ジープウェイ・サマー
「うーっそ、マジ? 何あれスッゲー!」
びっくりして、場所柄もわきまえず思わず声に出して言っていた。
言ったきり呆然として見惚れた。見惚れるしかなかった。
ぽかんと口を開けたおれは、きっと自慢の勝負レイバンでもフォローしきれない間抜けな面をさらしていたと思う。
だがいきなりあんなものを見せられたら誰だってそうなるに違いない。
ならない方がおかしい。虚数だ。
というくらい、褪せた藍の道着と袴を身につけて月齢二十八の剃刀月のような白刃を構えた緋村さんはりりしくて綺麗でかっこよかった。背は小さくても細い身体は無駄なく絞られてしなやかで、動きには切れがあって空気も切れそうで、肌が白いのはいつもと同じでもそこにはいつもとは全然ちがう張りつめた気迫がみなぎっていて、男だというのも信じ難いが女では更にありえない美貌が怖ろしいほど鋭く冴えわたって、左頬の大きな十字傷もその姿にはむしろ相応しく思えて、ポニーテールに結わえた赤毛のしっぽの動きさえ華があって、それはもう、性別年齢を問わずこの姿を前に息を呑んで見惚れない人間などいるはずがない物凄さだった。
そう、たとえあの珍妙きわまりない牛乳瓶底眼鏡が美しい顔の上半分をすっぽり隠してしまっていても。
そしておれの惚れた欲目がなくても、だ。
だが、にもかかわらず、その場にいたおれ以外の人間はだれひとりとして緋村さんを見てはいなかった。おれを除く全員の目は館長の比古清十郎に集中していた。
八月も下旬に入って、高校生のおれには呑気な夏休みが続いているが、大半の大人は短い休暇も終わったはずの平日の真っ昼間。町はずれにぽつんとある私設刀剣美術館で行われる模擬演技にわざわざやって来るだけあって、飛天御剣流とやらに対する興味関心の度合いは並々ではない。始まる前には、十三代目比古清十郎の太刀を直に見られる貴重な機会だと、興奮したり有り難がったり勿体ながったり、思いおもいの方向に強い期待を表明していた彼らである。全員が(もっとも全員と言ってもたった五人ではあったが)、その古流剣術の型を実演披露するこの世にただ一人の奥義伝承者の一挙手一投足を、全身全霊を打ち込む気迫で注視するのは、むしろ当然すぎることだった。
そしておれが同じくらいの、あるいはもしかしたらそれ以上の熱心さで、その比古清十郎の相方を務める弟子兼助手兼職員兼窓口受付の緋村さんを見つめていたのも当然だった。なぜなら、刀剣にも剣術にも御流儀にも十三代目にも、尊大な館長が作る奇妙な陶芸オブジェ(彼が作った大小各種の“芸術的”作品が屋内外のそこかしこに置かれている)にも興味のないおれが夏休みを丸ごと費やしてこの小さな美術館に通いづめに通ってきたのは、ただただ「緋村さんとお友達になりたい」の一心だったのだから。
「でーもさあ。あんな時まであのだっせーメガネ外さねえってどう思うよ、おいー」
ミギャアー。ブブブッ。キャワキャワキャワ。
野良猫の母子家庭一家は、口々に同意だか反論だかの声を上げる。
「ありえなさすぎ。お前らもそう思うだろ? つうか普通に」
ギャー。ジョジョー。キイイーッ。
相変わらず変な鳴き方をする猫たちだ。
きっと最初に鳴き方を教えてくれた奴の癖がうつったんだろうが、いまいち可愛くない。可愛くないというより、もはや怪しい。
だがそんなことはこの際慮外。
おれの目は、目の前でわさわさと騒いでいる大きい一匹と小さな三匹を素通りして、頭の中の緋村さんの姿を見ていた。
稽古着で剣を構え、鮮やかに立ち回る緋村さん。
美しくて格好良くて稲妻のように強烈な緋村さん。
都合のよい想像の中で、緋村さんは眼鏡をしていない。
たった一度だけちらっと見てしまったあのクロマトグラフィーの目が、見たことのない鋭い眼光を放っている。
その目がこっちに向けられる。
緋村さんがおれを見る。
険しい顔が氷塊する。
そして緋村さんはにっこり笑って―――。
「うーわ、やっべー。どうすんだよおい、まじでやばいって。っつか聞いてねえよ」
のけぞったり頭を抱えたり地団駄を踏んだりちょっと真似をしてみたりもして一人で悶えながら、その合間に猫どもを福引きのガラガラよろしく掻き回していたおれは、ふと現実界の目の端に想像界と同じ朱色が見えた気がしてギョッとした。
顔を上げると、果たして緋村さんがそこにいた。
事務室の中、美術館の入場券売り場の小窓の向こうの定位置に、崩れるということを知らない鉄の無表情がこっちを向いている。
