知っていた。
見せない内心が何を思っているかは判らない。だが、戸口に立っていたときの凄絶な険は、きれいさっぱり落ちていた。
少し一人にしておいた方がいいと思い、彼のための安堵を呆れた表情の下に隠して、朝食の準備に立った。
弥彦といい左之助といい、たった数日で人がこんなにも成長できるものかと驚かされる。
恵は二人を盗み見た。若さだろうか。男だからだろうか。めざましく逞しい変貌ぶりに軽い嫉妬かあるいは寂寥のようなものを感じ、不可解で場違いな自分の感情に苦笑する。
眠そうな左之助の視線を辿ったが、何もなかった。
彼の眼前にはひたすら海が続いていた。
その青黒い大海原の端っこを、左之助はさっきからじっと追いかけている。
最新鋭の高速艇は吃水が浅く、海表が近い。
水平線も近い。
あれならすぐ着きそうだ、と、青と藍の間の細い白線を見ながら思う。
海の果て。そんなものがないことくらい、知っている。
そこに見えているのに、どこにもない。どこまで行っても辿りつかない。
――似ている。
ふと、懐かしい昔を思い出した。
明日から五月というその日、左之助は剣心を賭場に連れ出した。
「悪いな嬢ちゃん、剣心借りちまって。どのみち夜通しだ。先ィ休んでてくんな。」
「んもう。今日は特別に許してあげるけど! 今度から悪い遊びは一人で行ってよね。」
快くとは全く言えないが、それでも薫がさほど渋りもせずに剣心を送り出したのは、恵が観柳邸から逃げ込んだ騒ぎで閉めざるをえなかった賭場が場所を移してようやく再開される、今日がその前祝いだったからだ。主は左之助の古い馴染みでもあり、今や身内同然の恵が原因と言われると、たしかに多少の引け目のようなものも感じなくはない。
「じゃあね剣心、こないだみたいにへんなひとに引っかかっちゃ嫌だからね。」
背中に釘を刺され、剣心がにっこり笑って手を振った。
他愛ない話をしながら、夕暮れどきの街路を随分歩いた。
「また遠くへ移ったでござるな。」
「あの騒ぎで目ぇつけられちまったらしくてな。しばらく鳴りを潜めたとはいえ、まだ近所じゃ顔が差すんだとよ。」
「おろ。それは難儀でござった。」
半時間ほど歩いて、一見普通の仕舞屋を装ったその賭場に着いた。
ところが、左之助はひと通り座を回って顔馴染みに挨拶をすると、腰を下ろしもせずにさっさとそこを出てしまった。
「左之? どうした?」
「せっかく嬢の許しが出てんだ。んなとこで暇食ってちゃ勿体ねエや。」
剣心の不思議な色の大きな瞳は、驚くとさらに大きくなって、そして少し色を変える。見飽きない、と左之助は思う。
「……主、初手からそのつもりだったな。」
「お前だってまさか夜通し打つと思ってたわけじゃあるめえ?」
言われて剣心も苦笑する。
「で、これから?」
「まあとりあえず景気づけといこうや。」
共犯者の笑みを交わして、手近な蕎麦屋に入った。
次々と銚子を空ける間に、今年の鰹はどうだとか、どこの祭りがどうだとか、どうでもいいような話がなぜか弾み、気がつくともうすっかり更けていた。
店を出て、左之助が大きく伸びをした。
「しっかしおめえ、んっとになんも見てねんだなあ。」
ほろ酔い機嫌の左之助が、そんな科白を陽気に言った。
年始めに流れ着いて以来なにかと騒動続きだったため、剣心は東亰の名所も風物もほとんど知らない。
「うち二つはお主でござるよ。」
騒ぎの張本人に明るく言われて剣心は苦笑した。
「にしても、あんな近所で花見も行ってねえたぁ尋常じゃねえや。よっしゃ、埋め合わせだ。花見行くぞ花見!」
反省の色もないお調子者が、勢いよく剣心の肩を抱いて歩き出そうとした。
「ば、馬鹿! こら、よさぬか!」
慌てた剣心はもがいたが、さすがの馬鹿力で簡単には振りほどかせてくれそうにない。あの程度の酒でこのざるが酔うはずもなかったが、傍目には出来上がった酔っ払い連れに見えるだろうと言い訳をして、火照った頬をおとなしく夜風にさらした。
間に挟まった腕を所在なげに浮かせながら、剣心が横を仰ぐ。
「花見と言って、桜などとうに終わっておろう。」
「なあに、花にもお前みてえな天邪鬼がいるかもしれねえさ。」
