<6>
泥のような睡眠のなか、だが、二度ほど眠っている自分を知覚した。
一度目はタオルで耳の後ろをくりくりと拭かれていて、どうやら風呂上がりらしい、と思った。
二度目はぴこぴこと鳴るアラーム音に呼ばれた。
目覚まし時計じゃなくて、キッチンタイマーじゃなくて、なんだったっけか、この音。
寝ぼけていると寝ているの間をうろうろしながらそんなことを思いはしたが、左之助が仕事に行ったのがその直後なのか余程時間が経ってからなのかはよく分からない。ただ、出かける前に、しばらくベッドに腰掛けて髪をすき頭を撫でて何度もキスして、それから何か言っていたのは覚えている。最後に「知ってる」と言ったのが聞こえてドアの開閉音が続き、次に目覚めるまでの記憶はない。
何かに驚いたように、剣心が目を開けた。
見開いた瞳に間近く見つめる左之助を写して、ぱちぱちと瞬く。
数瞬おいてむくりと起き上がり、部屋を見回した。
「ただいま」
左之助が顔を寄せて頬に唇で触れると、条件反射で同じようにキスを返してから、思い出したように首を傾げた。
狐につままれたような顔で見上げる剣心を左之助が真顔でのぞき込み、目の前でひらひらと手を振って見せた。
「おーい。起きてっかー」
「え。ああ、うん。えっと、でも何? お前仕事は? っていうか今って……?」
と、目が泳いだ。時計、窓、もう一度時計、それから左之助。
間違いない。十二時は十二時でも、昼の十二時だ。
今日は多分土曜日。丸一昼夜眠りこけていたとしても日曜日。
彼がここにいられるはずはないのだが。
「早退。それよかお前、起きれる? 病院行くから用意しろよ」
「病院? え、早退って、おい、耳、悪いのか?」
「いいから早く」
いくらか刺々しくさえ感じられるぶっきらぼうな口調。
違和感を覚えながらも、回転の止まった頭で急かされるままに身支度をして、家を出る。
車は、マンションの入口のすぐそばに横付けされていた。
「左之? 俺、運転する?」
「悪い。頼む」
目を逸らして言った顔の険しさよりも、素直な承諾に非常を感じた。
どちらかというとダイナミックな剣心の運転を、左之助は好まない。どしゃ降りの雨の中、一方通行の市街を二ブロックほどバックで爆走して以来、海帰りの長距離以外はハンドルを渡さなくなった。それも全開ドリフトで峠のカーブを攻めたりしないよう高速道路限定で解禁する。
それが街中で、ましてこんな日に運転を任せるとは。
よほど調子が悪いのだろうか。
山鉾巡行の混雑を避け、市街中心部を大きく迂回して、西大路から北大路回りで京大病院を目指す。
「痛むのか? 次、来週って言ってただろ?」
「俺じゃねえ。お前だ」
「は?」
「高荷先生にアポとってあるから。ほんとは朝イチって思ってたんだけど、訊いたらデータあった方がいいって言うし」
「ちょ、ちょっと待てって左之。データって、お前なんの話してるんだ? ていうか、なんで俺? 俺、別に耳とか何ともないぞ?」
話が見えない。だがおそらく雲行きは怪しい。
「それで、なにがどうしたって?」
鴨川上流の高野川を越えて東大路に入り、車を路肩に止めてようやく剣心は説明を求めた。
左之助は何も言わず、ダッシュボードの上に置いてあった大判の封筒を剣心の膝に投げた。海屋のロゴが印刷されたそれには、ペーパークリップで綴じたA四紙の束が入っていた。コンピュータの画面をハードコピーしたと思しき折れ線グラフが約二十枚。
「……え? これ…って……」
ログ(潜水記録)だ。しかも覚えのある。
