<5>
悪戯。あるいは計画、策略、陰謀、罠。
この際、名称はもう何でも構わないが、要するに高木時尾が犯人だった。
よくよく考えてみれば、どう調子が悪いとも、何の治療に行くとも、彼女は口にしていない。ただ「京大病院にいる潜水医学の専門医に診せに行く」と言っただけだ。それを剣心が勝手に悪い方に誤訳した。いや、するように時尾がしむけたのだ。「あそこにはチャンバーがある」と付け加えることで。何のためかはおそらく考えるまでもない。
「やってくれたな、時ちゃん」
対左之助の警戒レベルが上がっていたのが災いして、意外な伏兵に足元をすくわれる結果になった。だがそれにしても、そもそも左之助がもっとちゃんと話してくれてさえいれば、こんな訳のわからない大騒ぎはせずに済んだのだ。
駐車場の花壇に腰を下して、ふう、と溜め息をつく。
そこへ呆れたような比古の呟き。
「大体潜ってもいん人間が減圧症になんぞなるわけがなかろうが」
「………え? 潜って……ない……?」
「ウラ、オッサン! 言うなっつっただろ!」
左之助はさっきからやたら落ち着かない様子でそこいらをせかせかと徘徊していた。苛々しげな語調で突っかかったが、比古が構うはずは無論ない。
そして話を聞けば、左之助がそれらを剣心に隠していたのも、言うなと暴れるのも、当然といえば当然のことだった。
まず初日の一本目でウエイトをつけ忘れて潜行失敗。流れが強くて合流できずに船上待機。その後移動中に水面近くで乱舞しているフィーディングマンタに遭遇し、一同大喜びでシュノーケリングセットをつけて飛び込んだ。左之助が興奮のあまり耳抜きをしくじったのはその時だ。そしてそれ以降丸々四日間を延々船上待機部隊で過ごした。比古たちが潜っている間は、船長とナポレオンフィッシュを釣ったり、船の操縦を教えてもらったりしていたらしい。問題の筋肉痛は、クルーズ船が水面をバッタのように跳躍滑走するのに耐えられず、全力航行の間中、舳にしがみついて身体を突っ張っていたためと、上官反逆罪とやらで翌日から毎晩十五キロのロードワークが課されたからだった。
なるほどもっとも、と剣心は半ば呆れながらも納得した。
それは確かにあまり人に言いたいような話ではない。そして、もし仮に冷戦状態でなかったとしても、とりわけ剣心には知られたくなかっただろう。
「しかも遅い」
比古が付け加えた。
「片腕のオヤジが十秒以上早かった」
マンタを発見し、フィン、マスクを装着して水に飛びまでの準備にかかった時間を言っている。
「ちょっと待て、アレは絶対あっちがおかしい。てか、ナニモンだよ、あのオッサン」
それに関してだけは剣心も左之助に味方してやりたい。関原氏は叩き上げの体育会系スパルタダイバーで、隻腕のハンデを微塵も感じさせない。それどころか、そんじょそこらの生半可なプロよりよほど達者で、ついでに無言の迫力も半端ではない。
だが、そう思って問題の生半可なプロの卵とその師匠を見上げたとき、比古が言った。
「フン。慣れんフルフットフィンなんぞ持ってくるからだ」
「おいオッサン! だから余計なこと言うなっつってるだろ」
ふいに矛先が変わって、心臓が跳ねる。
火事場じみた大騒ぎに紛れて忘れていたいろいろなことが、一気に思い出された。
目の前の人物と十年も連絡を断っていたことや、それをめぐって左之助と喧嘩したことや、あれやこれやと思い詰めて結局あの夜以来まともに寝ても食べてもいないことや、それから―――。
硬直した剣心の頭を、比古が上から大きな手で掴んだ。荒っぽく何度か揺すって、突き放す。荒いが乱暴ではない。かき乱された髪がバラバラと顔にかかった。
「潜ってるなら、みせておけ」
