<5>
人間なんでも経験だ。
知らないよりは知っている方がいいし、経験したことがないよりは自分の心身で体験してみるに越したことはない。
おれがいろんな遊びを、良くないと言われていることもこの年齢では禁止されていることも含めて比較的幅広く嗜んでいるのも、ひとえに旺盛な向学心によるものなのである。
だが、これはちょっと経験しなくて済むことならば一生せずに済ませたかったかもしれない。
と、心の底から思うほど、その夜遅くにおれを襲った食あたりによる高熱と腹痛と吐き気その他の苦痛はすさまじいものだった。
そもそも食あたりで熱が出ることも知らなかった。
だから最初に転がり込んだ個人医院で「食べ物ですかね」と診断されたときには、間違いなく誤診だやぶだと確信してその医者を飛び出した(ほとんど這うようにしてだったが)。
だが二軒目でも同じことを言われ、謙虚なおれは医者の言葉を信じてもいい気になった。もっとも、いつもに輪をかけて従順で慎ましかったのは、すでにほとんど前後不覚の状態になっていたせいでもある。
その場で点滴を受けてそのまま眠った。
目が覚めてなんとか自分の足で立てるようになったのは明け方近くだった。
翌日ようやく家に帰って昼まで寝て、医者の指示通りに山のように水を飲んで、また寝た。
そんなこんなで生まれて初めて「寝込む」という体験をしている間に二日が過ぎ、補習の補講で引き留められたりアルバイト先でへまをやらかして女と揉めて怪我までした挙げ句に
馘首されたりしている間にさらに二日が過ぎた。
ここまで皆勤賞だったのに、いきなり四欠勤とは不覚にもほどがある。
日曜日で補習がないのを幸い、開館にはまだまだなのを承知で起きるが早いか家を出た。
緋村さんに訊きたいことがあった。
病気も傷もそれなりに癒えて久々に訪ねる比古美術館への道は休み明けの通学路に似て、そしてそんなものとは似ても似つかず気持ちは揺れていた。
たった四日来なかっただけなのに、一ヶ月も二ヶ月も経った気がする。
見慣れた門が見えるのと同時に、低い生け垣の内側に朱色のポニーテールが翻った。
「ういーっす」
いつものように挨拶をするおれに、緋村さんもいつものようにこくりと小さく頷く。
閉まっている門の横の通用口を開けるというおれのための動作が続いたのはいつもと違ったが、すぐに作業に戻るところはいつもと同じだった。
その緋村さんが戻ってきたのは、「まただ」というおれの声を聞き咎めてのことだった。
玄関から横手に回り込んだ枝折り戸の手前に煙草の吸い殻がバラバラと落ちていたのだ。最初の日にも見かけて防犯防火を心配に思ったのを思い出して「まただ」と言ったのだったが、緋村さんに言わせると少し前から「ときどきある」らしいのだから話は深刻だ。
おれはそう思った。
というか普通思うだろう。
それがどうして
「危ないから灰皿を据えようかと思案している」
というようなことになるのだろう?