ダイブコンピュータの性能や機能はメーカーや機種による。彼らが使っているモデルは、本体表示では最大水深、潜水時間、インターバル程度の簡単な数値しか見ることはできないものの、コンピュータ用の読取端末機を使えば、各潜水の詳細データを取り出し、エントリーからエギジットまでの深度変化を一分単位でグラフ化することができる。
繰りながら速度を増していった剣心の手が十枚目でぴたりと止まった。
手の中の紙よりも白い顔色になって、左之助を見た。
「お前、これ……」
「借りた」
いつのまにか、左之助の手には剣心のダイブコンピュータが握り締められていた。
ウワテック社アラジンプロの保存可能ログは十九本。
その十九本分のデータが、剣心の膝の上に乗っていた。
直近九本は今年に入って左之助と潜った南紀のログ。
そしてその前の十本は、十年を遡る。
正視できずに伏せたものの、十枚目のログが示す乱れた折れ線は目に焼きついた。
今朝だ。
あの音。
夢うつつで聞いたアラーム音。
ダイブコンピュータの作動音だったのだ。
「………何の権利があってこんなことをする」
「権利だと?」
「こんな、勝手に……! いくらなんでも、していいことと悪いことがある!」
カレンダー機能のない機械は歳月を知らず、それゆえに何の斟酌もなく十年前の海難事故を克明に再現していた。
エントリーから潜行、しばらくの平和なダイビング、そして浮上間際にダウンカレント(下げ潮)に引きずり込まれて、その後急浮上。グラフは途中いったん計測限界深度の水深六十メートルを超えて落ち込み、数分間は深度さえ不明。
これが本当に人間の潜水記録だとしたら、無事ではありえない。
「るせえ、それこそこっちの科白だ馬鹿野郎!」
乱暴に胸倉をつかまれ、そうされたことではなく、そうした左之助の剣幕に驚いた。
怒っている。
これまで見たことがないくらい、深刻に怒っている。
「なんでこんな大事なこと隠してやがった」
ぎらついた目が険悪な光線を叩きつけてくる。
意外の剣幕にたじろいだが、すぐに立場が逆だと憮然とする。が、一度たじろいだだけ、剣心に分が悪い。
「………もう、治ってる」
生還自体が奇跡以外のなにものでもなかった。
重度の減圧症で緊急搬送された剣心は、日本に帰ってさらに幾度かの再加圧治療を繰り返し、完治までに半年を要した。
「本気で言ってんならコロスぞ」
ドスの効いた声ですごむ左之助の両手が剣心の二の腕をつかんだ。
レジャーダイバーは単独潜水をしてはならない。必ず有資格ダイバー同士の二人一組で潜らなければならない。そして二人は常に手の届く範囲にいて、互いの状態を把握し、助け合わなければならない。たとえ十人で潜るとしても、それは十人の一チームではなく、五組のペアでなければならない。
海では当たり前のように起こる自力解決不可能な不測の事態に備えた、これをバディシステムといい、相方をバディという。
ダイビング器材のひとつに通常まず使うことのない予備の給気ホースがあるが、それは自分のため以前に、何かのトラブルでエアーの供給源を失ったバディのためにこそある。命綱を共有し合うバディに、不信や隠し事はあってはならない。とりわけリスクは。そんなことは、厳しい指導を受けている左之助はもちろん、海の脅威を身をもって知る剣心には、あまりにも当然の認識のはずだ。
「こないだの白浜」
腕にかかっていた左之助の手が緩み、微かにさする動きを見せた。
「症状、出てたのか」
「え……」
「帰りの車で! 肘とか膝とか、おかしかったんじゃねえのか!」
―――もしもし緋村サン? 何をしてらっしゃるんで?
―――いや、ちょっとその、運動?
