<6>
夏休みをややフライングしてややはみ出したおれの高校最後の夏がいつ終わったのかというのならば、それは多分あの日のあの夜だったのだろう。
季節は少しずつじわじわと秋に侵入していき、おれは学校と急遽始めた受験勉強の合間をぬって比古美術館通いを続けていた。
緋村さんとの関係があの日を境に劇的に変わったというようなことはなく、緋村さんはやはり概ね無表情で、リアクションは律儀で、話題と趣味はマニアックだった。
だが一方では多少の変化があり、新たに知ったこともあった。
緋村さんの口数が増えた。緋村さんの話し方が多少は普通になってきた。緋村さんの眼鏡とおれのサングラスが新しくなった。新しい眼鏡のおかげもあって、緋村さんの微かな表情の動きを読み取れるようになってきた。緋村さんがおれを名前で呼ぶようになった。二人称が格上げされた。おれもごくごく時々は名前で呼んだりするようになった。
二学期に入ってすぐ、内定を辞退して大学を受験することにしたと報告したときのことはよく覚えている。
何かと波瀾万丈の夏休みの間、この美術館の家屋敷を見ながらずっと考えていたことだった。決心したのは矢田貝今日太郎一家の事件が落着した後で、相楽先生には翌日すぐに相談した。そして先生と一緒に内定先に謝罪に行き、ようやく緋村さんにも報告できた。
「おれ、ジープウェイでいこうと思う」
相楽先生と就職するはずだった会社の社長に言ったのと同じことを緋村さんにも言った。
おれは恵まれているのだと思う。
世の中には猫をいたぶって憂さ晴らしをする下らない人間が当たり前のようにいるのに、おれの周りにいる人たちときたら。
「まったく最近の若い者は」
三人とも、そんなようなことを言いながらも、言葉とは裏腹のあたたかい顔をしていた。先生は優しかった。眼光炯々の大器の社長からは「四年後でも六年後でも、気が向いたらまた来なさい」と望外のはなむけまでもらった。
「それもいいだろう。きみの人生だ。頑張れ」
と、存外に一般的なエールを送ってくれたのは緋村さんだったが、他の二人とは違ってうすうす気づいていたらしいのは意外だった。
「なんで?」
「きみはひとり言や寝言が多い」
「は?」
「よくひとりで喋っている」
「え? マジ?」
「あっちが本音なのだろう。なかなか……興味深い」
ひとり言? 寝言? そんなに? っていうか「寝言」? 緋村さんの前でおれが?
「意志と行動。志と誇り。忘れるな」
結局のところやはりあれは夢だったのだと、おれの中ではもうすっかり納得済みになっていたというのに。
実はかっこよく将来の抱負などを語った最後の決め科白まで用意して何度も練習をしていたおれだったが、ふいうちの先制攻撃をくらって予定はがらがらと崩壊し、周章狼狽の醜態をさらした。
猫についての新事実も発覚した。
猫離れした鳴き声を仕込んでいたのは緋村さんだったのだ。
元から資質はあったという。しかも物覚えがいい。面白いほど次々マスターしてくれるのが楽しくて、しつけも兼ねて多彩な鳴き方を教え込んでいったと緋村さんは語った。
「しつけ?」
「トイレや爪とぎやテリトリーの」
家には上がらせない、展示品に触れさせない、建物に傷をつけさせない、というのが、館長こと比古清十郎氏が彼らの同居を許可した条件だった。
しつけは厳格で過激だったようだ。
何をどうしたのか、詳しいことは恐ろしくて聞けないが、彼らは許された範囲と許されざる行動を即日理解し、緋村さんの姿と声と刃物の音に絶対服従するようになった。一般的には不可能なはずの驚異的な教育を可能にしたのが何であったかは聞かぬが花だろう。
おや?と思ったのは、そのあと緋村さんがポツリとこう言ったときだった。
「彼らは世話をしているおれより左之が好きらしい」
一見どう表情が動いたというわけでもなかった。
