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蓼食う虫は蓼を食う


 チャイムの音が聞こえた気がした。
 シャワーを止めて、しずくを滴らせながら廊下をのぞくと、やはりインターホンのランプが点灯している。エントランスのオートロックドアからの呼び出しを告げる色。
「はい、どちらさま?」
「えー、もしもしこんばんは。東谷左之助ですが、緋村剣心さんはご在宅でしょうか」
 真面目くさった声で、もちろん冗談を言っている。
「え、左之? なんだどうした? 海は?」
 驚いて、とにかく施錠を解除した。
 それから慌てて体と髪をふき、部屋着を着たところへ、再びチャイムが鳴った。
 ドアを開けると、まず強い風と雨が吹き込んできた。
「わ」
 続いて左之助本体。最後にボストンバッグ。すべりこんだ背中でドアを閉め、ふう、と息を吐く。
「ういー。こっちも本格的に降り始めてんな」
「海は? ツアー中止?」
「おう。とりあえず朝一本潜ったけど、もう、全然。帰れるうちに帰ろうって、昼食べて出た。夕方警報出たって」
 水曜の夜から福井の越前に行っていた。日曜までいる予定だったが、木曜になっていきなり台風が猛進撃してきた。列島を直撃して北上したそうな様子を見せており、深夜から明日土曜の未明にかけて北陸に上陸か、と予報が出ている。当然、スクーバダイビングの講習どころではない。
「そんで、どうしたんだ?」
 なんで六月に台風が来るかね、とぼやく左之助を招き入れながら、剣心が訊いた。
「え? なに?」
「いや、だから、なんかあったのかと思って」
「なんで?」
「だって、いきなり」
 突然の来訪に当惑している、その意思はさっきから態度にも声にもはっきりと出している。
「来たらまずかった?」
「そんなことないけど、ちょっと……びっくりしただけ」
 左之助がここへ来るのは、あれ以来。
 もう二週間になる。
 左之助の顔からすっと表情が落ちた。
「迷惑なら帰るけど」
「ちが、そんなこと言ってない」
「顔が言ってる」
「だからびっくりしただけだって言ってるだろ!」
「じゃあなんでそんなに」
 険悪な顔で詰め寄られ、条件反射で身がすくんだ。壁に背がぶつかって相手の影に閉じ込められ、思わずきゅっと目を閉じたところへ、上から不機嫌な声が降ってくる。
「……だからなんでそこでビビるんだよ」
「びびびびびってなんか!」
 ない、と打ち消そうとしたが、声がすでに思い切りびびっている。
 左之助の顔が少し歪んで、そして小さく噴き出した。
「……は?」
「お前、マジでどうしたん?」
「笑うな馬鹿! 俺は真面目に」
「真面目に?」
 ずいっと覗き込んだ顔は、もうちっとも笑っていない。
「真面目に、なんだ? 後悔してんのか?」
 左之助と、いわゆる深い仲になったこと。東谷家の家政夫に戻ったこと。
「だからずっと避けてた?」
「う」
 そう、あれ以来、避けていた。
 二週間、仕事先、つまり彼の家でしか、会っていない。
 そこでは剣心は頑として左之助の手を拒む。左之助は何度か来ようとしたが、いかんせん生活のリズムが合わない。剣心は平日勤務で朝が早い。左之助の仕事は夜が遅くて週末が勝負。金曜の夜から和歌山やら越前やらに泊り込み、帰ってくるのは日曜の深夜。しかも夏に向けて日々忙しさは増し、今回のように週の半分を海で過ごすことも日常茶飯事になっていく。
 お互い社会人なんだから仕方ない。
 剣心は口ぐせのようにそう言っていた。
 だが今は金曜の夜で、剣心は明日と明後日は休みで、左之助は台風でライセンス講習が中止になって戻ってきた。ここは剣心の家で、仕事中でもなければ職場でもない。
 拒む理由は、ないはずだった。
「どっちだよ」
 左之助が怖い顔で迫る。剣心はますます壁にはりついた。
