−蓼食う虫は蓼を食う 2−1 2 3 4 5 6 7 (全)

<2>


 混雑を避けて、ダイビングサービスから車で移動した。
 町を突っ切って半島の南側に抜け、三段壁よりさらに南、梶原谷まで行く。少し離れるだけで見事にダイバーがいなくなり、とても七月の白浜とは思えない。
 谷の直下にある梶原島は、白浜のビーチポイントでは最も外洋に近いうえ、地形が面白く魚影が濃い。にもかかわらずまるで開店休業状態なのは、専用駐車場からエントリーする浜まで九十段近い階段を下りなければならないからだ、と左之助は言った。無論、帰りはそこを上がってくることになる。だからピークシーズンでも利用者は数えるほどしかいない。この日は当然のように完全貸し切り状態だった。
「穴場っていうか、ほとんど死角。ど?」
「いいいい。こういうの好き」
 本当は越前に行くつもりだった。だが、左之助が唯一休めるその日に、「海屋」の講習ツアーが越前を使うことになった。しかも引率は斎藤。キヌバリの縞を数えるのはまたの機会にしようと意見が一致した。
「この階段がクセモノってわけよ」
 と左之助はため息を吐いたが、剣心は余裕の笑みを浮かべている。
「グロットはこんなもんじゃないぞ」
 サイパン屈指の洞窟ポイントは、急な崖を削り出した百十一段の階段の下にある。
 日本から潜りに来るゲストは一往復ですむが、ガイドの剣心はそうはいかない。石段の欠けさえ記憶するほど通った。ばてたゲストの器材を担いで上がったことも少なくない。
「でも時ちゃんはすごかった」
「どんなだったんだ?」
「ストロボ二個つけた高足蟹のハウジングぶら下げて、一気に上りきった。っていうか、ほとんど駆け上がってたな、あれは」
「………やりそう」
「それに比べて、なんだあれは。軟弱軟弱」
 階段の横にある器材運搬用のリフトを見てせせら笑う偏固さが、見た目を裏切ってしっかり三十路らしい。
 とはいえ、初夏の炎天下。器材やら予備のタンクやら手荷物やらをかついで下りきったときには、揃って汗だくになっていた。ひと息ついてから海に入り、ひんやりと心地好い水で身体を潤す。しばらくぷかぷかと水面に浮かんで夏の海を独占した二人は、潜行サインを交わし、もうひとつの海に降りていった。
 海は剣心の予想を大きく上回ってダイナミックだった。一周するだけなら十五分程度の小さな島だが、切り立った崖が水深二十メートルまで落ち込み、途中には数人で一緒に通り抜けられるほどの立派なアーチがある。ソフトコーラルと生物が豊富で、流れのある日なら外洋の大物も回ってきそうだ。
 多少不便でも、これほど魅力的なポイントならもっと利用されていい。
「もったいない」
 一本目を終えて浮上するなり、剣心はそう言った。
 だが左之助は、器材を下ろしながら複雑な表情を見せた。
「当たり外れデカイんだよ、ここ」
 そのまま手早く二本目の準備を済ませてから、休憩に入る。
「ときどきすんごい流れてるし、川が入ってるから雨の後はニゴニゴだし。読めねえから、お客さん連れて来るにはビミョー」
 コンクリートの護岸壁に裏返したウエットスーツを敷いて寝転びながら話すが、左之助は心なしか不機嫌そうだった。
「でも、あれだけ魚いたら」
 剣心も同様にウエットスーツを脱ぎ、セームタオルでざっと体を拭いていたが、ふと言葉を途切らせて眉をしかめ、手荷物からTシャツを引っ張り出して被った。
「普段、あんなにいねえ」
「え、そうなのか?」
「てか、見つからねえし」
 と、左之助はふくれっ面。
 剣心は、ようやく思い至って、「あ」の形に口を開けた。
 左之助の隣に膝を抱えて座り、ぷっくりと膨らんだ頬を指先でつついてみる。
「悔しかったら、腕、磨けよ」
 指は素早く撤退して、くあっと噛みつこうとする顎を逃れた。
