−蓼食う虫は蓼を食う 3−1 2 3 4 5 6 7 (全)

<3>


 牛バラ肉はポケットマネーで奮発したし、ドミグラスソースは二日前から自宅で煮込んであった。オーブンで焼いてからじっくり煮込んだ甲斐あって、大きな肉塊はこっくりといい艶になっている。皿はとりあえず三枚。今が閑期の上下衛門は、このところ帰りが早い。熱湯で温めた器にシチューを盛り、カウンターに並べていく。
「お待たせ。央太くん、運んでー」
 子ども達に家事を手伝わせることは、米を主食にするのと同様、最初の面接で上下衛門が出した条件のひとつだった。はじめはかえって面倒だったそれにも、半年を過ぎてすっかり馴れた。
「ワオ、おいしそう!」
 右喜がごはんをよそいながら首を伸ばす。ビーフシチューに白ごはんの組み合わせは、世間では多少アンバランスかもしれないが、ハヤシライスを別々に盛ったと思えば別におかしくはない。
「いただきまーす!」
 父子三人が合掌して、一斉にスプーンを手に取った。
 今どき珍しい家庭的な夕食風景を見守りながら、しかし目下剣心の全身は耳になっている。
 店を出た、というメールが届いたのが、一時間ほど前。道さえ空いていれば、そろそろ着いてもいい頃合だった。
 エレベーターホールから遠いので到着音は聞こえないが、そのかわり足音が長い。さっきから既にいくつかの足音が手前のドアに吸い込まれている。今も一人、誰かが共用廊下を歩いている。コンパスは長い。少し引きずるような、これはゴム底サンダル系の音ではないだろうか。
 これかも、と思い、剣心はさりげなく部屋を出た。
 はたして足音はドアの前で止まった。軽い金属音に続いて、鍵をさし込む濁った音がした。
 上がり框に爪先を揃え、シリンダーが回るのを見守る。
 ドアを開けた左之助は、面食らった様子でせわしなくまたたいた。
 物音を聞きつけたらしく、リビングのドア越しに、「お、帰ってきやがった」「さすが食欲大魔神ね」と言い交わすのが聞こえた。
「おかえり」
 静かな微笑で迎えた剣心の、しかし声だけは淡々としている。
「ういー、たでーまー」
 ぞんざいな声を奥に投げながら、上がりざまに有無を言わさず片腕で剣心を抱き込んだ。されて剣心は胸元から咎める目で見上げたが、左之助は小さく開いた唇に人差し指をのせ、唇で目尻に触れるまで彼を解放しなかった。
「うおーメシメシー。なんか旨そうな匂いじゃねえかー」
 がなりつつ、素早く腕を解いてするりと身体を入れ換える。と同時に、リビングドアのハンドルがガタンと音を立てた。
「おかえりー」
 央太の顔がのぞいた。
「おめえは食うことしか頭にねえのか」
「お兄ちゃん、おみやげー」
 急にクリアになった三人の声を広い背中越しに聞きつつ、剣心も後に続いた。
 本当なら、いくら六日振りだろうがツアー帰りだろうが、黙ってそんなことをさせておく剣心ではない。
 だが、一瞬垣間見た左之助の素地に、つい気を取られた。
 ドアを開けた瞬間、まさかそこに人がいるとは左之助も思わなかったのだろう。
 なんとも言えない目をしていた。
 剣心を認めてすぐにそれは驚きに、そして闊達な煌めきに変わったが、だからこそ、隠したものが気にかかった。
 沖縄で何かあったか。それとも。
「……いかんいかん」
 拳で軽くこめかみを叩き、頭を仕事モードに切り替えて、ダイニングに戻る。
 父親と娘にシチューの、次男にごはんのおかわりをよそい、長男の膳を用意した。
 左之助は二倍速の映像のような勢いでビーフシチューを食べていく。
「んめえー! やっぱ剣心のメシがいちばん旨えや」