「俺がヤなのか、仕事がヤなのか、うちの店が」
 左之助の勤める店。剣心の恩師の店。サイパンの店をたたむ原因となった海難事故以来、音信不通の、養父の店。
「気になるのか」
 剣心は俯いて、ぷるぷると首を振る。
「じゃあなんで避けんだよ」
 剣心は困った。左之助の疑いが、あまりにも的外れなくせに最悪に深刻で、このままではどんどんまずいところに突っ込んでいくのは明らかだった。
「だからそうじゃなくて」
「そうじゃなきゃなんだ」
 噛みつくように言い返したところで、左之助は突然言い惑った。喜怒哀楽でいえば怒に近い険悪さだった強気な顔に、滅多に見ない色の翳がさす。声がさらに低くなった。
「やっぱり気にしてんのかよ。普通じゃないとかって」
 すごまれて剣心はげんなりと壁にもたれた。そのままずるすると滑り落ちたいのをこらえて呟く。
「……勘弁してくれよ、もう」
 ああもう、なんでこんな情けないこと言わせるんだ馬鹿野郎。
「全部はずれ! ヤなのは痛いのだけ! わかったか馬鹿!!」
 開き直って胸を張って言うと、左之助は目を点にしてぱっくりと口を開いた。
「……は?」
「“は”じゃない! っていうかあんとき言ったじゃないか! こ、こんな痛いのもうごめんだって!」
 剣心は、顔どころか耳から首から頭の地肌から指の先から、とにかく肌という肌が珊瑚のように真っ赤になっている。これが動物なら全身の毛が逆立っているところだ。
「……なんだよおい、そんなことかよ」
 左之助がため息まじりにそんな言葉を吐き出した。
 想像していたどのシナリオとも違う予想外に平和な展開に、よほど拍子抜けしたらしい。しばらく壁に両手をついたままがっくりと頭を落としていたが、思い出したように顔を上げた。
「ケータイ出ないのもそれでか?」
「携帯?」
 いまどき珍しく非携帯人間だった剣心も、ついに携帯電話を持った。といっても番号を知らせる相手は大していない。
「つーか、お前のケータイ、掛からなさすぎ。メールも返事来ねえし」
「でもだって仕事中と夜は電源切ってるから……。けどメールは気づいたらちゃんと返してるじゃないか。っていうか、ああいうメールやめろよな」
 一体いつどこでどんな顔をして打っているのかと感性を疑わざるをえない文面ばかりで、とても外では開けない。といって削除できずに既読メールの数字が増えるにまかせているのは剣心なのだが。
「……なんで電源切るかね。勘弁してほしいのはこっちだっつーの」
 呟いて、左之助は改めてフーフーとご立腹の剣心を覗きこんだ。
「でもそっかー、ふーん」
 そんなに忘れられない体験だったんだ、と神妙な顔で呟く無神経男に手加減なしの一発をお見舞いしてそのまま叩き出してやろうかと半ば本気で思って、胸ぐらをつかむ。
 が、その途端、つかんだ腕ごと抱き締められた。
「……た……」
 頭上にため息のような声がした。
 五本の指をいっぱいに開いた手が、確かめるように剣心の背中と肩をさすっている。ヘリーハンセンのウインドブレーカーは少し雨にぬれていて、汐の匂いがする。剣心もそっと腕を相手の背中に回してみた。シャワシャワと金属質な音がした。
 見上げると、左之助の顔がくしゃくしゃになっていて、少し驚いた。さっきの掠れたささやき声が「よかった」と言ったように聞こえたのは、聞き違いではないらしい。
 しかし、ここでほだされてはいけない。
「あと、仕事中はマジでなしだから」
 朝、上下衛門と右喜と央太が出掛けた後、少しだけ二人になる時間がある。どれだけダメだと言っても、どれだけ張り倒しても、どれだけ拳固や肘鉄や頭突きや膝蹴りをお見舞いしても、性懲りもなくちょっかいを出してきた。だが、人目の有無ではなく、けじめの問題なのだ。そしてプロの家政夫としての、ゆずれない部分でもある。
「それも、最初に言っただろ?」
