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次の日から連日比古美術館に通い始めたおれの口実は猫だった。
初日、一時間もかからず展示を見終えたおれは、中庭に面した縁側でくだんの猫どもと再会した。
朝はあんなに攻撃的だったのに、今度は実に悠長に構えて動じない。
こう見えて動物は嫌いではない。
入り口の玄関から回り込んだ横手にあたるのをいいことに、おれ達は縁側で親交を結んだ。
「んだよお前ら。さっきの仮想敵国ばりの凶暴さはなんだったんだ?」
顔を覗き込んで訊ねると、「はて、なんのことやら」とでも言いたげな顔で「がぼっ」と鳴いた。
「“がぼ”? おいおい、猫ならニャーとかミャーとか猫らしく鳴けよな」
転がったり顔をしゃくったり背伸びをしたりする仕草はしっかり猫なのだが(当たり前だ)、鳴き声だけがどうも面白い。
比古美術館の縁側は、ここで住めると思うほど居心地のよい空間だった。
青々と茂った庭の落葉樹と深い軒が日射しを遮り、芝生の匂いのする新鮮な微風が通り抜けて、この猛暑の中、クーラーも扇風機も動いていないのに、それを感じさせない。軒先の風鈴はいかにも風鈴然とした涼やかな美声を響かせている。身を乗り出して少し首を伸ばすと、緋村さん(名前を知ったのは後日だったが)のいる受付部屋も見える。猫たちの柔毛に覆われた背や腹を掻き回したり、両手を持って踊らせたり、猫パンチ対相楽くんパンチのなんちゃってボクシングをしてみたりして遊びながら、ときどき部屋の様子をうかがった。といっても、かんかん照りの屋外から遠くの小窓ごしに室内を覗くのだからよくは見えない。ただ、彼の髪はとても色が鮮やかだったので、ちらちらと動くオレンジ色が彼の所在を教えてくれた。何か作業をしているのか部屋の奥でごそごそと動いていることもあれば、受付にじっとしていることもあった。何度か目が合った気がして手を振ってみたが返事はなかった。猫の手も借りて振らせてみたが、それにも返事はなかった。これによっておれが無視されているわけではなかったことが確認できたのは収穫だった。単に見えていないか、あるいは人見知りで奥手なのか、何か事情があって手は振らない主義とか、まあそんなところだろう。
そしてこの日もうひとつ大きな収穫があった。
ちょうど見回りで近くの廊下を通りかかった彼に訊ねたときのことだ。
「あ、ちょっとちょっと。ここってやっぱ飲食とか禁止? 水飲むくらいはオッケ?」
「館内は飲食禁止ですが、庭は公開にしてますから」
「公開?」
「地域に開かれた場として、入館者に限らず地域住民や来訪者の方に広くご利用いただけるようにと」
「へええ……」
つまりここは比古美術館の「館内」ではないというわけだ。配置的に随分奥まった場所にある庭が「公開」というのも不思議だが、都合のよい不思議は気にしないことにしている。
なるほどなるほど。頷いているうちに彼は去り、残されたおれは猫たちに名前をつけることにした。
さっきまでそこいらをうろうろしていたはずだが、姿が見えない。
「ねこー。ねこー。出てこいー。いいものやらないぞー」
それで床下から出てきたところから、人語は解さないと判断した。
親玉なのに微妙に存在感の薄い母猫は矢田貝今日太郎。こないだ読んだ推理小説から拝借。この際、性別は気にしない。ジェンダーフリーだ。子どものキジトラは、ふてぶてしさがぴんときて、プロ野球の父、正力松太郎。茶トラは昔なんかであったマイケル。そして白黒ブチは……。
主に背中が黒く腹が白い白黒模様の仔猫は、よく見ると変わった目をしていた。瞳孔の中心に黒い点があって、周囲の虹彩は光の加減で虹のように色を変える。不思議な目だ。こんな不思議な目に同じ日に二度も出会うとは、これは一体なんの啓示か。
「えーっと。じゃあ略してクロマト……じゃ長ったりいか。クロマ……クロ。うん、クロ。それ。決定」
途端に愛着がわいた。
名前を決めてからはほとんどクロばかりと遊んで、万華鏡のような綺麗な目を飽きずに覗き込んでときどき鼻に噛みつかれたりしているうちに、ふと気づけば一時を回っていた。
「げ! バイト!」
慌てて荷物をまとめてポケットからサングラスを出してかけ、突然攻撃モードに戻った猫どもを振り切って玄関に回り、受付に顔を出すのだけは忘れずに遅刻必至のアルバイトに向かった、それがおれの比古美術館ライフの一日目だった。
「ういーっす!」
「いらっしゃいませ」
次の日も朝十時に訪れたおれの挨拶を、緋村さんは全く構えることなく受け流した。
最初は本当に覚えていないのかと思った。
「あ、や、おれ。昨日の」
「はい」
「お、覚えてくれてたんだ」
勝負スマイル。反応なし。気にしない。
「っていうか、中はもう見たからいんだけどさ。庭ってフリーだって言ってたなーって思って」
「………」
「ちょっと休んでっていいかな? 猫らにも会いたいし」
「どうぞ」
と言った後、緋村さんは少し言い惑ってから、こう続けた。
「公開スペースですから。ただ、猫はうちの猫ではありませんので」
事実を説明したようにも聞こえる。
言い訳をしたようにも聞こえる。
―――言い訳? なんの?