 三杯目のシチューを手渡すとき、笑顔全開でそんなことを言われた。
 天気には恵まれたらしい。元々黒かった肌はさらに濃く灼け、頬と鼻のあたりには少し赤味がさしている。
 いきなりの直球攻撃に一瞬目を奪われて、再度「いかんいかん」と自分を叱った。
 それにしても、こうまで旨い旨いを連発されては、いくら会心の出来とはいえ、さすがに少々気恥ずかしい。というよりも、単調な海の食事に飽きて帰ってくるであろう左之助のために頭を絞り腕を奮ったのが誰かに見透かされそうで気が気ではない。
「それより海はどうだったんだ?」
 と、話を振ってみると、
「マンタマンタ。マンタ見たマンタ!」
 目どころか頬と鼻まで輝かせて、左之助が叫んだ。
 エイ目トビエイ科オニイトマキエイ、別名マンタ。グライダーのように優雅に飛遊する巨大なエイは、ジンベイザメやハンマーヘッドシャークと並ぶダイバーの憧れである。
「それにでっけえナポレオンとかうじゃうじゃいてさー」
 これまた人気者のナポレオンフィッシュは珊瑚礁に住む大型魚で、成長すると二メートルを超える。
「もう食い放題」
「へえー」
「すごーい! いいなあ」
 ノンダイバーの三人は呑気に羨んだが、剣心はそうはいかない。
「えっ。それはまずいだろ」
「いや、旨いぜ。淡白な白身で。ヒラメみたいな感じ?」
「そうじゃなくて、獲ったりなんか」
 ダイバーは決して海の中のものを陸に持ち帰ってはいけない。水中漁などもってのほか。まして沖縄では漁業権をもつ地元猟師とのトラブルになる可能性が大きい。それは絶対にしてはならないことのはずだ。
「スピアじゃねえって。船長が釣るんだよ」
「なんだびっくりした」
「漁師だし、どうせあんなとこ誰も来ねえし」
「あ、そうだ、それだ。結局どこに行ってたんだ?」
「どこだと思う?」
 左之助が意味ありげに四人を見渡し、逆にそう訊ねた。
「慶良間……じゃ普通か。久米、粟国………意表を突いて南大東とか?」
 剣心が次々に離島の名前を挙げるが、左之助はにやにやと首を振り続ける。
 南の島のことなどてんで知らない父子三人はしばらく黙ってそのやりとりを見ていたが、
「そんなの判るわけないじゃん。もったいぶらずに言えば。っていうか、聞いても知らないかもなんだし」
 右喜がさえぎった。
「絶対知ってるって。聞いたらちょっとビビるぜ」
「だからどこよ」
「あのな」
 身を乗り出し、なぜか声をひそめる左之助。
 つられて身を乗り出した家族と、寄ってきた剣心の顔を順に見て、囁いた。
「尖閣諸島」
 反応はさまざまだった。
 絶対知ってる、と左之助は言ったが、生憎央太はきょとんとしている。
 右喜は、「あーなんか聞いたことあるー。何かあるんだっけ。世界遺産?」と、極めてお気楽なコメントを発した。
 だが、それなりにまっとうな社会人である上下衛門と剣心はそうはいかない。目と口を大きく開いた、いわゆる“呆然”の表情で、左之助を見た。左之助は満足そうに「ウシシシ」と笑い、「俺も最初はビビったけどな」と、息を吐いた。
「……おいおいおい、そんなとこ潜れんのかよ?」
 ようやく上下衛門が嘆声を上げた。
 尖閣諸島といえば、北方四島、竹島と並ぶ、領土問題の深刻なエリアだ。日本の国会議員やら中国の活動家やらが上陸してはニュースを騒がせている渦中の島でもあり、無論、住人はいないし、自衛隊の哨戒艇も徘徊している。
 「なになに?」と訊ねる下の二人に上下衛門が概略を説明した。聞けば当然驚く。
「えーっ! 危なくないの?!」
「捕まったりとかしない?」
「んなワケねえって。別に島に上がるわけじゃねえしな」
