たぬき日和 2 1 2/この頁 (全)

<2>


 緋村さんは本当はタヌキだった。
 それが何かの理由で人間の姿になってこうして人里で暮らしている。
 人嫌いも外出嫌いも偏屈な態度も、すべてそれに由来するものだったのだ。本当はタヌキだからにせよ、身を守るカムフラージュにせよ。
 緋村さんはタヌキ。
 そんな馬鹿なと思う反面、不思議に腑に落ちてしまうものがある。
 これまで驚かされ続けてきた緋村さんのさまざまな珍妙な言動も、実はタヌキだったからだと思えば、ああなるほどそれでか、さもありなん、と思える気がする。
 この美しい姿形でなくなるのは残念だが、でも緋村さんならきっとタヌキになっても(戻っても?)綺麗で格好いいに決まってる。
 動物好きの緋村さん。
 人間と人間社会には手厳しいくせに、動物や植物には惜しみなく心を注ぐ緋村さん。
 単なる動物好き人嫌いではなかったのだ。
 タヌキの身で人間社会を生きるのはどんなに大変だったことだろう。
 おれはふいに緋村さんが種族を超えておれを認めてくれた事実に思い至る。
 そしてひとつの懸念。
 もうずっとこのままなのか、いつかタヌキに戻るのか?
 訊ねるにはデリケートすぎる問題のような気がした。
 もしかしたらタヌキの一族を追い出されたのかもしれない。何かの罰のようなものを受けているのかもしれない。かぐや姫が月から地上に落とされたように。そうして彼女が月からの迎えを待っていたように、緋村さんもいつか許されて森に戻れる日を待っているのかもしれない。夜ごと月を見上げてさめざめと涙していた天女のように、緋村さんも森を慕って袖を濡らしているのかもしれない。
 だとしたら訊ねるのは残酷だ。
 きっとたぬき一族には長老やらまじない師やらがいて、意地悪な古狸のそいつらがなにかの方法で緋村さんを人間にしたとかなんとか。
 だがもしかしてさっきのたぬきが緋村さんを連れ戻しにきたのだとしたら? たぬきの一族に?
 だがさっきのあの切々とした惜別から察するにそれはちがう。幼馴染みの絆で禁を冒して会いに来た。そんなところだろう。
 しかしいずれにせよおれの決心は変わらない。
「緋村さん。ひとつ頼みがある。もしいつか緋村さんがタヌキに戻るなら、そのときはおれも一緒にタヌキにしてくれ。そして連れて行ってくれ」
 眼鏡の向こうでおれの大切な美しい瞳が風に吹かれるロウソクのように揺れている。
「言うな。本気だ。学校も友達も家族も進路もどうでもいいんだ。おれは緋村さんさえいればそれで……。だから……」
 どうかちゃんと伝わっていますように。届いていますように。
 「明日には過去になる十七の本気」ではない一生分の誓いだと、頼むからおれを信じてくれ緋村さん。

 ………長い長い沈黙。

 やがてようやく緋村さんが口を開く。
「少し思い違いがあるようだが」
 凛としたしなやかな声。
 張りのある響き。静かな抑揚。
「まずひとつ。おれはたぬきではない」
 タヌキに戻ったらこの美しい声はどうなるのだろう。
 ………ん?
 オモイチガイ?
「もう一度言う。おれは。たぬきでは。ない。――ちなみにムジナでもないし、雪男でも柳の精霊でもない」
 あ……?
「さらに言うとたぬきになる予定も森に移住する予定もない」
 ムジナ? ユキヤナギ??
「当然ながらお前をたぬきにする方法も知らないし、どこかに連れて行くつもりもない」
 は?
 え?
 ていうか、だってでも。
「以上だが何か質問は」
 ていうか、だって……。
 ええええーーー? あーーれーー?
 だってじゃあさっきのあれは何だったんだ?!
 幼馴染みのたぬきと仲良く会話してたじゃねえかよ。おれなんかより全然親しそうで大事そうで超なつかしそうで、なんつうかもう超ラブラブだったじゃねえかよ。どう見てもそれしかないだろ。そうしか考えられないだろあれは。
 動揺。
 周章。
 狼狽。
 混乱。
 大混乱。

 …………思い違い?!