 左之助は、にこにこと笑う剣心を一瞬憎らしそうに睨み付けたが、腕の反動を借りて身体を起こすと、真面目な顔になって訊いた。
「なあ。なんであんなに見つけられんの?」
 たしかに元々から剣心の目聡さは半端ではなかった。
 前にも他のだれも察知できなかったマンボウを発見して左之助を驚かせたことがあったが、それにしても今日はすごかった。というか、ひどかった。
 小指の爪よりも小さいエビやらカニやらウミウシやらイザリウオやらをイソギンチャクの中や窪みの裏側、穴の奥に発見したかと思うと、対抗意識を燃やした左之助が岩場にはりついてウミウシ探しに躍起になっている間に、島を離れた砂地で石に擬態しているオニダルマオコゼや砂に潜っているウシノシタを見つける。やけにじっと見つめていた藻屑は、藻屑にしか見えない珍しい形態の魚だった。
 梶原島はもちろん初めて。しかもそれ以前に南紀の海自体が、左之助と数回潜ったきりで、ほとんど知らない。剣心が馴染んだ北マリアナの海とは、水の色も生物層も季節も地質も、何もかもがちがう。なのに、そこをホームグラウンドとして潜りこんでいる左之助よりもはるかにこの海を理解している。
 いくらキャリアの差があるとはいえ、いくら現役当時名を馳せた凄腕ガイドだったとはいえ、あんまりだった。
「左之はさ」
 膝に乗せた顔を傾げ、左之助を見上げて、剣心が言った。
「普段どんな感じで魚探す?」
 逆に訊き返されて左之助は「うーん」と唸り、しばらく考えてから心許なげに言った。
「大体なにかいそうなトコってあるだろ。岩場なら窪みとかほこらとか潮止まりとか、逆に潮の当たるコーナーとか。あと、小物はパターン?」
「ああ、だよな」
 王道だ。基本に忠実。間違いではない。
「でも、それだと見てるとこしか探せないだろ?」
「んー………ん……?」
 それはその通りだが、それを裏返すと、視界の外に魚を探す方法があるということになる。それは状況的にも言語的にも不自然ではないか。
「目星のついてる生物しか見つけられないし」
「うん……」
「それに、初めての海だと、結構キツイ」
 それもその通りではある。だがそれで普通のはずだ。
「でも、じゃあ、どうするんだ?」
「探さない」
 そう言って剣心は挑む目で左之助を見た。口元には芯のある微笑。
 ゆっくりと、足元を確かめながら歩く人のように言葉を探りながら、続ける。
「じっと待つんだ。息を潜めて、何かが引っかかるのを、全身をアンテナにして、ひたすら待つ。ないけど、多分、触覚を伸ばすような感じで」
「………」
「そしたらな。ほら、海ん中って、ヒソヒソした感じだろ? そのヒソヒソの中に、ときどきザワザワしたところが交じってるんだ。ザワザワっていうか、モゾモゾっていうか、うまく言えないけど、とにかく違う感じ。そういうとこには、大概なんかいる」
「………うーん」
 具体的といえば具体的な、しかし、いざやれと言われればどうしていいやら皆目見当のつかない、雲をつかむような説明だった。左之助は唸るしかない。
「オビテンスモドキの幼魚もそれで見つけたのか?」
 一本目に見た藻屑もどきである。海藻片なら他にも漂っていたのだ。
「ああ」
「あれだけがザワザワしてた?」
「うん。なんか変だった。多分、海藻のふりして泳いでたからだと思う」
「?」
「なんだろう、たしかにいかにもな動きだけど、だから余計不自然っていうか。オニダルマオコゼとかも、自分じゃ上手く隠れてるつもりだろうけど、なんかもう全然バレバレ」
 そう言って剣心は楽しそうに笑ったが、左之助は首をひねって、やっぱり「うーん」と唸っている。
「でもサンキュ。とりあえずやってみるわ」
 そう言うまでに、しばらく思案した。
 そして、窺うように剣心を覗き込む。
「そーっと手さぐりする感じで、ザワザワするところを探るんだよな?」
「うん」
