−蓼食う虫は蓼を食う 7−1 2 3 4 5 6 7 (全)

<7>


 間口は三間。店は奥に深いが、全面ガラス張りで見通しは良い。
 繁華街とビジネス街の中間にあるどっちつかずの区画が最も閑散とする日曜の夜。人通りは少ない。だが、店の中では数人の客が賑やかに談笑している。ときどき誰かが人待ち顔で外をうかがうのは、週末を海で過ごした彼らの仲間がもうすぐ帰着するのを知っているからだ。
 午後八時すぎ。数台の車が店の前に停まった。
 「わ」ナンバーの白いライトバンが三台。シルバーのRVが一台。紺のワゴンが一台。夏休み最後の週末とあって、ツアーは盛況だった。車から次々と人が降り、店から出てきた面々と交じり合って、賑やかな声が交わされる。
「はい、じゃあとりあえず手荷物持って中入るー。そんで器材置いてく人はタグ書いてくださーい」
 わやわやとはしゃぐ面々を促して店に一歩踏み込んだところで、左之助はぴたりと停止した。ぱっくりと口を開いてマネキンのようにかたまった背中に、後続の女性がぶつかった。長い黒髪を編んだおさげの尻尾が大きく揺れる。
「ちょっと左之っち、入口で止まらないの」
 そして担いだ器材ごと体重をかけて左之助を押し込み、自分もそのまま中に入ろうとして、彼女もまた数秒前の左之助と全く同じ挙動をとる。
 違ったのはその後だ。
 肩にかけていた器材を床に置くと、まっしぐらに店の奥に突進して、右手にコーヒーサーバー、左手にコーヒーフレッシュとシュガースティックを入れたバスケットを持って、ツアー帰りの客の間を回っていたエプロン姿の人物に駆け寄った。いや、飛びかかった。
「うそー! 剣くんじゃないのー!!」
「わっ、危ないってば時ちゃん。コーヒーコーヒー! こぼれる!」
 右手のコーヒーは死守したものの、左手のバスケットからはポーションがいくつか落ちた。
「なあに、どうしたの、どうして?! いやん、信じられない! でもどうして先に言ってくれないのよ、ひどいわ水くさいわ意地悪だわ。知ってればもっと早く帰って来たのに。それにどうしたの可哀想に。どうしていきなりこんなことしてるの? ああでもすっごく似合ってるわ、このエプロン。なんて可愛いの。いやんもういやんもう!」
「ひ、久しぶり、時ちゃん。元気そうだね。いや、人手が足りないから手伝えって、えーっと、ここの社長サンに言われて手伝ってるんだけど。っていうか時ちゃん、あのさ。なんかみんなびっくりしてるんだけど」
 びっくりしているなどというものではない。
 店中が水を打ったように静まり返り、客といわずアウトスタッフといわず、とにかくその場にいる人間の目は全て二人に集中しているし、左之助ときたらろくに目も合わせてこない。
 ゴックン、と唾をのむ音が響いた。
―――“いやんもう”?
―――“時ちゃん”?
 ありえない。
 小娘のように頬を染めて黄色い声を上げる高木時尾など、ありえない。そしてその、口調はのどかで決断力こそ男前だが、斬新な人間の巣窟である「海屋」唯一の常識人であり、かつ社長の酔狂さえ慈愛の目で見守り、そしていざというときには斎藤一をも凌ぐ舌鋒で相手を論破する女傑を“時ちゃん”と呼ぶ人間など、ありえない。
 それにあのエプロン。チャーミングな白い仔猫のキャラクターが描かれたショッキングピンクのエプロンは、彼女の夫の専用品である。というか、接客業に向かない夫の人相をフォローするために彼女が用意した愛嬌演出アイテムである。余人にはわからないが、どうしてもこの色柄でなければならないらしく、鮮やかなピンクが色褪せないよう特殊な洗剤で別洗いしているという噂がまことしやかに囁かれていた。「ハジメちゃんしか使っちゃダメ」と、他の人間には決して使わせないそのマリーちゃんエプロンを、しかも本人がいない間に無断で使うとは。そして時尾がそれを怒らないどころか喜ぶとは。
 正当な持ち主が代理で神戸の本店に行っているのをせめてもの救いと言わずしてなんと言おう。
 だが、それだけでも十分凍り付いていたそこへ、パーティションの奥からますます場を凍らせる人物が登場して、彼らはますますありえない光景を見た。
「コーヒーも満足に配れんのか。相も変わらず役に立たん奴だ」
「文句があるなら自分ですればどうです。社長だなんて椅子にふんぞり返ってないで」
 ゲコッと変な音がした。
 こんなところに蛙がいるわけはなく、もちろん誰かが呻いた声だ。
 常識的に考えれば、仮にも客を震え上がらせるサービス業の社長というのがそもそもからしておかしいのだが、何せ堅気とは言い難いダイビング業界の、しかもここは「海屋」である。常識などとうに裸足で逃げ出して影もない。
 斎藤一専用エプロンを平気で使い、高木時尾を時ちゃんと呼び、そして比古清十郎に平然と口ごたえをして、あろうことかウエイターの真似事をしろと言う。
―――この赤毛の兄ちゃんは一体全体何者なんだ?!
