「ジープウェイ・サマー」こぼれ話です。本編の後でどうぞ。
猫のしっぽ 〜あるいは猫が変な声で鳴いて飼い主が幸せになる話〜
食べ盛りの三つ子を連れて世知辛い人間(じんかん)に女手ひとつ。大概いろんな怖い目にも恐ろしい事にも遭ってきたけれど、あんなにぞっとしたのは初めてだったかもしれない。
びかびか光る日本刀があたしのお腹を舐め上げて、自慢の三毛のごくごく先端が見えないほど薄く削がれた。
そのときのあの人の怖ろしかったことといったら。しつけだなんて嘘。あれは絶対楽しんでたに決まってる。
「うちに来るか」と訊ねた目が優しくて寂しそうで、ああこの人はきっと良い人に違いないと思ったからついて来たのに。子どもを庇って凍った河に落ちた時でさえ、あんなにも身が凍りはしなかったもの。こんなことなら町の人間に追われる野良でいた方がまだしもよかった、可愛い可愛い子ども達をとんでもない鬼の棲み家に連れてきてしまった、今夜にでもこっそり逃げ出さなければ、と、あたしは本気で算段していた。
あの子が来なければ、きっとそうしていた。
けれどその日、あの子が来た。
日が高くなり始めた頃にやって来て、それからとてもいろんなことがあって、そしてあたしたちは今もここにいる。
物騒で不器用でさみしがりやの、チャーミングなご主人さまのもとに。
*
「名前をつけてもらったようだな」
あら、この人ちゃんと見てたんだわね。
全然関心なさそうだったのに、意外。
「よかった。ずいぶん遊んでもらったらしい」
どうかしら。どっちかっていうと、あたし達が遊んであげたんじゃないかしら?
「思ったより、どうしようもない若者というわけではなさそうだ。言葉遣いは感心しないが」
ええ、ええ、あの子はいい子ですよ。あなたみたいに刃物を振り回してあたしをなぶりものにしたりしませんし、町の人間たちみたいに打ったり追い回したりもしませんし、どこかの馬鹿どもみたいに面白がって毛をむしったり尻尾にへんなものをつけたりもしませんしね。最初はあたしもちょっと取り違えてしまったけど。
ええ、素直ないい子。うちの子ども達もよくなついて。
素直で、とってもわかりやすい。
ね、気づきました?
あの子、あなたのことを随分気にしてるでしょう。
そんなにしっかり観察してたなら、それも気づいたのかしら? どうかしら?
「おまえは矢田貝今日太郎か」
ほら、そんなことまでちゃんと聞いてるんですものね。
そうですよ。矢田貝今日太郎。
テンドウなんとかっていう人の野球の推理小説に出てくるんですって。キョウが「響」やら「京」でなくて「今日」なのがいいんですって。漢字で七文字もあるのが珍しくてかっこいいんですって。本当は男の人の名前だけど、ジェンダーフリーなんですって。
あたしにはよくわからないけど、そういうものなんですかね? あなたもそう思います?
「子ども達が正力松太郎とマイケルとクロ」
そうそう。みんな全然ちがう名前なんですよ。やっぱり変かしら? でもあの子たちもいずれひとり立ちするんだから、それぞれの話でいいのかしら?
「いい名前だ。元気に育って立派な猫になりそうだ」
まあ、ほんと?
それはよかったわ。
ま、あたしの子だから言われなくても立派に育つのはわかってますけどね。
「よかったな。………もう、会うこともあるまいが」
え?
あの子のこと?
どうして?
だってまた来るって言ってましたよ?
「………」
あらあら、どうして?
あんなに嬉しそうに力強く言ってたのに?
あんなに穴の開くほど真っ直ぐあなたを見て言ってたのに?
信じてないの?
どうして?
「彼は若い。今日の本気が明日には変わる。そういうものなのだ、人間は」
人間は、って、どうしてそんな風に考えるのかしら、この人。
後ろ向きっていうか悲観的っていうか。
でもあたしは信じますよ。
あの子は来る。きっと来る。
しっぽのお告げがそう言うんだから間違いありませんよ。
ええ、そうですとも。見てらっしゃい。
だってそうじゃなきゃ、なんのために猫にしっぽがあると思ってるの?
*
「彼は何が楽しくてああも毎日来るのだろうか」
ねえ。どうしてかしらねえ。何が楽しいのかしらねえ。
「よほどお前たちを好いてはいるのだろうが」
さあ、それはどうだか?
ま、嫌われちゃあいないでしょうし、あたしたちも嫌いじゃありませんけどね。だからあの子がひとりのときは相手をしてあげてるんですけれども。
でもそれだけで、あんな年頃の男の子がこんなところにそうそう毎日毎日来るものかしらねえ?
