・第一夜 さんたは子らに夢を届ける・ 1/2/3/4/5/6/7


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 こうして弥彦のさんた屋修業の日々が始まった。
 いや、始まったはずだったのだが……。
「だあ! なんなんだよもう毎日毎日毎日水汲みと灰汁取りばっかり! これじゃただの洗濯屋見習いじゃねえか。いつになったらさんた屋の修業が始まるんだよぅ」
 ここに来てもう五日になるというのに、言いつけられる用事といえば、水汲み水汲み、また水汲み。それ以外といえば、そこに朝は灰汁(あく)取りが加わる程度で、どう考えてもさんた屋修業とは思えない。第一、当の剣心自身も毎日まじめに洗濯稼業に精を出すばかりで、さんた屋の方はさっぱりだ。一体こんなことでいいのか。
 だが弥彦がそう訴えると、剣心は拍子抜けるほどあっさりこう言ったのだ。
「そうか。ではそろそろさんた屋の稽古も始めるとしよう」
「マジ! やりぃ」
 なにごとも言ってみるものだ。
「では弥彦、この桶に水を一杯汲んできてくれぬか」
「だーかーらっ」
「ただし」
 弥彦はハッとした。剣心の目がちがう。
「ただし、一滴もこぼさずに、だ」
「一滴も……」
「そうだ。汲むときも、運ぶときも、降ろすときも。音も立てるな。無論、満々でだ。行ってこい」
 かくしてやっと本当のさんた屋修業が始まったのだった。

 だが勇んだのもつかのま、最初に言いつけられた「水滴をこぼさず水を運ぶ」の他に修業と称してすることといえば、やれ足音を立てずに歩くだの、息を切らさずに走るだの、あるいは暗闇の中で文字を見分けるだの。たしかに洗濯屋の下働きではなくなったが、これではまるで忍者か盗人(ぬすっと)見習いではないか。そんなことをしているせいで心にやましさを覚えるのか、どうも誰かに監視されているような気までしてきて、居心地が悪い。不服を唱えた弥彦に剣心は言った。
「よいか、弥彦。さんたくろーす・・・・・・・ とは子どもに夢を届ける者。人知れず夜の中を訪れて去る者。夜と夢の中を行く者。ゆえにまず身を隠し己れを滅するすべを知らねばならぬのだ」
(? さんた屋ってのは忍者なのか?)
 疑問に思いながらも素直に稽古に励む弥彦だった。

 弥彦の弟子入りと同時に、剣心はさんた稼業を再開した。
 西欧に言い伝わるサンタクロースは降誕祭の前夜に煙突を通ってやってくるというが、このさんたくろーすはもっと勤勉で、そして少しだけ合理的だった。月日にはこだわらずまめまめしく各家を回り、また、出入りは必ず煙突からなどと四角四面なことは言わずに、窓だろうが天井裏だろうが縁側だろうが表玄関だろうが、出入りのしやすいところからとにかく子どもの部屋まで見つからずに忍び入ることを最優先とする。主に月のない夜を中心として、ひと月あたりの稼働日数は実に十日近くにのぼったろうか。
「星降る夜も聖なる夜も、さんたはいつでも子らに夢を届けているのでござる」
 という言葉の通り、弥彦が来て半月の間にも剣心は幾夜も「さんた」に出かけた。夜更けにふらりと出かけることがほとんどだったから、弥彦の気づかぬうちに行ったものもあるだろう。
 だがいずれにせよ弥彦はまだ留守番だ。
 ある日、弥彦は口を尖らせて言った。
「次は俺も行くぞ。本当は一人じゃだめなんだろ。潜り役と一緒に見張り役がいないといけないんだろ」
「……誰がそんなことまで?」
「メガネのおっさん」
 警察署長の浦村だ。
「だって夢を届ける時は二人行動が原則だって剣心最初に言ってたじゃんか。でもずっとひとりで行くし、俺、気になっておっさんに訊いてみたんだ。そしたらそう言って教えてくれた。夢を届けに潜る者、傍らにあって見守る者、二人で一緒に動くのが本当だって」
「……」
「そうじゃないと危ないからって」
「それは……それは普通の場合でござる。拙者は一人でよいのだ」
「でも」
「心配無用。下手は打たぬよ」
 やさしいが強い口調に、弥彦はそれ以上何も言えなかった。