 そう言われて妙に子どもっぽい仕草でうなずくのを見て、剣心は口を尖らせて言う。
「ごめんなさいは?」
「……ゴメンナサイ」
「もうしないな?」
 腕を上げて、またこくりとうなずいた左之助の頭を、今度はよしよしと撫でてみる。
 仕事中、折にふれてはじゃれついてくる左之助の手や腕や何やかやを、避けたり払いのけたり反撃したり、そんなことを日々繰り返していた。それだけでふわふわとした楽しい気分に、それはもう嘘みたいに甘い気分に、剣心の方はすっかり浸っていたのだが、どうも彼にはそうでなかったようだ。
 ホッとしたせいもあってか、可哀想なほどしおれている。
 そんな風には全然見えなかったのに。
 ごめん、と心の中でだけ謝って、目を合わせた。
 つやつやと光る黒い眸を飽きずに見つめていると、左之助の顔がだんだん赤黒くなっていく。いつもとは別の意味で、だがやはり年不相応な反応が、おかしいというかくすぐったいというか、何だかよく判らないがちょっと楽しい。
 首に腕を回すと、またシャワシャワと音がして、ナイロンと雨と海の匂いに包まれた。
 だが左之助の手が頬にかかると、剣心は猛烈に抵抗を始めた。
「いかん! 今日はそれナシ!」
「は?」
「お前まだ歯医者さん行ってないだろ。いやだ、虫歯うつる」
「バッカ、なに言ってんだ。なんでチュウで虫歯がうつるんだよ」
「ええっ?! お前こそなに言ってるんだ。常識だろ。知らないのか?」
「デタラメ言うな! くそう、じゃあうつしてやる! うりゃうりゃ!」
「うわ、やめんか馬鹿! ちょ、や…む……んっ……」
 あえなくたっぷり感染うつされた。ようやく逃れてゼーゼーと肩で息をするが、もう完全に手遅れである。
 信じられないサイテー、と涙目になって非難し、再び虫歯菌攻撃に移ろうとする左之助にものすごく手加減した膝蹴りをくらわせると、洗面所に駆け込んだ。


「……ちょっとショック。ていうか、俺マジで傷ついた」
「ちゃんと虫歯を治さんのが悪い」
「だからってソッコーで歯磨くかフツー」
「磨くね。絶対磨く。常識」
「ありえねえ。てかお前、ヤなのは痛いのだけっつったじゃねえか」
「虫歯も痛い」
「メチャクチャ言うぜ、ったく」
 相も変わらずカップが揃わないので、やっぱり染付けの蕎麦猪口で、今日は甘く淹れた煎茶を飲みながら、なんとも高尚な会話をしている。
「ていうかさあ、そんな痛かったのか?」
「だからそういうことを真面目な顔で訊くな!」
「全然そうは見えなかったんだけどなあ」
「う、うるさいなあもう、だから後でくるんだろ馬鹿者。あの後だって」
 二日も尾を引いて醜態をさらしたその状態を、自分の言葉に鮮明に呼び覚まされて、赤面した。
 思い切り渋面をつくって睨みつけると、左之助が妙な顔になった。
「……えっとさ。もしかして、それ、誘ってる?」
「は?」
 蕎麦猪口茶碗を置いた左之助が、ずずずっとにじり寄ってくる。
「なに! しないって言った!!」
「いや、でもなんかお前、すげー誘ってね?」
「なんで?! 俺が? いつ?!」
 のけぞった体勢でじりじりと後退するが、その分左之助が前進するので距離は変わらない。というか、むしろ縮まっているかもしれない。
「ちがうのか?」
「ちがう。すっげーちがう。全然ちがう。てかそれ、お前の妄想」
「うーん、そう?」
「そうそう。絶対。それより左之、おなかは?」
 空いてる、というのに乗じて虎口を脱し、剣心はキッチンに逃げた。
 飢えたケモノには食べ物がいちばんだ。とにかくすぐにできるもの。だがあの様子ではお茶漬けでもないだろう。となると。
「パスタか雑炊かカレーか卵どんぶり。どれがいい?」
「カレーってレトルト?」
「いや、作り置き。冷凍の」
「じゃあそれ」