上の空で肘を曲げ膝をさすっていた剣心に、左之助が問い、剣心が答えた。
関節型減圧症の最初の知覚症状は、関節または筋肉の痺れや違和感である。
「クソッ。よりにもよってなんであんなポイント……」
ビーチだが二十メートル超の深度が出る梶原島で立て続けに二本を潜り、直後に重い荷物を担いで階段を上がった。しかもそんなときに限って、時計の見間違いなどというつまらない不注意でインターバル休憩が不足した。
ひとつひとつは些細な要素でも、積み重なれば看過できない。まして前歴があるのならば。
「……言えよ、そういうことだけは! 頼むから!」
掴んだ両腕にすがるように頭を落として、左之助が掠れた声を吐き出した。
「は、放せってば!」
たしかに左之助の言っていることは正論で王道で理に適っている。だが、だからといって、だまし討ちのようなこういうやり方は、やっぱり気にくわない。冷静に考えて、これは自分にも多少の怒る権利があると思う。なのに左之助の逼迫にその怒りを乱され、まるで出来の悪いテストを隠蔽したのが見つかったみたいな気分にさせられている、そのことがさらに気にくわない。
「だからって人のダイコン勝手に持ってくなんて卑怯だ!」
掴んでいた左之助の手を乱暴に振りほどく。
「だ、大体お前に身体の心配なんかされる筋合いない! 減圧症なんかよりお前の方がよっぽど身体に悪いんだからな、このすっとこどっこい! 花マルつきの超健康優良児だったのに、お前のせいで寝不足だし夏バテだし、お前が馬鹿ばっかするから殴りすぎで手だって痛いし、いらん心配かけるし滅茶苦茶するし虫歯はうつすし!」
「……おいちょっと待て、だから虫歯はチュウじゃうつらねーって」
「うつる!」
「うつらねえ!!」
「うつるったらうつるっ!!!」
感情に任せた口論の常とはいえ、話はあまりに見当ちがいな方向へ転がっている。
睨み合って火花を散らしたところで、さすがにこれではまずいと我に返った左之助が両手を挙げて言った。
「……ストップ。わかった。俺が悪かった。その話は今度にしよう。な? だからとりあえず今日んとこは高荷先生に診てもらってくれ。頼むから」
「う……」
なだめる口調でそんな風に言われてしまえば、反論する方が子どもの駄々になってしまう。何より、専門医の診察を受ける必要性自体は、比古や左之助に言われるまでもなく、剣心自身こそ感じているのだ。
不本意ながらもその言に従う形で、いつにもまして荒い運転で病院に乗り込んだ。
連れて行かれたのは麻酔科。この病院では高加圧治療は麻酔科の管轄になるらしい。つまり高荷医師は麻酔科の医師であり、昨日の左之助の件は耳鼻咽喉の専門医としてではなくダイバーの病理に詳しい一医者としてのセカンドオピニオンだった。だから一般外来はとっくに終わったはずの夕方に来ていたのだ。
診察には小一時間かかった。
連れ立って廊下に出てきた剣心と医師の前に、左之助が茶色いビニールの待合ベンチから腰を浮かせている。
その姿に二人は目を丸くした。
「あ……」と言ったきり言葉に詰まったその顔が、何事かというほど憔悴している。
場慣れした女医は、ふう、と息を吐いて、柔らかい口調で言った。
「大丈夫よ。何ともないから」
「再発したわけじゃ……」
「ありません。兆候もゼロよ」
「ダイビングは続けても……」
そう訊かれて、医師は軽く眉を上げて小さく笑いながら、
「ええ。全く問題ないわ」
と断言した。
それを聞いて左之助がどさりとベンチに腰を落とした。
「……った――」
「だから昨日も言ったでしょ? 危険は危険だけど、減圧症って言っても、君が思ってるほど絶望的なものじゃないって。人の話、ちゃんと聞いてる?」
「あ、先生、それ」
腰に手を当てて胸を反らせた高荷医師にそう言ったのは剣心だった。左之助は深く腰掛けて壁にもたれたまま呆けている。
「昨日って、結局なんでチャンバー室なんかにいたんです?」
「あら。取材ですよ? あの後だれも説明しなかったんですか?」
「え、あ、いえ、えっとあのう……」
他のことに忙しくてそんな話をする時間がなかったとは言えない。
「えーと、取材って?」