「確かにお前たちは面白い。鳴き声も変わっている。猫はにゃあと鳴くものだと思っていたが。実にユニークだ」
あらそう?
あたしたちはごく普通に喋ってるつもりですけど?
「この際どうだ、おすわりも」
おすわり?
「……まさかそんなことはさすがに無理か」
無理ですって? 言ってくれるわね。
このあたくしに無理なことなどあると思って?
ふん、それしき。
こんな感じでしょ? これでいいんでしょ?
んま。
そんなに感心しなくったって、これくらい猫ならだれだって朝飯前ですよ。ただ格好悪くて恥ずかしいからしないだけで。
だからあたしだって普通ならしないんですよ、こんなこと。
ちょっと特別にして見せてあげただけですよ。あなたが元気がないみたいだから。
………あたしやっぱりこの人に甘すぎるかしら。
自分でもちょっとどうかと思いはするんだけど、でもだってこの人ってばあんまり不器用なんだもの。
感じたままに笑ったり怒ったりすればいいのに、素直じゃないんだから。
それか、もしかしてどうしたらいいかが判らないのかしら? だからこんなに可哀想にさみしそうに見えるのかしら? でもあたしが変なふうに鳴いたり犬の真似をしたりするとちょっと嬉しそうな顔をするのよね。だからついサービスしていろいろしてあげたくなっちゃうんだけど。
まあ……!
だからってそんな怪獣みたいな鳴き方をこのアタクシにしろと?
酷い人だわ、まったく。
「ほう。大したものだ」
フフン。
「とはいえ……。高校生なら他に楽しいことも多くあるだろうに………」
あらま。
やっぱりあの子の話?
よっぽど頭から離れないとみえますねえ。
「物好きなことだ」
ああ、そこはあたしも同感。
でもそれでもここに来たいんですもの。彼にとってそれだけのものがここにあるってことなんでしょうよ。
勿論、あたしたちなんかじゃなくね。
「そういえば今日はまだ見ないか……」
“そういえば”。
えーえ、まだですねえ、“そういえば”。
もう夕方になるっていうのに、どうしたんでしょうねえ。
もしかしてもう飽きちゃったのかも。何かもっと楽しいことに夢中で、あなたのことなんか忘れちゃってるのかも。
そうかもしれませんねえ。ええ、きっとそうですよ。
にこりともしない無口な大人より同年代の友達や女の子たちと騒いでる方が楽しいに決まってますもん。青春真っ盛りの高校生なんですから。
「……………」
んま。
いやだ。
あたくしとしたことが、なんて意地悪な。
うそですよ。そんなことありゃしませんよ。きっと何かのっぴきならない用事か何かがあって遅くなってるだけですよ。そうに決まってますよ。
ごめんなさいって。
ね。
ほら、意地悪言ったことなら謝りますから。
だからもう中にお入りなさいな。
この真夏日に、午後のいちばん暑い頃からずっと外にいるじゃないですか。熱射病で倒れたって知りませんよ。あたしたちじゃ介抱なんてできないんですからね。そんな人待ち顔で表をうろうろしたりしないで、せめて日陰にでも。掃除のふりなんかして、ぼんやり適当な事してるから門の前の土がはげちゃってるじゃないですか。
……あ!
ほら!
ね?
あたしの言った通りでしょ?
よかった。
さ、じゃあお邪魔虫は退散しましょうかね。
はいはい、お前たちもよ。
ピピー!
駄目です。こっち来なさい!
*
「しかし十代のパワーというのはすごいものだ」
まあ、なんですか。そんなまるで自分がさも年寄りみたいにため息なんかついて。
「毎日毎日よくまあ飽きもせずどうでもいいようなわけのわからない話ばかり。いやはや」
“いやはや”と来ましたか。
あたしなんかからすれば、あの子もあなたも似たようなものですけどね。
第一、そのどうでもいいようなわけの分からない話を、毎日毎日飽きもせず楽しそうに聴いているのはどなたかしら?
ええ、そうよ。あの子にはばれてなくてもあたしにはお見通しよ。
ボーッと興味のないふりをして、適当に聞き流してるふりをして、その実あなたがそのどうでもいいようなわけの分からない話をどんなに楽しみにしているか。必死に耳を傾けているか。
でもあなたのことだから、そんな自分にも気づいてないのかしらねえ。自分の事に疎い人みたいだものねえ。はたから見ればすぐわかる事なんですけどねえ。
「それにあの言葉遣い。嘆かわしい」
あなたほど堅苦しいのもどうかと思いますけど、でも確かにあの子とあなたじゃ両極端だわねえ。
でもそんなことで目くじら立てなくったって。
あなたが突然不機嫌になって無視したりした後、あの子がどんなにしょげてるか知ってるの?