「でも幼馴染みなんだろ?さっきのタヌキ!」
「向こうが小さい頃は知っているが“幼馴染み”ではない。この数年の話だ」
 まだ生まれて間もなかった奴が森で蔓に絡まって困っているのを助けてやったことがあるらしい。
 ………たぬきの恩返しだ。
昔々あるところに緋村さんが住んでいました。
緋村さんはある日森でたぬきが蔓に絡まって困っているのを見つけて……。
 うむ、それはそれでユニークなエピソードだが。
「でも一族も知ってんだろ?」
「一族?」
「タヌキ一族。“みんなによろしく”って言ってたじゃん。ちがうのか?」
「彼は去年結婚して、この春子どもが生まれた。森を散歩していたときにたまたま出会った。それ以来、ときどき会いに行くようになった」
「って、じゃあ意地悪の長老は? 古狸のまじない師は?!」
「………」
 緋村さんは眉をしかめもせずにただおれを注視しているだけだが。
「だってでもハナシしてたじゃん!」
 単にあいつとその家族を知ってるだけ??
「こっちが勝手に話しかけているだけだ。向こうの言っていることが理解できるわけではない」
 と、森に遠い視線を投げる緋村さん。
 心なしか寂しそうな横顔。
 おれはとても酷いことを言っている気がしてきた。
「それに知り合いといっても、先に気づいたのは彼だ」
 そう言いながら、緋村さんは足元に戯れている二匹の猫を抱き上げた。
「彼が気づいてアプローチしてくれなければ、おれは彼だと判らなかったさ」
 愛おしそうに親子を抱きしめ、背をさする。顔を寄せて頬をすり合わせる。
「タヌキというのはとても臆病な動物だ」
 さっきひっくり返っていたのも、洒落や冗談や酔狂でひっくり返っていたのではなく、突然飛びかかってきたクロに驚いてのことだったらしい。たぬきはとても臆病で、驚くと一時的に気を失う。失うがすぐに意識を回復して走り去る。「狸寝入り」という言葉はここから生まれたのだそうだ。
 ではなぜあのたぬきは今日に限ってこんなところまで遠征してきたのか? 冬眠前の熊のように食べ物を求めてか? しかしたぬきは冬眠しない。
 当然の疑問を投げかけようとした段になって、おれはようやくさっきたぬきがいたあたりの地面に小山を成しているそれに気づいた。
「あ」
 一瞬の空白。
 そしてまたまた思考の乱気流。
 キノコだ。
 茶色いキノコ。ずんぐりとした小ぶりなキノコ。シイタケより傘が小さく、軸が太く長い。野菜カステラに似ていなくもない。だがもちろん野菜カステラではない。カステラではなく、これはきっと――。
 まさかそんな。
 でもこれはどこからどう見てもそうだ。
 いわゆるあれだ。――まつたけだ。
「ご…めん……! どうしようごめん緋村さん、おれ……」
 日曜日。
 そうだ、日曜日だ。
 “今度の休み”。
 今日だ。
 今日だったのだ。約束のまつたけ狩りの日。大事な大事な三度目のおでかけの日。
 なんてこったい。
「サイッッッテー……」
 こんな大切なことをどうして忘れ得たのか。いくら落ち込んで思いつめて煮詰まっていたとはいえ。ベッコンベッコンにへこんでしなびていたとはいえ。
「うーわマジ最低……。ごめん緋村さん、おれ……」
 これはあのたぬきが持って来たにちがいない。
 いや、おそらくこれを届けにわざわざやって来たのだ。
 そう考えると、物事の筋道はするすると整理された。
一、今日緋村さん(とおれ)がそこにまつたけを取りに行くことを彼は知っていた。
二、いや、むしろあのたぬきこそ「森にある人間が誰も知らないまつたけの穴場」の出典だったにちがいない。
三、緋村さんが現れなかったのでたぬきはまつたけを届けに来た(おそらく心配して)。
 そのとき突然に閃いたものがあった。
 たぬきは夜行性だ。
――今日は用がある。悪いが帰ってくれ。
 おれはもうひとつの事実に気づく。
四、月曜の夜の緋村さんの「用」はたぬきだった。
 緋村さんが会いに行ったのか、向こうが来ることになっていたのかまではわからないが、おそらく間違いない。
 いろんな勘違いと思い込みとトリモチの累乗が解けて目の前が開けてみれば、物事はまったくシンプルで他愛なかった。
 緋村さんは全うに人間で動物好きで、おれはとんでもなく馬鹿で頓珍漢だった。
 こないだの矢田貝今日太郎一家被虐事件のときとまるで一緒だ。ひとり勝手に勘違いをして右往左往している。学習能力ゼロ。またまた落ち込むおれ。あーあ。