 沈黙の絶叫を文字にすれば、そうもなっただろうか。
 だが一番の大物はやはり「海屋」のお袋さんこと高木時尾だったらしい。
「ねえ、剣くん? せっかくだから、これもどうー?」
 最初の興奮もおさまったのか、平生通りののんびりした口調で、どこから取り出したのか何やら白い輪っかを手にしている。
「それはなに?」
 訊ねようとしたときには、すでに時尾の手が剣心の頭にそのカチューシャをはめていた。
「うわあ、かぁわいいい――!」
 色で言えばまちがいなくピンク。きっと語尾にはハートマークがつく。そんな声を上げながらパチパチと手を叩く時尾は少女のようにあどけなく、剣心は怒るに怒れず外すに外せない。左之助に助け舟を期待しようにも、背中を向けて何やら忙しそうにしていて役にも立たず、結局おとなしくマリー耳をつけたままコーヒーを注いで回ることになった。
「お疲れさまです。コーヒーどうぞー」
「どどどどうもっ。ちょ、頂戴させていただきますっ!」
「ミルクと砂糖は?」
「けけけ結構ですっ」
 白い猫耳とピンクのリボンを頭頂に揺らしながら恐縮しきったツアー帰りのゲストたちにコーヒーを配り終わり、剣心はカウンターの内側のスツールに腰を下した。
「ふう……」
 店の中央にあるテーブルでは、比古がお迎え組の客をつかまえてポーカーに興じている。時尾はツアー帰りの客の対応。そして左之助はこまごまとした用事に忙しい。持ち帰った備品の片付け、預かり器材の整理、アウトスタッフとの打ち合わせ、レンタカーの確認、ツアーボードのチェック、掛け買い商品の支払いをする客の清算、外の掃除、さらに店の閉店準備。雑用はいくらでもある。大勢の客達が思い思いに陣取り、談笑したり商品を品定めしたり壁のツアーカレンダーや掲示板を見たりして、店内は騒々しくも楽しい空気に満ちているが、その隙間をくるくると動き回る左之助は思いがけず気配が薄かった。
「………」
「全然変わらないわねえ、剣くん」
 頬杖をついてぼんやり眺めていると、いつのまにか横に時尾がいた。
「そんなことないよ。っていうか時ちゃんこそ。とても二児の母には見えない」
 うふふ、と首を傾げた時尾の顔から、だが笑みはすぐに引いた。
「ねえ剣くん。こないだのこと、怒ってる?」
「うん。すっごく」
 本気とも冗談ともつかない爽やかな笑顔で剣心が言った。
「ごめんねー。でも社長も剣くんも頑固だし、左之っちはなんだかあんまり可哀想っていうかいじらしいし」
「………」
 剣心が妙な顔で時尾を見た。その左之助とは最初にちょっと目線を交わしただけで、まだ話もしていないのだが。
「なあに?」
「……うううん、別に」
 世の中にはやぶへびという言葉がある。
 あえて危険地帯に踏み込む必要はない。
「ねえ、剣くん?」
「なに?」
 あのね、と口ごもった時尾の顔に、複雑な感情が交錯した。だが、にっこり笑って首を傾げた時尾が口にしたのは、
「また一緒に潜りたいなーって思って」
 という、当たり障りのない科白だった。
「うん、そうだね。……あ、それで思い出した。ねえねえ時ちゃん、今おすすめのウエットってどんなやつ?」
「ウエット?」
「うん。昔のがもうさすがに駄目だから、新調しようと思ってね。実は今日それで来たんだ」
「あらまあ、そうだったの。じゃあちょっと待ってね。カタログ持ってくるから」
 時尾が奥へ入るのと入れかわりに、ようやく粗方の雑用も済ませた左之助が寄ってきた。そわそわと落ち着かない様子が授業参観の日の子どものようだ。
「んだよ。来るなら来るって言えよ。ビックリするじゃん」
「だってビックリさせようと思ったんだから、言ったら意味ないし」
「うっわ、ヤなヤツ」
 そこへ時尾が戻ってきて、バサリとカタログを置いた。
「お、なになに、やっとウエット作んの?」
「ボ―――ナス! だよな?」
 剣心の目が楽しそうに踊った。
「……え、あ、いやおい、それは」
「言ったよな。フルオーダーで作ってやるって。だから店に採寸に来いって」
「う……」
「来たぞ」
「う」
「男に二言はないよな?」
「ぐ」