「しっかしまあ、さすがにお前んとこの社長さんはやることが違うなあ、おい。え?」
 上下衛門は比古と多少の面識がある。家出して行方不明だった息子が簀巻きになって家に運ばれてきたときは、礼を言うべきか呆れるべきか怒るべきかとしばし迷い、とりあえず茶を勧めた。
「まあ、あのオッサンだからな。北極海でも潜るんじゃねえの?」
 ありえる、と豪快に笑う二人を前に、だが剣心は笑えなかった。
 笑えないどころではない。
 養父の超絶非常識には今さらさほど驚きもしないし、ダイビングの実際を知らない上下衛門がそう・・なのは仕方ないとしても、一緒になってそれを笑える左之助の神経が信じられない。百歩譲っても二百歩譲っても理解しがたい。
 普通に潜っていてさえ危険な遊びなのに。
 要するに左之助なんて、まだ何にもわかっていない青二才なのだ。
 そう結論づけ、平静を装って食事の済んだ食卓を片付け、洗い物をしながら胸のもやもやと格闘していると、そのわかってないガキんちょがカシャカシャといくつかの袋を提げて自室から戻ってきた。
「ってわけでよ。あんま土産がねえんだよなー」
 泡盛「久米仙」。ちんすこう。沖縄地域限定黒糖ハイチュウ。
 市街や市場に寄る時間もなく、結局空港で買ったというそれらを、テーブルに並べていく。
「あっ、そうそう。剣心これ」
 ふいに呼ばれて顔を上げると、左之助が透明のビニールパッケージに入った黒いフィンを掲げていた。
「沖縄土産じゃねえけど」
 蛇口を締めて手を拭き、部屋に回る。
 真新しいフルフットのゴムフィン。
「え、なに? これ……?」
「やる」
 渡されるままに手に取りつつ、首を傾げて、なお問う。
「おまえのエックスラバー、もうゴムへたってるから、これ使えって。結構似てるし、悪くないから」
 ああ、と合点し、礼を言いかけて、続いた科白に凍りついた。
「って、ウチの社長が」
 上下衛門は剣心と比古の関係を知らない。
 隠しているわけではない話していないだけ、仕事にプライベートは持ち込まない主義、と、言えば言える。だがこの状況でそれはやはり詭弁だと、剣心も思う。
 それでも、こんなやり方は、嫌いだ。
 眉間を開いておくのが精一杯で、当たり障りのない返答まではできなかった。
 だが剣心の微妙な沈黙には上下衛門も気がついた。
 左之助は、父親の窺い顔を見て、
「いや、実はよ」
 と、剣心のフィンの希少性について語りだした。
 そして、そのうんちくが終わる頃には、剣心も小面憎い横顔に笑顔で皮肉を言える程度には復活していた。
「ありがとう左之。大事に使わせてもらうよ。社長さんにもよろしく言っといてくれ」
 満面の笑みに左之助の頬が細かく震える。
 そんな水面下の緊張を、右喜の声が破った。
「ダイビングのフィンってなんかハードボイルドね。スノーケリングとかで使うのとは全然ちがう。でもさ、“へたる”って、こんな分厚くて丈夫そうなのに?」
「そりゃだってゴムだからね。海水なんて塩水だから最悪だし。ウエットスーツとかも結構早いよ」
「こいつのんなんか古いから、もうペランペラン」
「なに、ぺランペランって」
「ゴムのね、気泡がつぶれてへたっちゃうんだ。弾力もなくなるし、薄くなるから寒いし。扱いやすくはなるけど」
「へーえ。意外と消耗品なのね」
二人がかりの説明を聞きながら、右喜は興味深げにフィンのブレードをつついている。
「だからいいかげん新調しろって言ってるじゃねえか」
「だってまだ使えるし、なんせ先立つモノが」
「ケチケチすんなよな。社会人のくせに」
「じゃあお前買ってくれよ。社会人なんだから」
「お、そりゃいい。夏のボーナスだ。左之助、任せたぞ」