「社長のところのホームページに“ダイバーズ・クリニック”っていうページがあって、私、それのお手伝いをしてるんです」
ダイビングに関する健康不安について解説するコンテンツで、これまでに、耳抜きや鼻血、頭痛、風邪といったトラブルや体調不良を取り上げてきた。
次のテーマが減圧症に決まり、打ち合わせを進めるうちに、それならばチャンバー見学レポートでも載せてはどうかという話が浮上した。そして病院側の承諾も取り付け、では日程調整、という段階になっていた矢先に、左之助が耳を痛めたのだ。
「それで、じゃあついでにそれも、ってことで、来てもらったんです」
剣心は、どっちがついでなのかはあえて訊かず、
「それでデジカメ?」
と、左之助を見た。
左之助は相変わらずフルマラソンを走破したアスリートのような様子のまま、カクカクと何度かうなずいた。
その様子に高荷医師が苦笑する。
「危機意識はもちろん大切だけど過剰に怖がる必要はないって、昨日も言ったんですけどね。まあでも仕方ないか。これには私も目を疑いましたから」
「………」
返された紙束を、剣心は無言で受け取った。
「充分おわかりとは思いますが、くれぐれも自重なさってくださいね」
「……はい」
「無理はしないこと、水面休息を充分に取ること。あと高度変化。すぐに飛行機に乗らないのはもちろんですが、車でも山道なんか結構高い場合があるので気をつける。あ、直後の激しい運動も要注意ですからね」
「はい」
「ちょっとでもおかしいと思ったら、すぐ来てください」
黙ってうなずいた剣心に、女医が小さなペン状のものを差し出した。
「それから、これを差し上げましょう」
「?」
太目のボールペンほどの太さのグリップの先に一円硬貨大のギザギザローラーがついたそれは、ソフトルレットと呼ばれる裁縫用しるし付け用具である。型紙と布の間に、あるいは布と布の間に転写用チャコペーパーを挟み、このルレットでラインをなぞって、布にしるしを転写するというのが正しい使用方法である。
どう考えても場違いな物体の登場で、剣心の頭上に巨大な疑問符が浮かんだ。
「セルフチェックにいいんです」
女医が剣心の腕を取ってルレットを当て、筋に沿ってコロコロと動かした。
「ひゃ?!」
くすぐったそうに腕を引っ込める様子に、だが医師は真剣な顔でうなずいた。
「普通はそうなんです。でも、出たら、これが痛く感じるんです」
「………」
「持っててください。冗談みたいな道具ですけど」
「……ありがとうございます」
両手でそれを受け取った剣心が改めて礼を述べ、左之助を促して辞しかけた時。
「あ、はい! センセイ!」
左之助が突然元気に医師を振り返って、小学生のように右手を上げた。
「はい?」
「虫歯ってキスでうつる?」
「…………はい?」
「いや、俺はうつらない派なんだけど、コイツがうつる派で」
握りこぶしの親指を立てて剣心を指した。
「……うつらないっしょ?」
さっきと同じか、もしかしたらそれ以上に真剣な顔で訊ねてくる大きな小学生に、女医は呆気にとられている。その横で剣心はとっくにメーターが振れきって硬直している。一瞬おいて医師は爆笑し、我に返った剣心がその場で回転をつけた助走なしのラリアートで左之助を黙らせ、かさばる身体をそのまま引きずっていく。身体を折って笑い続ける美人の先生に顔が向けられず、それでも挨拶の言葉だけはきちんと残して、可能な限りの最速スピードでその場を離れた。
結局、会計を済ませて駐車場に戻り、やっぱりワイルド極まりない剣心の運転でマンションに帰り着くまで、ほとんど口を利かなかった。
「剣心。ちょっと真面目な話していいか?」
まだ新しいマグカップに口をつけかけ、左之助が思い直したように顔を上げた。
薫り高い紅茶をすすりながら、剣心がうなずく。
松で燻したスモーキーな薫り。と言えば聞こえはいいが、かなりの精度で正露丸に酷似した匂いを強く放つラプサン・スーチョンは、好き嫌いの激しく分かれる紅茶である。
口をつけずに難しい顔で琥珀色の液体を凝視している左之助の表情を見て、失敗だったなと思いつつ、口を開いた。
「ちょうどいい。俺も話があった」
「話?」
「……後でいいけど」
「いや、そっち先でいいし」
「だからいいって」
