三
星明りが夜の町を濡らしている。
月はないが、夜目を鍛えた今の弥彦には十分な明るさだった。
今のところ尾行はうまくいっているようだ。剣心が気づいた気配はない。
連れてくれと何度せがんでも聞き入れられないのに焦れて、勝手についていくことに決めた。もう幾日も前だった。ひと月にわたる稽古への自負はある。現に剣心の尾行だってできているではないか。
と、剣心の姿が横道に吸い込まれて消えた。
(おっと)
ついて折れて、ギョッとした。
目の前に剣心が立ちはだかって弥彦を待ちかまえていたのだ。
(わっ……!)
とっさの悲鳴を殺せたのは、入門ひと月の新米にしてはよくできた。
剣心に腕を引かれ、路地の奥、用水桶のかげに二人で身を隠した。
なぜついてきた、などと言わでもの問いを剣心は口にしなかった。弥彦がどんな気持ちでいるかはわかっているのだ。現に、見据える鋭いまなざしも、厳しくはあっても、思いあまった少年の行動を責めてはいない。
「よいか、弥彦」
唇は動いて見えないのに、声だけがする。
「今日の届け先は少々てごわい。着いたら待機場所を指示する。そこで出入りがないか見張っていろ。拙者が出てくるまで決してその場を動くな。声も出すな。何があっても。誰が来てもだ。よいな」
いよいよ初仕事なのだ。弥彦はごくりと喉を鳴らして、しっかりひとつうなずいた。
それにしても最初はあの仕事着に驚いた。黒の筒袖、黒の股引、黒いかぶり物までしている。そのかぶり物が風変わりな洋風の三角帽なのを除けば、まるきり忍者か盗人ではないか。
「夜闇に潜むにはこれが一番。本当は世界共通のさんたの決まり装束があるのだが、それがどうも洋装でな」
実はこのさんた屋稼業というのは、彼ら独自の思いつきでもなければ、個人的な活動でもない。「世界サンタクロース評議会」なる国際組織によって国際的に組織されたものであり、世界各国で公認サンタクロースが多数活動しているのだ。構成員は剣心のように潜って夢を届ける者だけでなく、さまざまな役割の者がいる。情報収集、伝達、機械技術、医療・看護、歴史、その他特殊技能など、多彩な専門技術者が「人知れず子どもに夢を届け、未来に資する」という志を同じくしており、浦村、恵、斎藤らもこうした周辺支援者にあたる。また、活動の内容や仕方は、地域特性やサンタの認知度によっても変わるため、各国のサンタは現場対応で臨機応変に動くことが推奨されてもいる。だから剣心の忍びもどき装束も理に適っていると言って言えなくはない。もっとも、この見かけによらず大雑把で天邪鬼な彼の師匠が、規則だからといって四角四面に言われたことを厳守する生真面目さを持ち合わせていないことは、すでに弥彦にも充分に察せられていたが。
「どうも拙者は洋装は性に合わんのかして落ち着かぬ。それにこれの方が体の自由もきく。やはり本職の道具というのはよくできたものでござるよ」
(その感心の仕方ってどうよ)
とは思うが、剣心の言うことにも一理はある。だから今日は弥彦も見よう見まねの黒装束で、一応それらしく装ってはきた。なるほど。こうして新月の闇夜の影を伝い走っていると、その意味がわかるというものだ。
剣心がぴたりと動きを止めた。
目で示す先には見越しの松の立派なお屋敷。たしか表は商家の大店だ。ここが今日の「お届け先」らしい。
(ここで待て)
手で示されたのは裏口にほど近い木の根方。
うなずいて潜み、剣心が音もなく跳んで塀の向こうに消えるのを見守った。
剣心は屋根に立ち足下の間取りを頭中に描いた。
斎藤の調べによると子ども部屋は二階の北東角。屋敷は数奇屋のつくりだがこの部屋だけ擬洋風で両開きの出窓がある。藤田五郎こと斎藤一とは幕末以来の因縁もあり、心を割って友人になりたい相手では決してないが、仕事の腕は信頼に足る。
本場のサンタは煙突から入るのが美学だというが、あいにくこの国の家に煙突はない。もしあっても、剣心はそんな手段に美学は見出さなかったろう。屋根から下をのぞくと、たしかにあった。足場をみつけ、出窓に向かって壁を伝い降りていった。
弥彦はハッとした。
剣心が家中に消えた後の屋根に、何か動くものが見えた気がしたのだ。目を凝らす。
いた。
獣だ。あの姿はイタチだろうか。二本足で立つ身ごなしは猿を思わせるが、まさか猿が夜中の屋根にいる理由がない。屋根の上に謎の獣。それ自体も気になるが、
(またドーブツかよ)
と、そのことに胸がさわぐ。ましてその獣が剣心の後を追うように屋根の向こうに消えたとあっては。
(んだよおい。見張りったって、動くな喋るな何もするなって、それじゃ俺いる意味ねえじゃん。つうかそれ見張りじゃねえじゃん!)
