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たぬき日和


 ショックというのは、後からやってくるものらしい。
「今日は用がある。悪いが帰ってくれ」
 と、言われたときは、「ああ、そうか、用があるのか、じゃあ仕方ない」と思っただけで、だからどうともそれで何とも感じなかった。
 それが、刻々と重くなっていった。
 着々と、どこまでも。


 思えば緋村さんに追い返されたことなどそれまでなかったのだ。
 筋金入りの外出嫌いな人だから、留守だったことさえ数えるほどもない。
 親密なおつきあいをするようになった(と思う)とはいえ、両手を広げて飛びついてくれることもなければ豪勢なごちそうで歓待してくれることもなく、それどころか、なかなか顔を出さなかったり、すげなく捨て置かれたりすることさえ稀ではなかったが、それでもはっきり「帰れ」と言われたのは初めてだった。………と思う。おそらく。
「今日は用がある。悪いが帰ってくれ」
 用って何なんだ。
 今日はって、でももうすっかり夜なのに。
 今夜なにがあるんだ。
 誰か来るのか、どこかに行くのか。
 人づきあいが悪くて人混みが嫌いで、客といえば美術館に見学に来る来館者と館長を訪ねてくる数寄者とどこだかの画商やら何やらと出入りの八百屋の配達程度で、外出は滅多に行かない買い物と、もっと滅多にないおれとのおでかけくらいで、なのにそんな緋村さんに夜も八時を過ぎてから一体なにがあるというのだ。誰とどこで何をしようというのだ。
 美術館から一歩遠ざかるごとに、十センチずつ足下が沈んでいくような、あたりがどんよりと暗くなっていくような、もやもやした気持ちの悪いものが重く重くのしかかってきた。


 おれに降って沸いた黒雲はしつこく粘っこくもやもやとのしかかり続けた。
 緋村さんに会うのは雲が晴れてからにしないと倦怠期のヒステリー女みたいに最低な言動をしてしまいそうなので、わざと毎日を忙しくして、美術館に行く時間とひとりになる時間と頭がひまになる余地をなくした。アルバイトを熱心にし、どうでもいい友人の誘いも断らず、くだらない遊びをして、ついでにする必要もない勉強までしてみたりした。
 だが暗雲は晴れなかった。
 むしろどんどん濃さを増し垂れこめ、粘着化していった。


 こんど一緒に森にまつたけ狩りに行く約束をしたばかりだったのに。
 おれはといえば、やっと取りつけたその三度目のおでかけのことで頭がいっぱいで、常時微笑みが絶やせないほど浮かれていたというのに。
 二人のおでかけはこれまで二度あったが、一回が眼鏡屋さんに眼鏡を買いに行った時で、二回目が眼鏡屋さんに眼鏡を受け取りに行った時だ。ツーカウントかどうかも微妙なら、用事の口実を必要とするおでかけはデートとしては極めて初期段階にあたる。
 それがいきなり森にまつたけ狩りだ。
 しかも話の発端は緋村さんだ。
 おれが舞い上がっていたのも当然と言えよう。
 例によって相楽先生の授業ネタから、国の自立と第一次産業の関係に話が及んだ。というか、糧食の自給自足と人間及び国家の精神的及び物理的自立の相関関係について緋村さんが語り出した。
 その途中でこんなことを言ったのだ。
「現に裏の森では良質のまつたけが採れるが、おれ以外に知っている人間はいないとみえる。つまり現代ではヒトは」
「え、待った! ていうかそれマジ? こんなとこでマツタケ採れんの? マジで? それすごくね?」
 と、いうわけで、じゃあ今度一緒にまつたけ狩りに行こうということになったのだ。
 思いがけない成り行きにほくほくしつつ、だが一方では知恵熱が出そうなほどあれこれ悩みもしていた。
 だって。
 だっていいのか、いきなり森だなんて。人気のない森の奥深くに二人きりだなんて。
 それってやっぱりそういうことなんだろうか。でも話の流れ的にはもしかしたら本気で単にまつたけ採りって可能性も……。いやでもそんなわけないよな。そんな奴いないよな。やっぱ普通そう(・・)だよな。けど最初がアウトドアってのもどうよ。でも森だし、まつたけの穴場ってことは当然ほかに人なんか来ないようなところだろうし、二人きりだし。森とかってやっぱここらへんより冷えるだろうし。風が吹いて枯れ葉がかさかさ散ったりなんかして、風がちょっと肌寒かったりなんかして、秋の日はつるべ落としだったりなんかして。
 そしていろんな場面といろんな緋村さんが頭の中を埋め尽くす。
 驚く緋村さん。ためらう緋村さん。
 枯れ葉はらはら、風がぴゅうう―――。
 うろたえる緋村さん。恥じらう緋村さん。あらがってみせる緋村さん。
 落ち葉がさがさ、風がぴゅうう―――。
 とまどう緋村さん。流される緋村さん……。
 降伏する緋村さん、溺れる緋村さん、怯える緋村さんけなげな緋村さん溺れに溺れる緋村さん―――ちょっと待ったー!ストップ妄想!ストップ地球温暖化!うおー!
 とかなんとか一人勝手に成層圏まで舞い上がっていたというのに。
 高度が高いほど、墜落のダメージは大きい。