ボソリと呟き、背中を返して車に向かう。
「…………」
「ああ、それからな」
と、比古がツートン塗装の車の白い屋根に手をかけて一瞥した。
「ちゃんと食って、ちゃんと寝ろ。いい年した大人が何だ、パンダみたいな顔で、みっともない」
外見もサイズも可愛らしい英国車は、均整の取れた大きな身体を運転席に収めて健気に耐え、ぶるるんと身震いした。
「第一、それでは食いでがなかろうが」
なあ小僧、と言い置き、不気味に爽やかな笑みを残して、比古は車を発進させた。
駐車場の出口で一時停止したミニの窓がキコキコと開き、横顔がわずかにのぞく。
「その半死体、今日はもういらんから、持って帰れ!」
言われて剣心は足元を見た。なあ、と振られて何を血迷ったか何やら口を開く気配を見せた左之助を回し蹴りで地面に伏せさせた、それがまだそのままに横たわっていた。
紅白のミニクーパーを見送り、剣心はしゃがみこんだ。
突っ伏して動かないトリ頭をつついてみる。
「今日はもういいってさ」
振りは派手だったが本当は軽く当てただけで、実質ダメージはないはずだ。
「帰ろう?」
呟くと、行儀の悪い頭がむくりと起きて、ひどく真面目な顔が剣心を見た。それから息を吸って何か言いかけ、一拍おいて諦めたように口を閉じる。らしくない歯切れの悪さに違和感を覚えつつ、剣心は勢いよく立ち上がった。十も年の離れた子ども相手に、逆に自分の方が子どもな気分にさせられるのは落ち着かない。
軽い身ごなしでついてきた左之助の顔を改めて見上げた。
随分久しぶりな気がしてしげしげと眺めていると、頭にポンと手が乗った。指の長い大きな手を、この時はなぜか華奢に感じた。
「お前、今日はもう休め。な?」
神妙な声に思わずこくりとうなずくと、その途端、左之助は堪らえかねたといった様子で噴き出した。
「てか、なんかボロボロ」
言われて剣心は憮然としたが、ただでさえ睡眠と栄養と気力の不足でしおれかかっていたところへこの騒ぎ。大乱闘で服はよれよれ、髪はぼさぼさ。頬と額と腕に細かいすり傷、肘には赤痣、そして目の周りは下どころか瞼にまで隈が広がり、確かにピカピカのパリパリとは言い難い。
思い出したせいで、疲れと痛みがまとめてやってきた。
「だれのせいだよ」
口を尖らせ、ゆるんだ髪ゴムをなげやりな指で引き抜いた。バサッと大きくひと振るいして、ついでに乗っていた手も払う。
だが、そのまま結い直そうとした手を押さえて、左之助がちょいちょいと毛流れを整えはじめた。したいようにさせておくと、しばらくして気が済んだのか、今度は髪をなでつけていく。ゆっくり繰り返す掌のぬくもりが、情けないほど気持ちよかった。
「どっかでメシでも食ってくか? それか家でゆっくりする?」
胸にもたれた額から声が響いてくる。
「………どっかでごはんに一票。なんかパンチの効いたもの食べたい」
住んではいても不案内な二人連れで、とりあえず飲食店の多い繁華街まで歩くことにした。
「あ、忘れてた。お前んち連絡しとかないと」
「ああ。俺するわ」
えーっと、と鞄を探る剣心の横で、左之助は既に携帯電話の通話ボタンを押している。相手はすぐに出た。
「おう、俺」
『お兄ちゃん!』と叫ぶ声が、横にいる剣心にもはっきり聞こえた。
「ああ? いいや? 俺ぁ別に全然。それより剣心が大丈夫じゃなくて、今日はもう休ませるから……は? だから別に単に体調悪いだけだって。朝も言ってただろ。なんだ、事故って。お前なんの話してんだよ」
剣心が左之助の腕を叩き、交代交代としきりにハンドシグナルを出している。
「ちょっと待て。剣心に代わる」
剣心は右喜に事態を説明した。