一瞬ネタかと思ったが、たしか緋村さんはギャグを言うキャラクターではなかった。
灰皿? いや緋村さん、それはちょっとどうだろうか。
と、言いかけたとき、さらに奥へ回ったところにもっと不穏なものを見つけた。花火のごみだ。これはさすがに始末を慮ったのか、半分に切ったペットボトルに水を張って突っ込んである。だが非常識かつ危険なことに変わりはない。
はっとして振り返り、吸い殻の子細を観察した。
全部で十数本。口紅の着いたショートホープを含めて三種類。
それがパズルの最後のピースだったのかもしれない。
その瞬間、おれの頭の中でバラバラだったいろんな物事が一気に結びついてつながった。
「………あいつらは?」
「?」
「猫だよ猫! クロたち、今日太郎一家! どこにいる?!」
「いや、今日はま……」
「見てないのか?!」
まだ、と、最後まで言わせもしなかったおれの剣幕に緋村さんが驚いているらしいのが判ってこっちも意外だったが今はそれどころではない。
「クロ! 今日太郎! マイケル! どこだ! 松太郎! 今日太郎!」
彼らが逃げ込む場所は決まっている。
前栽の茂み、お気に入りの大木の枝、屋根の上と探しやすいところから見て回り、最後が床下。緋村さんが懐中電灯を持ってきてくれたが、怖がらせては意味がない。
目を慣らしながらゆっくり這っていき、あの芝刈りの日よりもさらに奥で八つの目が光っているのを見たときには、たとえそれがどんなに狂気じみた輝きだったとしても、どれだけほっとしたことか。
「みんな……無事か……」
できる限り優しく静かに近寄ったつもりだったが、今日の彼らには自分たち以外の存在はすべて脅威なのだろう。全身で断固とした拒絶と警戒を示している。おれにそれ以上の接近は許されていない。
だが無事さえ確認できれば目的は達した。近寄ったとき以上にそうっと慎重に距離を取り、床下の暗がりから中庭の日の下に戻ってきた。
「とりあえず大丈夫だ。みんないた」
緋村さんにそう報告する声と顔が硬いのが自分でもわかった。仕方ない。これまで明朗闊達軽妙洒脱を心がけてきたが、今はその余裕がない。
こんなとき大人ならそれでも平然としていられるのだろうか。平気で話したり食べたり笑ったりできるのだろうか。できるかもしれない。おれももっと大人になったらそのくらいできるのかもしれない。だが無理だ。許せない。
今日までの十七年ちょっとの人生でこれほど腹が立ったことは多分ない。
「また来る」
顔も上げられないまま何とかそれだけは言い置いて背中を向けたとき、緋村さんの声がした。
「さ」
“さ”?
「財布。……きみ、の」
財布?
落ちそうになっていた。
ジーンズのポケットからあらかた出てしまっている。もっともチェーンをつけているので落ちても落ちはしない。シルバーと黒革の派手なウォレットチェーンが見えないわけはないだろうに。
もしかして何か違うことを言おうとした?
1、さようなら?
2、相楽くん?
3、サムゲタン?
―――なんじゃそりゃ。
よし、小復活。
そして頭の中で「さ」がリプレイされる。
追ってすがるようなあんな声色を緋村さんも持っているのだ。
翌日からおれはまた比古美術館通いを始めた。
変化のないないまま残り少なかった夏休みは終わり新学期が始まったが、一度だけ夕方の閉館間際に顔を出した時に、ある印象的な光景に出会った。
活力を取り戻した子猫たちが庭でコロコロとはしゃいでいた。おれにとってはあれ以来初めて見る久々の元気な姿だった。矢田貝今日太郎は樹上の定位置に腰を据えて母のまなざしで子ども達を見守っている。
それを緋村さんが座敷の奥から見ていたのだ。部屋の端の庭から最も遠い隅に小さく胡座をかき、じっと猫たちに目を向けている。例の牛乳瓶のせいで表情も目の動きもよくはわからなかったが、全身を包む空気が儚いほどに澄んでいた。
それだけといえばそれだけの静かで穏やかなその光景は忘れられない印象をおれに残した。
できるかぎりそうっと見ていたつもりだったものの、居合いの達人と野生動物が相手では格が違う。すぐ皆に気づかれて、三匹と一匹と一人が寄ってきた。
猫たちの傷跡はまだ生々しかった。斑状の焼け焦げと縦横の擦過傷。よく致命傷に至らなかったものだと思う。
「可哀想に」
緋村さんはポツリとそう言って、少しだけ眉をしかめた。大きく動かすと世界の終わりが始まりでもするのかと見ていて緊張したほど慎重で誠実なしかめ方だった。