「アンテナに引っかかるのを待つ。で、“かな?”って思ったら、近づいて確かめる。驚かさないよう、ゆっくり、そうっと。目で探すんじゃなくて、感覚でつかむ。そんな感じ?」
「あ、そうそう、それそれ」
「へへへー」
 声を弾ませて相づちをうった剣心を見て、左之助が突如ものすごく嬉しそうな顔になった。
「?」
「なんだよー。お前と一緒じゃんよー」
「……は?」
 厳密に言うと、嬉しそうというよりだらしないに近い。
「だからザワザワのモゾモゾって。お前もそんな感じじゃん。ザワザワしてるとこがあってさ、いじってるとモゾモゾピクピクしてくるんだよなあ」
 おそらくそれを“鼻の下の伸びた顔”と、世間では言う。そして剣心の方は“能面のような”。
「………俺が馬鹿だった」
 声はもちろん“氷のよう”だ。
「もう金輪際、お前には、一切、なにひとつ、これっぽっちも、教えてやらん。人がせっかく気前よく企業秘密を公開してるっていうのに。ありがたく、神妙に、かしこまって拝聴するもんだぞ、この罰当たり」
「真面目に聞いてるって。だからサワサワのモゾモゾのピクピクだろ?」
 真剣な顔でわきわきさせる指先を、剣心が押さえつけた。
 叱られた左之助が「暑けりゃ脱げば。俺しかいねんだから」などと言い出したのは、抑止した剣心の手が少なからず汗ばんでいたからだ。
「いいの! 寒いの!」
「って、めっちゃ汗かいてるし」
「俺の勝手!!」
 強引にTシャツをまくろうとする無遠慮な手をかわして、剣心が勢いよく立ち上がった。その裾を左之助が引っ張って、中を覗き込む。
「わかった。お前アレだろ。こないだの練習。あれで双子ちゃんがピンピンになりすぎて困」
 と言いさしたまま、左之助は硬直した。
 さすがに真っ赤な顔で手を振りほどいてスタスタと歩いていく間は、なんで外だとあんなに照れるんだろうとかそれがまた可愛いんだけどとか、今度は何の日がいいかなあとか、ほとんど完全にただの助平親爺なことを考えて束の間の幸福に浸っていたのだが、剣心が使用済みタンクに手をかけたところで頭の中に黄信号が点灯し、それをぶら下げて突進してくる姿には、赤信号どころか一気に緊急非常警報が鳴り響いた。
 使用済みとはいえ、十キロを超える鋼鉄のかたまり。まして中にはまだ圧縮空気が半分近く詰まっている。そもそもからして、スクーバタンクは取り扱い要注意の危険物で、管理や保全については経済産業省の法律で規制されているような種類のものなのだ。それを振り回したり、ましてや人に向けたりするなど、正気の沙汰ではない。
「うわあ――っ! やめろー! それだけはダメだ剣心――!!」
 無我夢中で跳び上がり、それでも丁寧にタンクに抱きつくと、思いがけずタンクはぴたりと静止した。
 コアラのようにしがみついたまま、静かに下されるタンクと一緒に左之助も地面にしゃがんだ。全身にびっしょりと冷や汗をかいて、心臓が口からとび出しそうに跳ねている。ごっくんと唾をのみこんだところへ、澄ました声が降ってきた。
「危ないだろ。タンクで遊ぶなよ」
 左之助としては「それはこっちの科白だ!」と大声で叫びたい。だがなんとも情けないことに声が出ない。とりあえず顔を、恐る恐るだが、上に向けた。
 すると剣心は笑って、こんな状況でさえ思わずほれぼれと見惚れずにはいられないほど極上の笑顔を見せて、左之助の頭をくしゃりとかき回した。
「何ほたえてんだよ。ほら、二本目行くぞ」



 完全に勢い負けした左之助は、うながされるままにウエットスーツを着込んで器材を背負い、勧められるままにフィンを交換した。
「履いてみるか? お前の蹴り方には向かないと思うけど」