 上下衛門が口を挟み、そこへ央太が追い討ちをかけた。
「お兄ちゃんのお店でお兄ちゃんが買うの?」
 首を傾げた小学校四年の児童に、それがダメオシの一言になっているという自覚はない。
「あ、そうよそうよ。社員割引とかあるんでしょ」
「うっせーテメエら! 外野は黙ってろ」
「援護援護。いいじゃん、っていうか当然じゃん。お兄ちゃんが一番迷惑かけてんだからさ」
「う……」
「おおー。おニューのウエットゲット。みんな、応援ありがとう」
 剣心はパレードでもする有名人のように右手を掲げて、そんなことを言った。
「くっそ、んだよったく。わあったよ。じゃあフルオーダーで作っちゃるから、今度店に採寸しに来いよな」
 小さな、しかし強烈なジャブに剣心の眉がぴくりと痙攣する。だがそんな事情を知らない外野組は純粋に楽しんで囃し立て、左之助は素知らぬ顔でふくれて見せた。
 なんだかんだと騒いでいて、気づくと定時の八時を三十分近く回っていた。
 すでに紹介所を通さない個人契約に変わっている。超過料金を発生させる心配はなかったが、やはりそれもまた引くべき一線ではある。そして彼らにも彼らの生活リズムがある。
「遅くなってすみませんでした」
「お疲れさん」
「気をつけてね」
「おやすみー」
「採寸来るとき言えよー」
 剣心は、邪気のない三人とありすぎる一人に、これ以上ないほど模範的な笑顔をまとめて返し、東谷家を辞去した。
 この優秀な家政夫さんの人当たりがいいのはあくまでも職業的社会的能力のひとつで、実は大変短気で手が早い。一応温厚なはずの彼を本気で怒らせるような問題児は限られてはいたが、しかし文句や小言の代わりにとんでくるのは、猛烈な拳固や蹴りや、時には頭突きだったりもするし、比喩でなくぶっ飛ばされることさえあった。剣心を怒らせるのは結構冗談抜きで命がけだということを、この家の家族はもう十二分に理解している。
 だが、そうでない剣心を、左之助は知っている。沸点の低い彼が、ある一事については、逆に冷たく乾いて凝固する。その時と同じかそれ以上の硬度で自分を拒絶したきれいな笑顔を反芻しつつ、シャワーを浴びた。
 灼けた肌をわざと熱い湯に打たせ、最後に頭から冷水を浴びて、風呂から上がる。その音を聞きつけた央太が声をかけてきた。
「お兄ちゃん、ケータイ鳴ってたよ」
「おう」
 着信は通話ではなくメール。画面にさっと目を走らせ、音を立てて電話をたたむ。
 そして左之助は慌ただしく服を着替え、
「ちょっと出かける」
 と言い置いて、家を出た。



 蛍光灯の白い光がコンクリートの壁を事務的に照らしている。
 歯抜けの目立つ二段式の駐輪場の通路に、一台の黄色いファミリーサイクル。前カゴには水色のデイパック、後部荷台のカゴには新品の黒いフィン。
 その横で壁にもたれる剣心の視線は、床の薄いシミに固定されている。
 天井の低い地下の空間に、よく通る声が響いた。
「使い方、わかってきたじゃん」
 無表情に歩み寄ってくる左之助の指先で、携帯電話が揺れている。
「口出しするなと言わなかったか俺は」
「言った」
「………!」
 口を開きかけた剣心に、左之助は掌を向けた。
「なあ。いいけど、場所、変えねえ? 近所迷惑だと思うんだけど」
 言われて剣心は、それもそうかと中途半端な表情でうなずいた。
 といって、穏便でない話し合いにふさわしい場所というのは意外と少ない。
「一応、車のキーあるけど」
「………」
「おまえんちとか」
「絶対いや」
「んじゃ車?」
「それも却下」
「じゃあどーすんだよ」