「ああ、お主のように図々しいのがか。」
減らず口を叩き合いながら、白々しい千鳥足。
だが、一町も行かないうちに、左之助がぱたりと足を止めた。
「どうした?」
「いや、まあ、桜もいいけどよ。おめえ、なんか行きてえとこねえか? 見たいもんとか。」
「いや、拙者は別に……というかよく知らぬゆえ。お主は詳しかろう。任せるでござる。」
「いいや、駄目だ。」
「おろ?」
駄目とはなにが? 正面からきょとんと見上げた。
「やっぱ駄目だ。お前が決めろ。」
言い出しっぺはお主ではござらんか。そう言いかけてやめた。理由は判らないが、どうも雲行きが怪しい。
「なにやらよく判らぬが、ではまあ、とりあえず遅咲きの枝でも探しに行こうか?」
なだめる口調で剣心が言った。
「お前は桜が見てえのか?」
「花見に行くと言い出したのはお主でござろ?」
「ああもう、判んねえヤツだなあ。そうじゃなくてよう、おめえがどうしたいか言えって言ってんだよう。」
つい先程までの上機嫌はどこへやら。左之助はすっかり不貞腐れ顔になっていた。
「よう、と言われても……。やれやれ、あれしきの酒で酔ったわけでもあるまいに。ほんに困った駄々っ子でござる。」
困ったと言いつつ、剣心の表情は柔らかい。
「どうした、さの? 拙者はどうすればいい?」
「だからしたいこと言えって。どこ行きたいとか、なに食いたいとか。言う通りにしてやっからよう。」
左之助が口を尖らせ、剣心は困ったように微笑んだまま息を吐いた。
「これでは押し問答でござる。」
ふむ、と呟いて、耳を澄ませるように首を傾ける。しばらく考えた後で、トホホと笑って言った。
「やはりわからぬ。だがまあ、とりあえずどこか落ち着けるところに行かぬか? 話はそれからにしよう。」
そして、これといったあてもなく、静かな夜の底を二人で歩いた。
突然沈んでしまった左之助を気遣ってか暗闇に甘えてか、剣心は左之助の手を握って離さない。
秘密を持ってからは敢えて以前より距離を取り、人前で触れないようにしていた剣心が、人通りの絶えた夜とはいえ、往来でそんな風に手を触れてくることに左之助は驚いた。握られた手がくすぐったかった。自分からじゃれつくのはいつものことなのに、と思うと少し可笑しい。
だが、日頃人並み以上に素っ気ない剣心にとっては、くすぐったいどころではない必死の勇気を必要としたようだ。ひんやりした小さな手が、次第に汗ばんできた。そしてそれに連れて、左之助の鼓動も早くなっていく。胸にわだかまっていたもやもやがちがう色に変わっていくのを感じた。馬鹿らしいといえば馬鹿らしいが、それもまた自分らしいかと思った。周りを見渡し、笑いの発作に襲われて、降参する。
「あーもういい! やめだやめだ。」
剣心の手を引いて、小柄な身体を抱き締めた。剣心は驚き、逃れようともがく。
「ちょ、左之! 馬鹿、お主、調子に乗りすぎ……」
「やっぱアレコレ考えんのは俺の性分じゃねえや。もういい。小難しいこたァおいといて、いいことしようぜ剣心。」
「ばっ……!」
蛸をゆでたように鮮やかに赤くなった剣心の額を指先で突ついた。
「よう、こないだ約束したろ? 存分に可愛がってやるってよ。ここなら誰も来ねえし、大声出したって構やしねえ。」
と、顎で道の脇を示した。
「ここって、馬鹿、お前これ、寺……。」
長い塀の続く広い敷地。だが門は壊され、境内はひどい荒れ様。廃仏毀釈の波に洗われた廃寺だった。
「待たんかおい、この罰当たり!」
「なんでエ。成仏すんのにゃうってつけだろうが。」
ますますもって罰当たりな科白に剣心が絶句する。
「んだよ、落ち着けるとこ行こうつったのはお前だぜ。」
剣心は、そのような意味で言ったのではない、心配して損をした、と眉を逆立てたが、結局押し切られるかたちで連れ込まれた。
数日前のことだった。
「お前、もしかしてすげえ無理してねえか?」
回を重ねるにつれて気が差すようになり、何度目かに抱く相手に、左之助は思い切って訊ねてみた。
「いいや?」
と言いつつも、剣心は刑人の鞭を待つ罪人のような面持ちで息を詰めている。無理もないとは思う。男は、受け入れるようにはできていない。