「まあ、左之っちのプレゼントなの?」
「っていうか、夏のボーナスなんだ。現物支給ってやつ?」
「まあー、すてきー」
 手を打ち合わせる時尾の様子が過剰に楽しそうにも感じたが、とりあえずあまり気にしないことにして、剣心は言った。
「だから値段とか気にしないでいいから」
「いや、するする。めっちゃするし」
「わあ、太っ腹ー。じゃあねじゃあね、これとかは? 内側が新素材ですごくぬくいのね。それかこっち。これはとっても伸びがよくて……」
「ふんふん……」
「だーもう! 何でもいいから安いの。一番安いの。それで決定!」
「あー、左之っち、それダメ。いつも言ってるでしょう? 値段じゃなくって、その人にどれがいいのかちゃんと考えて薦めなきゃだめだって。多少高くっても、体力ない人とか海外が多い人とかは軽さ最優先かもしれないし、寒がりならウエットは保温性を重視してあげなきゃいけないし。器材のストレスってバカにならないんだから、まずはちゃんと説明するの。選ぶのはお客さん。いーい? わかる?」
「はいはい」
「返事は一回」
「へーい」
「のばさなーい」
「ハイ……」
 まるで母と子のようなそんなやりとりを聞きながら、剣心はいつぞやの会話を思い返していた。
――それでそのクソ野郎がな、客に器材を売れ売れってうるさいんだ。
 忘れもしない。一月の寒い夜に、河原にいた左之助を偶然見かけた。初めてまともに彼と話した、あれからいろんなことが始まった。
 でもダイビングってそんなものじゃない。
 そう言って、日頃の彼に似つかわしくない昏い目をした。
 あんな顔を見ていなければ、海に誘われても断っていたかもしれない。
 直接原因のクソ野郎とは斎藤のことだが、あのとき左之助は「店の方針」と言った。
 ということはつまり、何のことはない、要するに左之助がもののわかっていないヒヨッコだっただけにすぎない。
「………」
 この場に右喜がいれば、またテレホンカードがどうこうと言い出したことだろう。
 そんな剣心の渋面を見て、時尾が思い出したように「あらいやだ」と呟いた。何を思ったか小銭を取り出して左之助に握らせ、表を指す。
「そこの自販機でミルクティー買ってきて。冷たいのね」
「……へ?」
「“へ”じゃないでしょ。お客さんにはお茶。それもいつも言ってるでしょう?」
「時ちゃん時ちゃん」
 剣心が苦笑して顔の前で手を振った。反対の手が、首を傾げながらも素直に言いつけに従おうとしていた左之助の腕をつかんでいる。
「左之、いいから」
「へ?」
「時ちゃん、俺、もうコーヒー飲むから。っていうか、実はかなり好きな方」
「えー、そうなの? だって匂いもダメだったのに。なあに、じゃあさっきのも別に社長の意地悪ってわけじゃなかったのね」
「もうー。だってそれ、いくつのときの話だよー」
 照れくさそうにさらに苦笑する剣心を、時尾がすいっとのぞき込んだ。
「まあ……。ちっとも変わらないのに、こんなに可愛い仔猫ちゃんなのに、すっかり大人になっちゃったのね、剣くん。なんだかちょっとさみしいわ」
「っていうかタカさん、アンタそれ、いい加減セクハラ!」
 苛々しげに二人の周りでウロウロしていた左之助が、前傾姿勢で顔を寄せる時尾と迫られてのけぞり切っている剣心の間に割り込んだ。
「なあに、どうして左之っちが怒るの。いいじゃない、十年振りなのよ、邪魔しないでほしいわ。大体左之っちなんて毎日剣くんの手料理食べてるんでしょ。なによ、そんなのずるいわ不公平だわ」
「だーかーら! それ仕事だから!」
「うそよ。ずるいわ左之っち、独り占めなんて」
「……だからどうしてそうなるんだよ」
 それにしてもどうして左之助はわざわざ薮をつついて回るのか。
 話題を変えたいところだがうっかり口を出してはそれこそ何を言われるか分かったものではない。剣心は「いいから早く話を変えろ!」と念をこめて左之助を睨みながら、貝に徹していた。
 そのとき、中央のテーブルが大きくどよめいた。
「すっげー! マジで?!」
「あんた、ほんまに初めてなん?」
「恐るべし、ビギナーズラック!」
 何か異変があったらしい。