ていよく蚊帳の外にされたことにようやく気づいたが、心の中で地団駄を踏みつつ、忍の一字でじっと耐える。
男の子はよく寝ていた。
もう夜は冷えるというのに、布団を蹴とばし、ばんざいの格好で口を開けて寝ている。おおらかな寝相に剣心の顔がほころんだ。気性ののびやかな子は寝相ものびやかであることが多いという。
そう、左之助もそうだった。
十六、十七と長じて体が大きくなってくると、狭い長屋で思い切りよく放り出される腕や脚は二人分の場所を容易に占領した。すきま風の吹き抜ける冬にはそれも湯たんぽ代わりになってよかったが、梅雨どきや真夏の蒸し暑い夜はとりわけ往生で、どさりとのしかかられては目覚め、かぶさってくる腕やら脚やら体やらを時にそうっと、時には力ずくで押し返して、体温の高い左之助の下から抜け出すのも毎夜のことだった。
重いよ、ばか。
ぐがー。
暑い! くっつくな。
ごー。
ほんにお前は寝相も自由だな。
剣心……。
呼ぶ声があまりに鮮明で、ハッと心づいた。
まるで耳元でそう囁かれたようで肌がさわぐ。
(いかんいかん。仕事仕事)
心が揺れて、かえって冷静になれた。
この子には一度会っている。何不自由ないはずの大店の坊ちゃんにもかかわらず人をうかがう上目遣いでおどおどとした様子だったのを覚えているが、寝ている時は別人のようにのびのびとしている。こちらが本来のこの子の姿であってほしい。
枕元に膝を正して座し、男児の額に手を当てる。名前は、総太。
(総太)
呼びながら、子どもの夢の中に入っていった。
さんたは子どもに夢を届ける。
夢に潜って、その子の心の中に眠る、未だ目覚めぬ夢を見い出し、光らせる。無論、それは夢の中のこと。朝になって目覚めた子どもは、見た夢のことも、夢の中で見つけた自分の夢のことも、覚えてはいない。そこで出会った黒ずくめのさんたくろーすのことも。けれど夢の中で得た小さな光は、その子の夢の中で、心の底で、光りつづける。浮きつ沈みつするその光が、いつか長じたその子の糧になるかならぬか、それは誰にもわからない。けれど、なってくれればいいと剣心は思う。できれば前に向かう力に。あるいは絶望の底でその子に寄り添う小さな光に。百にひとつでも実るなら、残り九十九がついえようとも報われる。
すうと意識が浮上する。
慣れた浮遊感と軽い高揚感。
剣心は自分の意識が体に馴染むのを待った。
気持ちが高揚しているのは、総太の夢にまだ少し引っ張られているせいだ。だが、ずれていた絵が次第にぴたりと合わさっていくようなこの感覚は嫌いではない。
剣心は眠る総太に目をやった。
夢から覚めて何も覚えていないのはさんたの側も同じなのだ。
子の中の夢を、自分が見い出して光らせた夢を、さんたは決して持ち帰れない。
世界サンタクロース評議会はそれを歴史の保護作用と言っている。当人の心の中にしかないはずのビジョンが他に漏れることで、万が一にも他人がそれを真似たり、妨害したり、あるいは過剰に肩入れしたりといった不当な作為が起こらないよう、歴史の自己防衛作用が生じているというのだ。
剣心にはそんなむずかしい理屈はわからない。ただ単に職分だと思っている。自分たちさんたは手伝うだけ。夢に潜って、その子が夢をみつけるのを手助けする。それ以上でも、以下でもない。だからそれ以上その子の夢にも、無論その子にも関わるべきではない。そうである以上、知るべきでもない。
(それに)
と剣心は思う。無数の人を殺した殺人者が自分の夢に関わることなど誰も望みはしない。
総太が布団をはねとばしてばんざいの格好をしているのは潜る前と変わらないが、のびやかな寝顔が心なしか少し凛々しくなっているように思える。さっきは開いていた両の手はぐっと拳をにぎっている。まるでつかんだ何かを放すまいとするように。萎縮した昼のこの子ではなく、きっとこのおおらかな様子にこそふさわしいのびやかな夢だったのだろう。
まだ少しふわふわする。
夢の感応力は潜った時間と、届けた夢の内容、強さに比例する。
今日は時間は短かった。夢が強かったのか。
夢から帰ってきて待つ人がいないというのは心細いものだ。とくにこんな風に引っ張られた時は、つなぎとめてくれる腕が恋しい。
(だが帰る分には問題あるまい)
剣心は、やってきたとき同様、音もなく窓から身をすべらせて部屋を出た。
夢を届けるさんたが常に二人一組で行動するのは、この浮上後の感応現象のためである。多くは今日の剣心のように軽い高揚感ですむが、そうでないこともあるのだ。強い高揚感で躁状態になったり、酒に酔ったような酩酊状態に陥ったり、ときには子ども返りや、ごくまれには強烈な悲哀観や絶望感に見舞われて動けなくなることもある。最後まで夢が見出せず、夢も希望もない心の闇に引っ張られた場合だ。いずれにせよ、抵抗力が落ちた無防備な状態の潜り手をひとりにしておくのは危険だ。ということで、潜る者と見守る者、二人が組んで潜入するのが基本である。
つまり弥彦は、まだ「夢を届ける」ことの何たるかも知らない弥彦は、本人も察した通り、体よく置いてけぼりをくらっているのだった。
剣心が入ってから出てくるまでは、時間にしてわずか十五分だった。だが待つ身に十五分は長い。屋根の上に再び剣心の黒い姿を見たとき、弥彦は自分でもびっくりするほどホッとした。
戻ってきた剣心が弥彦にうなずく。
成功したのだ。
もちろん、わかっていた。剣心が失敗するはずがないのだ。彼は世界評議会でも一目置かれる凄腕のさんたなのだと恵も浦村も言っていた。他の者なら不可能だろうむずかしいところにも剣心は確実に夢を届けてくる、と。今日の剣心は手ぶらに見えたが、きっと小さな贈り物だったのだろう。
来たとき同様、剣心の後をついて夜闇のかげをつたう。屋敷を去る直前、またあのイタチだか猿だかを見かけた気がしたが、もうそれもさほど気にはならなかった。
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さんたは子らに夢を届ける<3> 2011/03/04up
初出 『星降る夜も聖なる夜も 明治さんた屋浪漫譚』 2009/11/01