「いいから」
変に気まずい譲り合いを幾度か繰り返した後、剣心が折れた。
「じゃあ言うけど」
卓に置いたカップを両手に包んだまま、左之助に目を据えた。
「こういうやり方は、好きじゃない。もう二度とするな。正直、けっこう限界だ。悪気がないのは判るけど、でも、次は多分、許せない。…………お前を嫌いになりたくない」
静かに言って、剣心は左之助を見た。左之助も剣心を見る。
険しくも熱くもない静かな視線を交えて、しばらくどちらも目を逸らさず、黙って見つめ合った。
数秒だったのか数十秒だったのか数分だったのか、しばらくして口を開いたのは左之助だった。
「なあ。俺といるの、しんどい?」
やや意外そうな顔で、剣心が首を横に振った。
「俺、頼んない?」
一拍おいて、また振る。
「信用できねえ?」
再度ぶんぶんと否定した剣心の顔は、今やはっきりと唐突な問いの意図を質していた。
「じゃあなんで人のハナシ聞かねんだよ」
「……え?」
「ってのが俺の話だったんだけど」
「話を聞かない? なんで? 聞いてないのはそっちじゃないか」
「ふざけんな、お前が聞いてねえんだよ! いつも! 大事な話ばっかり!」
「左……」
「うちの仕事辞めた時も! ダイビングやめんのかって言った時も、オッサンと仲直りしろっつった時も! ここでも、河原でも! いつもどこでも!! 全然聞かなかったのはてめえだろうが!!」
「左之……」
「こんなの好きじゃねえって、だってじゃあどうしたらいいんだ。昨日だってそうだろが。病院でオッサンがあんなコト言ってたから、もしかしてきっとそうなんだと思って、でもどうせ訊いたってお前絶対言わねえし、それにまさかあんな酷いと思ってなかったし、だからそっちから言い出すまで放っとこうと思ってたんだぞ俺は!」
「………」
「なのに何だよ。んな顔でボロボロボロボロ泣きやがって、クソッ。お前がそんなだから俺……!」
と言って、左之助は言葉を途切らせた。口を開いて何か言いかけたまま、訴えるような目で剣心を見つめてくる。ふと既視感を覚えた。
「……畜生、なんだよ。俺にどうしろって言うんだバカヤロー」
「左之」
「………」
「ごめ……。ごめん、俺……知らなかった……」
剣心はカップから手を放すと、同じようにマグカップを握り締めて強張っている左之助の指をほどかせ、手の中にあった白い器をテーブルに置いた。
「左之。ほんとのこと言うとさ。俺、昔のこととか別にもうどうでもよかったんだ」
左之助の手は中身を失ったまま膝の上に固まっている。それを剣心が両手で包みこんだ。
「先のことなんかもあんまり考えない方だし、それより今が大事だったんだ。俺にとっては」
唇を噛みしめて必死に何かに耐えている左之助の顔を、のぞき込む。
「ごめん、俺……。俺、もうどうしようってくらい毎日幸せで、もう全然いっぱいいっぱいで、お前がそんな風に思ってたなんて、全然気づかなかった」
ごめん、と、宝石のような黒い球体を見つめて、指に力をこめた。
「でもさの、好きだから」
唇の触れ合う距離で、剣心が囁く。
「お前のこと、ちゃんと好きだから」
「そんなこと知ってる。知ってるけどっ」
「好きだから」
言葉と息を交互に吹き込む、それを何度も繰り返し、ごまかすなと怒る左之助の口を封じる。
そうしながらそっと目を開けると、視界いっぱいに左之助の顔があって、胸が騒いだ。いつだったか発見した眉の中のほくろ。ふさふさと長いまつ毛。整った顔。何も考えられなくなってただ見とれて、それから少し顔を離す。ゆっくり瞼を上げた左之助と一瞬視線を絡めてから、両手で胸を突いた。
「のわ」
左之助の上体が勢いよく後ろに倒れて、ゴツンと音がした。痛え、と軽く目を回している長身にのしのしと迫って押さえこみ、頬を手挟んで口づける。ふにゅふにゅと意外な柔らかさを示すそこを、啄んだりつついたり、ちょっと舐めてみたりして、しばらく気まぐれに弄び、いい加減首の後ろが痛くなってきたところで、急に深く絡めて驚かせてみた。唇を離して体を起こすと、腰の後ろを何やら硬いものが刺激する。
「にょき」
そう言って体を少し後ろにずらすと、剣心の頬を挟んでいた両手が、頬をびろんと横に引っ張った。