 しばらくの間、緋村さんは猫を抱きしめて動かなかった。
 やがて閉じていた目を開き、所在なくもじもじと落ち込んでいるおれに目を向ける。
「青年」
「………ハイ」
「先入観に囚われず行動力に富み情熱的なのはきみの長所だが、もっと想像力を養った方がいい」
「………」
 きっとこっぴどくこき下ろされるのだと思っていたのに、そうではなかった。
 以上だが何か質問は、と言ったときはまるでサボテンだったが、今はちがう。
 表情は穏やかで、目も声もやわらかい。嵐の凪いだ海のように静かでやさしい。
「ひとつ思いついたら、それ以外の十の可能性を考えろ」
 二十でも百でもいい、と緋村さんは言った。
 たとえば学校帰りに信号で誰かとすれ違う。若い女性としよう。その女性が何をしにどこへ向かっているかを想像する。家に帰るのかもしれない。習い事に行くのかもしれない。図書館に本を返しに行った帰りかもしれない。銀行強盗をしに行くのかもしれない。あるいは人を殺して警察に自首するところかもしれない。宇宙人とランデブーの約束があるのかもしれない。悪魔と取引をしに荒野へ向かっているのかもしれない。実はその女性自身が死に神で仕事に向かうところかもしれない。幾通り思いつく?
「考えろ。想像しろ。答えが多ければ多いほど、きみは強くなる」
 緋村さんは今も気まぐれにおれを「きみ」と呼ぶ。「きみ」と呼ぶときは、たいてい説教くさいことを言う。そしていつもとは少し違う、動物に向けるのに似た目色でおれを見る。
 その夕焼けのような面差しに、微苦笑の気配が混じった。
「それにしてもひとをたぬきとは。どうしてそんなことを思いついた」
 どうしてってだって。
 そんなこと訊かれても、おれにだってわからない。
 ただ、もう絶対にそれしかないと思ったのだ。
 相手より背が高くて損だと思うのはこんなときだ。
 なまじ身長差があるだけに、「小さくなる」のが難しく、ますます肩身の狭い思いをする羽目になる。
「なかなかユニークな発想だが」
 魚座B型で思い込みが激しく多少盲目的なのは認めるが、しかし緋村さんに言われるのは心外だ。緋村さんこそ、おれなどより余程ユニークで斬新で意外性に富むのに。
 だいたい緋村さんがあのたぬきとあんなにも親密そうにいちゃいちゃしていたのが悪いのだ。普通ヒトとタヌキはあんな風には交歓しない。そうでなければ、いくら落ち込んであれこれ思いつめて煮詰まって黒雲のトリモチにがんじがらめになっていたとはいえ、おれだってそんな素っ頓狂なところに突っ込んでいきはしなかったと思う。
 こっそり上目遣いで盗み見ると、緋村さんではなく今日の天敵矢田貝今日太郎と目が合った。すごい形相で「カアアッ」と威嚇された。だから真剣に反省してるっつうの。
「緋村さん。ごめん。おれ、約束してたのに」
「ああ」
「怒ってる……よな?」
「別に……」
 と、背を向けて猫をあやす緋村さん。うってかわってしおらしくあやされる猫。
 出会ってしばらくの間、緋村さんは無口で無表情だった。しばらくすると言葉数の少ない毒舌家になった。さらにしばらく経って、ときに寡黙でときに能弁なうんちく屋だと判った。
 だがおれはまだまだ修業不足で、緋村さんの感情の機微を的確に察知することができない。
 きりりと伸びた背筋が怒っているのか呆れているのか救いようのない馬鹿だと諦めているのか、あるいは本当にどうとも思っていないのか、判断できない。
「じゃ、寂しかった?」
「………」
 緋村さんはクロを解放し、矢田貝今日太郎の両手を取って阿波踊りを踊らせ始めた。
 なるほど、彼らの奇矯な猫ばなれはこうして進んできたらしい。
「どうしたんだ、って思った?」
「………まあ、少しは」
 できない判断はしようがない。
 おれは馬鹿で頓珍漢な自分の独断より、好きなひとの言葉を信じたいと思う。
「ごめん」
「うん」
 緋村さんの言うことには概して虚偽誇張がない。
 嘘をつくかわりに、緋村さんは言いたくないを言わない。(ような気がする。)
 だから、緋村さんが「怒っていない」と言うなら怒ってはいないのだろうし、「どうしたのかと少しは思った」と言うならどうしたのかと少しは思ったのだ。「ごめん」で「うん」なら「うん」なのだ。
 ならばそれでいい。いいと思うことにする。
 阿波踊らせを続けながら、緋村さんがおもむろに呟いた。
「土瓶蒸し……」
「え?」
「土瓶蒸しというものが食べてみたい」
 振り返った緋村さんは、バンザイさせた三毛猫を目前に掲げている。
「え。な、何の……?」
「“何の”? 土瓶蒸しといえばまつたけだろう。ちがうのか?」
 ………いいえ、ちがいません。
 松茸の土瓶蒸し。そうだ。猫ではない。そりゃそうだ。普通そうだ。
「おれ、それ知ってる。たぶん作れる」
 帰って調理法を調べれば。
 外出を好まない緋村さんは外食をしない。食べたことのないものがたくさんある。眼鏡屋さんの帰りに、級友の親父さんがやっているちゃんぽんと皿うどんしかないちゃんぽんと皿うどんの店(親父さんは宮崎の出身だ)で皿うどんを食べたときは、沈黙して驚いた。
 食べさせてやりたいものがたくさんある。だが緋村さんは外に出たがらない。
 だからとりあえずおれは料理の練習を始めていた。
 料理は、科学で、化学だ。
 成分、分量、配合、温度、時間。熱による物理的変化。変質。融合と調和。結果は論理的かつ必然的に導かれる。
 今は乾燥食品の成分抽出――ダシの取り方をやっているが、合わせダシも土瓶蒸しも大差はあるまい。
「つってもリアル土瓶とかねえから、なんちゃって土瓶蒸しってことになるけどな」
「ある」
「へ?」
「土瓶ならある」
「ドビン? なんで? マジ?」
「師匠が作った。館で花器にしている」
「………」
「多分あれはそうだ。松茸の土瓶蒸しに使うべきものかどうかは判らないが。見るか?」
「あ、や、つか今度でいいや」
 それも帰って調べなければ。
 松茸の土瓶蒸しに使う土瓶は如何様(いかよう)なものであるのか? 宿題宿題。


