この日の剣心がいつもと少しだけちがっていたのは、そうして意識を取り戻した後で、またそっと左之助にもたれかかってきたことだった。
「剣心……?」
「やっぱりいいものだ。帰ってきてお前がいるというのは」
「……」
左之助は理性を総動員して剣心を押し戻した。
「帰ろう」
チチチ……。
控えめな鳴き声がした。そうだった。
左之助は剣心を手招きして、ベッドサイドの小机を示した。
机上には一枚のカードと小鳥の木彫り。それから銀紙に包まれたチョコレートが一粒。
「サンタさんにだってよ」
剣心が驚いた顔で左之助を見上げる。鳥かごを目で示すと、「ああ」という表情になった。
「すげえ楽しみに待ってたらしい。けど、まさかサンタクロースがサンタクロースを届けに来るとは思ってなかっただろうとさ」
左之助が小鳥の伝言を伝えると、剣心は破顔した。
少女からの可愛らしい贈り物を受け取り、かわりに剣心が首に巻いていたリボンを置いて、二人は部屋を後にした。
サンタの衣裳のまま、誰何されることもなく表玄関から堂々と敷地を出て、帰路につく。
途中で目立つ扮装を解き、下に着込んでいた黒装束に戻った。
「もったいねえな。似合ってたのに」
「主も似合っていたぞ。とくにひげがな」
「けっ」
顔の下半分をもっさりと覆っていた巨大な白いつけひげにはまいった。外すと心の底からせいせいした。
いたずらっぽく笑っていた剣心が、ふと日の翳るように真顔になった。
「左之」
「なんだ」
「どうして……どうして戻ってきた?」
「迷惑だったか」
険のある声。剣心は慌てた。
「ちがう。そうではない。……ああ、いかんな。まただ。どうも俺は口がうまくない。ええと、そうではなくて……」
人を諭すときにはやたら口の立つ剣心だが、自分のことを話すのはうまくない。
少し考えて、ゆっくりと言った。
「俺はお前を騙していた。裏切った。なのにどうして戻ってきてくれたのだ? ――と言いたかった」
暗闇で足元を確かめながら歩くような生真面目な言い方に今度は左之助が破顔した。
「危なっかしくて見てられなかっただけだ。おめえがやるってんなら、俺は助ける。そんだけだ」
だが剣心はまだ腑に落ちない顔をしている。左之助が言った。
「おめえこそいいのか。俺みてえな人間に相方させてよ」
「なぜ? お前ほど信頼に足る相棒は二人とおらぬよ」
今度は二人して腑に落ちなくなった。
「……」
「……」
首をかしげたのも口を開いたのも同時だった。
「なあ、剣心」
「訊くが左之」
お前が先に、いやそっちが……と譲り合って、じゃあせーので言おうということになった。
「過去のこと、なんで俺にだけ隠してた」
「主が出て行った本当の理由を聞かせてほしい」
短い沈黙の後、剣心が先に答えた。
「主には知られたくなかった。知られればきっと蔑まれると思った。それが……つらかった」
――誰もがお前のように強くはいられない。
「バカヤロウ。昔に何してたかなんてことで、だからどうとも思うもんかよ」
うん、と剣心はうなずく。左之助の気性でそんなことに今さらこだわるはずがないということは剣心にもわかっていたのだ。
「だがそれでも……。言わずに済むなら言いたくなかった。知られずに済むなら……そう、お前にだけは知られたくなかった……」
理屈ではなく。
落とした視線を上げて、今度は剣心が訊ねた。
「で、お前は?」
「……」
「出て行った本当の理由は?」
「……俺だけ除け者にされてたってわかって、信頼されてねえって思った。だからだ」
「……」
黙って問いつめる視線に根負けしたのは左之助だった。
「だーっ! わーったよ、ああ、そうだよ、そんなんじゃねえよ。お前に惚れちまったからだよ。わかってんだろうが、んなこた」
どうでも言わせてえのか、と左之助は掌に顔を埋めた。
が、剣心は呆気にとられた様子で首をかしげている。そして妙なものでも食べたように眉を寄せている。
まさかと思うが気づいていなかったというのか? まさか。だが。
「好きだ。惚れてる。全部俺のもんにしてえ。お前の一番になりてえ。お前の力になりてえ。そう思ってた。けどお前は俺を拒絶した。信頼もされてねえ上に厭われて、もういてられねえと思った。でも陰から様子を見てたら、さんた屋を再開したお前はあんまり危なっかしいじゃねえかよ。それが見てられなかったのはホントだ。おめえがやるってんなら俺は助けるまで。惚れた腫れたは別の話としてだ。そう思ってんのにも掛け値はねえ」
堰を切った感情がとめどなくあふれる。
「だがやっぱりわからねえ。戻ってきたらきたで、お前はあん時のことなんか全然気にしてねえ風だし、よ、夜も平気で寝てやがるし、俺が触ってもひっついても何も言わねえし。挙げ句に当たり前みたいに二人で夢を届けに来るし。それに……」
夢の感応の中でうっとりと左之助にすがる夢見心地の顔がちらつく。腕の中でしなう細い体が思い出される。
いいや、あれはちがう。あれは剣心の意思ではない。
「だめだ。わかんねえ。俺にはもう、なにがなんだか……」
「左之、左之。ちょっと待て。『あの時』とは? 俺がお前を拒絶した? それは過去を隠していたことを言ってか。だがそれは先にも言ったように……」
「…………」
左之助はまじまじと剣心を見つめた。
「俺が言ってんのはそっちじゃねえ。俺が出て行った前の夜の……」
「夜……?」
はて、というように首をかしげている。
まさかあれを忘れたというのか?