「なあに、どうしたの?」
 時尾が立ち上がって訊ねると、テーブルを囲んでいた客とアウトスタッフ達が口々にまくしたて始めた。皆やけにテンションが高くて要領を得ないが、要するに、比古が負けたらしい。
 ことポーカーにかけてはほぼ不敗を誇る比古がこれまでに負けを喫したことは極めて少ない。
「ちょっと、また変なもの賭けてたんじゃないでしょうね、社長! いいかげんに」
「タカさん!」
 呆れた顔で言いかけた時尾を、左之助が鋭く遮った。
 剣心は、その厳しい口調のたしなめるような響きに面食らって、左之助と時尾を見比べた。
「え、あ……。そっかそっか、賭け金は五円以下って決まりだもんね、大丈夫よね。やだなもう私ったら」
 時尾はそう言って笑ったが、笑った顔が心なしか少しうろたえているし、左之助は見慣れない顔つきでそっぽを向いている。
「あ、そうそう、剣くん。悪いんだけど、表のお掃除頼んでいーい?」
「え?」
 やっぱり少しうろたえた顔のまま、今度は突然そんなことを言われて、剣心はきょとんとした。話の脈絡が見えない。見えないが、剣心こそその場を離れたくてたまらなかったので、時尾に背中を押されながらおとなしく箒とちりとりを手に外へ向かう。
 店の中央では、初ポーカーで役もろくに知らずにストレートフラッシュを出したオープンウォーター講習生が、比古に訊ねていた。
「そしたら私で三人目ってことですか」
「いや、二人目だな。前の二回は同じジジイだ」
「へえ。強い人なんですねえ」
「いいや、全然?」
「え? だって」
「腐れ縁でな。回数なら一万回を下らんだろうが、それ以外はすべて俺の勝ちだ」
「社長、それ、もしかして車の人ちゃいますのん?」
 事情に詳しいアウトスタッフが口を挟んだ。コルベット‐ミニ交換事件は店でも語り草になっている。
「おう、そのジジイだ。何せ根が小心者だけに、デカいものを賭けるとビビっていかんな」
「よく言いますよ」
 どっと笑いが湧いた。
「じゃあ最初のときは? なに賭けてたんです?」
「ああ、昔サイパンでやってた店をな」
 ………え?
 むちうちになるかと思うほどの物凄い馬鹿力で押し出されながら、剣心は声の主を振り返った。
「……で、勝った方がサイパンと神戸の好きな方を取るってことにしてだな」
 重いガラス戸がそこで閉まりきって、比古の声も途切れた。
 テーブルを囲んだ大勢が、あるいは笑い、あるいは呆れているのが、ガラス越しに見て取れた。無声映画のようだった。
 剣心はゆっくりと時尾を見た。時尾が口を開く。こちらは音声つきだった。
「剣くん、ご隠居、覚えてる?」
「ご隠居……?」
「柏崎さん。『葵屋』の」
「あ、うん、もちろん」
 比古の古い知人であり、「シーウィード」に通っていた当時は、神戸にらしくない店名のダイビングショップを営んでいた。かなりの高齢だが、洒脱で飄々とした気のいい老人で、剣心も可愛がってもらった記憶がある。モモすさみの名義上のオーナーでもあるはずだ。
「……ご隠居、ポーカー超弱くて、いつも負けて暴れてたっけ。そうか。賭けの相手って、ご隠居か」
 見るともなく道路に目をやりながら、ひっそりとした声で剣心が言った。
 比古は「シーウィード」を、柏崎翁は「葵屋」をお互い賭け、勝った方が好きな方を取る、というべらぼうな賭けだった。勝った柏崎翁はサイパンを選んだが、直後に例の事故が起こった。二人が互いの店を交換したのは、その事後処理が済んだ後だった。
「だから『海屋』なの。『葵屋』から一字もらって。『シーウィード』も、名前は『ハリハリ』に変わったけど、あの店は今も変わらずあそこにあるのよ」
「『ハリハリ』……」
あのせい・・・・じゃないの。剣くんのせいじゃないの。でもまさか剣くんがそんな風に思ってるなんて思わなかった。そんなまさか、十年も、ずっと……」
 時尾はそう言って声を詰まらせた。
「左之っちに聞いて、言ってあげなきゃって思って、でも何からどう話せばいいか判らなくて、それで……」
「『ハリハリ』……」
―――あのさ。「ハリハリ」って店、お前、知ってる?