一方ではこんな小さな生き物にこんな酷い暴行を繰り返す人間がいる。いや、大きい小さいの問題ではない。これをした人間は自分でないものを傷つけることが楽しいのだ。
そしてあっけない結末は学校が始まってすぐの土曜日に訪れた。
矢田貝今日太郎一家花火被虐事件からちょうど一週間が経った初めての土曜日。夜十一時。
猫の親子を打ったり叩いたり縛ったり花火でいたぶったり火のついた煙草を押しつけたりする卑劣で醜悪な犯罪だ。犯人も卑劣で醜悪にちがいないと予想はしていたが、それにしても最低だった。
犯行グループは三十代の男女四人。
無自覚な犯人だけに周囲を警戒したり人目を憚ったりすることもなく現れた。足取りはだらしなく、話していることは下らなかった。下らなさすぎる愚痴とうわさ話ばかりだった。女を含め三人が煙草を吸っていて、ショートホープのきつい匂いがしていた。
我ながら冷静かつ思慮深かったと思うことに、それでも一応人違いでないことを確認したうえで、男三人はおれがボコボコにした。
女は当事者に譲った。
ここでおれが女に暴力を振るったのでは奴らと同類項になってしまう。おれは弱い者いじめが見るのも嫌いなのだ。
もっとも援護射撃程度なら話は別だ。おれは用意してきた紐で女の手足をつないだ。そしてあのレイバンを取り出した。
「ったく、これ気に入ってたのによー。てめえら誰かおんなしの持ってんだろ。今日はしてなかったけどよ」
だから猫たちにあんなにも嫌われ攻撃目標にされていたのだ。このサングラスが。
「けったくそ悪くて使えねーっつの。むかつくからこれ、あんたにやるわ。お礼お礼」
女の顔はおれよりひと回り小さかったが大丈夫、こんなこともあろうかとちゃんと落下防止バンドをセッティングしてきている。
「はいはい、特別ご奉仕価格でどーぞ。あー、それとオバサンさ、吸い殻は灰皿にな。ポイ捨ては法律違反です、よ、っと。よいしょ。ほい、お待たせ」
ギャーオー!
ギギギギギッ!
それにしてもますます猫離れが進んでいる。
彼らに鳴き方指導を施したのは一体だれ……というか何なのだろう?
「ほいお待たせ」という待機している本隊への報告を聞き分けたところをみると、以前より人語を解するようになってはいるらしいが。
ガフガフッ!
アンギャーーコオオオッ!
「百害あって一利なしってか。猫にも嫌われっし?」
紐は普通に立って歩くことならぎりぎりできる長さにしてやった。
ただし、右手首と右足首、左手首と左足首をそれぞれ繋いでいるので、走るには要領がいるし、手と足を同時に使おうと思うとさらに相当の技術がいる。おれがフリーハンドでもさばききれなかった矢田貝今日太郎チームの総攻撃をこの体勢で受けた女が文字通り手も足も出ないのは当然だった。
「それくらいで勘弁してやったらどうだ」
木の陰から緋村さんの声がして、反撃者たちは合図のホイッスルが聞こえたとでもいうようにぴたりと動きを止めた。
普通なら陳腐極まりないはずのそんなB級映画か何かのような科白も登場の仕方も、この人がすると本当に俳優のようにかっこいいのだからやっぱり緋村さんはすごい。そしておれは重症だ。
おれ達は四人の身元をひかえ、写真を撮った。そして二度とこのあたりに近寄ったり猫を加虐したりしないよう、もししたらこれまでの証拠写真と一緒に警察に持ち込む用意があると釘を刺してから解放した。
証拠写真ははったりだ。だが、野良猫も含め全ての猫は動物愛護法の庇護の下にあるという緋村さんの動物愛護法談義を聞いて、どうやら法律関係の人間だと思い込んでくれたようだ。弱い者いじめをするだけあって、強い者と長い物には弱いらしい。萎縮しきって逃げ去った。
「けどさすが緋村さん、マニアック。つうか制定の経緯とか詳しすぎ」
現在の動物愛護法は昭和四十八年に「動物の保護及び管理に関する法律」として制定され、以来二度の改正を経て現在に至る。思いがけず古いこの法律がおれがまだ生まれもしない前からあったということは、おれも今回の件で現行の法律については自分でも調べ、相楽先生に訊きもしたので知っていた。だが理路整然と語られた緋村さんの話はあまりに事細かで、おれに言わせればそれは法律関係者というよりはただの……。
「近現代史オタクだから」
そうそう、それそれ。
……おっと危ない。
