時は幕末。
動乱の渦中にあった京都に「人斬り抜刀斎」と呼ばれる志士がいた。
血刀をもって新時代・明治を切り拓いたその男は、動乱の終結とともに人々の前から姿を消し去り、時の流れとともに「最強」という名の伝説と化していった。
そして、浪漫譚のはじまりは、明治十一年、東京下町――。
一
弥彦が藤田五郎なる警官に連れられてどぶ板長屋に住む剣心を初めて訪れたのは、秋も深まったある風の強い日のことである。
数人の客と賑やかな笑い声に囲まれてもの静かにうなずく小柄な背中。それが初めて見た剣心の姿だった。
「おい、洗濯屋」
呼ばれて振り向いた、その眼光の鋭さに、まず驚いた。
風貌が目についたのはそれからだ。
異人かと見紛う長い赤髪に、抜けるほど白い肌。細い首の上の顔は、御一新の前に母が見せてくれた姉さん人形によく似て、こんな美しい人を弥彦はこれまで見たことがない。ただし、見ているだけで慄えのあがってくるその眼光と、頬の大きな十字傷をないものとすればだ。つい少し前までやくざの使い走りをさせられていたから、まだ十歳とはいえ多少の渡世を知っている。親分の多西でさえ到底ここまでではなかった。だがそれも弥彦を連れてきた男にはどうということもないらしい。
「フン。そう睨むな。今日はただの伝達係だ」
「伝達?」
サーベルを下げた制服警官の姿に、剣心を取り巻いていた女客たちは蜘蛛の子を散らすように帰ってしまった。
「そうだ。このガキを引き取れ。見習いだ」
「悪いが拙者はもう廃業している。主も知っておろう」
弥彦は内心驚いた。ついて来い、と言われて何もわからないままついて来たが、では自分はここに預けられるのか。洗濯屋の下働きとして? 相手は廃業したと言ったが、今しがたまでここにいた女達はどこから見ても洗濯の客だった。風呂敷包みを手に、あるいは手ぶらで帰っていった。一体、何がどうなっているのか。
藤田は煙草に火をつけ、ふうと煙を吐いた。
「あのトリ頭のことをまだ引きずっているというわけか」
「……関係ござらん」
「フン。伝説の……と呼ばれた男が、よくもここまで腐ったものだ」
「斎藤」
(斎藤?)
名前が違う。
背筋の凍る視線と声音にぞくっとしたせいで聞き流すところだった。不審に思って見上げたが、藤田はまったく動じていない。
「嫌でも引き受けてもらう。今この東京でモグリを仕込めるのはお前しかいない。俺とて腐った腑抜けに新人を預けるなどはなはだ不本意ではあるがな」
「……」
剣心の目がまともに弥彦を射た。ぎょっとしながらも目を逸らさず必死で見返していると、鋭かった目がふっと和んだ。そうしてみると、白い肌と赤い髪に美しく映える深い紫紺色をしている。吸い込まれそうに不思議な美しさだ。
「斎藤。……いや、藤田警部」
いや、という間に、打って変わって穏やかに豹変したと声と表情で、剣心は入り口に立つ長身の警官に向き直った。
「せっかく足を運んでいただいて申し訳ないが、拙者はもうさんた屋は引退してござる。今はごらんの通りのしがない洗濯屋。その儀は他所をあたるがよかろう」
弥彦の頭は大混乱だ。
ますますわからない。さんた屋? 聞いたこともない。また新しい流行りものか何かか。それとも洗濯屋の聞きちがいか?
「………そうか。邪魔したな。――おい、行くぞ、小僧」
拍子抜けするほどあっさり引き下がった藤田あるいは斎藤は、弥彦がついてきているかどうかを気にする風もなくさっさと立ち去ろうとしている。
おいおい、こんだけ高飛車に乗り込んどいてそんだけかよ!
呆気にとられてぽかんと口を開けた弥彦に、その美しい洗濯屋は言った。
「すまぬな」
本当にすまなさそうなひとことを置いて目の前で障子がすっと閉てられると、あたりは急にしんとした。
長屋の路地にひとり取り残されて、弥彦は拳を握る。
だからどうした。
父を失い、母を失い、やくざの手下にされて畜生のように扱われる屈辱にも耐えてきた。こんなことくらい、どうだというのだ。
(おれは東京府士族、明神弥彦!)
