ジープウェイ・サマー4  1 2 3 4/この頁08/06 5 6 (全)

<4>


 衝撃の模擬演技の次の日、三回目の芝刈りをした。
 連日の熱帯夜で、朝、蝉が鳴き始める前から温湿度は既に人のやる気を奪うレベルに達していたが、夏休みの補習(後半戦)が始まる前に済ませておきたかったのだ。
 その間もずっとおれの頭の中は昨日の緋村さんでいっぱいいっぱいだった。

 毎月二十一日に行われるギャラリートークが例年この八月だけは特別だということを知ったのは、その日も翌日に迫った二十日の夕方のことだった。
「明日もこないだみたいなやつ?」
 他意はなかった。それだけに、緋村さんが珍しく口ごもったのに驚いた。
「え? おれ、なんか悪いこと訊いた?」
「いや……」
 そんなことはないと言いながら、歯切れが悪い。
 前月の七月度のギャラリートークは、館長が作った陶芸オブジェ作品の説明に終始した。
 おれは刀剣についての説明が聞きたかったわけではない。毎日通って一週間経っても一度も会わない比古館長というのはどんな人かと興味を持って参加しただけだったので何の不満も不都合もなかったが、ただ、甚だしく主旨がずれているとは思った。思ったが、おれ以外の参加者(全部で三人)が今後の創作活動や作品テーマについてなどを熱心に質問していたところを見ると、どうやらそれが恒例でもあれば、彼らの目当てでもあったのだろう。需要と供給が合致しているなら、それはそれで問題ない。いつ来ても心配になるほどの閑古鳥だったから、これでよく美術館としての経営が成り立つものだと不思議に思っていたが、案外あっちの方が収入にはなるのかもしれない。
 そんなことを考えながら、偏屈さが滲み出た風貌の館長による、横柄かつ尊大な説明を聞いていたのは、あれは夏休みもまだかかりの頃だった。
 もうひと月になる。
「八月だから」
「だから?」
「……明日は? 来るのか?」
「? 当然。あ、でもだから入るかどうか、どうしようかと思って」
 ギャラリートークに参加するなら入館料がいるのだ。
「………」
「え、何かあんのか? なんか特別なイベントとか?」
「……模擬演技だ」
「模擬演技? なんの?」
「流儀の」
「ああ、えー、へえ!」
 飛天御剣流。館長が十三代目継承者。弟子は緋村さんひとりだが、なかなか由緒のある流派だというではないか。
 それはそれは。
「型の演技で動きが少ないから素人には面白くない。集まるのは内輪だけで、時間も長い」
 やめておけ、ということか。
 しかし日頃口数の少ない緋村さんがそうも熱心に止めるというのが逆に気になるではありませんか。
 なんせ唯一の弟子だしな。
「へええー」
 適当に相づちを打ちつつ、心はすっかり決まっていた。


 たしかに型の演技で動きは少なかった。集まった五人はマニアの常連だった。実演は休憩もなく二時間に及んだ。
 だが、面白いも面白くないもない。
 凄いものを見た。
 思い返すだけで熱くなる。武者震いがする。わけもなく叫びたくなる。
 実際、何度か叫んだ。芝刈りにかこつけて。
 シャキーン、ジョワッ、うおーりゃー!
 シャキーン、ジョワッ、うおーりゃー!
 怯えた猫一家が疎開先の床下で悲鳴を上げている。ただでさえ過剰なまでに刃物の音を嫌う奴らだ。そこに得体の知れない雄叫びが混じって、警戒度も極限に達しているのだろう。
 緋村さんは今日も事務室にこもっている。昨日からすごくよそよそしい。
 おれが模擬演技を見に行ったことに腹を立てているのかもしれない。
 けどそんなの知るか。だって仕方ない。男には何かを犠牲にしてでも行動しなければならないときがあるのだ。人生はジープウェイなのだ。
 などと大仰な科白を掲げるわけではないが。