 タイ料理店で、そう訊いてきたときの、うかがうような顔を思い出す。
 そういえば剣心が車の話を切り出したときに一瞬沈黙した、あれは硬直していたのではなかったか。
「そっか、左之も知ってたんだ……」
「剣くん、ちがうの。左之っちのこと、怒らないで」
 怒る? ちがう、腹を立てているわけではない。
「あのね、こないだクルーズにあの子剣くんのエックスラバー持ってきたでしょう? その時初めてその話が出たんだけど、もう左之っち完全にキレちゃってね」
 辞める辞めないの騒ぎにまでなったという。
「社長もあんな人だからヘソ曲げちゃって。関原さんがなだめてくれてやっとなんとか収まったんだけど」
「ああ、それで上官反逆罪」
 剣心がくすりと笑った。
「え? ああ、ロードワーク? ええ、そう。でも二度はないって、社長もすっごく怒って。っていうか、左之っちもちょっと言い方きつすぎたっていうか」
「……それはたしかに、居合わせたくはないかな」
 そう言って、また小さく笑う。
 そんな剣心のやけにのどかな反応が、時尾の目にはかえって痛々しい。そっと肩に触れ、首を傾げてのぞきこんだ。
「剣くん、大丈夫? やっぱりショック? ……よねえ、そりゃあ」
「んー。どうかな。っていうか、よくわかんないかも」
 無理もない。十年経てばオギャアと生まれた赤ん坊も小学五年生に育つのだ。今さらそんな新事実を告げられても、どう実感していいかが判らない。時尾の言葉を反芻して理解しようと努めてはいるのだが、聞いたばかりの話は頭にも身体にも落ちてこないし、そもそも今さらそんなことは、それこそ本当にどうでもいい。
 むしろ左之助のことが気になった。
 同時に、喉に刺さった小骨のようにひっかかっていたいろんなことが、今度こそやっと腑に落ちる。
 何かを言いかけてやっぱりやめる。そんなことが何度もあった。
 本当はこれだったのだ。
 沖縄から帰ってきた夜、左之助が自分に隠したもの。
 とにかく比古と会って話せと説いたのも、剣心が病院に押しかけた時にあんなにおろおろと落ち着かなかったのも、まるで余裕を失くして強引に診察を受けさせたのも、それから、さっき厳しい声音で時尾を制したのも。
 病院に連れて行かれた日の、狂おしいような腕の強さが身体に戻ってきた。
 囁く声が泣き出しそうに聞こえたのは、きっと気のせいではなかっただろう。
 その尖閣諸島クルーズからもうひと月半が経っている。
 本当に、自分は一体左之助の何を見ていたのだろう。
 子どもだ子どもだと馬鹿にしながら、十も年上の自分の方こそ、どれほど彼に暗かったことか。
 きゅっと唇を噛んで、その左之助の姿を店内に探す。
 だが、少し離れたところで話し込んでいるうちに、客たちはもう帰った後らしく、店内に人影はほとんどない。ちょうど片づけを済ませたアウトスタッフ連中が帰るところだった。それに挨拶の声をかけて見送り、剣心が訊く。
「時ちゃん、お店いいの?」
「あ、うん、そうなのよね。先閉めちゃおっかな」
 左之助の姿がやっぱり見えないのを気にしつつ、剣心も店じまいを手伝った。のぼりと観葉植物を取り込み、キャスターつきの大きな置き看板を二人がかりでガタゴトと店に運び込む。
 表の照明を落として中に入ってきた時、店の奥で怒声がした。
「ざけんな!」
 同時にガシャーンという不穏な音。
 剣心と時尾は顔を見合わせ、急いでパーティションを回り込んだ。
 声の主は言うまでもなく左之助だった。社長席の机に両手をついて身を乗り出し、噛みつきそうな目つきの左之助とは対照的に、比古は椅子にもたれて悠然と構えている。破壊音は左之助が机上をなぎ払ったためのものらしい。
「だからんなこと言ってんじゃねえ! テメエにはデリカシーってもんがねえのかっつってんだよクソ馬鹿野郎が!!」
 平手で叩かれた机がバリバリと鳴る。
 だが、左之助の怒りに応じず無言で見返すだけの比古の顔には、何の感情も表れていない。
 胸倉を掴もうとする手を、身をひねって軽くかわして言った。
「毎度毎度五月蝿いぞ貴様。くだらんことでピーチクパーチク騒ぐな」
「くだらない? ……そうか、アンタにはくだらないか」
 左之助の怒気が急激に冷めていく。いや、凍りついていく。
「わかった、もういい」