ぐいと顔を上げ、根の生えたようになっていた足を地面から引き抜いて、藤田の後を追う。
背後でバサリとカラスの飛び立つ音がした。
そんなことがあってからわずか二日後である。
弥彦は再び剣心の長屋に来ていた。
今度はあの藤田という警官だけでなく、美人の女医と、驚いたことに警察署長まで一緒である。高荷恵というその美しい女医が長い黒髪を揺らして弥彦に謝った。
「ごめんなさいね、坊や。――この不良警官が」
と、一転きつい目で細目の警官をにらみ、
「考えなしに連れ回して、嫌な思いをさせて。でも今度は大丈夫。もう話はつけてあるから、安心なさいね」
「坊やじゃねえよ」
正直、もうここには来たくなかった。
今さら大丈夫と言われても。
だが関東集英組多西一家が警察に一網打尽にされ、保護された弥彦はなぜか藤田警部補に身柄預かりとなっている。行けと言われれば行くしかない。いつか強くなって自分の自由と誇りを自分で守れる男になる。それまでの辛抱だ。
ただ気になるのは、彼らが弥彦に仕込もうとしている、その「さんた屋」なる仕事の内容だ。
「こいつ、かなり潜る」
「まあ、貴重な人材ね」
「それはそれは将来有望な。ぜひ頑張って立派なさんたになっていただきたいものですな」
「じゃ、急ぎましょう。ああ、もうほんとに、あの馬鹿ったら。突然行方をくらませるなんて」
「フン。所詮阿呆は阿呆。あんなトリ頭に何かを期待する方が間違いだったというだけだ」
「いずれにせよ、潜れる人材がありがたいことに変わりはありますまい」
と、言われても。
一体なにをさせようというのだろう。
「かなり潜る」と言われても、水練は得手とは言い難く、自分ではなんのことやらさっぱりだ。子どもに夢を届けるとかなんとか体のいいことをいいながら、やはり犯罪のたぐいなのだろうか。だが三人のうち二人は警察の人間、しかも警部補と警察署長という身分である。
ガアァと啼くカラスの声にハッと我に返り、三人に囲まれて端座する剣心を見た。
女のようにやさしげな、だがどんな女より美しい顔立ち。そして女には持ち得ない男の気骨。今日はまったく穏やかな表情で、いかにも「人のいい洗濯屋」の風情ではある。だが弥彦の記憶にある姿は、初めて見た時の、あの呼ばれて振り向いた瞬間の眼光刺し貫く刃物のような剣心の方だった。
「弥彦」
剣心の目がひたと弥彦に当てられた。
「せんだってはすまなんだ。突然のことで少々驚いた。お主を厭うたのではない」
黙って顎を引く。剣心は続けた。
「さて弥彦。あらかた聞いておろうが、お主は今日からここでさんた屋の修行を始めることになる。……が、その前に主に訊ねておくことがある」
いやあの、っていうか俺なんも聞いてねえけどと思いつつ、とりあえず訊かれてみることにした。
「お主、維新志士に恨みのすじはあるか」
「は?」
「武家の出と聞いた。親のかたき、友人知人のあだ、主家の敵。ないしはそれ以外でも」
「う、恨み?」
「あるいは明治政府に」
「ねえよ、別に。ていうか、あるけどないっていうか。たしかに父上は彰義隊で官軍と戦って戦死したし、残された母上は苦労して命を縮めた。けどだからって誰を恨んだってしょうがねえだろ。人を人とも思わねえ薄汚ねえやくざ者とかにはヘドが出るけどな。でもあんたらのやってるさんた屋とかってのは、そういうんじゃないだろ? 子どもに夢を届けるってくらいなんだからよ」
「そうだ。さんた屋は、子らに夢を届けるが役目。だが人知れず為す、いわば裏稼業ではある。人知れず為すがゆえに、誰に認められるものでもなく、また代価を得られるものでもない。だから我々はそれぞれ表の生業をもっている」
剣心は洗濯屋。浦村、藤田は警察官。恵は医師。
「ま、あたしの場合はこっちの仕事も医師の職能でかかわってるから、表も裏もないといえばないんですけどね」
「そういうわけだから弥彦、お主もいずれは本業を持たねばならぬがよいか」
これが二つ目の質問だろうか。
少々拍子抜けながらも、弥彦は口を引き結んでうなずいた。
なんだかよくわからないが、儲からない裏稼業というのは悪くない。それにこの大人たちは、少なくとも腐ってはいないように見える。どうせ一度は堕ちた身。塁の及ぶ家族もいない。