多分目が合った。
多分、というのは、漫画よりも漫画チックな分厚いグルグル眼鏡のおかげで、目の表情がほとんど判らないからだ。
気まずい。
「何がやばいんだ?」
とでも訊いてくれれば話の糸口にもなるのだが、そんなことを言ってくれるフレンドリーな相手なら苦労はない。
案の定、ふっと下を向いた緋村さんの仕草はあまりにもさりげなく気負いもなく、何も見なかった聞かなかったと言っているというよりは、そこにおれがいることを全く意識していないようにしか見えなかった。
「なあー、そうだよなー、矢田貝今日太郎とその子どもたち……」
さっきの空想の中でにっこり笑っていた緋村さんの顔がむなしく頭をよぎる。
猫と戯れていたことを感謝したいようでもあり、だれかれなく当たりちらしたいようでもあり。
やっぱりおかしい。
惚れているとはいっても、これはいわゆる男惚れというやつで、別に変な意味ではないはずだ。
それなのに最近のこの調子の狂いようはどうだ。
これまで三つかけもちでしていたアルバイトを一つ辞めたのはそれなりに考えてのことだったが、もう一つまで
馘首されそうなのは計算外だ。
こんなことで春からの就職先でうまくやっていけるのだろうかと不安にもなる。
ブボボボボボ。
ぴぎーっ。
「いーででででっ」
四つ仔のなかで一番やんちゃで過激派の黒白ブチがおれの顔面をひっかいた。
眼鏡を狙ったらしいが、攻撃の精度は低く、小さなツメがもろに顔を掻いていく。
「こらクロ、いてーって馬鹿。わっ! くそ、お前もか松太郎」
クロはブチの名前だ。
巨体の母親が矢田貝今日太郎、三つ仔はマイケル、正力松太郎、そしてクロといい、おれが名付けた。四匹の名前に整合性がないのは、それぞれがそんな風な雰囲気をしているからだ。家族だからといって名前まで規格化することはない。といってもおれが勝手にそう決めて呼んでいるだけだから、彼らに自認があるかどうかは知らない。
「だーもう、なんだよ、おいー」
吾れも
吾れもと襲いかかり始めた仔どもたちの様子は、じゃれているというような可愛いものではない。
そういえば昨夜も煙草を吸ったか。まだ匂いが残っているのを、煙草嫌いの彼らは敏感に察知しているのかもしれない。
だが、ひとまず言われるままにレイバンを外して降参すると、三匹はそれでおとなしくなった。
「つうかお前らなんでそんなにこの眼鏡にこだわるわけ?」
こだわるというか、ヒステリックに執着しているというか。
そうだ。そういえばあの日もこの眼鏡だった。
初めてこの比古美術館を訪れた日。
初めて緋村さんと会った記念すべき日だ。
と、言えるほどかどうかはともかくとして。
試験休み二日目だった。
真面目で勉学熱心なおれは、夏休みになる前に夏休みの宿題を片付けておくべく、この比古美術館にやって来た。
朝十時。開館時間ジャスト。
これなら昼からのアルバイトに間に合う。
だが定時を過ぎても門扉は開かなかった。
休館日は月曜とあるから、火曜の今日は休館ではないはずなのだが。
「おーい。だれかいねえのー? 入りてえんだけどー」
私設「美術館」とは名ばかりの、個人宅を解放しての刀剣コレクション展示だという。建物は古い日本家屋で、どちらかといえば「なんとか庵」だとか「なんとか荘」だとか、あるいは旧なんとか氏邸の建築と庭園をご覧いただけます、とでも言われた方がなるほどと思えるような佇まいだ。門扉こそがっしりと堅牢だが、左右は低い生け垣。回り込んだ横手には枝折り戸があって、外構としての防御度は低い。低いどころか、ほとんどない。土の道路には煙草の吸い殻がいくつも落ちている。三種類が数本ずつでショートホープにはどれも口紅がついている。見苦しい見苦しくないの問題以前に、防犯防火上は大丈夫なのだろうかなどと余計なお世話を焼きたくなる。
生け垣から身を乗り出して何度呼んでも返事はなく、建物から張り出した事務室と思しき小部屋は戸が閉まっているばかりかチケット売り場風の小窓にはご丁寧に板まではめられ、当然ながらだれが出てくる気配もない。
おれはどちらかといえば温厚で気の長い方だが、つい苛ついて生け垣を蹴ってしまった。
「うらっ! なんでだれもいねえんだよ! もう三分も過ぎてっぞ! 三分ありゃカップラーメンができるっつうの」
ミイギャアー! アーーッ!!
「うわっ?!」
シャアアーッ!