「いや、だがよ。」
繋ぎかけた体を離すと、剣心の口から掠れた溜め息が吐き出された。胸が震えて、大きく上下している。
「いやなら、叩き伏せると、言ったろう。こんなときに、そんなこと、訊くな、馬鹿……。」
浅い息で切れ切れに言い、肘をついて半身を起こす。乱れた髪が肩や頬に張りついた。
ではどうしてそんな顔をする。
左之助がそう言おうとした矢先、剣心がハッと顔を上げた。気がかりそうな目は、左之助を通り越して、建て付けの悪い板戸に向けられている。
外に人の気配。
ひきずる足音が、通りすぎて行った。
剣心が小さく息を吐いた。
「外に……。」
「え?」
「聞こえると、まずかろう。」
「なんだ。んなこと気にしてたのかよ。」
「するさ。当然。」
「たいして意味ぁねえだろうがよ。……あ、いや、ホラ、こんな長屋じゃあ、鼠のまばたきだって筒抜けだからな。」
「尚まずい。」
言って、剣心は手ぬぐいを咥えた。
「こんど気の兼ねないとこで存分に乱れさせてやる。」
口を封じたままの剣心が、眉をひそめて、首を振る。
左之助は黙って剣心を床に這わせた。背にのしかかり、顎を捕らえる。
「なけよ。」
耳元で囁くと、背を強張らせてまた首を振る。
固く目を瞑って歯を食いしばる顔がやはり殉教者のそれに見えて、左之助の胸に染みを残していた。
廃堂の埃っぽい板敷きに、月が射す。
寝乱れた襦袢に身体を投げ出したまま、剣心が独り言ちた。
「お主がこんな蛇男だとは思わなんだ。」
ひどく大儀そうに手を持ち上げようとする。
「蛇?」
察した左之助が顔にかかった髪をかき除けてやると、手は持ち上がったその位置でかくんと折れて止まった。掠れた声で呟く。
「陰険で、意地が悪くて、いやらしくて、ねちねちとしつこい。」
「人聞き悪いこと言うなよ。お前だってえらくよがってたじゃねえか。」
「だれが!」
「んだよ。俺ぁいつもお前に我慢ばっかりさせてっから、今日は何でもお前のいいようにしてやろうと思ってだな。それでお前ぇ、お前がしてくれって言う通ぉりにだな……。」
「よくもつけつけと。あんな、無理矢理……言わせておいて、この蛇男め。」
「お、ちゃんと覚えてるじゃねえか今日は。」
左之助の言葉が耳に引っかかる。不機嫌にしかめていた眉をさらにしかめて、剣心が鸚鵡返しに言った。
「“今日は”?」
見上げると、月の光のなかに、さも楽しそうな左之助の顔。
「おい左之、なんだそれは。どういう意味だ?」
「別に意味なんかねえがよ。」
「それがない顔か。やっぱりお前は蛇男だ。蛇、蛇。」
言いながら、力の抜けた手でぺちぺちと腕を叩く。いつにない幼い絡み方を愉快がって、左之助はその手を掌に受けて遊んだ。
そうしてしばらく戯れた後、左之助がふいに真顔で細い手首を握った。
剣心の顔に影を落として言う。
「おい。これからはちゃんと言えよ。」
「左之?」
剣心が目を丸くした。
「言えよ。どうして欲しいとか、なにがしたいとか、あれが食べたいとか、どこに行きたいとか。」
とか、と言って、また拗ねた子どもに戻った左之助の顔を、剣心はじっと見つめた。
「……左之。」
「お前は、いつも人のことばっかりすぎんだよ。ちったあ自分のことも、考えろ。そんでたまにはわがままも言え。俺ぁ馬鹿だからよ。お前がどうして欲しいと思ってるか、言ってくれざぁ判らねんだ。」
「……ああ、そういえばいつかもそんなことを言っておったな。なんだ、さっきからそれで拗ねていたのか。」
喉の奥で小さく笑って、自由な方の手で、左之助の頬をつねった。
「別に拗ねてたわけじゃねえやい。」
と言いつつも、膨らんだ頬に、尖った口。
「ばかさの。だからこんなことをしたのか?」
剣心の目元がほころぶ。手が、頬から首を伝って逞しい胸に止まった。
「俺のことなど、気にせずともよいものを。俺は本当になんでもかまわぬのだ。お前が……」
言い淀んで、一瞬、目が泳いだ。
「お前が、思うようにすれば、それで。」
「の野郎、またそうやって逃げる。」
「逃げてなど、おらぬ。本気の本音だ。それでいい。本当に。」