 その日は腹立たしいほどの秋晴れだった。
 おれは呆れるほど何もすることがなく、不思議なほど誰からもどこからも連絡も誘いもなく、そして世間は悲しくなるほど行楽日和の日曜日だった。
 人は鬱々としているときにそんな一日を持つべきではない。
 夜を待たずに、おれは進退窮まった。
 比古刀剣美術館の表門をくぐり、無人の受付を通り過ぎて庭に回る。
 庭はフィランソロピーだ。地域に開放されていて、誰もが自由に出入りしていいことになっている。そこにはおれが名付けた元野良猫の一家もいる。もう何日も会っていない。元気にやっているだろうとは思うが、そういえば顔も見たい。そうだ。おれは矢田貝今日太郎とその子どもたちに会いに来たのだ、そうなのだ。
 怖いものがないのは強さの証しだと思っていたが、どうやらそういうことではなかったらしい。なるほどこれが勇気を振り絞るということか。
 さて、庭には矢田貝今日太郎もいたが、緋村さんもいた。
 緋村さんはこっちに背を向けて小さくしゃがみこみ、低い声で猫になにやら話しかけていた。ぶつぶつと呟くようなひとり言で何を言っているのかは判らなかったが、しかし二人(?)はいつのまにあんなに親しくなったのだろう? 少し前には、緋村さんは猫どもが世話をしている自分よりもおれになついているといって拗ねていたのに。
 緋村さんは膝を抱えて小さくなってしゃがみ込んでいた。
 緋村さんは小柄で細身で柔軟だから、そんな風にすると、脛と腿とお腹が隙間なくぺたりとくっつく。背中はきれいなCカーブを描いている。かかとは地面についているが、お尻はついていない。そうしてコンパクトに折りたたんだ脚を身体ごと抱きしめて、小さく小さく丸まっている。調和のとれた美しい姿勢で、いつもならさすが緋村さんだと見惚れたりなんかもしただろうに、その日はその後ろ姿が必要以上に小さすぎるように見えて、おれはなんとなく動揺した。
「ひ」
 むらさん、と声をかける前に、二人がおれに気づいた。
 どうせ飛びついてきてくれるなら、おれとしてはそりゃもう断然緋村さんの方をご所望なのだが、気づくやいなや猛然とダッシュしてきたのは貫禄たっぷりの母猫の方だった。
 いや、これはダッシュというよりも……。
「アンギャアアーーーーッ!」
「………は?」
「シャアアアアァァァッ!」
 ま、待て待て待て待て待ーてー!
「いでっ! でっでっいーーーーーででででっ」
「ンギャーーグォーーー!」
「でーーーっ!」
 なんだなんだ何なんだ一体。なんでそんな凶暴なんだ? ていうかこいつの爪はなんでこんなにすごいんだ?
「フガッ!フガッ!フンガーッ」
「こらよせ、今日太郎。もういいから。おい!」
「フンゴオオーーーッ」
 しかも緋村さんの制止もきかないとは、これは一体なんとしたことか。
「いーーーたいっつの!! だーもうムカつく! バカ、このクソ猫! つうかおれがなんかしたか!なんか悪いことでもしたか!! ああ?!」
「………」
「………」
「………?」
 なんだこの沈黙は?
「……ジョワーーーッッ!!」
「どわーー!」
 おのれよくもぬけぬけとそんなことを。
 とでも言いたげな猛烈な攻撃だった。
 緋村さんが凛と声を張ったのはそのときだ。
「矢田貝今日太郎」
 大きくはないがよく通る、しなやかな鞭の声だった。
 透明で、きれいで、りりしくて、どきっとするほど芯が強い。
 緋村さんのこういう声にはおれも弱い。
 気がつけば、奴だけでなくおれまで抵抗をやめて姿勢を正していた。
「お前はいい子だな……」
 おれの腿を登攀中だった三毛の巨躯を緋村さんが抱き上げた。
 産まれたての赤ん坊を抱き上げるように両腕で丁寧に抱き取り、胸にくるみ、あごをうずめる。
「いい子だ……」
 おれなんかには滅多にかけてくれない、柔らかくてあたたかい声だった。
 動物だとか植物だとか果物だとか野菜だとか、人間以外の生き物には緋村さんはとても優しく、惜しみない。
 こんなときになんだが、おれはまだあんな風に無条件に絶対的に緋村さんを抱きしめたことがない。一応だがキスもしたし、手も繋いだし、膝枕もしたし、肩や背中や腕に触れもする。でもああいうのはない。奴も奴でおれにはしないようなまるで猫みたいな甘え方でなついたりなんかしやがって、動物相手に目くじら立てるほど切羽詰まってはいないものの、後でちょっと意地悪をしてやろうか程度には妬ましい。
 緋村さんは、いい子だ、と言った後も何かぶつぶつと言っていたが、さっき地面にしゃがみこんでいたときと同じ口の中で呟くような話し方で、何を言っているのかはよくわからなかった。「大丈夫」とか「もういい」とか「ありがとう」とか聞こえた気がしたが、しかしこの状況で「ありがとう」は何かちょっとおかしくないか?
―――と、思ったとき、二人が同時にはっとした様子で背後を振り返った。
 何も変わったところはない。……ように、おれには見えた。
 だが、緋村さんはおれに矢田貝今日太郎を手渡し、「必ず離すな。ここを動くな」と言い置くと、ゆっくり庭の端に行き、それから生け垣に沿って建物の裏手に回り込んでいった。
 おれは妙におとなしくなった矢田貝今日太郎を抱えたまま、にじりにじりと接近を試みた。
 おれに「離すな動くな」と言いながら向こうを向いた緋村さんが、とてもとても気がかりそうな顔をしていたからだ。おれ(と猫)のことなどてんで全く毛ほども眼中になく、何か他のことに気持ちはまっしぐらだったからだ。
 あのときと同じだった。
 「今日は用がある。悪いが帰ってくれ」と言ったあのときもそうだった。
 “お前なんかに構っていられない”と、顔が言っていた。
 くそ。放っておけるか。
 何者だ。どこのどいつだどんな奴だ。おれ以外に緋村さんがテリトリーに入れる奴。何をしてる奴だ。男か女か。年は職業は顔は背は。
 ああもう。
 だから吹っ切れるまで来ないつもりだったのに。