1、猫がいないかもしれないことの。
2、おれに滞在を許可したことの。
物事はいいように理解するおれである。
機嫌よく想像をはばたかせながら、彼の手元にあった書きかけの業務日誌を脳裏に再現し、サイン欄の文字を口の中で繰り返した。
緋村サン。ひむらさん。ヒムラサン。緋村さん。なんとなくかっこいい。あの人にぴったりな感じだ。緋村なんていうんだろう。
緋村さん、相楽くん。相楽くん、緋村さん。相楽くんと緋村さん。おお、なんか相性よさそうじゃないか?
今日はクロの機嫌もいい。矢田貝今日太郎とマイケルと正力松太郎も昨日よりくつろいでいる。きっとおれに慣れたのだ。よしよし、いい子だ。
「あれ?」
わしゃわしゃと掻いてやったクロの尻に、傷らしきものがあった。赤く細い筋が浮き上がって、みみず腫れというほどではないが、腫れている。できて間もない傷に見えた。
検分すると、同じような跡が三つあった。矢田貝今日太郎とマイケルにもある。ついでに毛をむしったような跡もいくつかずつある。これは正力松太郎にもある。
「なんだ? お前ら実は仲悪い? まあケンカならいいけどよー。弱い者いじめとかダセえことすんなよ?」
げっふん、げっふん。
だから猫なら猫らしく鳴けってば。
ころんとひっくり返すと、クロが相楽くん登りを始めた。
右腕を上げて道を延ばしてやったおれは、いつのまに出て来たのか、緋村さんが玄関横を掃いているのに気づいて、思わず口走っていた。
「あ、緋村さんだ」
クロが飛び降りて走り去るよりも先に振り返った緋村さんはやはり無表情だったが、上半身を少しひねって振り返った見返り姿が、そのままファッション雑誌のグラビアにしても通用しそうにかっこよく花があった。よれっとしたTシャツは古着っぽくて味があるし、バリバリにヒゲの入ったジーパンは履き込みの見本級に完成されているし、ポニーテールに結い上げているのもうなじと後れ毛に意外性があって印象深い。このクールさは、いわゆる男が惚れる格好よさだ。
問題は眼鏡だろ、どう考えても。
「やっぱ惜しいなあー」
「なにが?」
などと訊いてはくれないが、完全にお友達になりたいモードに突入しているおれはそんなことでは引き下がらない。
「あー。とさ。おれ、いい眼鏡屋さん知ってるからさ。今度一緒に行かね?」
そして緋村さんはびくともしない。
おれには目もくれずにクロが走り去った方向をじっと見ている。
「自分とこのオリジナルで作ってて、なんかどっかちょっと違うんだよな。シンプルなんだけど他にない感じで。あ、なんか昔の眼鏡を元にしてるとかって言ってた、そういえば。緋村さんとか絶対似合うし。ていうかマジかっこいいと思う。おれが保証するって、マジで。あ、そういえばここの庭公開ってさ、いわゆるあれ? “フィランソロピー”?」
眼鏡屋話に反応がないのは予想の範疇だったので返事は待たずに次の話になだれこむと、今度は箒を動かす手がすっと止まった。
「フィランソロピー?」
先生ありがとう。さすがだ。
「ここの庭。地域のためのなんとかって、昨日言ってたじゃん。どっかで聞いたなーって思ってたんだけど、そういやこないだガッコの授業で」
企業の社会貢献。地域社会への責任。経営における哲学の必要性と、現代企業における主体的企業倫理の欠落。云々かんぬん。
「………ああ。いえ、まあ、それほどご大層なものじゃないですけど」
「でもそうじゃん。発想としてはさ。要はイシ? に意味があるわけじゃん。ってぶっちゃけ相楽先生のウケウリだけど」
そう言ったとき、緋村さんの顔が正面からおれに向いた。
