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おれは男である。男。男性。雄。マン。メール。性染色体XYとかなんとか。
身体的には言うまでもなく、気質的にもかなりオトコ系だと思っている。
だが太宰治の見解が正しいなら、今のおれのこの精神状態は結構女性的ということにならないか?
あたし、男のひと皆に教えてやりたい。女にほんとうに好かれたいなら、ほんとうに女を愛しているなら、ほんの身のまわりのことでもいいから、何か用事を言いつけて下さい。権威を以て、お言いつけ下さい、って。
それだけで「女は、どんなにうれしいか」と、『火の鳥』とかいう小説の中で太宰は登場人物に言わせている。
ああ、そうさ、嬉しいさ。嬉しいともさ。
樋掃除で爪の間が泥まみれになっても、今年買ったばかりのお気に入りのタンクトップを釘にひっかけておじゃんにしても、柱のささくれが指に刺さってずきずきしても、慣れない芝刈りで首が痛くなっても、手にマメができても、スニーカーとジーパンが草汁で染まっても、アルバイトをすっぽかして怒られても給料を減らされてもいっそのことクビになっても、いま自分がしているのは緋村さんに頼まれたことだと考えるだけで、これがすべて緋村さんのためになるのだと思うだけで、もう何だって平気の平左の平左衛門だ。どんとこいのウハウハだ。
それに掃除や芝刈りなら身体の鍛練にもなるし、芝刈りなんかこんなチャンスがなければ覚える機会だってなかったはずだから、おかげで技術もひとつマスターできたし。アルバイトは技能習得か身体の鍛練になるものをというおれの方針にはぴったりじゃないか。報酬は得られないが、緋村さんのお役に立てるのだ。そんなもん、お金なんかよりよっぽど価値ある労働だ。
―――あ、待てよ。たしか誰かの歌にもそんなのがあった。
なんだったっけか。
たしか。
ぼくのことを少し頼りにしてるのかなあ
ほんとに君がもし困ってるなら
少しだけぼくが力になるよ。
ほんとに君がもし望んでるならいいし
1セット買うよ、その英会話の教材。
謎の壺とか買わされなくてよかったねって
みんなに言われたけど
でもうまくすれば英語もしゃべれるし……
なんかそんなんだ。
壺ってのが変にリアルで笑えると思ったが、いま思えばそれってめっちゃ言えてないか? 歌ってるのはあれだ。元サラリーマンのちょっとひと癖ある。夜空ノムコウとかの、そうそう、スガシカオ。微妙に女々しい系のような気もしないでもないが、でも彼もれっきとした男だし、思えば太宰治だって男だし。っていうか、好きな人のために何かできるのが嬉しいって気持ちに性別は関係ないだろう。そうじゃないのか? え?
おれが生まれて初めての芝刈りで汗だくになりながら、半ばやけくそに近い相手不詳の詰問調の思考に没頭していたのは、比古美術館に通い始めて一週間後、この夏いちばんの暑さを記録した午後のことだった。
「おれ、なんか手伝う?」
せっせと庭の落ち葉を拾う緋村さんのかっこいい背中を見ていた。
Tシャツごしに肩胛骨がくっきりと浮き上がって、腕の動きにつれて骨と筋肉が動く。緋村さんの身体は本当に無駄がなくて、そうやって屈んで作業をしていても、脇腹や背中や腕でぜい肉が揺れるようなことは決してない。理科室にある骨格標本だってこんなに綺麗な骨格はしていないし、人体標本なんか緋村さんに比べれば愚鈍で見苦しい張りぼて以外の何物でもない。
だが、日陰にじっと座っているだけでも頭がぼうっとする酷い暑さである。
炎天下で身体を動かす緋村さんの薄いTシャツにはみるみる汗がにじみ始めた。
首から上にあまり汗をかかないひとらしいが、さすがに暑そう……というか、もはや「熱そう」で、縁側にぐうたらと構えている自分がみっともなくなった。だれも認めてくれないが、おれは本当は自分に厳しい人間なのだ。醜く低俗な人間など、他人なほもて見るに耐えず、いわんや自分をや、だ。いや真面目に。
手伝いを申し出たおれを、緋村さんはいつもの無表情で振り返った。
ふう、と軽く息を吐き、牛乳瓶を押し上げる。
彼が首を傾げて少し考える態勢に入ったのを見て、おれは靴を履いて庭に下りた。
緋村さんはおれより頭ひとつ分以上背が低い。