 マツタケはとても豊かな芳香を放っていた。
 ひとつのマツタケを取り上げ、くんくんと匂いを嗅いでみる。
 くるくると、小さな女の子が黄色い雨傘を回すように回してみる。
「なあなあ、緋村さん」
 おれは縁側に腰掛けて隣を示し、目色で応えた緋村さんを呼んだ。
 緋村さんは矢田貝今日太郎を両手吊るしにしたままやって来ると、おれが叩いた場所より少し離れた位置に腰を下ろし、猫を膝に乗せた。
「あのさ。おれ、お話作ったんだ」
 うん。
 というように、緋村さんがうなずく。
「むかしむかし、あるところに……」
 おれは少し尻をずらして緋村さんに接近する。
「むかしむかしあるところに、緋村さんと相楽くんが住んでいました」
 うん。
 緋村さんの脚の上ではふっさり丸まった猫めが幸せそうに目を細めている。
「猫もいました……」
 言って、また少し接近する。
 緋村さんは黙って矢田貝今日太郎の額をかいている。
 そうして黙々と猫をかまいながら耳を傾けている。
 うんうん、それで?
 じっと続きを待つ横顔がいじらしく、おれはあふれてくる愛おしさを持て余す。
「……めでたしめでたし」
「………」
 緋村さんは二度ゆっくりとまばたきをしてから顔を上げて、おれを見た。
「終わり……」
 訊ねるでもなく確認するでもない、強いて言えばその中間的な独特の語尾の引き方が、感情表現の控えめなこの人らしい。
「そう。超ハッピーエンド。おれ的大団円。Q.E.D.。………ど?」
 おれが笑うと、緋村さんは首をかたむけた。
 推し量るように。
 検討するように。
 あるいは想像するように。
 そしてたっぷり考えた後で、ぽつりと言った。
「いいな」
「え、うそ、マジ? オッケ?」
「ああ。とてもいい話だと思う」
 マシュマロの頬に仰いだ鰯雲の夕映えを茜色に写して、そう言って、笑った。
 そのまま空に透けて散ってしまいそうな、哀しいほど穏やかな笑顔だった。



 やっぱり人生は何が起こるかわからない。
 おれの予定は狂いっぱなしだ。
 我が身のサビの大ちょんぼで、森のデートもつるべ落としも落ち葉ガサガサも画餅に帰した。一時は人間界に決別を告げた大決心も数分を要せず用済みになった。
 森へ行くこともタヌキになることもなく美しく晴れた秋の一日は静かに終わり、おれたちは森鴎外原作の戯曲「ぢいさんばあさん」に出てくる日だまりの老夫婦、三十七年ぶりの伊織とるんのように縁側に座って薄暮の雲を見たりなんかしている。
 おれは再度尻で歩いて緋村さんにぴったり寄り添った。
「超うまいやつ作ってやっからさ」
 無言でうなずく緋村さん。
 その膝の上では、わがもの顔の母猫がしっぽをぶんぶん振っている。
 だからおまえに言ったんじゃねえっつの。




了/2006.11.19 たぬきメイトの三君に。
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