 おれの足元を黒いものが走り抜けたのはそのときだ。
 クロだった。
 そして直後、聞こえてきた声におれは耳を疑った。
「クロ! だめだ、来るな……ちょ、あっ……!」
 緋村さんが動揺している。
 緋村さんが焦っている。
 緋村さんが慌てている。
 すわ何事かと、それこそ大慌てで回り込むと、緋村さんとクロとそれがおれの目に入った。
 緋村さんは生け垣のそばに片膝をついている。腕をめいっぱい伸ばしてクロの首根っこを押さえている。クロは地面に押さえつけられたままじたばたと暴れ騒いでいる。そしてその茶色い動物は地面にひっくり返って動かない。おれはついていけない。
「左之。クロを頼む」
 ついていけないまま、おれは緋村さんの言うなりになる。
 暴れる猫と重い猫を右と左の腕で締め付けながらまず思ったことは、これ以上は無理だぞ、ということだった。おれには腕が二本しかない。これでマイケルと正力松太郎まで来たら文字通り手が回らない。
 茫然と立ちつくすおれの目の前で、その毛むくじゃらの四足動物はぴょこんと起き上がった。起きると毛がふくらんで身体が丸くなった。きょろきょろと見回すとぼけた顔を見て、イタチではなかったことを理解はした。
 これはイタチではない。
 ではなく、あれだ。いわゆる―――たぬきだ。
「驚かせてすまなかったな」
 緋村さんがあの優しく柔らかい声でたぬきに話しかける。
 たぬきは挙動不審にきょときょとしながら、緋村さんにまとわりつく。
「今日はありがとう。会えて嬉しかった」
 緋村さんが白い手をそうっとそうっと差し出し、たぬきがすんすんと鼻をすりつける。
「気をつけてお帰り」
 そしてくるんと身を翻して走り去る。
 たぬきは十数メートルほどのところで一旦立ち止まって振り返った。
 静止してただただひたと見つめる姿が今生の別れを惜しむ武士の女房を連想させた。
「みんなによろしく」
 緋村さんが声をかけ、二人(?)は少しの間、見つめ合ったように見えた。
 そしてたぬきは振り向き振り向きしながら夕暮れの森に帰っていった。