 それまでの激昂が嘘のような醒めきった声に、彼の背後で時尾は驚いていた。
 怒っていようが暴れていようが、彼女の知る左之助はもっと明快だった。陽性だった。それはあの沖縄の時でさえ。そこまで深く理解しているつもりは無論ないが、それでもその酷薄さは意外すぎて、得体の知れない危機感を覚えた。
 駄目だ、止めなければ。
「左、左之っち、あのね」
 萎縮する自分を叱咤してなんとか声を絞り出した時尾の横で、剣心が動いた。
 大股で机を縫い、左之助の首を勢いよく腕に抱きこんで、そのまま引きずり倒す。
「ぶべっ……!」
 転がりかけた腕を引っ掴んでズルズルと表に連れ出していくのを、時尾は呆然と見送った。
 その行動の唐突さよりも、無言で左之助を引きずっていく剣心の顔の険しさに驚いていた。
「け……」
 これまた追うに追えずに佇んでいると、後ろから「やれやれ」という呟きが聞こえた。
 振り返ると、比古が椅子をきしませながら立ち上がるところだった。
「しゃ、社長」
 時尾はすっかり混乱してしまい、気持ちの持っていきようがわからなくなっている。
 最初はただひたすら剣心が可哀想だと思った。そして比古に腹を立てた。比古が大雑把なのは昔からだが、それにしてもあんな言い方はあんまりだ、と思った。
 だが、怒りは先を越されると殺がれる。
 しかも左之助は怖いし剣心は必死だし、二人ともまるで知らない人のようで、どう対処していいかわからない。
 困惑のなか、いつも通り超然として思惑不明の比古になぜか安堵を覚え、当初の怒りも忘れて、思わず指示を仰ぐ声になった。
「あの……」
「帰る」
「え」
「お前も帰れ」
「でも左之っちと剣くんが……」
「放っておけ。あっちはあっちで勝手にするさ」
 そしてこまごまとした用事を言い置いて、比古は通用口からさっさと帰ってしまった。
 だが時尾はハイそうですかと帰るわけには到底いかず、サーバーに残っていたコーヒーをカップに注いでカウンターに掛けた。
 煮詰まって冷めた最低なコーヒーでも、こんなときには役に立つ。
 すえた液体をちびりと口に含んで、店の外に目を向けた。
 間口三間のガラス張りで見通しは良い。
 店の前では剣心と左之助が向かい合って、あれはやはり言い争っているのだろう。二人とも恐い顔をして、両手を振り回したり握り締めたりしている。
 二つの横顔を見ながら、不味いコーヒーを飲み干した。



「あの人相手に考えなしな事を言うな。しかも二度もじゃ、ほんとに冗談で済まないぞ!」
 有無を言わさず外まで引きずり出してから、剣心はようやく左之助の首を開放した。
 ゲボゲボとこれ見よがしにむせる肩を引き起こして睨みつける。
「聞け、左之。あの人が『シーウィード』をやめた原因が事故だろうが賭けポーカーだろうが、そんなことは関係ないんだ。要は人が七人も死んだって事実に変わりはない」
 納得しない喧嘩腰の目が睨み返してくる。
 正露丸の香りの紅茶を挟んで言い合ったときの、なじるような詫びるような、だが何かにあるいは誰かにすがらずにはいられないような、痛々しい顔が重なった。
 大きく頭を振って、それを打ち消す。
「それに、悪いがこれは俺の問題だ。師匠も関係ないが、お前にも関係ない。余計な口出しするな」
「そういう言い方するなら、俺のこれも、俺の問題だ。口出しされる筋合いねえし」
「左之!」
「お前がよくても俺が許せねんだよ、こんなのは」
「……どうしても辞める気か」
「ああ」
「俺が頼んでもか」
「悪い。ここは譲れねえ」
「そうか。じゃあ仕方ないな」
 剣心はあっさりと言った。
「残念だけど約束だし、じゃあ俺もお前んちの仕事、辞めるしかないな」
「………あ?」
「お前が言ったんだぞ。俺が辞めるときはお前も辞める。続けるなら続ける。じゃあお前が辞めるんなら俺も辞めないといかんだろ」
「ちょっと待て。なんだなんだそれは」
 留め立てされるのはともかく、そんな訳のわからない展開になるとは思いもしなかった。
「ていうか、誰がそんな話をしてるんだ。そんなん関係ねえっていうか、大体そりゃもう終わった話だっての!」
「なんで。いつ誰が終わったって決めた」
「っていうかだから」
「何月何日何時何分何秒!」
「……子どもかお前は!!」