多分、百六十センチメートルもないだろう。今どき女子でもこんなに小さい子は少ない。大体いまどきの女子は態度が逞しい分、同じ身長でももっと大きく見えたりもする。
それにひきかえ緋村さんは立ち居振る舞いが無駄なく優雅で美しい。といっても女っぽいわけではない。動きには切れがあって、とても凛々しい。「美しい男」という形容は、きっとこういう人のためにある。
自分でもどうしてこんなにメロメロなのかと思うが、といっても別に変な意味でメロメロなわけではない。おれはそっちのひとではない。ないのだが。
緋村さんがおれを見上げている。
傾げた頭を細い首で支えて、ふうふうと軽く肩で息をしながら、上気した顔でおれを見上げている。
牛乳瓶の奥には、一度だけ見たあのクロマトグラフィー。
その目が、なにかを検分する慎重さでおれの全身を下から上へと移動する。
えーっと。
おれは違うけど。そっちのケはないんだけど。
でもどうしよう、もし緋村さんが
そうだったら。
でもってもしかしておれに気があったりとかしたら。
実は初日からおれに一目惚れだったとか。そういえば最初も生徒手帳をすごく熱心に見ていた。ということは、庭がフィランソロピーとかいうのも実は適当で、本当はおれに帰って欲しくなかっただけとか。縁側で猫らと遊んでるおれを実はずっと受付から見ていたとか。興味がないふりをしていながらも毎日来るおれを追い返さずに迎えてくれるのも実は。涼しい受付に座っていればいいものを、毎日どうしてそんなにこまめにと思うほどせっせと庭や外回りや廊下を掃除しているのも、あれも実は。アルバイトが長引いて夕方ぎりぎりに来たときに珍しく外の生け垣をごそごそいじっていたのも、気配を察して素早い動きで振り返ったのも、それもこれも全部実は。
どうしよう。
おれはそっちの趣味はないけれど。まったく全然ないけれど。
でも、この緋村さんがそこまで思いつめているなら、ちょっとくらい考えてみてもいい。
だって緋村さんだし。
緋村さんなら。
でもどうしよう。
全然知らないんですけど先生。男同士ってどうするんですか、なにをどうするんですか、どうなるんですかマジですか!
べべべ勉強しないとな。っていうか教えてあげるとか言われたらどうしよう!
「樋を見てもらっていいか」
「………ハ?」
「きみは背が高いから、脚立でも届くかもしれない」
「トイ?」
ってなんだったっけか?
「樋が。詰まってるようだが、おれでは届かない」
「あ、ああ、ああ、トイ。樋ね。雨樋ね」
「無理ならいい。今度ハシゴをかける」
―――いいえ、喜んで見させていただきますとも。
落ち葉よけのネットがずれていたのは二か所だった。
下から緋村さんが手を伸ばして、掻き出したゴミを渡せと言う。だが、枯れ葉と砂と水と干からびた爬虫類の亡骸が混じったようなこんなゴミを、この手に触れさせられるわけがない。
新聞紙をもらってゴミを集めつつ、おれは二か所の破れ目から入り込んだゴミを取り除いていった。屋根と軒と樋。どれの形状にも位置にもちゃんと意味と機能があることにちょっと感心しつつ掃除を終え、ずれていたネットをきちんとはめ直して、おれは地上に戻った。
「ありがとう。助かった」
と、緋村さんはおれを見上げる。
さっきまで脚立の上から遠くに見下ろしていたせいで、それが元通りの距離のはずなのに、とても間近く感じる。
「いや、こんなの、もう全然。他にもなんかあったらするけど?」
「え」
小さく口が開いて、頭が少し傾く。ポニーテールの尻尾がかすかに揺れる。
牛乳瓶の奥ではっきりとは判らないが、あのクロマトグラフィーがいつもより柔らかい気がする。
くそう、お前が邪魔なんだよ眼鏡め。
―――ありがとう。助かった。
いやいや、気のせいじゃないかもしれない。だって。
―――ありがとう。助かった。
いいな、背が高くて。おれはチビだから羨ましいよ。
何言ってんだよ、緋村さん超かっこいいじゃん。顔も身体もすっげーし、マジモデルばり。
こんな背の低いモデルなんかいないって。きみこそ百八十とかあるだろう? それだけ背が高いと周りの見え方も違うだろうな。
えー、どうかな。別に、人混みでも看板見えるとか目印になるとかそれくらいじゃねえの?