「い、いででででっ。なんだこいつら」
最初に飛びかかってきたのが、後に矢田貝今日太郎と名付けることになる大きな母猫だった。続いて三匹の子猫。
罪のない生け垣を蹴散らしておいて言うのも気が引けるが、弱い者いじめは見るのも大嫌いなおれである。いくら攻撃的とはいえ、小さな猫どもを相手に乱暴を働くなど論外。獰猛な猫隊から顔を防御しつつ、反撃にならないようなるべくそっと取り押さえようと頑張った。
しかし二本の手で大小四匹を相手にするのは単純計算的にも無理がある。
さばきかねて往生し、なにかないかとあたりを見回していたときだった。
チケット売り場の小窓の板が外され、板ガラスの向こうに顔がのぞいた。
人影はすぐに消え、ガタンと戸の開く音がして、横手から人が出てきた。
若くて背が小さくて、びっくりするほど身体が細くて髪が長くて、しかもその長髪がオレンジに近い鮮やかな色。「刀剣」「美術館」だからといって、いかついオッサンやひっつめ黒髪の真面目風がいると思うのも短絡的だが、ともあれおれがこの場所柄とそのひとの組み合わせに意外さを感じた事実は事実である。
だが、そんなことはもちろん後から考えて思ったことで、そのときは悠長にそんなことを分析している余裕はなかった。必死だった。だから彼が冗談みたいな眼鏡をかけていることに気づく余裕もなかったし、駆け寄って来ようとした途端に虫にたかられた時のような仕草で立ち止まり外の熱気で曇った眼鏡を外したのを目の端に見て、ようやく眼鏡をかけていたことを知りはしたものの、それはまだ視覚情報の段階をすぎていなかった。
そのひとが「シッ」と鋭い声を出すと、猫どもは一斉にぴたりと動きを止めた。さっきまでの凶暴さが嘘のように攻撃をやめ、そしてなぜか大人しくおれの頭や肩にしがみついたままでいる。普通離れないか?と、それも後から考えて思ったことで、そのときはそんなことにまで頭が回らなかった。
おれは奴らを乗せたまま、そのひとを見下ろした。
網膜に留まっていた視覚情報が一気に脳に伝達されたのはその時である。
怖ろしいほど美しく整った顔立ちだった。
左頬の十字傷はその美しさを一片も損なってはいなかった。むしろ非現実的とも思える凄みをその美貌に与えていると思った。
そして不思議な目をしていた。
青みがかったブルーブラックなのだが、光の加減によって、チラチラと緑や赤や紫や黄色の光片が混ざる。
一学期のはじめに理科でやった成分分析の実験を思い出した。濡らした濾紙の端に万年筆の黒インクをつけてしばらく置くと、にじんだインクは色素成分が波長の長さで振り分けられて虹色に展開する。えーっと、たしかそうだ、クロマトグラフィーとかいった。「つまり黒インクは黒に見えて黒ではないわけだ」と言った教師に「だからなんなんだよー」と野次を飛ばしたので覚えている。
などと考えている間に見すぎた。まずい。何か言わなければ。
「……サンキュ。助かった」
「いえ。ご見学ですか」
腑抜けたかもしれないがとりあえず絞り出した声にくっきりとした返事と問いかけが返ってきた。おれには聞こえないホイッスルが鳴りでもしたように猫たちが飛び離れる。
「え、あ、ああ。えっと、そう、ここ。美術館。……それよかこいつらってここんちの猫?」
「いえ……」
「え、ちがうの? よそんちの? それとも野良? けど言うこと聞いたじゃん。中から出てきたし。えーっと」
「ご見学ならどうぞ。いま開けますので」
そう言って、その人はおもむろに眼鏡をかけた。
ちょっとレトロな真ん丸眼鏡は、形だけをとってみればアート風に見えなくもない。だが分厚いレンズがこれでもかというほど分厚くて、文字通り牛乳瓶の底のようで、まるで漫画だ。というか今どき漫画にも出てこないくらい漫画的だった。
残念なことに、そのレンズと眼鏡のせいでクロマトグラフィーはすっかりどこかに行ってしまった。レンズの向こうは双眼鏡を逆さに覗いたときのように遠く小さく矮小化されている。
「もったいねー。そんな眼鏡かけねえ方が全然かっこいいのに」
思っただけで、口にはしなかったはずだ。猫どもがちょうど同じタイミングで同意するようにキュイッと鳴いたのはただの偶然のはずだ。そうでなければ彼もなにか反応を示しただろう。だがそのひとは無言できびすを返し、事務室に入った。
ばたん、がたんと音がして、チケット売り場のガラスごしに牛乳瓶底眼鏡がのぞき、窓が開く。開口部から空調の効いた寒いほどの冷気が流れてきた。
「お待たせしました」
やっぱりもったいない。
しかも部屋に入るや否や、彼は作業服のような厚手の上着を着込んでジッパーを首まで上げてしまったので、ますます地味な姿になった。ますますもったいない。
「えーっと。高校生って学生になんの?」
「学生証かなにかお持ちでしょうか」
「あるある。生徒手帳。えっと、はい、これ、相楽左之助。これおれの名前ね」
事務室兼受付といった感じの小部屋で、さっき彼が出入りに使った外に面するドアの他にもうひとつ引き戸がある。位置的に見て、中で母屋とつながっていると思われた。
「相楽左之助、高校三年、十七歳。“良い”の“相良”じゃなくて“楽しい”の相楽くん。左之助の左はニンベンなし。サスケとか変な改造もなしでよろしく。オケー?」
学生割引の確認にしては随分真剣に文字を追っている彼の様子に気をよくして、この隙に自己主張。もしかしてそっちもおれに興味ありですか?