 芝刈りも三回目になれば慣れたものだ。汗だくになるのは変わらないが、腕が痺れて動かなくなったり、翌日まで残る腰痛や筋肉痛に悩まされたりすることはない。
 ついでに排水溝の掃除と庭木の手入れもしておく。松の木の枝にロープをくくりつけたような変な跡があった。そこだけ擦れて樹皮が痛んでいる。庭はフィランソロピーだから子どもが遊んでいるのかもしれないが、庭や建物を傷つける遊び方は感心しない。などと思いながらてきぱきとこなして昼前には終了だ。
 いつもならこのあたりで緋村さんの登場となる。
「ありがとう。助かった」
 その一言で疲れは一瞬で充足に転化されて、シャワーまで借りた後に至福の昼寝。
 「いつも」といってもまだたった二回だが、あんなに満ち足りた気分を味わったのは本当に生まれて初めてだった。
 だが今日は緋村さんは来ない。
 事務室から様子はじゅうぶん見えているだろうに、緋村さんは来ない。
 爽やかな達成感のかわりに、疲労がむなしく全身に充満する。
 おれは重い身体を引きずって縁の下に這い入り、潜り込んだまま出てこない猫どもを迎えに行った。
 昨日もかけていたお気に入りのレイバンは優秀な偏光レンズなので床下でも平気なのだが、彼らがこのサングラスをひどく嫌うのは知っている。外してポケットに納めて這い進むと、ずいぶん奥の方の暗がりに八つの目が険しく光っていた。
「ういーっす。どうしたよー、お前ら最近なんかナーバスすぎねえ? 思春期? ……つか、なんかあったか? だれかに虐められたんか? ん?」
 クロとマイケルが飛びついてきた。
 引っかかれるかと思ったがそうでもなく、甘えるようにしがみついてくる珍しい反応に驚いた。
「おわ?! おうおう、よしよし。よしよし……」
 仰向けに転がって二人を受け止める。
 床下の暗がりのなかで見るとクロの目のクロマトグラフィーはいつもより黒みが強い。
 濡れた光の破片が踊る万華鏡にも、昨日の緋村さんの姿が重なった。
 相変わらず生傷の絶えない小さな子ども達を抱えてヨシヨシを続けていると、正力松太郎と矢田貝今日太郎も腹に乗ってきた。松太郎はともかく、いかにも「おっかさん」な母猫の今日太郎がこんなに甘えるのは珍しい。丁寧に撫でていくと、いつにも増して傷だらけらしい感触がする。ところどころ毛もむけている。
「大丈夫、大丈夫だぞ。いでっ、いでででで。おー、大丈夫だからなー。よーし、いい子だ……」
 しばらく暗闇でゴロゴロしていたせいで、出てきた後に外の明るさが目に痛かった。
 しかも床下の湿った地面に転がっていた背中は土まみれだ。
 どのみち汗でずくずくだったタンクトップを脱いで、タオル代わりに身体を拭いた。水に浸して、絞って、拭いて……を何度か繰り返し、それなりにさっぱりしたところで元タンクトップを放り出して縁側に転がった。
 何を考えているのか判らない緋村さん。
 予測不能な言動。気まぐれな優しさと冷たさ。何が「可」で何が「不可」なのかが皆目わからない。やっとちょっとは近づけたと思っていたのに。もう駄目なのだろうか。やっぱり無理だったのだろうか。そもそも最初からただの一人相撲だったのだろうか。
 何か考えるのがたまらなく億劫になってきた。
 じきに陽が射せばここも暑くなるだろうが、なるならなったで構わない。
 蚊だか何だかがうるさいのも鬱陶しかったが、相手にするのがもっと鬱陶しかった。
 食うなら勝手に食えばいい。
 きれいに刈り上げた芝生を一瞥して目を閉じる。
 頭の中は緋村さんでいっぱいになった。