けれど緋村さんにこんな風に見上げられると、背が高くて本当にラッキーだと思う。なぜなら、普段は切れ味バッサリの抜き身の刀みたいな緋村さんだが、そうやって上目遣いに首を傾げていると、まるで小さい子どもがお母さんのエプロンの紐をもって後ろをついて回っているみたいで、とても―――。
「芝刈りはできるか?」
「………ハ?」
「芝を。そろそろ刈ろうと思っていた」
「シバ?」
シバカリシバカリ。しばかり。……芝刈り。
「ああ、芝刈り。芝刈りね」
おじいさんは山へ芝刈りに、おばあさんは川へ洗濯に。
「やっぱりいい。今日でなければならないものでもない」
―――いいえ、喜んで刈らせていただきますとも。
しかしいくらここが「刀剣美術館」だからといって、それを現代の日常生活で実地使用する必要はないと思う。
芝刈り機以外のものを想像もしなかったおれの前に緋村さんが持ってきたのは、大きな芝刈り鋏だった。しかもテレビの通信販売などで「柄がこんなに伸びるんですぅー」などとうたっているものとは違って、印半天に鉢巻き地下足袋の庭師あたりが持っていそうな、古めかしいスタイルの巨大な和鋏である。
シャキ―――ン。ジョワッ。
小気味のよい音を立てて、緋村さんが手本を見せてくれる。
重くて強情な物体を相手に苦戦はしたが、やがて鋏はそれなりに予定通りの動きを見せるようになった。
「きみはなかなか筋がいい」
現金なおれは、その一言でエネルギーフルチャージ状態になった。
意識が朦朧とするような暑さも引きつりそうな腕の疲れも腰の痛みもなんのそので発奮し、一気に刈って刈って刈りまくった。
刈り終えたときは、すぐには腰が曲がったまま戻らなくて、腕はぶるぶる震えていて、口の中は干からびてねばねばだった。
だが、それでもおれは満足だった。
「ありがとう。助かった」
二度目のその声が一度目よりも柔らかかったのは絶対に気のせいではないし、汗だくという表現が可愛らしく思えるほど汗びたしになったおれに緋村さんがシャワーを使わせてくれたのも本当なら、サイズを懸念しながら着替えのジャージを貸してくれたのも本当だし、縁側で寝転がって休んでいるおれにほどよく冷えた西瓜を出してくれたのも、決して夢ではなかったからだ。
そう、たとえその後で鋭い刃物の音を嫌ってか屋根に避難していた猫どもに盛大に逆襲されたとしても。
そして、翌日にはそれこそ全てが夢だったかと思うほどいつも通りの緋村さんに戻ってしまったとしても、だ。
おれは少しずつ少しずつ、緋村さんのことを知っていった。
下の名前が「剣心」ということ。一風変わったその名前は館長の十三代目比古清十郎氏がつけたものだということ。双子座のAB型で、驚いたことにおれより十歳も年上だということ。独身で、彼女も彼氏もいないこと。歴史と筋力トレーニングと動物とウリ科の野菜と果物が好きで、人混みと人づきあいと騒々しいのと下らないことと下品なことと外出が嫌いで、そして飛天御剣流という古流剣術の継承者である十三代目比古清十郎氏の弟子であること。ただ一人の跡継ぎであること。身なりにこだわりはないと自分では言っているが、ジーンズの育成とシャツの寸法には一家言をもち、貝ボタンが好きで化繊とコンタクトレンズは好まない。眼鏡を変える予定はない。まったくない。
知れば知るほどつかみどころのない人だった。
知れば知るほど知らないことが次々出てきて、もっともっと知りたくなった。
知れば知るほど、惹かれていった。
緋村さんは自称「近現代史オタク」という相当にマニアックな歴史好きだ。
発覚したのは、夏休みの補習(前半戦)の最終日、つまり七月の最終日だった。
緋村さんが相変わらず相楽先生の話を好むので、その頃には、社会の授業で配られたプリントを見せて先生の話を繰り返すのが日課になっていた。落語研究部員ではないので先生の話の面白さを再現することはできないが、そのかわり適当にネタや私見も織り交ぜて質より量作戦。おかげでおれは先生と級友が心配するほど熱心に補習を受けて、質問までする変貌ぶりを遂げていた。
「今日はジープウェイ・レターだった」
「へええー」
などと軽いあいづちを打つ緋村さんではないが、無表情ながらもじっとプリントを見つめながらおれの話に耳を傾ける真剣さに彼の関心の強さが見て取れた。