「仕方がない。気に障るものは気に障る」
でもだからって。
「だがかまうまい。そもそも彼はお前たちに会いに来ている。おれは別に」
“かまうまい”ですって?
んまあー、白々しい。
うそ、ほんとはとっくに気づいてるくせに。
彼が何のために毎日毎日やって来るのか。
そして自分がそれをどう思っているのかも。
*
「あの犯人ども。あれだけ懲らしめておけば、少なくともここへは二度と来るまい。お前たちは安心していい」
ええ、ほんとに。
あっちもこっちも丸く収まって万々歳。
一時はどうなることかと心配したけれど。
でもあの子、もう大丈夫ね。
子どもってすごい。
たった一晩でびっくりするほど大人になって、別人みたいになっちゃうのね。
さ、じゃあ次はあなたの番ですね。
今日あれだけ頑張れたあなたですもの。きっと大丈夫。
ね?
矢田貝今日太郎一家だって総出で応援してるんですから。
二人のお邪魔をしないようにって、子どもたちももうちゃんと全部わかってるんですから。
「楽しい夏だった。賑やかで。どれだけぶりだろうか、こんなに楽しかったのは」
ええ、ほんとに。
ここに来てよかった。あたし達も心の底からそう思ってますよ。
「だがもう終わりだ。うっかり出かける約束などしてしまったのはミステイクだが、学校が始まれば忙しくなってそんなことは忘れてしまうだろう。……そう、ここのことも」
…………はい?
「そして来なくなる……。そうに決まってる」
どうして?
そんなわけないじゃない。まさか本気で言ってるんじゃないでしょう?
「だって来るわけが……来る理由が……ない……」
なんなの一体。
どこからそんな考えが出てくるの?
「いいんだ。どうせすぐに忘れる……。それならいっそ早い方が……」
どうして?
どうしてそうなるの?
そんなさみしいことを言わないで。
そんな捨てられた子みたいな顔しないで。
そんな未来に何も希望がない風なこと言わないで。
何もかも全部終わってしまったような目をしないで。
「元に戻るだけだ。どうせ……。ああ、そうでもないか。お前たちがいるものな。おれには充分だ」
だからどうしてそうなるのってば。
だってあなた、あの子の何を見ていたの?
「それでいいんだ。今日の命がけが明日にはいい思い出になる。そんな年頃だろう、十代というのは。だから……。いいんだ、その方が、きっと。だから……」
――かわいそうなご主人さま。
あたし達がここに来た時だって、「うちに来るか」って訊ねる目があんまりさみしそうで放っておけなくて、路頭に迷ったところを拾われたはずが、なんだかこっちが傷ついた捨て子を拾ってあげたような妙な気分になったものだったけれど。
ひとりぼっちで不器用で、ずっとそんな風に閉じこもってきたの?
これからもずっと?
そんなことって――。
「そういえば進路はどうするのだろうな。やりたい事があるようなことを言っていた。ならばやってみればよいだろうとは思うが……。だが彼の人生だ。自分でいいと思うようにすればいい」
またそんな冷たい言い方。
それにそう思うなら本人に言ってあげればいいんだわ。
こんなところであたしなんか相手にそんなこの世の終わりみたいな顔してぶつぶつ言わなくったって。
大体なんですか。
「もう来ない。来るわけがない」とか必死になって言いながら、そんな大きな西瓜を丸ごと冷やしたりなんかして。お茶だって、自分は熱いのしか飲まないくせに、じゃあそのアルミのやかんに冷ましてある大量の焙じ茶は何なんですか。誰が飲むんですか、何用なんですか。
それに座布団もしっかり日干しされてふかふかで、とーっても気持ちよさそうですよねえ。あらあ? そういえば、あの子がよく抱いてかかえてるお気に入りの座布団だけ中綿が大きくなってません? へたれてぺたんこになってませんでしたっけ? あれなら抱き心地も前よりずっとよさそうですけど、これってあたしの気のせいかしら?
………あーあー、もう。
ほんとに手のかかる人だこと。
やせ我慢で言ってるんだか本気でそう思い込んでるんだか知らないけれど。
ああ、でも本気かも。ただし本気の勘違いね。何かにつけとかく頓珍漢な人ですものね。だから言ってることとやってることがちぐはぐなんでしょうよ。ひとのことはクールに分析するくせに、自分のことはてんで判っちゃいないんだから。
まったく、これじゃあ、あの子も大変だわねえ。
でも大丈夫。
あたしにはわかる。
あの子は来るし、あなたは変わる。
そしてとっても素敵な事が起こる。
しっぽのお告げがそう言ってるんだから絶対よ。
まあ見てらっしゃい。
だってあなた、そうじゃなきゃ一体なんのために猫にしっぽがあると思ってるの?
了/2006.09.18
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