 小分けにしたカチンカチンのカレーを電子レンジに入れ、その間にこれまた冷凍のむき海老を流水解凍して、オクラをさっとゆがく。海老はソテーして焼き目をつけ、オクラに油が回ったところで温めたカレーを加え、馴染ませる。
 左之助は剣心の周りをうろうろしながら、いつもながらの芸術的なまでの手際のよさを、それでもやっぱり感嘆しながら眺めている。
「やっぱさすがだよなあ。どうやったらそんなできんの?」
「おだてたって何も出ないぞー」
「じゃなくてさ。俺らも海でごはんとかするけど、タカさんいないとボロボロだから、もちょっと何とかならねえかと思って」
 と、先輩社員の名を挙げた。その名前に剣心の顔がほころぶ。
「時ちゃん、がんばってるんだ」
「………」
「ん?」
「……剣心って、まじスゲー」
「え、なんで?」
「あの人を時ちゃん呼ばわりできるヤツなんか、他にいねえもん。クソ野郎はともかく、オッサンも一目置いてるくらいだぜ?」
 社長をオッサンと呼ぶ左之助も大概だが、当の比古はさらに大概だった。好き嫌いの激しさも壮絶なら、愛想のなさと気難しさと人当りの悪さはそれに輪をかけて壮絶。おかげで社員三人の零細経営で今日に至っており、左之助の他には、クソ野郎こと斎藤一とその妻、タカさんあるいは時ちゃんと呼ばれる高木時尾がいるばかりだった。何かとややこしいので仕事は旧姓で通している。
 剣心がなつかしそうに微笑んだ。
「だって彼女、元々お客さんでウチに来たんだもん」
「えっ、初耳」
「あれ、そうだっけ? 俺の担当チームでさ」
 剣心がサイパンのダイビングサービス「シーウィード」でガイドをしていた頃のことだ。もう十年以上になる。
「海に入ったら全然別人で、どひゃーって思った」
 と、今度は愉快そうに笑った。
「見た目おっとり系なのに、かったいプラフィンぶん回してガンガン泳ぐし、いかついハウジング持ってるし」
「うわ、めっちゃわかる! 別人つーか地が出るつーか。結構オッサンより怖いもんな、あの人」
 そんな会話をしながらも、剣心は手際よくカレーを仕上げていく。左之助も剣心の指令に従って、ごはんをレンジで温めてお皿にほぐし、冷蔵庫から濾過水のポットを取り出し、トレイやコップを用意した。そしてこれは言われもしないのにちゃっかりスプーンを握り締め、ないはずの尻尾を盛大に振ってすっかりお待ちかねの態勢になっている。
「いっただっきま〜す!」
 剣心スペシャル海老とオクラの超大盛りカレーを幸せそうに食しながら、左之助がさりげなく話を振った。
「お前さ。いっぺん、店、来ねえ?」
 だが、言われてまともに左之助を見た剣心の目の冷たいことといったらなかった。
 その視線に堪えられない左之助がカレーとのにらめっこに戻って、だが、なおも続ける。
「タカさんも会いたいって言ってたぜ」
「………おい、左之助」
「あっ! 俺は言ってないからな。クソ野郎だからな。口止めしなかったお前が悪いんだからな。ていうかアイツだってホントは」
「ストップ!」
 左之助の言葉を断ち切った剣心の声は、せっかくの至福の夜食の味が一気に霧散するほど、固くて冷たかった。
 左之助はごはんを飲み下して口をつぐみ、剣心は石像のような顔で立ち上がる。
「その話はなしだ。二度とするな。いいな」
 凍った声でそう言いながら、左之助に背を向け、天井高の壁面収納の扉を開く。ガタンと音がして、壁からテレビを収めたリビングボードが現れた。棚にあったレンタルビデオショップのパッケージからDVDを数枚取り出して見比べ、「んー」と唸って首をひねり、左之助を見返った。
 澄ました顔を大きく傾げた剣心が、強いた調子の軽い声で訊いた。
「ソ連、西ドイツ、イラン、フィンランド、どれがいい?」
 間延びした口調が少しだけわざとらしい。
「なんだ? 『世界の車窓から』でも借りてきたのか?」
 一瞬の間を置いた左之助の返事も同じように少し白々しかったが、ともかくそれで気まずい会話はなかったことにできた。