別に口がつんと尖ったわけでなく、頬がぷっくりと膨らんだわけでもない。まして駄々をこねる子どものように身体を揺すったりなど、もちろん全くしていない。
けれど全体から立ち上る空気が、どこからどう見てもこれはいわゆる――。
「え、なに、緋村さんひがんでんの?」
からかうと今度はほんの少しではあったが確かに目に見てわかる程に口が尖った。
「ひがんでなどいない」
「ふうーうん」
「なんだその顔は。にやにや笑うな。見苦しい」
仮にも年上のひとである。
ここは黙って譲っておこうとおれも思いはしたのだが、でもやはり嬉しかったのだ。自分が緋村さんの内側の変化を感知できたことも、緋村さんがそれをたとえほんの少しでも表に出して見せてくれたことも。そしておれは未熟で純情な若者だったから、それがつい素直に顔に反映されてしまったのだ。
「いやいや、まあまあ、ねえ? あ、でもそういやさー、あいつらってなんであんなに性懲りもなく何遍もつかまったんだろうなあ?」
あの被虐事件のことである。
屋根なり床下なりに隠れて出ていかなければよかったものを、と、これも実は前々から不思議に思っていたことだった。
だが話の接ぎ穂だったつもりの話題には思いがけず重い反応が返ってきた。
「…………食べ物に釣られたようだ。元が野良だから糧食への執着が強い」
あ。
この歯切れの悪さは何か隠しごとがあるときの歯切れの悪さだ。
そう思ったが、同時に、訊いても絶対に口を開かない種類の歯切れの悪さだとも感じ、そのときはそれ以上追及しなかった。
その後ずいぶん長い間、緋村さんは自分ひとりの胸にその重荷をため込んでいた。
犯人のうちの一人がおれにとても酷似した声をしていたという。
いやちがう、そんなことはなかった、全然ちがう、ちっとも似てなどいなかった。
思わず口を滑らせた後で否定する必死さは、本当はそうだと確信しているときに特有の必死さだった。それを聞いたときに去来したショックと腹立たしさと悔しさと切なさと愛しさは一生忘れないだろう。
くだんの眼鏡店には九月の連休の中日に行った。
眼鏡を売る店なので店内には数多くの眼鏡が並んでいたが、緋村さんはゆっくりと店内を一巡すると、ふたつを試着したと思ったら、「これ」と、最初に試した銀縁に決めてしまった。入店から五分も経っていなかった。
「はやっ。つかもっといろいろしてみろよ、折角だし。これとかは?」
実は前々から緋村さんに似合いそうだと見当をつけていたセルのフレームがあった。さりげなくそれを示してみたのだが、さらりと流れた一瞥は完全に素通りして終わった。
「買い物は早い方」
にしても早いんですけど。
そして次の二分でおれのサングラスを選んだ。
「これがいい」
「それ? おれ? マジで? おれはどっちかっつうとこういう……」
自分で選り出したのは、前のレイバンによく似たワイルドで硬派なデザイン。
緋村さんが差し出したのはマットシルバーのどちらかと言えば知的でシャープなメタルフレーム。
「おれには違うくね?」
「そうか。左之は背が高くて顔も男前だからこういうものをするとセクシーでいいと思ったのだが」
「へ」
「だがいいんじゃないか。お前が好きなものにすれば。使うのはお前だ」
「……………ど? 似合う?」
そろそろとご推薦のサングラスをかけて姿見をのぞくと、鏡の中のおれを見つめる緋村さんと目が合った。頭ひとつも背が違うと鏡ごしでも見上げる格好になる。鏡と牛乳瓶のフィルターの向こうからクロマトグラフの万華鏡がじいいいいっとおれを見つめてきた。しばらく鏡の中で見つめ合って、映った自分の姿はろくろく見もせずに決めてしまった。
―――セクシーで男前? そーお?
「こ、このままかけて帰ろっかな」
えーっと。
これってもしかして手玉に取られてるって言うんでしょうか先生?