白石町長の二百三年貯金のときも、サイパンの砂糖王(シュガーキング)松江春次の話のときも、ちょうどこんな感じだった。ときどきおれにも目を向けながらプリントを読み、とても熱心そうな表情をしていた。
ジープウェイ・レター。
白洲次郎という人がGHQのホイットニー将軍に宛てた手紙だ。
太平洋戦争敗戦直後、憲法草案を巡って、日本政府とGHQの意見が食い違った。その際、いわゆるマッカーサー草案に対し、「貴下の道はエアウェイ(航空路)、彼ら(日本政府)の道はでこぼこ道を行くジープウェイ」と、検討期間を得ようとした、その率直かつ明晰な手紙の全文が、その日の授業の資料だったのだ。
「白洲次郎か」
これまでに比べればミーハーだが、やっぱりいい趣味だ。というようなことを緋村さんは言った(もう少し硬い表現だったが)。
それは選ぶ道の違いだと、白洲次郎は言っている。回り道で、曲がりくねり、狭いでこぼこ道。迂遠なジープウェイであっても、それもまた目指す目的にたどり着く道のひとつであるというのが、彼の主張だった。目的に到達するために何をどうするかは手段にすぎず、肝心なのは、何を目指すかと、そしていずれ必ずそこに到達するという意志と行動である。おれにはそんな風に読めた。いかにも「風の男」と呼ばれる人物に相応しい毅然とした手紙だと、確かにおれも思ったが。
そう言うと緋村さんは大事なものを取り出す丁寧さでこう唱えた。
「“政治とは国民に夢をもたせることである”」
「へ?」
「白洲次郎の言葉だ」
「へえー」
目指すべき目的。そこに向かう意志と行動。そんな生き方は今でもできるのだろうか。
「つうかさ、緋村さんってそういう微妙な時代の歴史とかなんでそんな詳しいわけ?」
「近現代史オタクだから」
「ハハハ。それおもしれー」
「………」
あれ? 笑うとこじゃなかった? ってことはネタじゃなくてマジ? マジで?
筋トレ好きなのは、逆立ちを教えてもらったときに知った。
うちの学校は工業高校で、進学する生徒より就職する生徒が多い。おれも既に内定を得ており、春から中堅の機械メーカーで働くことになっている。生徒と就職先のニーズを汲んで、実務に必要のない授業はかなり適当だったが、「身体は資本」ということだろうか、体育の授業がやたら厳しい。
それにしても、期末試験代わりの課題が「潜水二十五メートル」と「倒立保持一分」というのはちょっとどうか。
おれは運動神経はいい。瞬発力と持久力と反射神経には自信がある。潜水二十五メートルは苦もなくクリアした。
だが倒立保持だとか座禅だとかいうような「じっと耐える系」は苦手だ。支えなしの倒立など、一分どころか五秒でぐらつく。結局クリアできずに夏休みの宿題として持ち帰っていた。
庭の立木に向かって練習しているところに、緋村さんが通りかかった。
事情を説明すると、
「支えに頼っていたらいつまで経ってもできない」
と、一刀両断にされた。
そして反論を待たずに自ら手本を示してくれた。
そうしておもむろに地面に手をついて身体を逆さに支えた動きのなんと優雅だったことか。
地面を蹴り上げるでもなく、反動をつけるでもなく、もちろん身体がぐらつくこともない。重力を無視した穏やかな動作。万有引力はどこへ行った。ニュートンもびっくり。リンゴは落ちるんじゃなかったのか。
それだけ安定しているのだから、倒立姿勢を保持するくらいどうということもないのは当然だ。一分どころか二分を余裕で過ぎてから、緋村さんは正立位に戻った。戻っても平然としている。
すげえ。
やってみろと言われてやってはみたが、見ただけでできるなら苦労はない。一秒と留まれずに落ちてしまう。何度目かに蹴り上げたとき、案の定ぐらりと落ちかけるおれの足首を緋村さんの手が掴んだ。
「わ!」
「腹に力を入れろ」
「わ、わ、わ」
「脚でバランスを取ろうとするからだ。腹筋と背筋に力を入れて前後で挟む」
こ、こうですか。
「指はしっかり開いて。地球を掴むつもりで」
そりゃまた壮大な。
「下腹を締めて。腰を腹に積む。肋骨を閉じる。ぐっと編み込むように!」
肋骨を編み込む? ってなんすか先生!
