五
いよいよその日がやってきた。
息も凍る新月の夜。
墨流しの闇夜に、二つの黒い影が、それこそ墨を流すように動いていく。
剣心と弥彦である。
下見は十全、と剣心は言った。弥彦の今日の役目は外での見張りだ。動静を見守り万一潜入が気づかれて騒ぎになった場合、あるいは何もなくとも二時間経って剣心が出てこない場合は、すぐに浦村のもとに走る。それ以外は自己判断。ただし屋敷には絶対に侵入しないこと。
「動くな、口をきくな」だった前回より進歩したとはいうものの、冷静に考えてこの範疇でできることは多くない。ものたりなさに口を尖らせながらも、手渡された懐中時計を握りしめて土手に潜み、剣心が屋敷に潜入するのを見守った。
入念な下見の甲斐もあって、剣心はあっさりと侵入に成功した。西洋ではサンタクロースは善き使者。人に愛され、待たれてもいるから、聖夜を選んでサンタらしい格好(白い毛のついた真っ赤な衣装だという)で訪ねれば、難しい屋敷にも比較的入りやすいと聞く。時には表玄関から「ごめんください」と訪ねる方が早いとまでいうが、まだ人々がサンタクロースに馴染まないこの国では生憎そうはいかない。ゆえにこんな苦労をするはめになる。
もっとも、ずば抜けた腕をもつ剣心に侵入できない家屋敷などそうはないのであるが。
警護は厳しい。聞いていた通りだ。人目につく窓からの侵入は難しい。が、幸い擬洋風の寄棟造りで、屋根の形状が複雑だった。傾斜面が入り組んでいるために死角ができる。だから今日は屋根を抜く。
(あいつの得意技だったな……)
今はいない相棒を思う。侵入にかけては剣心以上の手練れだった。こんな屋根などものの数ではなかったろう。
(……)
余計なことを考えてはいけない。
集中、集中。
剣心は屋根瓦に手をかける。
天井から羽のように降り立ち、枕元に寄る。
名をひばりというその女の子は、眉間にしわをよせ、歯を食いしばって寝ていた。昼間会った彼女は利発で快活な少女に見えたのに。老成した苦悶を感じさせる寝顔は七歳という年齢にふさわしくないと剣心は思う。
病の子の熱をはかるやさしさで小さな額に手を当て、ゆっくり目を閉じた。
(ひばり)
いつものように名を呼びながら、夢の中に入っていく。
待つ身に時間は長い。
まだ十分しか経っていないなんて。
さっきから何度時計を見たことだろう。
弥彦は音もなくため息をついた。
剣心はもう目的の部屋に辿り着いただろうか。もう夢に入っただろうか。
中で何がどうなっているかをうかがい知るすべはない。剣心のことだ。侵入脱出に関してはしくじることなど万に一つもあるまいと確信できるが、夢に潜るというやつの方が弥彦にはまだよくわからない。浦村や恵の弁からすると、それも比類ない凄腕であることは察せられるし、だからこそ、あの藤田だか斎藤だかいう感じの悪い警官も、犬猿ではあっても剣心に一目置いてはいるのだろう。
(つーかさ。藤田は藤田、斎藤は斎藤だろうが。なんで藤田が斎藤なんだよ。お前は役者か)
その時だ。
弥彦の視界に何かが動いた。
ハッとして、神経を研ぎ澄ます。
どこだ。
何が動いた?
(あれだ!)