 ロンディン社のエックスラバー。剣心愛用のイタリア製ゴムフィンは、とうに生産中止になった古いモデルだが、日本を中心に今も熱烈なファンに根強く支持されており、一時は元の十倍以上の値がついていた。最近になって日本の器材メーカーが再来と言われるフィンを発売し過去の伝説になりつつはあったが、だがダイビングを始めた時点で既に噂でしか聞くことのなかったそのフィンを「一度履いてみたい」と、かねがね左之助は言っていた。
 腰の深さまで歩いてから、ショップのロゴを注意深く削り取った跡のある剣心のエックスラバーを装着する。水に反応してダイブコンピュータがぴこぴこと作動を告げ、つられて見た腕時計に眉をひそめた。
「剣心! 水面休息、足んなくね?」
「え、なんで?」
「だって、まだ三十分しか」
「何言ってんだ、一時間経ってるって。まだボケてんのか?」
 そう言って、剣心はかまわずずんずん泳いでいく。
 そして、先程のダメージからまだ回復していなかったせいか、上級者のバディに対する甘えからか、日頃安全管理には慎重すぎるほど慎重な左之助が、らしくもなく再確認もしないまま、剣心が蹴り出す波紋を追った。
 水中は本来人間の領域ではない。不足する空気は持ち込めても、増加する圧力の影響は免れえない。深く潜れば潜るほど、光は減り、水圧は増し、心身への負担は累乗する。中でも最も危険なのが、残留窒素が引き起こす障害、すなわち減圧症である。
 スクーバタンクの中には、二割の酸素と八割の窒素の混合気体、つまり自然の大気と基本的には同じものが入っている。たしかに酸素は生命維持に不可欠だが、だからといって純粋酸素を長く吸うと、身体に変調が起こるためである。
 ところが、高圧下という特殊な条件では、純粋酸素ほどではないにしても、窒素の影響も皆無ではない。窒素は少しずつ体内細胞に溶け込み、蓄積され、その吸収量が許容範囲を超えると、浮上後に気泡となって身体を蝕む。気泡は血管や細胞内のあらゆる箇所に発生し、皮膚の発疹やかゆみだったり、関節や筋肉の痛みだったり、脳や脊髄神経の障害だったりといったさまざまな症状を引き起こす。再圧チャンバーで治療ができるとはいえ、ときに意識不明や死に至ることもあるこの減圧症は、俗に潜水病とも呼ばれ、ダイバーにとって最も恐ろしいトラブルである。一回あたり四、五十分という潜水限界時間も、最低一時間以上の充分なインターバルが必要とされるのも、一日の反復潜水は二、三度が限度とされるのも、空気量や体力といった物理的限界以上に、この減圧症を回避するために他ならない。今では基本器材となったダイブコンピュータもまた、潜水時間や深度、残留窒素を総合演算し、減圧症を予防するための安全管理ツールである。
 前を泳いでいた剣心が静止して身体を回した。
「魚、練習するか?」
「ああ、おう。やってみる」
「じゃあ、俺、適当に遊んでるし」
 サインを交わして潜行する。
 初夏とはいえ午後も三時を回って、海中に射しこむ陽光はかなり鈍くなっていた。
 左之助は初めて履く伝説のフィンの蹴り具合を量ったり例のザワザワモゾモゾを試してみたりで何かと忙しかったが、剣心は徹底的にくつろいでいた。海中でくつろぐというのも変な話だが、浮力コントロールさえ自在にできれば、これほど身体が自由になる環境もない。
 適当に遊んでいる、と言った言葉の通り、見るたびに違う姿勢でふわふわと無重力浮遊を楽しんでいる姿に、左之助は剣心の余裕と技量を見た。タツノオトシゴのように直立していることもあれば、腰と膝を直角に折って椅子に座ってでもいるような姿勢で浮かんでいることもある。ピンクの王冠を被ったウミウシを見つけて呼び寄せようと思ったら仰臥してボコボコとバブルリングを作って遊んでいたし、砂地に移動しようとサインを出したときは宙空で正座していた。どことなく神妙そうなその様子には、修学旅行で夜の廊下に座らされている中学生のような愛嬌があったが、しかし生半可なバランス感覚でできる体勢ではない。