が、剣心ははやる弥彦を目でとどめて声を低めた。
「最後に訊く。拙者、今は緋村剣心として洗濯を稼業としているが、かつては人斬り抜刀斎と呼ばれた殺人者・緋村抜刀斎にござる。長州がたに与し多くの人をこの手で殺した。女子どもも殺した。鳥羽伏見で志士を抜けるまでに奪った命は自分でもわからぬ。もしお主がそのような経歴の人間と関わりをもつことに抵抗を感じるなら、この話はなかったことに」
すぐにはどうとも答えられなかった。黙りこむ弥彦に、剣心は静かな目を向けて言った。
「無理はするな。ありていに言えばよい。そういった人間とのかかわりを避けるのは普通のことだ。それゆえ日頃はなるべく知られぬようにしているのだが、さんた屋は夢を届けに行く際、二人行動を原則とするゆえ、今後は密に行動を共にすることになる。また仮にも技を教え教えられる関係ともなれば師弟同然。あとで露見して『人斬りからものを教わった』ということがお主を苦しめるようなことになっては拙者も……そう、寝覚めが悪い」
剣心の口から淡々と語られる内容に驚かなかったといえば嘘になる。
人斬り抜刀斎といえば、今でも人の口にのぼり恐れられる幕末の伝説。言うことをきかぬ子どもに「そんな駄々ばかりこねてると抜刀斎が来るよ」と、京都ばかりか明治の新都東京ですら当たり前のように親が口にする、そういう存在であったのだ。
その生ける伝説が目の前にいる。
どころか、今まさに弟子入りせんとしている師匠が抜刀斎その人なのである。
そう思うと膝が慄えるのは否めない。だがそこはこらえるのが男の意地だ。
「だからどうだってんだよ。そんなら俺だってこないだまでやくざに飼われて人の懐ばっか狙ってた掏摸(すり)だ。外道だ。的を選んだりできる腕じゃなかったから誰彼なしに的にかけてた。そっちこそいいのかよ。そんな夢を届けるなんて稼業にこんな人間を引き入れてよ」
「弥彦。お主は今も掏摸か?」
「ちがわい」
「そう、お主はもう掏摸ではない。やくざに縛られてもいない。そうだろう?」
弥彦がぐいと顎を引くと、剣心が凛と笑った。
「ならば何もかまいはせぬよ。かつてどうあったかより、今どうあるか、そしてこれからどうあろうとしているかこそ重要でござろう」
「よし、じゃあお互いさまだ」
「え?」
「いいか、剣心。そっちがそうならこっちだって一緒ってことだ。第一、昔のこととか、正直ピンとこねえし。今の剣心は洗濯屋でさんた屋なんだろ? 汗水たらして働いた金で飯食って、そんで子どもに夢を届けるさんた屋をやってんだろ? そんでなんだか知らねえけど俺はさんた屋の才能がありそうなんだろ? じゃあいいよ、それで。俺は。そのさんた屋とかってのになってやらあ」
精一杯に胸を張って、一気に言った。
伝説の人斬りだった男が、豆鉄砲を食った鳩のようにぽかんとしている。その横で女医と署長と警部補は三者三様に笑っている。こんなに晴れ晴れとした愉快な気分になるのはいつぶりだろう。弥彦は大きく息を吸った。
「おやおや、おやおや。これはなかなか、小さいのに見どころのある。末が楽しみですな」
「ほんとね。十年もしたらいい男になりそうじゃない? 今からつばつけとこうかしら」
「フン。どうやらあのトリ頭よりは使いものになりそうだな」
「よし、じゃあ決まりね」
女医が場をまとめた。
「えっと、キミ……」
「東京府士族、明神弥彦! 人の名前、忘れんなよな。大人だろ」
「はいはい、ごめんね。で、じゃあ弥彦くん。君は今日からさんた屋の仲間よ。ビシビシしごかれて、早く一人前のさんたになってちょうだいね。期待してるわよ」
今日からさんた屋の仲間――。
子どもに夢を届けるさんた屋稼業の。
弥彦はカラスのとまった屋根を見上げながら、恵の言った言葉を胸に繰りかえした。
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さんたは子らに夢を届ける<1> 2011/03/04up
初出 『星降る夜も聖なる夜も 明治さんた屋浪漫譚』 2009/11/01