 どこで揉めるかを呑気に相談するというのも変な話だったが、結局、人目がなければそれでいいだろうということに落ち着き、マンションの裏手を流れる桂川の河川敷に行ってみた。が、夜の河川敷は、ワンちゃんのお散歩やら、ジョギング、ウォーキングに励む人々やらで予想外に人通りが多く、しかも妙にのどかだった。
 気を殺がれつつ、少し歩いて貸地の家庭菜園エリアまで移動した。
 一角にトマト畑があり、剣心の頭上を越える高さの株には、重そうな実がゴロゴロとなって、いくつかは既においしそうに熟れていた。
 立派なトマト。これはやっぱりサラダだな。
 条件反射的にそんなことを考え、剣心の足が無意識に止まった。
「で、なんだよ、話って」
 言われて我に返った。
 ワンちゃん軍団といい美人のトマトといい、どうもほのぼのした光景が続いて調子が狂う。
「なんだときたか。上等だ」
 頭を、なんとか戦闘モードに切り替えた。
 自転車のスタンドを立て、左之助に向き直る。
「なんでこんなことした。俺は口出しするなと言ったはずだ」
「出してない」
「……なに?」
「海にフィン持ってっただけで、口は出してない。お前のことは言ってない」
「ふざけるな!」
 詭弁だ。完全無欠の詭弁だ。
 今では存在自体が貴重なほどの古いフィン。しかも剣心のそれには、傷がある。ペンキで書かれていた「シーウィード」のロゴをこそぎ落とした削り跡。知らない人間の目にさえ意図的なものと判るその痕跡は、知っている人間には署名に等しい。
 剣心は目を逸らして縁石に座り込むと、両腕で膝を抱えて額をつけ、動かなくなった。
 彼は十年前にサイパンで大きな海難事故を起こしている。ゲストとガイド計七人が死亡し、その直後、養父であり恩師でもある比古清十郎は「シーウィード」を人手に渡すことになった。身体を壊して先に帰国していた剣心は、治療が済んだ後、比古の前に消息を絶ち、そのまま今日に至っている。
 硬いコンクリートに体が冷え始めた頃、乾いた衣ずれの音がして、くぐもった声が左之助に訊いた。
「………なんて?」
「俺の蹴り方には向かないんだとさ」
 剣心が顔を上げた。そんなことを訊いているのではない。
 だが、左之助はひとつおいた石に腰掛け、トマトを見上げながら続けた。
「力が空回りして、頼りないだろうって」
「………」
 人ひとりくらい、探そうと思えばいくらでも探せる時代だ。探さないことが、つまりは養父の意思を示している、と剣心は思っている。
 半ばは押し切られた形で東谷家の仕事に戻り、左之助との関係が続いてはいるが、だが「海屋」に関わるつもりがない気持ちは、強まりこそすれ薄れてはいない。
 それを、勝手に。
 やっぱり馬鹿だ。なんにもわかってない、ピヨピヨのガキんちょだ。
 だが左之助は無表情なまま、トマトに向かって話を続けている。
「だからって、勝手に自分のと取っ替えといてよ。後で“手入れがなってない”って、ブツクサ言ってよ。そんでな剣心。これじゃどうせ器材もボロボロに決まってるから、一式持って来るよう持ち主に言っとけって」
 左之助が剣心に向き直り、剣心はまた膝に顔を埋める。
「………サイテー。も、まじサイテー。お前、始めからそのつもりでフィン貸せなんて言い出したのか」
「使っていいって言った」
「こんなことに使えとは言ってない!」
「だってお前が言ったんじゃねえか!」
「屁理屈却下! 汚いぞ、こんなやり方!」
「ちがうんだ剣心」
「言い訳も却下!」
「だからちがうんだ。そうじゃなくて……」
 左之助の声が、急に細った気がした。
「だってお前が言ったんだ。オッサン、弟子とか滅多にとらねえって。家出したガキを更正させたりするような人じゃなかったのにって」
