−蓼食う虫は蓼を食う 4−1 2 3 4 5 6 7 (全)

<4>


 睡眠の恩恵をほとんど感じない朝だった。
 節々が強張り、口の中が不快にねばつき、胃には徹夜明けのような違和感がある。
 とりあえず熱いシャワーで身体を起こし、温かいお茶で胃を騙してから、自転車に乗って仕事に行く。
 夏バテだかなんだか知らないが、一日ならともかく四日も続けば大概きつい。
 重い手で鍵を回し、ひとつ深呼吸してからドアを開けた。
 自分の体調管理もできないなんて最低だ。だがとにかく今日を乗り切れば明日は土曜。来週は祝日もあるし、それが過ぎれば夏休み。休みも取れる。それまでなんとか乗り切るしかない。
「……っし、ファイトー」
 小さく呟いて、仕事にかかった。


「……てる?」
 ハッとして顔を上げると、キッチンのカウンター越しに右喜が覗き込んでいた。
 手元に空のお茶碗。
「え、ああ、ごめん、おかわり?」
「っていうか、剣ちゃん大丈夫? なんかすんごいしんどそうよ?」
「ごめん、ちょっとぼーっとしてて」
 笑って誤魔化しながら、茶碗をとってごはんをよそう。
「クマすごいし」
「うーん。なんか夏バテ気味かなあ? っていうか、まだバテるには早いよね。でも平気だよ。土日寝れるし」
「ほんと? 頑張って寝てね? テレカ挟まなくていいから」
 そう言って右喜は茶碗を受け取った。
「え? なにって?」
「テレカ。テレホンカード。ここに」
 と、自分の眉間を指す。わざと寄せた皺が二本。つられて口までへの字になっている。
「こないだ面接で一緒になった子がやってたの。自己PRで。眉間のシワにテレカ挟めますって」
「……テレカ?」
「うん。要は、どんな苦境も笑って乗り越えます、みたいなことが言いたかったらしいんだけど」
「…………へえ」
 としか言いようがない。
「でもシワつきっぱなしになって可愛くないから、やめた方がいいと思ったわけ。だからムリしないで?」
 突然のテレカ芸の話に、この子はときどきリアクションに困ることを言う、と思って苦笑をかみ殺していた剣心は、今度は別の意味で返答に困って、しばらくしてから言った。
「うん、ありがと。でもほんと大丈夫だから」
 うん、と首を傾げて右喜が朝食に戻ったのと入れ替わりに、左之助が一足早く席を立つ。
 「きっと四十までに総入歯」とは右喜の弁だが、日頃はそれほど医者嫌いの左之助が、今日は珍しくも出勤前に医者に寄ると殊勝なことを言っている。上下衛門は下の二人に、「折りたたみ傘持ってっとけ」と、真面目な顔で言った。
 しばらくして、首と肩をぐりぐり回しながら左之助が部屋を出てきた。ギクシャクとした歩きっぷりを面白がって、右喜があちこち突付く。
「触んな、バーロー!」
 沖縄から帰ってきてからというもの、強烈な筋肉痛で左之助の動きが面白い。今が好機と右喜は左之助で遊んでいる。からかう妹の攻撃を逃がれて、左之助は家を出た。
 一体どんなダイブクルーズだったのだろう。
 ロボットのような後姿を見送り、剣心は思った。
 あのメンバーで、尖閣諸島。そしてナポレオンを釣り上げて料理する漁師の船長。
 詳しく聞きたい気もするし、聞きたくないような気もする。なにより、あの夜以来戦線は膠着している。それまで毎日とは言わないまでも、それに近い頻度で逢っていたのに。
 携帯電話なんか持たなければよかった。
 ついそんなことを考えてしまい、ぷるぷると頭を振った。
「……いかんいかん、仕事仕事」
 後の三人を送り出してドアを閉め、がんばるぞオー!のポーズで洗面所に入る。



 午前十時。朝の仕事はここで終了。次は夕方四時にまた来ればいい。だが、使い慣れたはずの身体がやけに重くて、片道二十分の通勤路を一旦帰ってまた戻ってくる、たったそれだけのことがひどい試練に感じられた。