「もしもーし。俺、昨日からほとんど寝てないんすけど」
「大丈夫大丈夫。気にするなって」
「いや、っていうかー」
「つべこべ言うな」
「む………」
御託を並べるうるさい口を塞いで、ついでに鼻をつまむ。だが、しばらくあっぷあっぷしていた左之助に今度は同じように逆襲され、結局ほとんど同時に降参した。顔を真っ赤にして笑い合い、またキスをする。
「じゃ、今日は体力の限界に挑戦コースで」
顔が離れたときにそう言ったのは、左之助ではなく剣心だった。
「痛いのヤとか言ってたの誰ですかー」
「だから判ってないって言ったんだ。んなのウソに決まってるだろ」
「………は?」
「ただの口実」
「口実?! なんの?!!」
「さあな。おとなしくおあずけ食らってるような腑抜けには教えてやらん」
「……テメー。くっそ、このヤロ、もうマジ怒った」
「わっ。冗談だろ冗談。真に受けるな馬鹿」
「知るかうるせえ。もう泣いたってやめてやらねーからな」
「いてっ、ちょ、待てって! だからお前がヘコんでるから……え、だ、あっ」
「覚悟しろ。一滴残さず絞り取ってやる」
どこまで本気かわからない勢いでそう言って、大きな手で剣心の手足をまとめてねじ上げ、身体を起こした。
左之助の手が頭を撫でている。ゆっくりと頭を撫でて、続きに髪を梳いていく。知覚のないはずの毛髪にまで、その手指のぬくもりを感じる気がした。
突如無性に顔が見たくなって目を開けると、胡坐座で自分を見下ろしていた左之助が驚いた様子で忙しくまばたきした。
半分寝ぼけた頭で、こんなことが前にもあったような気がする、と思って、剣心はくすりと笑った。
笑った剣心の頭に、左之助が拳骨を当てる。
「ゴメンナサイは?」
「……もう充分だろ。まだ言うか」
「ヤってる最中のなんか謝ったうちに入るかっての」
「ていうかお前だよお前。お前が謝れ。滅茶苦茶しやがって阿呆馬鹿ちんどん屋」
「るせー。純真な青少年を騙してゴメンナサイ、だ。謝れウラ」
剣心が左之助の頬をつねり、左之助は剣心の耳を引っ張る。
「エロエロ。エロガキ。変態。やっぱりお前が一番身体に悪い」
「ふん、そーゆーのがいいくせに。ヤメテヤメテーモットモットーってヒーヒー泣きまくってたのダーレでーすかー」
楽しそうなエロガキの胸に剣心の掌がもの凄い音を立てて張りついた。水泳の飛び込みで腹打ちでもしたときのような高い音が響いて、左之助もさすがに一瞬声が出ない。しばらく悶えてからようやくため息じみた長い息を吐いた。うっすらと朱鷺色に染まって丸まってしまった背中にのしかかり、耳に囁く。
「もう騙されねーからな」
「だから騙してないって。そっちのが嘘だし」
「言ってろ狼少年」
縮こまる身体を腕に閉じ込めて手を捉え、指をくわえて耳元で吸い上げる。
「……っ」
わざと濡れた音を間近く聞かされて、剣心が固く目をつぶる。
「まだいけるっぽいじゃん」
「ば……か。まじで死ぬって」
「つーかさ、お前ってなんでそう無謀に果敢なのかね」
「……よ、余計なお世話っ」
「いや、俺はもう全然いんだけど」
左之助が楽しそうに目を細めた。弄っていた指先に音を立ててキスをして、剣心の胸に返して身体ごと抱きすくめる。
「まあじゃあ、めでたく解禁ってことで」
「……時々な」
「まだ言うかよ」
「だから後がしんどいって言ってるだろ。自転車だし」
「送ってやるって」
「いらんわ、馬鹿者」
可愛くない、と言って、左之助は身体を起こして、剣心をすくい上げた。
正面から抱き締めた腕の強さが剣心のへらず口を止める。
腕の中にすっぽりとおさまった小さな体の肩に顔を埋めて、両手で丸い肩をさすり、腕で背中を撫で、胸に包み込み、左之助の方が縋る狂おしさで剣心をかき抱く。
剣心は黙って彼の背中に手を回した。
そっと抱き返すと、さっきまでとはまるで異なる調子で、左之助が囁いた。
「すまない。ずっと、ひとりで、苦しませて……」
痛いほど真剣な声が少し掠れていた。答える代わりに、回した腕に力をこめる。
そのまま、剛性のぬくもりに意識を預けて、目を閉じた。
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