 場違いな白い猫耳を揺らしながら年甲斐のかけらもなく突っかかってくる。目眩がするほど腹を立てていたはずなのに、思わず笑いを誘われてしまい、いっそこのまま喰ってやったらコイツどうするだろうなどと不埒な考えが左之助の頭をよぎった。
 が、無謀にも実行に移しかける直前、危険な気配を感じてふと横を見て、ギョッとした。
 はめ殺しのガラス窓の向こうに、時尾がべったりと張りついて二人を注視していた。
 目が合うと、真剣だった顔が満面の笑みに変わった。
 ドアを回って表に出てきた時尾が、にこにこ笑いながら首を傾げる。
「おはなし、終わったー?」
 咄嗟にコクンと頷いた二人に、またにっこり笑っておさげを揺らす。
「あのねえ、社長から伝言。左之っちは明日からひと月毎晩二十キロのロードワークね。そんで剣くん、左之っちにお料理教えてあげてって」
「なんで俺が?!」
「なんで俺が?!」
「まあー、やっぱり仲良しなのねえ」
 いや、それはいいから。
 言いかけた言葉を今度はぐっと呑みこんだが、やっぱり二人仲良く揃った反応でまたぞろ時尾を喜ばせた。
「んとねー、左之っちは上官反逆罪の松で、剣くんは監督不行き届きの梅」
「んなもん知るか! タカさん、俺は!」
「黙らっしゃいっ!!」
「……時ちゃーん」
「剣くんも。そんな声出したって駄目。だって子どもの躾は保護者の責任でしょ。それに左之っちのごはん、ひどいのよー。左之っちが食事当番の時のお客さんホントに可哀想」
「だから俺、関係ないし。っていうか、それこそ店の責任だろ? ちゃんと躾けてくれないと」
「あー、剣くん、それピー。よくないわ、そんな大事なこと他人任せにしちゃ。うちだって三人ともスパルタでビシビシなんだから。大体ねえ、そんな甘えたこと言ってるから、家出して親に心配かけたりフラフラいなくなっちゃったり病院やお店で大暴れして他人様に迷惑かけたり人の話も聞かずに余計な騒動起こしたりするような困ったちゃんに育つんだわ」
「………」
「………」
「いーい? わかった?」
 なるほど、この店がこんなメンツで立ち行くわけだ。
 深いため息で降参の意思表示をした剣心は、やれやれと頭を掻こうとして、自分がまだおしゃれキャットのマリーちゃんのままだったことに気づいた。
 苦笑しながら外したカチューシャを時尾に差し出すと、
「あげる」
 弥勒菩薩像のような笑顔が返ってきた。
「可愛いから。でもエプロンは返してね? それはやっぱりハジメちゃんの方が似合うわ」
「……これ、もしかして斎藤の?」
「そうよ?」
「くっそー、あのオヤジめ」
「? なあに?」
 なんでもない、と手と頭を振ってもう一度ため息をついてから、左之助を見上げた。
「お前もいいな? わかったな?」
 と、明らかに不承不承の大きな子どもを無理矢理うなずかせた。
 それを見て、時尾が満足そうに幾度かうなずく。
「今日はとりあえず帰りましょ。すっかり遅くなっちゃったし。剣くん、続きはまた今度ゆっくりね。ウエットもね」
 照明を消し、戸締りをして、店の隣のコインパーキングに向かう。
 時尾はシルバーのパジェロ、左之助と剣心は紺のファミリア・ワゴン。
 例によって助手席のドアに手をかけた剣心に、時尾が声をかけた。
 二人の身長はほぼ変わらない。振り向くと、同じ高さで目が合った。
 時尾は少しの間じっと剣心を見つめていたが、つと手を伸ばして赤い頭を二、三度なでた。
「……時ちゃん?」
「今度はちゃんと先に電話してから来てね」
 にっこり笑って自分の車に乗り込み、エンジンをかけてから窓越しに「あ、そうそう」と言って寄こした。
「剣くん、あのねえ。チュウじゃ虫歯はうつらないから。それ、虫歯菌のない子どものハナシだから、大人は大丈夫よー」
 叫び声を吹き流しながら家路につくパジェロを呆然と見送って、剣心はゆっくりと横を向く。
「だから言っただろ、うつらねえって」
 真顔の左之助に、唇を啄ばまれた。
「………っ! お前はっ!! 絶対内緒だって約束したのに!!」
 抱えようとした腕がすんでに抜けて、左之助は車の向こうに回り込む。
「あ、それはちがう。言ってない言ってない、俺は何にも言ってない」
「じゃあ何だよ何なんだよ、さっきからの時ちゃんのあの言動はっ!!!」