 緋村さんは夢にも出てきた。
 折角の夢の中なのに、しつこくあの眼鏡を掛けている。
 夢の中でくらい外してくれればいいのに。
 都合のいい空想の中ではいつも惜しげもなく素顔を見せてくれるのに。
 ちぇ。
 けれどやはり夢というのは何かと都合のよいものらしい。
 夢の中で緋村さんは、眼鏡こそ外してくれなかったが、そのかわりとても優しかった。
 軒先のすだれを降ろして日よけをつくり、豚さん蚊遣りを持ってきて蚊取り線香を炊き、冷たい濡れタオルでおれの顔や身体を拭ってくれた。
 そして傍に座って、うちわで静かな風を送ってくれている。
 風鈴の軽やかな音が身体に染み通る。
 くさくさしていた気持ちが嘘のように澄んでいく。
 なんて心地好い夢だろう。
 静かで穏やかで優しくて、ほんの少しだけ哀しい。
 どうしてこんなに懐かしいのだろう。
 何がそんなに切ないのだろう。
 かすかに衣ずれが聞こえて、額にひやりとタオルが触れた。
 顔と首の汗を拭ってくれた緋村さんは、おれの頭を抱え上げて首に籐の枕をあてがった。手は離れず、おれの髪をさわっている。
 なんて都合のいい夢。
 自分勝手な夢。
 あーあ。
―――も、サイテー。
―――なにが。
―――いろいろ。全部。つうか、おれが。
―――どうした。何かあったのか?
 さすがだ夢。
 現実の緋村さんならこんな風に訊いてくれたりしない。現実の緋村さんはおれなんかに興味を持ったりしない。好きな近現代史の話だから聞いてくれるし、関心のある筋トレには付き合ってくれるし、こうして雑用を手伝ったりしている分にはちゃんと接してくれるけれど。クールで大人で一子相伝の後継ぎの緋村さんが、人づきあいと騒々しいのと下らないのと下品なのが嫌いな緋村さんが、おれみたいなガキを本気で相手にしてくれてるわけじゃない。おれは子どもで、十も年下で出来の悪い高校生で親のすねかじりで社会も知らなくて馬鹿で。でももっと知りたいのに。見たいのに。あなたをもっと見たい知りたい。おれを認めてほしい。そんな風に閉ざさないでもっと中まで入れてほしい。でもおれはガキで馬鹿だから……。
―――わかんねーよもう。どうしよう、おれ。
―――どうした?
 本物の緋村さんもこんなに優しく話しかけるのだろうか。
 たとえば彼女だとか、そういう特定の相手に対してなら?
―――緋村さん?
―――ん?
―――もしよー。もし、もしもだけど……。
 あのきれいなクロマトグラフィーの目を見せるのだろうか。
 おれの知らないいろんな顔も見せるのだろうか。
 笑ったり、驚いたり、困ったり、慌てたり、呆れたり、拗ねたり、泣いたり、それからもっと親密な秘めやかな顔や姿を……。
―――もし同性から告白とかされたら、緋村さんならどうする? つか、それってどう?
―――されたのか?
―――じゃなくてだから“もし”の話。けどどうする? 緋村さんならそういう場合。
―――わからない。その時にならないと。そもそも相手によるだろう。
 夢の中のそのまた想像の中で、緋村さん五段活用が始まる。見たことはなくとも、想像という名の捏造なら自由だ。そして、なまじ夢だけにコントロールがきかない。都合のいい百面相の中で妄想はどんどんエスカレートしていく。やばいって、止まらないって、それはちょっとまずいって。
―――じゃ、じゃあさ。年の差は? どんくらいまでアリ? すげえ上とか、逆に下とか、たとえば………高校生とか?
―――相楽くん?
 すげえ。
 いくらなんでも出血大サービスすぎる。くそう、どうしよう。
―――もっかい。
―――え?
―――もっかい呼んで。名前。
 緋村さんがおれの名前を呼んでくれたことはこれまで一度もない。もちろん何度も何度も喧伝(けんでん)したし、学校のプリントやノートや提出物に当たり前に書かれた名前はいつでも緋村さんの目に触れるところにはあったけれど、それも彼が意識に受け止めてくれて初めて意味があることだ。実はまだ覚えてもくれていないのではないかと思っていた。
 それくらい間違いなく呼ばれたことがない。本当に、一度たりとも、相楽の「さ」の字も口にしてくれたことがないのだ。それなのにこの夢の緋村さんは。
―――………「相楽くん」?
―――もっかい。
―――相楽くん。
―――もっかい。
―――相楽くん。相楽……左之助。相楽左之助。
 やめてくれ。そんな風にひとりごとを言うときのように無心に呟かれたりすると、もしかしてひとりでいるときにも本当にそんな風に大切な呪文かなにかのようにおれの名を唱えているんじゃないかと思ってしまう。
―――相楽左之助、十七歳。○△×工業高校三年四組。相楽は“良い”の“相良”でなく“楽しい”の相楽くん。左之助の左は人偏なし。猿飛佐助ではない。名前の改造は禁止。星座は魚座。血液型はB型……。
 どうしよう。夢なのに。おれがこしらえた夢の緋村さんなのに。おれが勝手に見ているだけの都合のいい夢なのに。緋村さんがおれなんかのことをそんなにいろいろ知っているはずがないのに。なのに。
―――何故? もっと知っている。身長一七九センチ、体重七十一キロ。担任は社会の相楽先生。同じ名前なのは偶然の一致……。
 ああ、この口調は知っている。白洲次郎のときだ。「政治とは国民に夢をもたせることである」と、大切にしまってある言葉をそっと取り出して慈しむように丁寧に呟いた。
―――来年の二月で十八になる。なったら免許を取りにいくつもりだ。………全部、きみが話してくれた。
 うそだ。そんなはずはない。それはたしかに、そう言われればそんなことも言ったかもしれないけれど、生徒手帳も見せたかもしれないけれど、そんなことをいちいち緋村さんが覚えているはずがない。
―――何故?
 だって。だってそんなはずがない。単にたまたま興味のある話だったから、雑用を手伝うから、だから……。
―――だから? それだけの理由でおれが毎日きみの相手をしていると? 本当にそう思っているのか?
 ちゃぷちゃぷと涼やかな水音が重なって、息詰まるほどの甘い静けさに風が通る。
 りりーん。
 裸の胸にひやりと触れたのが固く絞った濡れタオルだと気づくのに少し間がいった。
 胸。腹。脇腹。肩。背中。首。
 タオルはすぐに温もったが、体温と水と空気が涼感をもたらす。
 えーと、これはたしか気化熱といいます。
 一旦持ち上げられた頭が、籐の枕ではないものの上に下ろされた。
 枕よりも力強い弾力があって、籐より密度が高くて、熱い。
 いつかクラスの女子が言っていた。
 なんで太腿なのに膝って言うんだろうね。
 って馬鹿じゃん。んなもんどうでもいいからに決まってる。
―――うーわ、やばいしこれ。もうマジやばいし。
 想像も空想も妄想も及ばない。
 とても甘美な、とてつもなく甘美な。
―――でも、夢。
 そう、夢は夢だ。
 しょせん夢だ。
 夢は見るもの、ロマンは追うもの。残るのは現実。ただの現実。手の届かないひと。手に入らないひと。手に入らない夢。あぶくに消える将来。残る現実。春になったら卒業して就職して、エアウェイでもジープウェイでもないただの人生。
―――何故そんな風に?
 だっておれなんか。どうせもう就職決まってるし。したいことなんかどうせできねえし。大体おれ馬鹿だから受験なんかできっこねえし。
――――――本当に? 大事なのは意志と行動だと言ったのはきみなのに?
 おれが? そんなことを? いつ?
―――言った。岩本栄之助のときと、白洲次郎のときだ。
 白洲次郎。それはあれだ、ジープウェイだ。けど岩本栄之助ってだれだっけか?
―――きみの年ならなんだってできる。まだいくらでも、なんにでもなれる。志を持て、若者。誇りを持て。
 ああ、この目だ。クロマトグラフィー。
 青みがかったブルーブラックに虹色の光がくるくると踊る万華鏡。
 きれいだ。
 記憶とも想像とも全然ちがう。いつもクロの目を見ながら本物のこの目を想像していた。レンズごしの小さくて遠い普通然とした目を見ながら、眼鏡がなければきっとこんなだと想像していた。都合のいい想像と妄想で記憶は美化されていると思っていた。
 でも現物はもっときれいだった。
 こんなにきれいだったのだ。
 あれ? まつげが赤い。眉毛もだ。じゃあ緋村さんの髪って、その色、地毛なんだ?
―――地色と言え。
 ……あ。
 だめだ。待て、目はつむるな。
―――無茶をいう。こういうときは目は閉じるものだ。
 それはそうだけど。そうかもしれないけど。でも緋村さん………。