「なんでだよ。いいからホラ」
「んじゃフィンランドで」
 了解、と言って、剣心は円盤を再生し始めた。
「なに、映画?」
「そう。明日台風だし、今日から半額セールだったからまとめて借りてきたんだけど、うーん、でもどうかなあ……」
 なんとなく歯切れの悪い口調の理由は、すぐに解明された。きっかけが場しのぎとはいえ、確かに「でもどうかなあ」な映画だったのだ。
 始まってまもなく、とんでもないリーゼントヘアととんがり靴の自称ロックグループが登場した時点で、その得体の知れないアクの強さに、左之助はついていけなくなった。だが剣心の方は、他愛のない会話の合間にも、左之助の目にはどうにも不可解なその映画に、ときどき思わずといった様子でくすりと笑いを漏らしている。彼の映画の趣味はポピュラーには程遠いらしい。
 左之助は映画についていく努力を潔く放棄し、きれいに平らげたお皿をひと拝みしてキッチンに下げた。くつろいだ横顔をチラチラと返り見ながら洗いものを片付け、急須に湯を注いでリビングに戻った。
「こういうの好きなん?」
「悪い。もっと普通の借りてたらよかったんだけど。でも他のよりかはマシだったかも。それよりさ」
 笑いながら謝って、剣心は左之助に向き直った。
「最近よく日本海行ってるけど、越前ってどんな感じなんだ? やっぱり太平洋側とは全然ちがうのか?」
 話題が海に移れば左之助はがぜん元気になる。ヨーロッパ映画はよくわからないが、そういうことならどんと来いだ。越前海岸の起伏に富んだ海中地形や水の色や生物層について、身を乗り出して語り始めた。
「でな、日本海側のキヌバリはシマシマが七本で、太平洋側より一本多いんだよ」
「えー? それ単に数え間違いなんじゃないのか」
「あっ、それ、お前が勉強不足。図鑑にもちゃんとのってるぞ」
 ときどき茶々を入れたりしながらも、剣心の耳には話の内容より左之助の声自体が心地好い。そのくせ、黒目がちの眸やきれいに動く口元を見ていると、なぜか時折ふっと音声が飛ぶ。
 視線を横に逃がした拍子に、卓上の急須が目について、苦笑した。
「悪い、お茶はないよな」
 笑いながら立ち上がり、とりあえず冷えた缶ビールを手渡してから、簡単な肴の準備にかかった。だが、厚身の京揚げをグリルであぶって刻みネギと花かつおを添え、生姜醤油とすだち醤油に黒七味のどっちがいいかを訊こうと振り返って、左之助が腕枕で寝息を立てていることに気がついた。
 直前まで元気な声を背中で聞いていた。
 よほど疲れていたのだろう。
 皿をキッチンに残してリビングに戻り、枕元に座った。
 とんがりリーゼントのロックグループが、「イージーライダー」で流れる名曲を熱唱している。この後、彼らはメキシコに到着して成功を収め、映画は終わる。
 剣心はテレビのスイッチを消して、膝の前にある左之助の顔をじっと眺めた。
 少し口を開いて、とても気持ちよさそうに熟睡している。起きているときより大人びるのが意外だった。
 他人の寝顔をこうも仔細に観察するのは初めてだが、こうして見ると、人間の顔には随分いろんな毛が生えているものだ。眉は、くっきりと凛々しい。周囲にも同じような毛穴はあるのに、そこだけ密集して生い茂っている。撫でると指になついて、不思議な愛着を感じる。それにまつげ。眸を開いていると、そっちに目を奪われるので、まつげなんか意識したことがなかった。だが、もちろん左之助にだってまつげはある。しかも思いがけずふさふさと長い。ごく先端を指先にのせてみたが、ぴくぴくと動いたので慌てて離れた。ひげも生えている。だが大して目立たない。毛穴の中心が黒く盛り上がって見える程度。むしろ頬にある透明なうぶ毛の方が目につく。左之助とうぶ毛。その組み合わせが可愛らしい気がして、そうっと頬に触れてみた。だがうぶ毛の感触はなく、よく灼けた肌は見た感じより滑らかで柔らかかった。首を傾げて寝顔を覗き込みながら、今度は指の背で顎に円を描く。さすがに少しひげがざらつく。