 そして剣心の目が早いのは確かに気配を読んでいるためだということがよく判るのもそんなときだった。明後日を向いていても目を瞑っていても、左之助が目を向けるのとほぼ同時に剣心もきっちりと左之助を視界の中心に捉える。浮上の間際も、座禅を組んで両の手指で栗をつくって瞑想していたのが、まるで呼ばれたようにぱちりと目を開けた。そして、右の人差し指で頭頂をチョイチョイと弾いて見せてから、嬉しそうな顔で寄ってきた。
 なんで一休さんなんだよ。
 左之助は両手を開いて肩をすくめながら首を傾け、「ワケわかんねー」の意思を示してから、「五メートル三分の安全停止、その後浮上」のサインを出した。
 残留窒素の排出を促すため、水深五メートルのラインにしばらくとどまり、身体環境の変化を緩和する。要するにクールダウンのための三分間である。必須ではないが、しておくに越したことはないので、彼らはなるべくするようにしていた。だが、浮上に伴う気圧の変化のせいで、左之助は耳に、剣心は歯に、それぞれ軽い痛みを覚えたため、今回は安全停止は省略して、そのままゆっくり浮上することにした。
「うえービックリした。これがサイナストラブルかあ。俺、自動耳抜き器搭載人間なのに」
 初めての体験に左之助は目を丸くしている。
「俺も。歯のリバースブロックなんか初めてだ」
「あーあーもう。だから虫歯は早く治しとけって言っただろ」
「お前がそれを言うな!」
 ぽかりと殴られながらも左之助は真剣な顔で「耳抜き苦手な人って大変なんだな」と頷き、剣心は肩をすくめて苦笑する。



「でっ……よいしょっ、どう、だ、たっ?」
 階段を踏みしめる足のリズムで剣心が訊くと、同じような調子の声が返ってきた。
「えっ。なに、がっ」
「だから、魚。とっ、フィン!」
 険しい登りもあと少し。だが二人ともさすがに息が荒い。
「ハナシ、後!」
 そして黙々と一気に上りきり、シャワーを使って着替えを済ませてから、左之助が言った。
「悪くないじゃん、エックスラバー。つか、結構好きかも」
「あ、やっぱり? なんか気持ちよさそうに蹴ってたから、そうかと思った。意外意外」
「意外は余計。てか、このフィン、ちょっと貸しとけよ」
「え、そんなに気に入ったのか? いいけど、頼んなくないか?」
「ないない」
「ふうん。まあでも、じゃあ好きに使えよ。どうせ他に来ないし」
「サンキュ」
 喜ぶ左之助ににっこり笑って、ただし「でもやらんぞー」と釘を刺すのは忘れない。
 サービスに寄ってタンクを返し、ハンドルを京都に向けた。入り組んだ海岸線につかず離れずの県道を北に向かう。
「で、魚は?」
「おー、ザワザワのモゾモゾな」
「だからそれやめろってば」
 懲りずに蠢かせる手を剣心がぴしりとはたく。
「ビミョーって感じ。なんかわかるような、でも全然わかんねーような。やっぱり見ちまうし、いるって判ってるとソコばっかり探すからなあ」
「んー、そうだなあ。とりあえず回数重ねて、後はあれだな、ホントはいっそ全然知らない海とかの方がいいんだけどな」
「それこそビミョー。まあでも丁度いいか。今度やってこよう」
「あれ。どっか行くのか?」
 訊かれて左之助はにんまりと笑った。
「いひひ。実はそうなん」
「えっ、どこどこ?」
「多分沖縄らへん」
「おー! すごいじゃないか。でも店のツアーだろ? なんで多分なんだ?」
「クルーズなんす。だから正確な場所とか、知らないんす」
「へえ、沖縄でクルーズかあ。いいな、珍しいな。ってことは、チャーター船?」
「うん。でもツアーじゃなくて、オッサンが内輪で行くやつ。急に欠員が出て、それで行けることになったんだよな」
「内輪?」
「ていうか、古株の常連さん。関原さんっていって……って、あれ? もしかして知ってる?」
 剣心の表情が動いたのを認めて、左之助が言った。