再びふわりと微笑む。
が、その途端、「そうかい、じゃあ」と言った左之助に、あっさり組み敷かれてしまった。
「え? え、おい、ちょっと待て、まさかお前……」
剣心は慌てて押し退けようとするが、左之助がそんなことに構いつけるわけがない。
「いいって言ったなぁお前だぜ?」
「わかった! じゃあ『もう無理、だからやめてくれ』だ。どうだ。ちゃんと言ったぞ。な?」
珍しい必死の抗弁にも取り合わず、首筋に顔を埋める。
「悪ィ、耳、正月。」
「馬鹿! もうほんとに怒っ……」
た、の声は、はぐらかされたもどかしさと一緒に、左之助が呑み込んだ。
幼かった頃の他愛ない戯れ合い。
ちょっとした口実を見つけて絡んでは、問い詰めてなじって、かけらでも彼を理解しようと躍起になっていた。自分を認めさせようとあがいていた。
そうせずにはいられなかった不安で幸福な自分が、隔たった月日の向こうにいる。
あれから三月余りとは思えないほど、あまりにも何もかもが変わりすぎた。
だが変わらないものも少しはある。
目を閉じて、自分の中にずっと変わらず住んでいるその気持ちを、もう一度取り出してみた。
ためつすがめつして、またしまう。
目を開ける。
青と藍を背負って、剣心が瞑目していた。
そのとき、警笛が鳴った。
「島です! 島が見えました!」
船上はにわかに緊張し、全員の視線が島を射る。
張り詰めた空気を剣心の声が破った。
「正直な話――」
さっき操に話しかけていたときとはがらりと変わった、硬質な声だった。
十の瞳が剣心に集まる。
昨日の朝、目を覚ましてからというもの、剣心は極端に口数が少なくなっていた。
これまでのことも、これからのことも、ほとんど口にしていない。鯨波の暴行が落人群を出るきっかけになったことは皆わかっているし、それを報せたのが燕だったことも、これは燕の口から聞いてはいる。だが、そのときは何の反応もなかったという。その後なにがあったのか。それに薫が生きていたことをどうして知ったのか。そして――。
そこにいる誰もが、それぞれに知りたいこと、聞きたいこと、言いたいことを抱えていた。誰もが剣心が口を開くのを待っていた。
静かに話し始めた剣心の声に、全員の意識が吸い込まれていく。
傷は癒えず、体力が損なわれたままのこの状態で、余力は全くない。
縁との闘いに全力を注ぎたい。
「だから島に着く前に、皆にひとつ頼みたい。――拙者に力を貸してくれ。」
くっきりと鮮やかな声が、ひたひたと六人に迫った。
左之助。弥彦。恵。操。蒼紫。そして背を向けたままの斎藤。
見つめ返す目にそれぞれの思いを託し、あるいは隠して、彼らが応える。
「なに言ってんだ今さらよ。」
「こっちはずっと借りっ放しなんだぜ。」
「みんな初めからそのつもりで来ているんですよ。」
「そうじゃなきゃ、とっくに京都に帰ってるって。ねえ蒼紫様?」
「そうだな。」
皆それぞれに過去を背負っている。救われる難しさと意味を知っている。だからここにいる。
今さらだがやっとだ。と、左之助は思った。
やはり肝心なときに自分は傍にいなかった。今度も事態は自分のあずかり知らないところで進展した。悲愴な覚悟で帰ってみれば、剣心はそんな境地を既に脱却していた。どうやってかは判らない。もし自分の存在なり言葉なりなんなりが多少でもそこに関与できていれば嬉しいとは思う。皆とひとくくりかと思うと悔しくもある。だが、もうそんなことはどうでもいい。
人の手を借りるのは、ときに貸すよりもはるかに難しい。まして人を助けることでかろうじて立っている人間にとっては尚更。
こんな顔を、いつか見たいと思っていた。
いつかこんな風にまっすぐに話しかけてくれることを願っていた。
今度こそ幻影ではないだろう。見失いはしないだろう。
兆す淋しさの気配を、今は見ないようにする。
予感を雑念と共に封じて、島を見据えた。
上陸。闘い。そして剣心の得た答え。
道が分岐れようとしていた。
2004.10.31/ひた走る3―左之助
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