「あ、相楽先生ってガッコの先生。名前一緒だけど別にまあ……ただの偶然? でも悪くない先生でさー。うぜえ説教とかしねえし、オチケンだったらしくて話すっげーおもしろいし、あー、そうだ。緋村さんさ、あれ、岩本栄之助。って知ってる? 明治かなんかの、なんかすごい人」
すごい。すばらしい。
おれの話は完全スルーなのに、出典相楽先生は百発百中でヒットしている。
目がぱちぱちしているのが牛乳瓶の奥なのが惜しい。
「こないだゲンシャで相楽先生がその話してた。株ですごい儲けて、すごい寄付して中央公会堂とか建てて、でも後んなって破産して自殺したって」
「ゲンシャ」
「現代社会。あーでもほら、おれら工業高校だから大学とか行く奴ほとんどいねーし、別に社会とかいらねえし、なんか結構センセイ趣味に走ってて。でも普通の授業より余裕でおもしれーからつい聴いちまう。あ、ちなみにオチケンは落語研究部」
岩本栄之助。明治十年、大阪の両替商の次男に生まれ、同三十九年に二十九歳で家業を継いだ。株式の仲買に才を顕して巨財をなし、「北浜の太閤はん」と呼ばれる成功を収めた後、明治四十四年、利益の社会還元と父の供養を兼ねて、中央公会堂建設費用として百万円(現在の五十億円相当)を大阪市に寄付。第一次世界大戦で相場に負け、巨債を負って自ら命を絶ったのが五年後の大正五年。大正七年の中央公会堂落成を見ることなくこの世を去った。義と情の人と呼ばれた相場師が遺した遺言は、「全財産を債権者に提供し、妻子のために一文たりとも使うべからず。株式投機は自分一代に限り、子孫は決してすべからず」の二項だという。
そういう類のいわゆる偉人伝的逸話は、おれはどちらかといえば好まない。「どうだすごいだろう」感が鼻について胡散臭く思えてしまうし、夢だとかロマンだとか、そんな甘っちょろいお題目を唱える大人は信用できないと思っている。第一そんなことを言っている奴に限って、夢もロマンも対極の打算的な生き方をしているのだから馬鹿らしい。だが相楽先生の話は、笑いを交えて小咄風に語られるせいか不思議とおれの反感を呼ぶことはなかった。だからこれまでも嫌いではなかったのだが、それにしてもこんなことがあると大好きになってしまいそうだ。そういえば来週から始まる補習、うちのクラスの社会は全部相楽先生だ。ラッキー。ネタネタ。
そんな風にしておれの庭通いは続いた。
終業式や補習やアルバイトや野暮用の都合で朝だったり午後だったり夕方の閉館ぎりぎりだったりもしたが、とにかく毎日行った。
緋村さんは毎日無表情におれを迎えた。
受付にいることもあれば母屋の本館から出てくることもあり、庭や外で雑用をしていることもあった。勝手知ったる他人のなんとやら。「ういーっす」と声をかけて庭に回るおれに、こくりと小さく頷き、元の作業に戻るのが常だった。
相も変わらずの忌々しい牛乳瓶で、美麗だが鉄壁の無表情で、リアクションはシャイだが律儀だった。そしてモデル裸足の格好よさと相楽先生ネタへの関心も相変わらずだった。
いつ行っても緋村さんがいる。そして緋村さんしかいない。
いくら私設で小規模とはいえ、仮にも美術館なのに。
疑問に思って、一度訊ねたことがある。
ちょうど昼時だったか、受付にも外回りにも人気がなかった。しばらく受付部屋を覗き込んだ後、「ご用の方はこの銅鑼を鳴らしてください」の張り紙と共に吊ってある
銅鑼を鳴らしてみた。