「すき焼き屋さんやってる人? 隻腕の?」
 左之助がうんうんと頷くのを見て、剣心の顔に感慨が浮かぶ。
「そっか、関原さんか。元気に潜ってるんだ。何度か『シーウィード』に来てくれた。うん、よく覚えてる。そうだな。あの人関西だったな」
「おう、京都」
「娘さんがいた」
「そうそう。その娘さんなん、来れなくなったの。急だったから日程も変えられなくて」
「って、いつ出発だ?」
「明後日」
「ええーっ?! 聞いてないぞ、そんな話!」
「そりゃだって言ってねえもん」
「うっわ、なんだよそれ! 可愛くない!」
「だって言うとお前さみしがるし、可哀想じゃん」
「だれが!!」
 いきり立った剣心に首を絞められて大きくハンドルがぶれ、タイヤがいやな滑り方をした。
「わあっ! 危ないってバカやめろ!!」
 今日二度目の冷や汗が左之助の背中を伝う。
「……お前ってときどきマジで見境なくなるから怖ぇよ」
「人の自転車蹴倒したり、首絞めて誘拐したりする奴より全っ然マシ」
 今日の剣心はどうにも絶好調すぎて、左之助では手も足も出ない。おとなしく先発運転手に徹することにした。が、助手席の剣心が、今度はなにやら怪しげなウォーミングアップを始めた。両腕を前に伸ばして左右交互に肘を曲げ、まるで鉄アレイで上腕筋を鍛えるトレーニングでもしているようだ。
「も、もしもし緋村サン? 何をしてらっしゃるんで?」
「んー……。や、いや、ちょっとその……運動?」
 言いつつも、視線は前方、答えは上の空。
 なんだか判らないが、判らないだけに怖い。怖すぎる。
 生唾を呑み込んで、無理矢理道路に目を据える。
 と、剣心が唐突に訊いた。
「他はどんな人が?」
「オッサンとタカさんと、あと俺」
 左之助は露骨な安堵の表情でそう言ったが、「えっ、それだけ?」と驚いた剣心は、「うん、四人。少数精鋭だってさ」という返事を聞いて、ますます妙な顔になった。下ろした両手で今度は膝をさすりながら、運転席を見る。
「……左之。生きて帰って来いよ。っていうか、自分の身を守れるのは、最後は自分だけだからな。それだけは忘れるなよ」
「お前、それ、シャレにならねえ」
 非常識どころか無常識の域に達しているのが海屋の社長で、その比古でさえ一目置いているのが高木時尾である。そしてそんな顔ぶれに平気で交じっている関原氏も推して知るべし。おそらく唯一のストッパーだったに違いない関原氏の次女冴の代わりに左之助が行くことになった以上、思慮を促す要素は皆無と見ていいだろう。
 しばらくして剣心が小さくため息をついた。
「ま、お前なら大丈夫か」
 苦笑が微笑に変わり、声が和らぐ。
「何日間?」
「トータル六日。船に乗ってるのは、正味四日かな」
「そっか」
 飛び去る沿道の隙間に、日の長い夏の海が横たわっている。剣心は眩しそうに目を細めた。
「よかったな」
 高校を卒業してすぐに海屋に入社した左之助は、和歌山を中心とした近場の海ばかりを潜ってきた。もちろん南紀には南紀の魅力がある。だが、やはりダイバーにとって南の海は常に特別な存在であり続ける。
「楽しんで来いよ」
「おうともさ」
 いつもと同じ歯切れのよい語尾に、いつもとは少し違う力がこもっているような気がして、剣心はシフトレバーに右手を重ねた。運転を妨げないよう、ごくごくそっと撫でてみると、掌の下で節ばった硬い指が微かに動いた。開いた指間に白い指先をすべり込ませる。
 並んだ指先を見つめる剣心の目が静かに笑った。


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「臥待月」佐倉裕さまに捧げます。










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