む、無理無理無理――!
どさっ。
「筋力はあるが体幹が弱い。だからバランスが取れない」
「ほへー……」
「背骨まわりや肋骨の内側の細かい筋肉を鍛えるといい。体表の大きな筋肉とは働きが違う」
せ、背骨まわりや肋骨の内側の細かい筋肉ですか。近現代史好きといい、とりあえず何かとマニアック派と見た。
二度目のときは、使う部位を教えてやるからとタンクトップを脱がされた。
まずここ、次にここ、それからここ。
緋村さんは左手でおれの両足首をまとめて支えると、右手で締めるべき筋肉を順に指示していく。
「背骨の上に腰椎を乗せて固定する。ひとつずつ。三番から。次四番。五番。前後に揺らしてバランスの取れるところを……そう、そうそう。珍しい。腰椎が柔軟だ」
「こ、腰はバイトで鍛えてるから?」
「次、腸骨」
しかし集中しろと言われても、腕や肩や背中や腹や腰の汗ばんだ肌に直に触れる細い指の感触に気を取られてそれどころではない。なんとか必死に力を入れて引き締めようとしたが、かえってバランスを保てなくなり、あえなく失墜した。
腰骨の左右に一番飛び出した部分を腸骨というのか? だがそんなところをぐりぐりとこね回されたら誰だって倒れるに決まっている。
「つうか、さっきの、もっかいやって」
手本としてというより、緋村さんのあの美しい動きをもう一度見たかったのだ。
そんな他意を知ってか知らずか、緋村さんは惜しげもなく技を披露し、重心とバランスの取り方を説明していく。
「きみのは脚を振り子にしている。そうでなくて、上体が地面から生えているようなつもりで。そうしたら脚はどう向いても関係ない」
こんなに多弁な緋村さんは珍しい。
新鮮な思いで説明を聞いていたおれだったが、逆立ちして顔を上げたままの状態で前後左右にさくさくと開脚して見せたのには驚いた。
もしかして体操選手とか?
と見る間に、今度はその背が大きく弓なりに反る。反って反ってどんどん反って……。
「あぶな……!」
倒れると思ったのだ。
だから思わず手が出た。
掴むわけにもいかず、下りてくる脚を二の腕に受けて、肘で抱えた。抱えようとした。
けれどそれが余計なお世話だったようだ。
「えっ」
小さな声が聞こえたかと思うと、緋村さんの身体はふわりとなめらかに沈んでおれの腕をすり抜け、そのまま倒立前転のような格好で地面に転がった。
「危ないのはきみだ。いきなり触るな」
「え、や、悪りい。だってこけると思ったからよ」
「ちゃんとコントロールしている」
ずれた眼鏡をぐいっと押し上げて、緋村さんは言った。
言ったきり、不機嫌そうに足下を見つめておれを見ない。
そしてぱんぱんと手をはたくと、そのままぷいっと事務室に入ってしまった。
確かに、そうして丸めた背中で着地する間も緋村さんの身体は全く危なげなく安定して、それで予定通りと言わんばかりに動きはスムーズで軽やかだった。
けれど、だって風に手折られる水草のようだったのだ。
乱暴な風か何かが繊細な植物をなぎ倒そうとでもしているように見えたのだ。
だから、しなやかで優雅ではあったけれども、触れただけで壊してしまいそうで、とても手で掴んだりなんかできなかった。気がつくと腕から抱えにいっていた。
緋村さんの足が触れた自分の腕を見る。
緋村さんは本当に細かった。怖いほど軽かった。
腕に残る緋村さんの脚の感触が意識を離れない。
倒立前転で転がる一瞬に緋村さんが見せた、はっと怯えたような表情が頭を離れない。
あれだけ落ち着いてきれいに着地していながら、何にそんなに動揺したのか。
そんな風に感情があらわになった彼を見たのは初めてだった。
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