間に人が入って話が大きくなってしまっていただけで、左之助のことは心配いらない。自分はただの夏バテで申し訳ない。晩ごはんは炊飯器にさくらご飯がセットしてあるので、冷蔵庫の甘鯛を焼いてつけ合わせのほうれん草のおひたしにはかつお節を云々かんぬん、と言っているところで電話が奪われた。
「ってことで、後、ヨロシク」
左之助は、カチャンとたたんだそれをジーンズのポケットにすべり込ませると、頬を膨らませて抗議する剣心の頭を掴み、
「だからいいから。さ、デートデート」
と能天気に声を弾ませた。
そのままぶらぶらと南西方向に向かう間も、左之助はどうでもいいような与太話を機嫌よく続けるばかりで、一連の出来事には触れない。本当に能天気なのか能天気なふりをしているだけなのか、鼻を膨らませた調子のいい顔を見る限りではどちらとも判別つきかねるが、これまでの経緯からして本気なわけはなし、万が一にも前者だとしたら、それこそ本気でつき合い方を考えるべきだろう。
しゃらしゃらと流れる鴨川を渡り、広大な京都御苑を横目に見つつ、ちらほらと古い町屋建築の残る静かな通りを下っていくと、小さなタイ料理店があった。小さな看板とグリーンのパラソルが出ているだけの簡素な店構えだが、厨房と思しき小さな窓から漂う香りに誘われて、入ってみることにした。そしてまずはと頼んだビールに口をつけたところで、根負けした剣心が歩み寄った。
「あの車、前から?」
「え……」
「似合わなさすぎのミニ。しかも赤」
話の唐突さに虚を突かれたのか、左之助は一瞬ぴたりと動きを止めて、それから盛大に噴き出した。
「いやそれがさあ、もう超大バカっつーか間抜けっつーかなんだよな実は」
わだかまりや屈託をあえて排したような強いた軽さで左之助が説明した話はこうだった。
元々比古は七十九年式のシボレー・コルベットに乗っていた。俗にスティングレイと呼ばれるスポーツカー史上に名高いアメリカの夢の車で、往年のカーマニアなら誰もが憧憬と羨望の視線を向ける。相当な年代物ではあったが、極端に燃費が悪い事と暑さ寒さに弱い事と雨漏りがする事とときどきエンジンが止まる事以外はさしたるトラブルもなく、とりあえず自動車の役目を果たしてはいた。
それがある時、古い馴染みの老人と賭けポーカーをした。比古が勝てばすっぽん鍋、老人が勝てば両者の車を交換するという酔狂極まりない賭けだった。つまりそれほどに自信があり、また実際に久しく不敗を誇ってもいたわけだが、その比古が、この時に限って負けた。そしてそれ以来、「どうでもいい時は絶対負けないのに」と時尾に呆れられつつも、約束通りに交換した赤の旧型ミニクーパーに乗っている。
「賭けしたのがダイビングフェスティバルん時だから、車は、えーっと、ゴールデンウィーク明けくらいかな。ぼちぼち3か月ってとこ?」
そのあまりに
らしい行状が、剣心にはいっそ懐かしかった。
「……あのさ。『ハリハリ』って店、お前、知ってる?」
「『ハリハリ』?」
「ん。そこのジイサン。賭けの相手。サイパンだって。ダイビングフェスティバルんときに、うちのブースに遊びに来たんだけど」
「うーん。聞いたことない。最近の店? あれ、でも師匠の昔馴染みって言ったっけ。だれだろう?」
「え、ああ、まあいいや、んなこたどうでも。いいから食おうぜ」
飾り気のない簡素な店だが、料理は抜群だった。生粋の日本人は店長だけで、厨房からはピッチの早い外国語が聞こえる。アジアを彷彿させる響きにタイのダイブクルーズを思い出した。アンダマン海を巡る四日間のクルーズ。まだジュニアのカードで潜っていた頃に比古と乗った。
左之助がふいに真面目な顔になって言った。
「剣心。ごめん、俺……」