 右喜が行きがけに「お昼ここで寝てれば?」と言ってくれたことを思い出す。
「それより今日はもう休んだらどうだ、剣心さん。こんな日だし、ウチならいいから」
 そうはいきませんよ、大丈夫ですから、すみません。
 とは言ったものの。
「無理して倒れても余計迷惑だよな」
 自分に言い訳をしながら割烹着の袖を抜き、予備の上掛けを借りてリビングのラグに丸くなる。
 ふう、と息を吐くと、体がからっぽになるほど長い息が出て、吐き終わる前に意識が途切れた。



 電話の鳴る音で目が覚めた。
 飛び起きて顔をこすり、状況を把握するのに三秒かかった。
 時計は三時。丸々五時間も眠り続けたことに驚きつつ、存在を訴えるグレーの機械を見つめる。電話の対応はクライアント次第で、東谷家では出ないことになっていた。
 平板な呼び出しを何度か繰り返した後、留守番電話に切り替わる。
 「海屋」の高木時尾からだった。


 震える手で受話器を置き、とりあえず深呼吸をした。
「落ち着け落ち着けー。吸ってー、吐いてー、ハイ冷静にぃー」
 そして指を立てながらこれからすべきことを声に出して列挙し、頭を整理した。
 食事の段取りをする、書き置きをする、病院へ行く。以上。
 そう、物事はシンプルに。
 なすべきことをすませ、念のため鞄の中に財布を確かめてから、戸締りをする。
 だがその間にも、頭の中にはずっと時尾の声がこだまし続けていた。
―――沖縄の後から、ずっと調子が悪かったみたいなの。
―――でも左之っち何も言わないから、そんな事になってるなんて気がつかなくて。
 自転車を漕ぎはじめたところで炊飯器の水加減を間違ったような気がしたが、かまわず速度を上げた。
―――今朝病院に行ったけど、ダイバーの病気はよく判らないと……。
 駅前で自転車を乗り捨ててタクシーをつかまえ、病院の名前を告げる。
―――潜水医学の専門家を知ってるからって、社長が……。
 後部座席で両手を固く握り締めると、いろんな映像と思考がどっと押し寄せてきた。
―――京大病院ならチャンバーがあるし。
 チャンバー。
 その単語にぞっとした。
 減圧症の治療に使う特殊な加圧治療器だ。
 ごめんなさい、と時尾が謝り、左之助の自己責任だ、と剣心は彼女をなだめた。
「丸太町通りから入って正面玄関でいいですか?」
 自分の体も管理できずにプロダイバーは務まらないんだから。
「……あっ、はい、ええ、それでお願いします」
 減圧症の症状はさまざまだが、最も多いのがベンズと言われる関節型である。
 関節や神経がピリピリと痺れたり、四肢に筋肉痛に似た症状を示したりする。筋肉痛と異なるのは、時間が経っても軽減せず、むしろ日を追って悪化していくことだ。入浴や運動等の血圧の変化も症状を促進する。
 兆候はあったのだ。
 筋肉痛で全身パンパン、と言って頻りにストレッチをしていた。
「三日も経ってまだ痛いなんて」
 トシなんじゃない、と、からかいながらも、右喜はちゃんと異常に気づいていた。
 なのに自分は何を見ていた。
 左之助はおそらく減圧症を机上でしか知らない。だがキャリアの古い剣心は実際にかかった人間も知っている。気づくべきは自分だった。それなのに、あんなに明白なサインに、疑うことすらしなかった。
「あーもう! バカバカバカバカバカ!」
 誰が馬鹿なのかよく判らないが、誰かを罵らずにはいられない気分だった。
 タクシーがようやく車寄せに入った。完全に停車しないうちに紙幣を置き、釣り銭は待たずに車を降りる。まだるっこしい自動ドアの隙間からロビーに駆け込むと、勇んだ足を大理石調の床に滑らされて、思い切りよく顔からこけた。
「……くっそー」
 悔し恥ずかしで悪態をつきつつ、総合案内カウンターに突進するが、なぜか人がいない。
『面会時間 午後二時〜七時。面会時間を守りましょう』