変則的に動く黒い影。
さかさまにぶらさがるあの姿は――。
(コウモリか……)
また動物、という思いが一瞬頭をよぎった。だがこれまでもずっとそうだったように、だからといって何がどうというわけでもない。ならば、
(考えてもしょうがねえよな)
今は気を散らしている場合ではない。と、コウモリのことを意識の外に追いやった弥彦は、そのコウモリがまるで様子をうかがいでもするように覗き込んでいるのが、今まさに剣心が夢に潜ったばかりのひばりの寝室であるとは気づいていなかった。
浦村の言った通りだった。
この子の夢は深く暗い。しかも――。
(闇が濃い……)
全身にまとわりつくいやな濃さだ。
夢の様子は人それぞれだ。春のひだまりのように明るいこともあれば、めくるめく虹の渦が巻いていることもある。静かな夜の夢もある。この子のように深い闇の夢にいる子もある。
だが必ずどこかにあるはずだ。
(ひばり)
呼びながら探す。
(ひばり、ひばり……)
光か、熱か、あるいはそれに類する明るいもの。あたたかいもの。あるいは風。
(どこだ)
闇が剣心に絡みつく。明るくさえずる小鳥の名をもつ少女の夢に似つかわしくない、濃く暗い夢の闇。
だが必ずどこかにある。深く深く隠されているだけだ。だからこの子自身もそんなものがあるとは気づいていないだけで。
(ひばり)
まだたった七つで。誰もが羨む身分と才に恵まれて生まれながら、この子はずっとこんな暗いところにいるのか。
(かわいそうに……)
剣心はさらに深く暗いところへと降りていった。
コウモリが軒裏を離れた。
小さな羽音を立てて飛び去り、数軒はなれたとある屋敷の庭に降りてゆく。
空き家らしい。邸には光も人気もない。が、庭に男が一人いた。黒筒袖に黒の股引、黒い手甲脚絆を巻いた身なりは忍びか盗人さながらだが、すらりと仁王立ちに腕を組む青竹の長身は、人目を忍ぶ裏稼業とは思われない。
その男めがけてコウモリがまっすぐ舞い降りる。男が差し出した腕に逆しまに止まると、キキ、キキキとさえずるように啼きはじめた。しばらく黙ってうなずいていたが、
「……あいも変わらず危なっかしい奴だの。おちおち放っとけやしねえ」
秀でた眉を苦くしかめてそう呟き、男は音もなく樹上に跳んだ。
(あった)
どれほど潜ったかわからなくなるほど深いところに、それはあった。
鈍いかすかな光。しかもくすんでいる。たしかにこれでは容易に見つかるまい。
だがあった。
剣心はありったけの思いをこめて、弱々しいその光を磨き、励ました。
(大丈夫。大丈夫だ。希望はここにある。大丈夫だ、ひばり……)
光は少しずつ輝きをましていった。剣心はその光をそっとすくい上げて胸に抱くと、頭上を仰ぎ見た。出口は見えない。しかし方向はわかっている。
(あっちだ)
剣心はゆっくりと浮上をはじめた。
(遅い……)
もう一時間になる。
弥彦は気が気でない。他人の夢に同調するのは一時間が限界だという。それ以上潜っていると、取り込まれて戻ってこれなくなる危険があると。いくら剣心が並外れた能力者とはいえ、それは変わらないのだ。部屋への潜入に二十分かかったとすればまだ四十分だが……。
(なんかヤな感じ)
気のせいだ。
そう思おうとしたが、不穏な胸騒ぎは静まらない。
一向明るむ気配がない。
行けども行けども、あたりは濃い闇ばかりが続く。
(出口は)
よもや方向を間違っているとは思えないが、こんなに深く潜ったのだったろうか。まさか知らぬ間に深みに引っ張られているのか――。
そんな考えがよぎって、首筋がちりちりと粟立つ。
突如足が引っぱられた。見れば重い闇のかたまりが剣心の足に絡みついている。それは剣心を下へ下へと引き込み、上に行かせまいとしていた。
(くっ)
暗く濃かっただけの闇が、今は明らかに攻撃の意思をもって剣心に向かっていた。
闇が叫んだ。
――うそよ!
(ひばり……?)
――そんなものいらない。光なんか……希望なんか、あるわけないもん!
(ひばり)
――あたしなんかいらない子なのに。誰もほんとはあたしなんかいらないのに……!
(ひばり。そんなことはない。いらない子などどこにもいない。みんな求められ愛されて生まれてくるのだ)
――うそ! ダディもマムもあたしが勉強ができるから自慢なだけよ。だっていつも言ってるもん。ひばりはお利口だから鼻が高いよって。
(ひばり。ご両親はお主自身を愛しているのだ。お主の才能のゆえではなく、お主がお主であるがゆえに)
――そんなの信じない。だって普通の女の子になったらあたしなんか捨てられるもん。絶対そうだもん。
(信じられぬか……そうだな。誰とも知らぬ人間に言われてそうかと思えるくらいなら、そうも深くは沈むまい。だがひばり、ご両親だけではない。世界がお主を愛している。お主はこれから広い世界に出会うだろう。その世界がお主を望んだ。お主は世界に望まれて生まれてきたのだ)
――ちがう!
濃い闇が剣心に襲いかかった。
だが反撃はできない。夢を傷つけたらひばりが傷つく。
(っ……)
逃げるしかない。
胸にかかえたひばりの夢をかばいながら出口に向かう。
一心に上を目指す剣心にいくつもの闇のかたまりが襲いかかった。
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さんたは子らに夢を届ける<5> 2011/03/04up
初出 『星降る夜も聖なる夜も 明治さんた屋浪漫譚』 2009/11/01