 そこでいきなり目が覚めた。
 火花が散るほどクリアに意識が晴れた。あまりにクリアで、本当に眠りから覚めたのか、長いまばたきか何かをしていて閉じていた目を開いただけなのか、それさえ覚束なかった。
 もちろん緋村さんはいない。
 無意識に詰めていた息をそうっと吐き出すと、一気に心臓が暴れ出した。
 文字通りバクバクいっている。
 全身がバックンバックンと音を立てて小爆発を繰り返していて、身体を起こすのもおそるおそるだった。
 なんというリアルな夢だ。
 いや、ちがう。
 なんという夢だ、だ。
 なんという夢をおれは見るのだ。
 りり―――ん……りり―――ん……。
 必死に酸素を補給するおれを静かな風がなだめてくれる。
 音に誘われて風鈴に目をやってどきっとした。
 すだれが下りている。
 下ろしただろうか。
 いいや、下ろしていない。寝るときはまだ日が入っていなかった。じきに直射日光が当たって暑くなるだろうと思ったのだから間違いない。
 おれは下ろしていない。
 下ろしたのは緋村さんだ。
 夢の中で。
 おれの夢の中で。
 いいや、あれは夢だったはずだ。
 けれど現実にすだれは下りている。
 沓脱の横には蚊遣り豚がある。
 大きな口から蚊取り線香の煙がたなびいている。
 そしておれの横には籐の枕が転がっている。
 どっと汗が噴いた。
 夢―――?
 どこから?
 どこまでが?