 ある日、剣心の留守に恵がやってきたことがあった。
「なんか俺、やっぱ剣心のお荷物なんじゃねえのか」
 弥彦は思い切って言ってみた。
「そんなことないでしょ。でも、ちなみに君はどうしてそう思うの?」
「だってなんにもさしてくんねえし」
「さんた屋の仕事を?」
 こっくりうなずく。
「修業ったって歩いたり走ったりとか、そんなんばっかだし、夜はいっつも留守番だし」
「まだひと月でしょ。焦らないの。剣さん、君のこと買ってるわよ」
「そんなの嘘だ」
「嘘じゃないわよ」
「じゃあそっちこそどうしてそう思うんだよ。毎日見てるわけでもねえくせに。剣心が俺のことをなんか言ってたのかよ」
「そういうわけじゃないけど」
「ほらみろ」
「いいから信じて頑張んなさい。大丈夫。あの人は信じるに足る人だから」
 弥彦は女医をじっと見た。
「お前って、剣心のことが好きなのか?」
「バカ。ませたこと言ってんじゃないわよ。お子さまのくせに」
「いでっ」
 弥彦はぺしりとはたかれた頭を大袈裟にかかえて見せた。
「あ、そうだ。あとさ」
 帰る恵の背中に、ふと訊いてみた。
「なんかずっと誰かに監視されてるっぽい気がするんだけど、あれってあんたらの誰かか?」
「……誰かに監視されてる?」
 戸に手をかけた恵が目だけで振り向く。
「ん。視線を感じるっていうか。あとやたら動物多いし」
「動物……」
「つうかいるのはいいんだけどよ。すっげー見られてる気がするんだ。普段もだけど、特に稽古してる時。カラスとか猫とか、あとリスとかふくろうまで」
「……」
 そんな馬鹿なことはない、気のせいだ、と笑い飛ばしてほしかったのかもしれない。だが恵は考えこむようにうつむいてしまった。
「剣さんに言ってみた?」
「言ったさ」
「なんて?」
「気にするなって」
「そう……。なら……そうね、多分、気にしないことね」
「ちょ、おい……!」
 帰る足取りが気のせいか沈んで見える。
 長い黒髪を揺らす後ろ姿を見つめて、弥彦はぼやいた。
「つうか、何だよ、そのヒキは。よけい気になるっつの」

 剣心は思う。
 あれはなかなか見所のある少年だ。
 今に頼もしく成長して立派な人物になるだろう。いい「さんたくろーす」にもなるだろう。
 だが同時に思う。そんな子が自分などに育てられてよいものか、と。やはり何といわれても断るべきだったろうか。
 だがあの時――。
 初めて斎藤に連れられて来た時。
 すまぬな。
 そういって障子を閉てたときのあの目。捨てられた犬のようだった。また一人傷つけたと思った。もう誰の傷つくのも見たくないと思い、少しでも誰かに何かできればと願って、だからこそ「子どもに夢を届ける」などという、人斬りの汚れた手にふさわしくない分不相応な仕事にも努めてきたものを。手にかけ奪ったあまたの命とともに、取り返しようなく傷つけたもっと数多くの人の心を剣心は己れの罪として背負っている。
(あの子も……。あれも俺を恨んでいるだろうな)
 傷つき去っていった青年を思う。
 当年取って十九歳。十九といえばもう「子」という年齢でもなかろうが、手足の細い子どもの頃から世話をしていたせいか、ついつい「子」の意識が抜けない。
(恨んで当然だ)
 自嘲に頬が歪む。
 たった九歳からひとり絶望を生き抜いてきたあの子を、自分は手酷く裏切った。いや、最初から裏切り続けていたのだ。騙していたのだから。
――なに? お前が抜刀斎? それは本当なのか、剣心。
 投げつけられた忌避の目は、抜けない刺となって今も剣心の心に刺さっている。
 青黒いあざはひと月も経たずに頬から消えたが、殴られた痛みは去っていく後ろ姿とともに今も鮮明だ。
 丸められた背中が大きく見えた。初めて会ったのは彼が十四の時。喧嘩っぱやくてやんちゃで陽気な、何とも言えない魅力のある少年だった。少年から青年になろうとしている最中だった。子どもだ子どもだと思っていたのに、いつのまにかもう立派に大人になっていた。いつのまにあんなに男になっていたのだろう。
 かける声もなく小さくなっていく後ろ姿をぼんやり見ながらそんなことを思っていた、あれはもう三月も前のことだった。



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さんたは子らに夢を届ける<2> 2011/03/04up
初出 『星降る夜も聖なる夜も 明治さんた屋浪漫譚』 2009/11/01


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