緋村さんの新しい眼鏡ができてきた日だった。
緋村さんの新しい眼鏡は、長方形の四角い銀の細縁に黒いセルのつるがついている。
スマートでクールな雰囲気なのでかける人によってはお堅い銀行員風になってしまいそうだが、緋村さんがかけると小洒落た上品さがあり、垢抜けてかっこいい。白いシャツにもジーンズにも似合って、ポニーテールにしても髪を下ろしてもよく似合って、しかも髪型を変えると雰囲気が変わって新鮮なのだ。
薄くて軽いレンズを奮発したのでクロマトグラフィーの虹色もよく見える。
けれどやっぱり……。
「緋村さん?」
「なんだ」
「眼鏡……はずせよ」
緊張したせいで思いがけずきつい口調になってしまって言った自分の方がひやりとしたのに、いつものような生意気だとか偉そうだとか目上の人間に対する態度がなっていないだとかいうようなお小言は返ってこなかった。
かわりに緋村さんは黙って眼鏡をはずした。
はずしながら伏せた目を上げたときには、はずせと言われた直後のはっと強ばった顔ももう元通りに見えた。
何のへだてもなくこんな風にこの目と向き合うのはいつぶりだろう。
「……うぶ毛も赤いんだな」
美しい肌のことをよく「絹のような」と表現するが、絹にはこんな張りはなく、血も漲らない。「磁器のような」とも言うが、磁器はこんな柔らかさも匂い立つ息づかいも持たない。
小さな唇が、赤ん坊のように可愛らしいくせに息詰まるほど艶めかしい唇が、ゆっくりと動いて、その唇にふさわしい囁く声を吐き出した。
「地毛だから?」
「地色と言え」
あのときと入れ違いに俺がそう言うと、緋村さんはくすりと笑った。
初めて聞いた笑い声だった。
やがてじわじわと冬の気配がし始める頃には、おれの通う先は庭からもっぱら離れに移っていた。
その頃には緋村さんは言えば眼鏡を外してくれるようになっていた。気が向いたら頼まなくても外してくれることもあった。手伝う用事の種類が増え、おれの料理はレパートリーが増えていった。
何かとマニアックな緋村さんが日常生活のこだわりもマニアックだったことは、初めて離れに行った日に知った。自分が暮らす離れが美術館ほど掃除が行き届いていないのは、実は無頓着な性格だから。電子レンジも炊飯器も電気ポットもコーヒーメーカーもミキサーも持たないのは、調理家電を好まないから。米は文化鍋で炊き、湯はやかんか小鍋で沸かし、コーヒーは磁器のドリッパーで手だて。そのくせ食べるものに頓着があるわけでもなく、一度おでんを作ったときなど一週間毎日平気で食べ続けて、そのうえまださらにタネを足そうとしていた。プラスチック製品はできれば避けたいらしく、歯ブラシや食品ラップは選択の余地がないので妥協するが、アイロンも金属製(持ち手部分がプラスチックなのも緋村さんにとっては妥協だ)、食器洗いはたわしと麻布を使い、食品保存容器はやきものの小壷。掃除機ではなく箒とはたきと雑巾で掃除をするのは美術館だけではなく自宅も同じだった。たしかに日本家屋の構造と素材には適しているのかもしれないが、それにしてもちょっとどびっくりな現代生活ではある。
今にして思えば、芝刈りを鋏でするくらい可愛いものだったのだ。
緋村さんといると毎日が新鮮で、驚きの連続だ。
世の中自分の価値観だけで見ていてはいけないのだとつくづく思う。
それにしてもなんといっても最高に驚かされたのは名ばかりの春もいいところの雪の卒業式の日のあの事件だ。
学校を卒業するまでは「絶対不可」というのがただの逃げ口上ではなく全くの本気だったとは予想外だったが、だがまさかそんなつもりでいたとは、それこそお釈迦様でも気がつくめえ級の意外性だった。
今日こそはと決意も固かった十八歳春の宿願が、どっちが上で下か論争という、自分史上最高に予想外のアクシデントに粉砕されて儚くなったのだ。
命がけの攻防やコント同然のすったもんだの挙げ句にようやく話が収まるべきところに収まるのは、おれたちが初めてあの庭で出会ってから実に丸一年が経った翌年の夏になってからのことになる。
END/2006.08.06
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