「いいよもう。済んだことだし。っていうかお前、全然悪いと思ってないだろ」
「ばれたか」
「真面目に反省しろ。うりゃ」
指差されてにっかり笑った左之助の口に、剣心が皿からつまんだ小さな青唐辛子を放り込んだ。プリッキーヌと呼ばれる東南アジア特有のそれは、メキシコのハバネロと並んで世界で最も辛い唐辛子とも言われている。左之助はグラスに半分以上残っていたビールを一気に飲み干し、それでも涙目になってしばらく硬直した。たっぷり五秒は経ってようやく復活し、今度はそんな自分を嬉しそうに見ていた剣心の顎を掴んで同じ目に合わせる。
そうして完全本場仕様のタイ料理を食べ、シンハービールを飲みながら、剣心はサイパンにいた頃のこと、閑を見つけては比古と二人であちこち潜り歩いた時のことを話した。左之助は真剣に、あるいは大笑いしながら、あるいは眉をしかめながら、あるいは羨ましそうに、それを聞く。これまで暗黙のうちに互いにそこにだけは触れずにいた剣心と比古の間のあれこれは、しかし当然ながら破天荒なエピソードだらけである。おかげで酒もハイピッチですすみ、一時間余りですっかりご機嫌気分になって店を出た。
ところが、地下鉄の駅が近づくと、なにやら異様に人が多い。はじめは不審に思ったものの、群集の非日常的なはしゃぎぶりとやけに目立つ女性陣のゆかた姿で理由に思い至って、二人は顔を見合わせた。
「もしかして祗園祭? って今日かよ?」
「そうかも。ていうか宵山? どうりでタクシー大回りすると思った」
上下衛門が言った「こんな日だし」も、おそらくそれだ。まるで余裕のなかった剣心には見えも聞こえもしていなかっただけで、一か月に及ぶ祗園祭りのメインイベント山鉾巡行を翌日に控え、町中が文字通りお祭り騒ぎになっていたのだ。日程さえ知らなかった名ばかりの京都市民たちは、当然ながら京を代表するこの祭りを見たことがない。ちょうど帰る方向でもあり、せっかくだからと見物しておくことにした。
京の街路は碁盤の目。とはいえその道幅はさまざまで、狭いところではかろうじて四メートルというところだ。そのあちこちに全三十二の鉾と山とが立てられ、さらに道の両側には出店が並び、そこを見物客が右往左往するのだから、ただ歩くだけでも大概苦労する。まして今日は金曜の夜とあって人出は最高潮。手を繋いだくらいでは簡単に引き離されてしまう大混乱の中、はぐれないように腕を絡めて、贅と趣向を凝らした鉾や山、各家が年に一度だけ公開する秘蔵のお宝を見て回る。からくり仕掛けで動く蟷螂に感心したり、唐人屏風に描かれた子どもの可愛げのない顔が斎藤にそっくりだと笑い合ったり、ピンポン玉ほどもある大きなたこ焼きを頬張って危うく火傷をしそうになったりしながら、人と暑さと湿気と埃が凝縮された八百メートル四方の区画をジグザグに抜けていった。
そうして普通に歩けば四十分程度の距離を三時間がかりでようやく抜け切る頃には、二人ともすっかりヨレヨレになっていた。挙句に途中で宵山恒例の激しい通り雨にもしっかり降られて靴の中までぐしょ濡れだったが、祭りに煽られた浮かれ調子でそんなことは気にもせず、尚も四十分近くを歩き続け、真夜中を過ぎてようやく剣心のマンションまで帰り着く。
「つーか、お前、全然元気じゃん」
「そう! 超元気! まだまだ元気!」
と、はじけた元気っぷりで靴を脱ぎ捨てた剣心は、左之助を引きずって浴室に飛び込んだ。
「風呂入ろう左之。そんでもってスキスキしよう!」
気前のいい脱ぎっぷりに輪をかけてはじけたお誘いに驚きはしたものの、彼に断る理由はもちろんない。
「で、今日はどうさせていただきましょう先生」
浅く深く繰り返すキスの合間に左之助が囁いた。
「なんで。なんの気まぐれ?」