鈍く光る黒い金属の小さな円盤。真ん中がこんもりと盛り上がって、少なくともおれの目には本物に見える。そもそも銅鑼というものがこういう形状だったことも知らなかったのだから、そんな人間が本物に見えるも見えないもないないだろうと言われればそれまでだが、ともあれ、どんな音が鳴るのか興味もあり、前から一度やってみたかったのだ。
が。
軽く叩いたつもりが、ものすごい音がした。
「げ」
大音響というわけではないが、張りのある華やかな音は突き抜けるように響いてあたりに満ち満ちた。主張の強さが半端でない。
思わず飛び退さったおれは、うわっちゃーやっちまったー、すみまっせーん、こんなつもりじゃなかったんですけどーと、誰にともなく謝りながらあたりを見回した。
音に驚いて、前栽あたりにひそんでいたらしい猫どもが鳴きながら床下へ逃げ込んでいく。相も変わらず妙な鳴き声だったが、それは横に置く。
緋村さんが母屋から出てきたのはそのときだ。
それでも無表情だったが、呼んだのが来館者ではなくおれだと判っても中に戻りはしなかった。
よし。話しかけても大丈夫な雰囲気だ。
「すげえな、これ。ドラ? つーか、なんでドラなわけ?」
「よく聞こえるから」
最初を思えばめざましい進歩である。
献身的かつ誠実なおれの努力の甲斐あって、こんな世間話的質問にも機嫌が良ければ律儀な返事が返ってくるようになったのだ。他人行儀なですます口調が初めて解除されたとき、おれがどれだけ嬉しかったことか。
「はは、たしかに。こんだけすげえ音が鳴りゃどこにいても聞こえるもんな」
とはいえ、だとは思うが、そんなことよりも。
「ここって緋村さんひとりでやってんの? 大変じゃね? あ、いや、他の人って見たことねえし、館長さんも普段いねえし。休みとかってちゃんとあんのかなーって思って。つか、もしかしてここに住んでる? そもそもここって誰かんちなわけ?」
ここぞとばかりに、前々から訊いてみたかったあれこれを投げてみた。
玉砕覚悟だったにもかかわらず、よほどご機嫌さんだったのだろう。緋村さんは端的かつ過不足なく、おれの質問にきっちり答えてくれた。
1、緋村さんはここ(の離れ)に住んでいる。
2、ここは元は比古氏の自邸だったが、館長は普段は窯のあるアトリエ(ここから車で十分ほどの郊外にある)にいて、ギャラリートークや用事のあるときだけやってくる。
3、他に職員はいない。
4、緋村さんが用があるときは臨時休館にする(そもそも来館者はほとんどいない)。
―――なるほどなるほど。
で、比古館長と緋村さんってどういう関係?
なんとなく訊きづらくて口にできなかった質問の答えは当然ながら得られずに終わった。緋村さんが比古館長の養子だということを知るのはもっと後になってからのことである。
「なあなあ、お前どう思う?」
ギャーボボッ!
かわりにクロに訊いてみたが、こっちは今日はひどくご機嫌斜めだった。
矢田貝今日太郎もバフバフと鼻息が荒くて、答えてくれる気配はない。マイケルと正力松太郎は床下から出てもこない。
「ケンカでもしたのかよ。つうかおれに八つ当たりすんなよなー。……あ? なんだ?」
顔に飛び乗ってきたクロを引きはがしたおれは、子猫の真っ白なすべすべの腹に火傷の跡があるのに気づいた。まだ新しい小さな円い跡。まるで煙草でも押しつけたような。
クロマトグラフィーの目がいつになく攻撃的な光の破片を散らしている。
あまりからかっていると逆ギレされそうな危険を感じて二人を離れた。
芝が随分伸びた。近いうちに二度目の芝刈りをしなければ。
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