そんな看板が無愛想に鎮座している。
「って、なんで誰もいないんだよ。思い切り面会時間だろ、ったく」
 壁の院内見取り図で目的の場所を探すが、これまた素っ気ない平面図に見たい文字はない。
「あーもう、むかつく! なんてやる気のない病院だ。責任者出てこい責任者っ」
 しばらくあたりを見回してようやく白衣の人間を発見し、旧病棟に向かう渡り廊下にダッシュした。
「すみません高圧治療室どこですかっ! チャンバー! 加圧の!!」
 若い医師は、剣心の剣幕にたじろぎながらも、室の所在を教えてくれた。
 そして、礼の言葉を残して男が指した南病棟を目指したつもりが、今度はガラス張りの坪庭だか何だかに激突した。
「………ってー」
 だ、大丈夫ですか、と心配そうな医師の声が背中に聞こえたが、振り返るのも恥ずかしい。後ろは見ずに、だが一応うなずいて、鼻を押さえたまま、今度はきちんと渡り廊下を南病棟に向かった。
 しかし、狼狽しまくりながらも、必死に駆け周りながらも、本当は剣心にも判っていた。
 実際のところ、こんなに慌てる必要はどこにもないし、今さら慌てても事態は何も変わらない。
 たしかに減圧症は怖い病気だが、専門医がいて再圧治療装置があれば完治する。もちろんダイビングだってまた出来る。チャンバー経験のあるインストラクターなんていくらでもいる。特に今ほど安全管理が徹底していなかった古い世代には珍しくない。現に剣心もそういう人間を知っている。四日も放置していたのは賢明とは言いがたいが、それだって致命的というほどではない。
 だが。
 そう、だが減圧症は再発するのだ。
 潜った直後から遅いときには数日も経って表れるかもしれない・・・・・・症状の影に常に脅かされるその恐さは、きっとなった者にしか解らない。
 確率ではなく意識のハンデ。
 それは、レジャーダイバーならともかくプロダイバーにとっては、ましてまだ丁稚の身には、あまりにも大きい。
 なにより、あんなに楽しそうに潜る左之助に、そんな思いは絶対させたくなかったのに。
 天井の低い旧病棟のリノリウムの床が、スニーカーの下でキュルキュルと鳴る。
 黒い文字で『高圧治療室』と書かれた白い小さなプレートが見えた。ドアの上に赤いランプが灯っている。
 目標発見。
「なのに何でこんな事になるんだ馬鹿―――!!」
 見間違えようもないその諸悪の根源に、速度を緩めるどころかさらに加速して突進した。渾身の力で飛びかかったが、当然のように軽くあしらわれてつんのめる。
 たたらを踏んで傾いだ頭を脇に抱え込まれ、身動きが取れなくなった。おそらく首にかかってはいるのだろうが、丸太じみた腕は顔の優に半分を圧迫している。一応空いてはいる両手を振り回してみても、深くお辞儀をしたような中途半端な体勢ではろくに力が入らない。とりあえず必死に抗弁していたら、唯一自由だった口もごつい手で塞がれて、完全に手は封じられた。
「わぶ。んーもがー!」
「こんなところでキャンキャン喚くな。相も変わらず非常識な奴だ」
 押そうが引こうがどつこうが、全くちっとも毛ほどもこたえないらしい。ならばいっそ、と、全身の力を抜いてぶら下がってやったら、首が絞まって自分が苦しいだけだった。
「お前の阿呆は死ぬまで治らんらしい。しかも何の話かさっぱり判らん。小僧が何だと?」
「んむむももむー!」
 むごむごと呻く視界の端に、ドア上のランプが消えたのを認めた。
 ハッと剣心の動きが止まる。
「なにごとですかっ?」
 ドアが重い音を立てて開き、声に続いて女医がとび出してきた。
「何がどうしたんです? 社長、この人は?」
 つややかな黒髪を揺らして、美しい女医は比古に首を傾げた。
 病院内ではお静かに、という当然あるべき注意がないのは、きっと比古の類にそれを言うことの無駄さ加減を彼女が知っているということだろう。小さな名札には「高荷」と書かれていた。