「…………」
「俺を見込んだとか何とかってお前は言ってたけど、そんなんじゃねえ。俺がどうとか、そんなこと、関係ねえって思った。だから俺……」
 あれからもう十年になる。
 信用第一の狭い業界とはいえ、神戸で始めた店も軌道に乗り、大阪に二号店を出し、社員はたった三名ながらも量より質の少数精鋭で、今さら過去の傷など大した問題ではないだろう。
 いや、それ以前に。
「とにかくいっぺん会えよ。会って話せよ。そうしないと判らないことだってあるかもしれねえだろ」
 と、左之助が剣心を覗き込む。
 気遣わしいより切羽詰まったに近い顔。
 ああ、これだったのか、と思った。
 この顔には、見覚えがある。
 さっき玄関で、自分の姿を認めた瞬間、左之助が隠したもの。
 いつからかは知らないが、きっとずっと思い詰めて、どう切り出そうかと思案して、今日も道々何度もシミュレーションしながら帰ってきたのだ。
 だからあんなにこわい顔をしていた。だから慌てた。
 余計なお世話、と切り捨てるには、このガキんちょは馬鹿すぎる。不覚にも胸が締めつけられて言葉に詰まった。
 だが。
 そうだ、だが、それとこれとは別問題だ。
 剣心はゆっくり大きく首を振った。
「……そういうことじゃないんだ左之」
 仮にも養父兼恩師。
 しかも外国で強盗をしていた知人を平気で雇い、さらにその前歴を生かして家出少年を拉致させるほど社会通念を逸脱した、自信過剰の歩く怪獣。
 あの事故にもサイパン撤退にも、おそらく世間が思うほどダメージを受けてはいまい。
 居所を知らないならともかく、所在がわかっていて、しかも極めて身近にいると知っていて、あえて逃げ回る必要は、きっともう、ない。
 そんなことは、わかっているのだ。
 だが。
「なあ剣心。俺、昔、簀巻きで運ばれる車ん中で、聞いた気がするんだ。半分気失ってたけど。なんでかずっと忘れてたけど。オッサン、出て行くのは勝手だけど、野垂れ死にされたら夢見が悪い、みたいなこと言ってた。こないだ、なんかで突然思い出して、そんで」
「ちがうって言ってるだろ馬鹿! もういい! そんな話、聞きたくない!!」
 やっぱり左之助はわかっていない。
 なんにもわかってない、にぶちんのあんぽんたんだ。
 待てと言われて待つわけもなく、剣心はそのまま自転車にまたがった。話があると呼び出したのが自分だということなど、この際完全に忘れている。意地を張るのもいいかげんにしろ、逃げて済む話じゃないだろう、と怒鳴る声からこそ逃げるように、全速力で家を目指す。
 腰を浮かし、髪を振り乱して自転車を漕ぎながら、「くそー!馬鹿ー!あほんだらー!」と大声で悪態をつき続けた。すれちがう人が何事かと目を剥いているのが視界に入ったが、そんなことにかまっていられない。ここで泣いては男がすたる。
 必死に叫んでなんとか堪え、一目散にマンションまで帰り着いた剣心は、ゼーゼー言いながら駐輪場でしばらく後部荷台とにらめっこをし、結局根負けして部屋に上がった。問題のフィンはクローゼットに放り込み、シャワーを浴びている最中にハタと気づいた。
「……しまった。ぶっ飛ばしてくんの忘れた。あーもう」
 くそう、と呻いて、代わりに浴室の壁を殴ってみたが、当然、無駄に痛いだけだった。


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「臥待月」佐倉裕さまに捧げます。










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