また笑うところだった。
たしかこの人はここで笑ってはいけないのだった。
「いたなら加勢してくれりゃいいのに。つうかいつから気付いてたんだよ」
立っているだけで絵になる人なのは前から知っていたが、こうして夜の暗がりの中に立つとますます凄絶だ。
「必要に見えなかった。ところで“いつ”というのは今日の何時からかという意味か、何曜日からかという意味か」
「うーっそ、マジかよカッッッコわりー! つか聞いてねえよ!」
「………」
「そんでいつから? つか何曜から?」
「日曜」
あの日だ。
四欠勤の後、五日ぶりにやってきた早朝。
煙草の吸い殻と花火のゴミが放置されているのを見た。いくつもあったはずのサインをものの見事に見誤っていたことにやっと気づいた。大切なはずの人に、まるで見当違いの疑いをかけていたことを知った。誰より一番信じるべきだったのに、信じるだけでよかったのに、そうする代わりにいわれもない嫌疑をかけて、自分のなかの彼を損なっていた。
許せなかったのは犯人よりも自分だった。情けなくて腹立たしくて、顔も見られなくなって逃げ帰った。それ以来、こっそり覗いているのを見つかったあの夕方以外、緋村さんとは顔を合わせていない。
張り込みを始めたのはその夜からだったのだから、つまり最初からばれていたわけである。
そう早い時間ではなかろうと読んで、午後十時すぎから裏手に潜んで、ただ待った。
町はずれにぽつんとあるとはいえ、町の空は夜間もどことなく仄白い。中途半端な夜空の底で、立ったり座ったり、時には寝ころんだりもしながら、ただ待った。
もっと合理的な方法があることくらい、いくらおれでも分かっていた。だがそうでもしないと自分が治まらなかったのだ。何かせずにはおれなかったのだ。たとえそれがただの自虐的な自己満足にすぎなくとも。
美術館になっている母屋に隣接して、裏には離れがある。その離れの灯りが消えるのを見て住人が就寝したことを知り、時計を見る。空が青みを帯びて鳥がさえずりはじめ、やがて空は白んで日が昇る。生活音や蝉の一斉唱歌が聞こえ始まる前に帰る。
昼夜を逆転せざるをえない生活が始業式の翌日で終わってくれたことは幸運だった。
「……かっこわり」
「そうでもない。少し、見直した」
暗いうえに例の牛乳瓶なのがいまいましい。
「……なあなあ、緋村さん?」
「なんだ」
「結局あいつらってここで飼うことになったわけ? 違うって言ってたじゃん? 最初の日は。あ、次の日も」
「あのときは臨時預かりだった。あの後で引き取った」
「えー、マジィ? 聞いてねえよー」
「……当然だ。言ってない」
あれ? いま緋村さんむっとした?
……ような気がする。
でも何故?
思えばこれまでにも何度かこういうことがあった。それまで普通に会話をしていたのに突然口が重くなったり反応がなくなったりする。何が彼の気に障るのかがわからない。だからこの人は難しいのだが、それはさておき。
「そんで何、どういう話で引き取ることに?」
「師匠……館長の許可が出た」
いやそうじゃなく。最初から順を追って話してください。
奴らの初犯は、ちょうどおれが初めてこの美術館に来た日の前日だったらしい。
気が立った今日太郎一家が町の青果店に飛び込み、店をひどく荒らした。店主は激怒し、近隣の商店や住民も我が身の被害を危惧しはじめ、保健所に連絡するしないの話になった。たまたま店を訪れていた緋村さんが見かねて猫の保護を引き受け、ついでにこっちは完全に善意の過剰サービスで、建具や空調を含めて丸一日かかる修理の間、青果店の野菜と果物を丸ごと預かったのだったという。
「それであの部屋冷蔵庫状態だったのか。つうか大人らやっぱ超勝手。むかつく」
なにかと常識を逸脱した話だ。そして何がどうとはうまく言えないが、人々の身勝手さが腹立たしい。
「けど、ま、いっか。おかげであいつらが来たと思えば」
そのおかげでクロマトグラフィーが見られたのだと思えば。
「うっし。いい。許す」
元々動物好きとはいえ人付き合いの淡白な緋村さんにしては意外な行動だと思ったら、そもそも青果店を訪れたのがでんすけ西瓜(高級な黒玉西瓜らしい)入荷の報を受けてのことだったそうだ。さては珍しい好物が手に入ってご機嫌だったためかと思いもしたがそれは胸の内として。
「……きみの言葉遣いは嫌いだが言うことは尤もだ」
え?