「結構です」
「そんであんたは?」
「………」
「なんての? 名前」
しかし部屋中ところ狭しと野菜が置かれているのはなぜだろう?
1、実は八百屋も兼ねている。
2、実はこの部屋がこの家の冷蔵庫。だから外に出たら眼鏡が曇るほど冷房を効かせている。
―――まさか。
「こちら半券と展示リストになります」
「いーじゃん、教えてくれたって」
「入り口はそちらの玄関になります。靴をお脱ぎいただいて、順路に沿ってお進みください」
なかなかシャイだ。
「えっとさ。ここって、中、写真オッケー? って聞いてきたんだけど」
「はい、ご自由にどうぞ。ただしフラッシュはご遠慮願います。ボールペン、万年筆、筆ペン、毛筆などインクの筆記用具類もご使用はお控えください」
「シャーペンはいいんだ?」
「鉛筆、シャープペンシルは結構です」
「クレヨンは?」
「………お断りしております」
相当生真面目な性分らしい。名前は答えなくても、業務に関することならちゃんと答えてくれる。
「あのさ。よかったら、中、案内してくんね? ガッコの宿題で見学レポート書かないとなんだけど、おれこういうのあんまわかんなくて。そんで写真つけれたらラクだしと思ってここにしたんだけど、説明とかしてもらえるとすっげー助かるかなーなんて」
「………」
小さく首を傾げた様子が、おれには真剣に検討しているように見えた。
これはもしかして脈ありでは?
「展示作品には簡単なキャプションがついております。もしさらに詳しくお知りになりたければ、毎月二十一日に当館館長によるギャラリートークがございますので、どうぞご参加ください。ではごゆっくりどうぞ」
意気込んで乗り出したおれの鼻先で小窓が閉まった。
………あれ??
おれは指示を守ってそこそこ真面目に展示――正確には展示方法を見て回った。
美術館と冠してはいるが、つくりは完全に古い民家である。ただし規模は大きい。入ると、玄関土間と囲炉裏のある吹き抜けの板の間。土間は広く、研ぎ出しの流しが据えられた台所もひと続きの空間になって、裏の勝手口まで抜けている。板の間からは田の字型に座敷が続き、建具が開け放たれた奥に庭。館の主題である刀剣は、その部屋の随所に、ガラスのケースに入れられたり、あるいは鞘ごと掛台に置かれたりして展示されている。日本刀に限らず広く刃物全般を対象としているらしく、包丁や鋏、剃刀まで置いてあり、それらが台所や流し端といった使われるべき場所に展示されているのは、合理的な建物の構造と共に興味を惹いた。惹きはした。
だが目先にはさっき会ったばかりの彼の姿がずっとちらついていた。
デジタルカメラで写真を撮るおれ。シャープペンシルでメモを取るおれ。展示された刀剣の前をかすめる綺麗な顔。床の間の室礼に重なるクロマトグラフィーの目。工芸の教師が課した「芸術はだれのものか?〜アートの展示と美術館のあり方」というどこかで聞いたような主題の、そして高校生の夏休みの宿題としての適切性の疑わしいレポートの素材を収集していくおれ。古い民家の貫禄ある佇まいのなか、廊下や縁側に現れては消える小柄な姿。眼鏡と事務服を装着する前のばっさり切られそうに凄い無表情。いまいましい牛乳瓶。消失したインパクト。
しかしそれにしても。
と、おれは見えない入り口を何度か振り返った。
なんと徹底して無表情だったことか。
なんだかんだでそこそこやりとりがあったにもかかわらず、結局、最初から最後まで、口と目が開閉した以外に、彼の顔は全く表情というものを見せなかったのだ。
後から思えばその後のいろいろが凝縮されていたとも言える、それが緋村さんとの初対面だった。
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