 その後ろに見慣れた人影が見え、剣心の顔に疑念が浮かぶ。
 症状が急変して担ぎ込まれてきたはずの左之助が思いがけず医師の後について出てきたのも不自然なら、その様子がまるで普通なのも不自然だ。
 朝、家を出たときと同じジーンズにTシャツのラフな格好。馬鹿みたいに目と口を全開にした間抜けな顔で、しかも右手で構えている銀色の物体はどこからどう見てもデジタルカメラ。
 しかもようやく口にした科白が、
「け、剣心? なんでこんなとこに? まさかなんかあったのか?」
 とてもではないが、減圧症が悪化して緊急チャンバー送りになった患者当人の発言とは思えない。
 それに阿呆丸出しの質問をする前にすることがあるだろう、と剣心は地団駄を踏んだ。
「ああ、すまんな先生。コレだよ。言ってた、例の」
 と、比古が軸足を回して、抱えた身体を横へ振った。それだけでも美人に尻を向ける格好になってしまって充分居心地が悪いところへ、当の女医が「ああ、あの」と何やら感慨深げに呟くのが聞こえて、さらに狼狽する。
 剣心は両腕を盲滅法に振り回した。無駄とは判っているが、比古に対するせめてもの抗議意志を示したい。
 とにかくこの状態を脱しないことには、話も報復もあったものではないのだ。
「んんむー! ぐももー!」
 助けろ左之!と念じつつ、斜め後方にいるらしい左之助の方に足を振り上げてみたが、「ゴ……」と妙な唸り声が聞こえてきただけで、助け太刀はない。
 “ご?!”
 なんとか首を回してそっちを見ようとしていたところへ続きが聞こえて、どこかでぷつんと音がした。
 充分に矯めた後足を思い切り繰り出す。右足に心地よい手応えを感じる直前、ふいに口の自由が戻った。
「だれがミニラだ阿呆!」
「人を怪獣呼ばわりしてんじゃねえ」
 しっかり気の合う親子あるいは師弟のパンチとキックをまともに食らって、左之助はリノリウムの床に転がった。
 剣心の背後には女医が笑いを噛み殺しているらしい気配がある。
 なるほど。この美女も外見に騙されてはいけないタイプの人らしい。
 だが医者は医者だ。
「せ、先生。お騒がせしてすみませんでしたが、あの、左之助は、彼は……大丈夫なんですね?」
「それはちょっと診てみないと何とも……。脳震盪に打撲はともかく、顔と肋骨のレントゲンを撮った方がよさそうですね」
「いえ、あの、そうじゃなくて。だから減圧症とかではないんですね?」
 さすがに剣心も、どうやら派手な取り越し苦労をしていた、否、させられていたらしいことは理解していた。
 ええ違いますよ、とにっこり笑った女医に、
「じゃあ一体なんだったんです? どこが悪いんですか? ダイビングは続けても……」
 と、たたみかけた。
 小脇に抱えられて尻を向けた姿勢のまま手足をじたばたと暴れさせながらも、自分に対する言葉だけはきちんと礼を守っているあたりが、かえって女医の笑いを誘う。
 嫣然と微笑み、涼しい笑いを含んだ声で、
「軽い中耳炎ですから」
 さらりと言った。
「中耳炎?!」
「ええ。軽度ですし、じきに治るでしょう。ただ、一般の中耳炎は感染が原因なんですが、今回の場合は圧平衡ができずに耳管に滲出液が溜まったことによるもので、つまりダイビングの影響による外傷的中耳炎なんですね。ですから抗生物質薬の点耳で治療すれば簡単なんですけれども、知らない医師ですと、感染による中耳炎同様に鼓膜を切開してしまうケースがあってですね。今朝言われたという手術云々というのもきっと……」
 医師の説明が続いているが、ほとんどが剣心の耳を右から左へと素通りしていく。
「…………ちゅ、中耳炎?」
「ま、早い話が耳抜きの失敗ということです」
「み、耳抜きの失敗………」