あれ?
あれれ?
えーっと、これはもしかして?
「もしかして緋村さん、いわゆる若者言葉とかって抵抗ある人?」
「………」
ビンゴ。
これは肯定の沈黙だ。
相変わらずの鉄面皮だが、最近このくらいは判別できるようになってきたのだ。
おれってすごい。
というか、愛の力ってすごい。
そしてこの二ヶ月弱の記憶をぐるぐると巻き戻しながらひっくり返して検証して、気づいた。
緋村さんがときどき突然に何の前触れもなく不機嫌になることがあった、あれは多分おれの言葉遣いが神経を逆撫でしていたのだ。気づかないうちに何か致命的なへまをやらかして怒らせたのではないかといつもどきどきしていたというのに。
「えー、なんだ、そんなことかよー」
ではあの模擬演技の後も? 翌日の芝刈りの日も?
そうだ、そういえばあの日は興奮のあまり猫どもを相手にものすごく馬鹿な独り言を連発したおしていた気がする。じゃああれを緋村さんが聞いていて、それで?
「マジっすかー」
あ、しまった、これだ。これが駄目なんだってば。えーっと。
「……きみには謝らなければならない」
「ほへ?」
「最初、きみを疑った」
「?」
「猫の犯人がきみではないかと。初めて来た日」
「あ……」
朝早くから猫の猛攻撃を受けていたのは、およそ美術館などに縁のなさそうなガラの悪い高校生。ぶしつけで乱暴な物言い。馴れ馴れしい態度。根拠のない自信。図々しい視線。濃いサングラスに煙草の匂い。
絶妙のタイミングで登場したおれを緋村さんが疑ったのは無理もない。
建物や展示作品や猫に何か変なことをしないかとそれとなく監視し、身元を探り、言動にも注意していたのだという。
「なのにきみは猫に名前をつけた」
「え……」
「いい名前だった。矢田貝今日太郎。正力松太郎。マイケル。クロ。ユニークでいい名前だ。鑑賞態度もまっとうだった」
いや、それはだから宿題だったし、大体見ていたのは肝心の刀剣より建物や仕掛けの方だったし、しかもほとんど違うことを考えていたし、猫の名前なんてそれこそ翌日から猫を口実に通おうと思っていたからだし適当だし、つまりどちらかというと下心満々で……。
「岩本栄之助の話をした」
それは次の日だ。けれどだからあれは先生の受け売りで……。
「樋を直して、芝刈りをしてくれた」
それはもう超下心……。
「二百三年貯金。松江春次。白洲次郎。どの話も面白かった」
だからそれはネタで先生の受け売りで……。
「緋村さん! ごめん!」
「?」
「なんつうかえっと、とにかくごめん! 超ごめんマジごめん! あっ、また超とか言ってるし。だーもうムカつくおれ! あっ、ちがう、そうじゃなくて、えーっと……」
「いい、許す」
地団駄を踏んで暴れていたおれは、聞き慣れない声音にあれ?と思って顔を上げて、そして信じられないものを見た。
「え」
なんということだ。
緋村さんが笑っている。
笑っているといっても呵々大笑しているわけではもちろんなく、唇の両端がごくわずかに上に持ち上がっているだけなのだが、それにしてもたったそれだけのことでこんなにも人の顔は変わるのか。
模擬演技で日本刀を構えていた姿も凄絶だったが、秋の匂いが混じり始めた夜の中でそうして微笑する緋村さんは、それはもう本当に信じられないくらい物凄かった。
ただ唯一の難点は……。
「あのさ緋村さん。おれ、いい眼鏡屋さん知ってるからさ。今度……一緒に行かね?」
「前に言っていた? 昔の眼鏡をリモデルしたオリジナルデザインの? ではきみのサングラスも見立ててやろう。あのレイバンより、きみにはもっと似合うものがあると思う」
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