「えっとさ、緋村さん。今のって……」
 あれが何かは訊くまでもないが。
 どこからどう見てもタヌキだが。
 脊索動物門脊椎動物亜門哺乳綱ネコ目ネコ亜目イヌ科タヌキ属タヌキだが。
「小さい頃からの知り合いでな」
「って今のたぬき?」
 うなずく緋村さん。
 考えるおれ。
「大きくなって会うことも少なくなっていたのだが、先日偶然に再会した」
「………」
 考えるおれ。
「家族ができたらしい。元気そうでよかった」
 たぬきの去った方向にあの優しい目を向ける緋村さん。
 そしてさらに考えるおれ。
 ものすごい回転数で脳をフル稼働させていたせいで、猫が腕をすり抜けるのにも気づかなかった。おれの腕を抜け出た猫たちは緋村さんのところにいき、身をすり寄せている。
 おれは考える。
――小さい頃からの知り合いでな。
 たぬきと幼馴染みの緋村さん。
――みんなによろしく。
 たぬきの家族と知り合いの緋村さん。
 今生の名残を忍ぶようだった二人の別れ。
 おれは考える。
 普段あまり使わない左右の脳に鞭打って考える。

 そして結論を得る。


 以前、緋村さんが言ったことがある。
 今日命がけだと思っている本気が明日には過去のものになる、それが若さというものだと。
 なにか他愛もない話をしている最中で、苦笑まじりのさらりと軽い口調だった。別に真剣に何かや誰かを慨嘆したり糾弾したりしていたわけではない。緋村さんはそんなことを言ったことさえ覚えていないかもしれないくらいだ。
 だがおれはその一言がずっと忘れられないでいた。
 緋村さんは二十七歳でおれは十七だ。
 歳の差なんか関係ないと思いたい。
 阪本龍馬が浦賀の黒船に衝撃を受けたのは十九の時で、石川一は十七で啄木となり、おれは十七で緋村さんと出会った。
 それだけのことだと思いたい。
 けれど、おれがどんなに真剣に必死に命がけで語りかけても、それは緋村さんにとって「十七の本気」にすぎないんじゃないのか。
 その懸念は、影だか棘だかのように消えることなくおれの中に存在した。

「緋村さん?」
 呼ばれて緋村さんがおれを見る。
 眼鏡ごしにおれを見上げるクロマトグラフィーには、たぬきを見送った優しさの名残り。
 おれは決心する。
 真剣とは触れれば切れる本物の刀剣のことだ。必死とは失敗すれば必ず死ぬほどの覚悟で全力を尽くすことだ。命がけとは一命を捨てる気持ちで事に当たることだ。
 緋村さんがどう思っていようと、おれの本気は本当の本気だ。
 おれはこれまでの人生とこれからの人生と人間社会に訣別を告げる。
「緋村さん……」
「? 左之?」
 異変を感じたらしい緋村さん。
 小さな両肩を掴むと、『どうした?』と言いたげに目がくるめいた。
「おれ……おれ……。おれ、タヌキでもいいから」
 沈黙する緋村さん。
「タヌキでもキツネでも宇宙生物でも何でも、おれは緋村さんが好きだから。おれが好きなのは緋村さんだから、だからタヌキならタヌキでタヌキでも好きだから。……あ、いやタヌキが好きなんじゃなくてタヌキの緋村さんがってことで他のタヌキは別にどうでもいいっていうか、そうじゃなくてだから……」
 だめだ、なに言ってんだかもう自分でもわかんねえ。
 こんなんじゃだめだ。
 ちゃんと言わなきゃ。
「左之。おれは……」
 戸惑う緋村さん。
 可哀想に。ずっとひとりで苦しんできたのか。それでこんな風に世間とも人とも交わらずに生きてきたのか。
「いいんだ、言わなくていい……」
 どさくさまぎれに初めて抱きしめた緋村さんは、見た目から想像していたよりずっと細くて小さくて、そして堅くて熱かった。こんなときなのにそんなことを考えているなんて最低だ。ストップ妄想ストップ地球温暖化。不埒な考えを振り払おうと強く頭を振る。腕に力をこめると、小さな身体はさらに小さくなって、すっぽり胸に収まってしまった。
「わかってる。緋村さん……」
 こんな細い肩にそんな重い秘密が負われていたのか。

 やっとわかった。

 緋村さんは本当はタヌキだったのだ。



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