 猫の声で我に返った。
 ガガッ、ボガガガガッ。
 ウキャッ。
 庭で子ども達が遊んでいた。
「……ういっす、マイケルに松太郎。もう元気んなったか? ん?」
 何とはなしにおそるおそる話しかけると、おれの声に反応したように残りの二匹が床下から駆け出てきた。
 わふっ!
 無心に見上げる子猫のクロマトグラフィーに思わずどぎまぎしたのは、もちろん夢の中の美しかった瞳がリアルに甦ったせいだ。
「ク、ククククロかっ。お前も平気か?」
 顔が熱いのが自分でもわかる。
 わふぅーん。
 相も変わらず一向に猫らしくない声で鳴き、猫科特有のしなやかな身ごなしで伸びをして目を細めた。
 待て待て待て待て、ちょっと待ておれ。
 いくら目の色が似ているからといって、子猫が身体をくねらせるのを見てどぎまぎするというのはさすがに人としてちょっとどうか。
 ニャッ!
 珍しく猫らしい声がした方を見ると、矢田貝今日太郎が興味津々で蚊取り線香を体内に納めた豚ににらめっこを挑んでいる。自分から向かっていったものの煙に負けてあえなく退散するのが馬鹿馬鹿しくて可愛かった。
 縁側から足を垂らしてしばらくボーッとしてやっと少しは気持ちも身体も落ち着いてきた頃、子猫が足に飛びついて相楽くん登りを始めた。
「お、ちょこざいな。この野郎。うりゃうりゃうりゃ! これでもか!」
 ぶんぶんと前後に振り回したり大きく円を描いたりしてもねばり強くしがみついた子猫たちだったが、おれがくすぐったさに根負けして足を引き上げて降参すると、縁側にはついて来ずにさっと庭に飛び降りてしまった。
 そして大人しくおすわりをして、ぼふっと鳴く。おすわり? やはりどうも猫のイメージと結びつかないふるまいが目立つ。かと思うと、笑いながらつついた爪先にじゃれつく様子はいっぱし猫風だったりもする。
「お前らって正体何なん?」
 ほのぼのとした気分に前触れもなく不穏なかげりが割り込んだのは、そういえば彼らは家に上がらないのだと改めて気づいたためだった。
 今やわが世の春を謳う猫一家だが、家屋には決して立ち入らない。
 庭。植栽。樹木。床下。屋根。外構。それから、おれ。
 そのあたりは我がもの顔で好き放題に駆け回っても、縁側を含めた屋内には絶対に入らない。
 緋村さんにも飛びかからない。
 飼い猫でもないのに居ついている親子。いつ来てもここにいる。なのに緋村さんにじゃれついているところを見たことがない。緋村さんがかまっている姿も見たことがないように思う。最初の日は緋村さんに「シッ」とたしなめられておれを止まり木にした。それからも、これだけ毎日来ていながら、三者懇談をしたことがあっただろうか?
 いや、ない。
 緋村さんか猫か。猫か、緋村さんか。いつもどちらかだった。
 何故?
1、ただの偶然。
2、緋村さんは実は猫。あの猫のだれかが緋村さんの変身した姿(たとえばクロとか)。
―――馬鹿かおれは。
 でも。
 猫たちの絶えない生傷。火傷跡。日によってご機嫌だったり不機嫌だったりする不自然さ。煙草の匂いとレイバンと芝刈り鋏の音をひどく嫌う過敏な反応。
 何故?
 一斉に喚き始めた蝉の声が粘っこく頭の中で反響した。
 気ぜわしい不協和音の嵐が意識を占領する。
 そして目の前に浮かぶ映像の生々しさにぞっと背骨が冷たくなった。
 追われる猫。打擲される猫。吊される猫。泣き叫ぶ子猫。怒る母親。彼らを見下ろす整った横顔。冷徹な顔。楽しげに揺れる赤毛のポニーテール。こともなげに振るわれる抜き身の刀。何を考えているのかわからない無表情。暴力をふるわれる猫。虐待される猫。振り返った目に血の色の輝き。
 氷の美貌が残忍に歪み、そして美しかったクロマトグラフィーが凶々と燃えて―――。


 そこでいきなり目が覚めた。
 どっと汗が噴き出す。
 ―――夢?
 もちろんだ。
 一瞬眠りに落ちて見た夢か、白日夢だったのか。
 それにしてもなんという夢をおれは見るのか。
 だが、夢?
 どこから?
 どこまでが?

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