 ふと、眉毛の密林にほくろが隠れているのに気づいた。小さな発見に夢中になって、さらに顔を寄せる。
 と、その途端、左之助の目がぱかりと開いた。
「わ」
 深くて強い瞳に引き込まれると、やっぱり毛軍団はどこかにいってしまう。今まで気づかなかったはずだ、と感心している間に、指が食べられていた。
「わわ」
 慌てて取り返そうにも、しっかりと手を掴まれてしまっている。
 左之助がちゅうと音を立てて指を吸った。
 指先がねっとりと温かいものに包まれる感触に、剣心は目をつむった。抗議したかったが、声がうわずりそうでやめた。かわりに唇を噛む。
 思わず仰のいた顎を、左之助が反対の手で掴んだ。五指を開いて動きを固め、人差し指と中指できつく結ばれた唇を往復する。
「ふ」
 弛んだ唇を、指が割った。二本の指が何度も出たり入ったりして、歯を探り、舌に絡む。
 その間も剣心の指は左之助に食べられている。吸ったり舐めたり歯を立てたりされるたびに、鋭敏な指先から妖しい感覚がぞわぞわと剣心の腕を這い上がってきた。
「ん……」
 仰角で固定された口の端から唾液がこぼれて、つたった。
「剣心」
 呼ばれてうすく目が開き、とろりと濡れた瞳が現れる。
 左之助の指が唇の輪郭をなぞるように動いて、それから指先で細い隙間を押し広げた。
「ヤなのは痛いのだけだったよな」
 ささやく低音と同時に腕が引かれる。剣心は目を閉じ、引かれるままに身を屈めた。
 倒れこんで、しばらくそのまま左之助の鼓動を聞いていた。心臓の裏側にも彼の掌。互いの布越しに、体温と鼓動が混じっていく。
「剣心、すげードキドキいってる」
「お前だって」
 くすりと笑い合って、どちらからともなく唇を重ねた。
「……あ、左之、ちょっとたんま」
「たんまナシ」
「じゃなくてさ、あっち行こう」
「どっち?」
「部屋。ラグ汚れたら困るし」
「………」
 非常に実際的な配慮に基づいて場所を移動したところで左之助が言った。
「痛いの免除してやるから、そんかわりお前も協力しろよ」
「協力?」
「おう。毎回テーマ考えるから」
「テーマ?」
「やっぱエッチにもドラマつーかストーリーがないとな」
「………」
 剣心がぴたりと動きを止め、まだ暗さに慣れない目を凝らして相手の表情を探ろうとしたが、左之助はかまわず手を進めていく。
 耳朶をくわえ、首筋を舌で辿って、鎖骨に歯を立てる。こりこりと噛みながら、シャツの裾から入り込んだ手で脇腹を撫でる。顎が上がって伸びた首を舌で這い上がり、同時に手が胸に回った。
「………んっ」
「お前ってここすっげー感じるよな」
 触れられもしないうちからすでに小さく凝っていた乳首をそっとくすぐられて、剣心がふるふると頭を振る。
「なあなあ。右と左だったら、どっちがどう?」
 腹立たしいほど軽く触れてくる意地の悪い指に息を詰めた。
「と、こっち……。どっちのが感じる?」
 耳から流れ込む囁きに身を捩った途端、ふいに身体が開放された。甘く痺れかけていた意識の霧が少し晴れて、剣心は荒い息を吐きながら肘をついた。
「……さの?」
「決ーめた」
「へ?」
「予定変更。今日は双子ちゃん特訓コースに決定。お口の練習は次回ってことで」
 目と口を丸く開けた剣心のTシャツをぐいと押し上げて、左之助が嬉しそうに笑った。


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「臥待月」佐倉裕さまに捧げます。










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