「ん?」
「いつも勝手に決めるくせに」
「え。いやあ、だってお前なんか今日すげー可哀想な子みたいだからさ。特別に決めさせてやろうかと思って」
「あっそ。そりゃどーも」
言いながらも剣心はくすくすと笑い続けている。
「それで? どんなコースがあるのかねキミ」
「そりゃもうお望みのままに。あ、でももう大概出つくしたので新ネタはございません」
左之助が真面目くさって言う。
「じゃ、普通コースで」
「フツー? それ一番わかんねーし」
「だから」
と、くるりと身体を入れかえた剣心は、馬乗りになって顔を寄せ、悪戯をしかける子どもの目で囁いた。
「普通に、全部」
口移しの奇襲に左之助が固まり、何度か口を開閉させてから言った。
「………なあ。なんか今日すげー可哀想な子だから、念のためいっぺんだけ訊いてやるけど」
「なんだよ」
やっぱり楽しそうに笑っている剣心の前髪をかき上げて、左之助が剣心を見上げる。
「全部って、全部?」
剣心が頷き、今度は左之助が上下を入れかえ覆いかぶさって顔を寄せる。
「マジ?」
また頷く。
「途中で待ったっつっても知らねーぞ?」
左之助がこつんと額を当てて声を低めると、剣心はくすぐったそうな声を立てて脇腹を突付いた。
「一回だけじゃなかったのか?」
生意気、と体重をかけて口に噛み付いた左之助の首に剣心の腕が回る。
互いにあちこち触れたり触れられたり舐めたり舐められたりしてしっかり身体も温まった頃、左之助の指先が剣心をノックした。訊かれて剣心は反射的に身をすくめる。思わず歯を食いしばると左之助が唇を合わせてきた。
「ふ」
「お前が言ったんだからな」
「ん……は」
「男に二言はないよな?」
「わ、かってる、けどっ」
「けど?」
それでも、痛いものは痛いし、怖いものは怖い。
「いい。言ってもお前にはわからない」
「……そんなにキツいのか?」
さすがにほんの少しだけ心配そうな顔でのぞき込まれて、剣心は首を傾げた。もちろん痛いことは痛いが、それだけではない。それだけでないからどうしようもないのだ。
小さくため息が漏れた。
「だからいいってば。どうせお前には一生わからないんだから」
「うわ、感じワル」
「だって」
わからないだろう、こんな気持ちは、左之助には。
身体の内側に得体の知れないものが沸いて這い上がってくる感覚。一旦つかまったら自分ではどうにもできない。どこだか知らないがどこかとんでもない処に連れて行かれる。
嫌いではないけれど。
でも本当は、そんなものすごいことをしなくても、肌で感じ合って体温を分け合うだけで充分だった。あちこち触って触られて、声を聞いて視線を交わす、それだけで充分だった。毎朝顔を見られて声が聞けて、仕事に行くのを見送って、運が良ければおかえりも言える。誰もいないときや、居ても目さえなければ全く懲りずに出してくるちょっかいを、時に遊び半分、時にはいいかげん本気で怒ってはねつけて戯れて、それだけで充分だった。
怖いほど幸せだったのに。
でも、左之助にはわからない。きっと一生わからない。
常に前へ前へと逸り続ける左之助には、こんなの一生わからない。
「う……」
身内にざわめく気配がたまらず、左之助にすがった。器用な指が間断なく内側を探って、敏感な部分を起こしていく。外からの刺激とは種類も強さもまるで異なる律動に流されそうになりながら、うわごとのように名前を呼ぶ。それに応えるように空いている方の手と唇がところかまわず優しく触れてくるのがかえって切なくて、涙がこぼれた。だがそれも左之助が吸い取っていく。
「大丈夫。大丈夫だから」
低く囁く声に頷きながらも、涙は止まらない。
こんなことがずっと続かないことくらい、わかっている。