 顔を真っ赤にして喘ぐ剣心を、左之助が妙な生き物でも見るような目つきで見つめた。
「……お前、もしかして自覚ナシ?」
「ハ?!」
「いや、っていうか、そりゃ誰だって判るだろっていうか何て言うか……」
「だから何が!」
「あのさあ、お前、ず――――っと俺のこと見てなかったか?」
「? いいや? っていうか、まあチラチラとは見てたかもだけど」
「………」
「なんだよ。言えよ。『言いたいことがあるならはっきり口に出して言え!』ってお前がいつも言ってることだろ!」
 餌を求める鯉のように口を開けた左之助に、剣心が相手の口調を真似て迫った。
「あーもう、だから! すっ……げー!ラブラブビーム炸裂だったんですけどっ!」
「………へ? だれが?」
「お前が! ていうか他の誰の話が出てくんだよ、今、この状況で」
 え?と突然子どもになってオロオロする様子に、左之助がこれ見よがしのため息をついた。
「勘弁してくれよ、もう。つか、お前オニダルマオコゼのこと笑えねーって。おかげでうっかりお前の方、見もできなかったんだからな」
 ああなんだ、だから全然目が合わなかったんだ、と、なんだか妙に得心して、剣心は左之助を見上げた。
「だからその目! ていうか」
 ところかまわず誘うなっての、と、急にトーンの変わった声を耳に流し込まれて、気がつくと車と左之助の間に挟まっていた。
「ちょ、馬鹿、やめろって。何してんだよ、こんなとこで」
「あんだけ誘いまくっといてナニ言ってんだか。って、それはいつもか」
「誰が………んっ」
 久々にこれ以上ないくらい本気で抵抗しようとしているはずなのだが、息は苦しいし完全サンドイッチ状態で身体の自由は利かないし、おまけに誰かの手が胸をまさぐったり膝が脚を割ってきたりするので頭がわんわんして力が入らない。
 くそう、見直して損した。
「やめろ……てばっ。阿呆か、こんなとこで………っ!」
「こないだ食った枸杞の実がこんなでしたー。くりくりくりー」
 日頃は語彙貧困なくせに、突然そんなファンタスティックな比喩を披露しながら、その枸杞の実とやらを器用にこねている。開発熱心な若者にいやほど特訓を施されたそこは、今ではもう剣心よりも左之助に素直で、主人の意に反してぷっつりと尖って、戯れる指に勝手に応えている。剣心の方は膝が崩れないように踏ん張るのが限界で、こぼれる声をどうにかするところまで手も気も回らず、それはこの際断念した。
 ついにぐるんと眩暈がして、もしかしてピーンチ!と思った途端、目の前が真っ白になった。
 同時に背後で長いクラクションが鳴る。
 ハッと目を開いて、真っ白なのは頭の中ではなくて自分の周囲だと気づいた。
 強烈な光から目をかばいながら、耳障りな警告音の発生源を振り向く。
 全身の血が音を立てて引いた。一気に正気が戻る。
 本当にザアーッと音が聞こえることに少しだけ感心しながら、思い切り両手を突いて、今日は手加減なしの回し蹴りで非常識助平小僧を蹴り倒した。
 この場合、着衣が乱れていなかったことはせめてもの救いと言えるのだろうか、どうだろうか。
 騒音車が車体をきしませて勢いよく発進する。
 走り去る赤いミニクーパーの運転席を見る勇気はなかったが、地面にへばりついている物体を助手席に乗せてやるだけの慈悲は残っていた。
 喉まできていた心臓を力いっぱい飲み下し、シートベルトをする。
 ハイ、ここで問題です。俺と時ちゃん、物好きはどっち?
 一瞬真面目に考えた後、ぶんぶんと頭を振って、非生産的な疑問を追い払う。
 ひとつ深呼吸をしてアクセルを床まで叩きつけ、後輪を流して国道に飛び込んだ。




了/2005.02.27
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謹呈 「臥待月」佐倉裕さまへ

100,000hitのお祝いと、日頃のあれやこれやそれやのお詫びと感謝の気持ちをこめて、謹んで。貢馬にありえない中身と長さでとことんすみませんが、ご笑納いただければ幸いです・・・・・_| ̄|○))  ようこ拝










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