いつものように寝ぼけたふりでのしかかった左之助を剣心は激しくはねのけた。声のとげとげしさに目が醒めてしまったほど激しく。
――離せ! 俺に触れるな!
氷のように冷たい声に、左之助は嫌悪と忌避の意志を感じた。
なのに剣心は本気で覚えていないらしい。
うそだろう?
「あの日の前夜……?」
いや、しかしこれは、もしやまさか。
覚えていないのではなく、そもそもが――。
左之助はおそるおそる訊ねてみた。
「剣心。あの夜……俺が出て行く前の夜のことで、なんか覚えてることとか、あるか……?」
「さあ、何かと言ってそんな前のことなど……。三月前と言えばまだ暑い盛りでござったが」
そして、あ、という顔になった。
「そういえば、ひどく暑かった。今年の夏は蒸す夜が続いて寝苦しかったが、あの頃はとくに毎夜の寝不足でかなわぬものがあった」
まさか。だがこれはやはりひょっとして、本当に――。
「寝、寝苦しかった……?」
「うむ。そうだ。思い出した。たしか数日前からふしぶしがだるくて大儀だった」
「じゃあ、あの時、俺を拒否ったのは……」
「すまぬ。お主の言う『あの時』というのが当の俺には皆目見当がつかぬのだが……」
そうなのか? 本当に?
単に暑かっただけ……?
――まじでか!
あんまり呆気にとられたせいで、左之助は迂闊にも、勇気を振り絞った自分の告白がうやむやのまま宙に浮いてしまったことに、帰宅していざ寝ようという段になるまで気づかなかった。
六
「弥彦。土産でござるよ」
「土産? 俺に?」
手にのせられた木彫りとチョコレートを見て、弥彦の目が丸くなる。
「って、剣心? これ……?」
「リズからでござる。サンタさんにだそうだ」
「え、剣心、でも」
「拙者はこっちをもらっておくゆえ」
カードを指に挟んでいる。左之助が口を挟んだ。
「あと例の鳥がおめえによろしくってよ」
「鳥? ってあの小鳥?」
「紳士だったって、おめえのこと誉めてたぜ」
どうせなら鳥より人間に誉められたいが。
「あいつ羽が折れててな。飛べねえんだとよ」
「え……」
「リズもえれえ喜んでたらしいや」
「……」
だが偽りの姿で会ってしまった。二度とは会えない。
「いいんじゃねえか? 鳥が言ってたが、あの嬢ちゃん、もう長えこと笑ったことがなかったらしい。それがちょっと気が晴れて笑えたってえならよ」
「……」
「さんた屋冥利だろうがよ。ん?」
そうだ。子どもに夢を届けるのが自分たちさんた屋の役割だ。
ならば、たとえわずかでも、その時かぎりでも、それが彼女を笑顔にしたなら、それで充分なのかもしれない。
「さ、もう寝よう」
と、いつものように川の字になったまではよかったが――。
「……つーかテメエらもうちょい離れろよっ」
ほどなく弥彦が左右に腕をつっぱってそう抗議した。
「ぐいぐいぐいぐい押してきやがって。押しくらまんじゅうかっての」
おかげで間に挟まる身は息苦しくてかなわない。なのに、左右の元凶から異口同音に言われたことには――。
「その方があったけえじゃねえか」
「その方がぬくうござろう?」
「じゃあ二人でくっつけよ! 俺はいいからさ、二人で好きなだけくっつきゃいいだろ!」
弥彦にとってはきわめて自然な提案だった。だが左右のご両人にはそうではなかったらしい。二人してハッとしたように顔を見合わせ、そしてそれから妙なあんばいに目を逸らした。
「さ、三人の方がぬくいでござるよ」
「お、おう……」
と言いつつ、なぜか二人とも力を抜いて少し身を引くではないか。
「? 剣心? なんか顔赤くねえか? 熱でもあんのか?」
「なっななな何でもござらんっ」
「へ」
驚いたのは弥彦だ。
剣心がこんな風にうろたえるなど、初めて見た。
「剣心?……わっ!」
思わずむくりと起きあがったが、左之助に肩を押さえ込まれて床に戻る。
「い――からもう寝ろ! ほら」
(あれ? こいつら、なんか感じが……?)
なぜかわからず、ふとそう思った。
二人の感じが、何か変わった気がする。それも多分、悪い変化ではない。何かあったのだろうか?
(ま、俺にゃ関係ねえけどな)
目を閉じると、リズとあの小鳥の姿が浮かんだ。剣心と左之助の息づかいが聞こえる。
あっという間に眠りに落ちた三人のさんたが、その夜どんな夢を見たのか、あるいは見なかったのか。それは誰にもわからない。
おしまい
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聖夜にさんたが見る夢は<5> 2011/03/11up
初出 『星降る夜も聖なる夜も 明治さんた屋浪漫譚』 2009/11/01