 医師はやはり淡々とした口調で言った。剣心は、なまじ深刻かつ悲壮になっていただけに、うまく頭が切り替わらない。それがどうしてチャンバー室から出てきたのか、という、出て当然の疑問も思い浮かばないほど、頭の中は真っ白になっている。
「ビギナーにはよくあるトラブルですから。もっとも、彼の場合は、以前から少しサイナスが弱ってたようですが」
 そして、うっかり安堵するには現在の状況は最低すぎる。
 タイミングよく、頭の上でこれ見よがしのため息が聞こえた。
「やれやれ、耳抜きとはな。オープンウォーターからやり直すか小僧。ん?」
「るせえ! つか、剣心放せオッサン!!」
 左之助もようやく復活してきたらしい。
 そうだそうだ、なんでもいいからお前がこの状況をどうにかしろ。
 剣心は自助努力を放棄し、左之助に目で無言の圧力をかけた。
 だが。
「フン、何が放せだ、耳抜きもできんガキが偉そうに。それで? お前は何をそんなに怒ってる?」
 突然振られた声の妙に余裕のあるおもしろがり方に、なんとなく嫌な含みを感じた。何を、ではなく、なぜ、と揶揄された気がしたのが被害妄想であることを、心の底から祈っておく。
 比古の胸腔が痙攣して、どうやら笑っているらしいことが判る。
 軽い眩暈がして、そういえば夏バテでフラフラだったんだっけ、と思い出し、思い出した途端、手足が重くなった。
「おい小僧、足、持て」
「あ?!」
「こいつの足を持てと言っている。撤収だ。こんなところでいつまでも騒いで、先生に迷惑だろうが。非常識にもほどがある」
 よりにもよってこの人物にだけは言われたくない言葉ではあったが、正論であることに違いはない。とりあえず撤収には協力するべく、左之助が体を動かした。
「お前は! なんでそこで言うことを聞くっ」
「ぶっ……!」
 再度蹴り上げられてよろめいたものの、今度はかなり手心が加えられており、倒れるには至らない。
「なんだなんだ不甲斐ない。よくまあそれで」
 またぞろ嫌な含みを残した比古の口ぶりに、剣心がこっそり掌の汗を拭こうとしたとき。
「小僧!」
 ハリのある声が響いた。
 せいっ、というかけ声と同時に身体がふわりと浮き上がる。すかさず回転をかけられ、視界がぐるんと回って天井の蛍光灯が目に飛び込んできた。
 裏返しに振り上げられた身体が、今度は背中から重力方向に落下する。
「ひっ」
 咄嗟に身をすくめて首を迫害する丸太にしがみついた。
 が、背中にくるはずだった衝撃はこない。
 固く閉じていた目を開けると、落ちてきた両脚を左之助が両腕でがっちり受け止め、満足そうな顔をしていた。
「っし、ナイスキャッチ!」
「う、裏切者! くそう、覚えてろ!!」
 不自然なほど爽やかに笑っている左之助が憎らしすぎて何とも芸のない捨て科白を吐いてしまったが、戻ってきた返事に今度は言葉を失う。
「剣心。病院だし、うるさくすると迷惑だから」
 人間、限界を超えると、呼吸をするのも忘れるらしい。
 真っ赤になって固まってしまった剣心の、上体と脚をそれぞれ抱え、比古と左之助は駐車場に抜ける南病棟の通用口に向かう。
 足は止めずに、比古が医師に横顔を見せた。
「まあ、そういうことだ」
「ええはい、お大事に。私でよければいつでも診ますから。左之助君、君はまた来週ね」
「っす、お騒がせしましたー」
 真面目な科白とは裏腹になぜか楽しそうに聞こえる医師の声と、どう考えても一番の元凶のくせに尤もらしく挨拶なんかしている大馬鹿者の声を聞きながら、開き直った剣心はおとなしく運ばれていく。
 歩かなくてすむ分、得をしたと思うことにした。


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「臥待月」佐倉裕さまに捧げます。










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