第一、東谷家の仕事も長くはない。右喜は就職が内定したし、央太も来年は五年生。二年もすれば中学に上がる。よくてそれまで。
そんなことは、わかっていた。
それでも、少しでも長くこのままでいたかった。
何ひとつ、ほんの少しも変えたくなかった。
だからたったそれだけのことが、どうしようもなく怖かったのだ。
それがただの口実でも現実逃避でも不義理でも、逃げて済む話でなくても。
「剣心? ちょっと放して? いい子だから」
目一杯の力でしがみつく剣心の腕に左之助が手を添えた。
なだめられてぽとりと腕が落ちる。
だが、ヨイショとうつ伏せにされると、剣心はじたばたと暴れ始めた。
「ちょ……さのストップ! たんまたんま」
「だーめ! 待ったナシっつっただろ。てかお前、毎回毎回往生際悪すぎ」
「じゃなくて!」
「じゃなきゃなんすか、先生」
だから、と、ほとんど消え入った声をかろうじて聞き取って、左之助は破顔した。
小柄な身体を軽々と表返して、何度か髪をすく。
あらわした額に唇で触れて、
「これでよい?」
返事の代わりに目を閉じた剣心に口づけた。
「どない? こんな感じで」
汗ばんだ額に掌をのせて左之助が訊いたが、剣心は半ば放心状態で胸を上下させている。
「フツーに全部してみましたケド」
「………普通? これが?」
「足りね?」
「いや、いい。もう充分。ていうか明らかにやりすぎ」
「え。まだ一回表なんですが」
「冗談。一本勝負延長ナシで結構です」
「大丈夫大丈夫。まだ全然元気だし」
「生憎俺はもう全然元気じゃない」
「それこそ冗談! 二か月もお利口にセーブした俺の立場は」
「知らんわからん一生ムリ」
「うわ、可愛くねえ。わかれ。努力しろ。ほんで協力しろ。または諦めろ」
「やだ、おあいこ。お前だって超わかってないし」
「いやあ、かなりいけてると思うけど? ホレ」
ピンポーンこんちわー、と、神妙な顔で胸の呼び鈴を押す。びくんと身を震わせた剣心は、一瞬の空白の後で勢いよく跳ね起きて逆襲に出た。
「くそう、このやろ! なんだよ中耳炎のくせに!」
と叫びながら、膝で乗り上げてぽかぽかと乱打する。
左之助なんて、ダイブマスタートレーニングにまで入っていながら耳抜きは失敗するしウエイトはつけ忘れるし関原のオヤジに遅れは取るし、海の怖さもちっとも判ってないし比古にはいいように遊ばれているし、要するにもう全然お話にならないくらいピヨピヨの青二才なのだ。
でも。
でも、確実に先へ進んでいる。
先へ上へと道を拓いている。
そうして手の届かないところに行ってしまうまでに残された時間は、きっとそう多くない。
剣心の拳が止まった。
両手ですべらかな頬を包んでのぞき込む。
黙って見つめてくる強い眸に眩暈がして、目を閉じた。そのまま輪郭を辿り鼻をかたどり唇をなぞりまた頬を撫で、指に左之助の顔を教えていく。指先の感触と瞼裏の映像を重ね合わせていると、指にぽとりと滴が降った。
自分で驚いて瞬いた目頭に、左之助の指がそっと触れる。
「泣くなよ」
「な、泣いてなんか」
「泣いてんじゃん」
「泣いてない!」
「じゃあコレなんだ」
左之助がしょっぱい指先を剣心の口に押し込んだ。
「は、鼻水っ」
ぷっと吹き出した左之助に、
「鼻水舐めてやんの」
と茶化され、剣心がぐいと顔をこすりつける。
「えい! 鼻水攻撃!」
そのままなんだかんだとじゃれ合って、ほとんど眠らないうちに気がつけば空が白んでいた。
朝だと思った途端、猛烈な疲労感と睡魔に襲われ、剣心はことりと眠りに落ちた。
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