−左之助の災難 6− 1 2 3 4 5 6 (全)

<6>


 その電話が掛かってきたのは、それからさらに一時間ほどが経った深夜三時すぎだった。腹の調子が悪いと言ってトイレに立った左之助が、たっぷり五分は経った後、険しい顔で戻ってきた。指を広げた掌で下腹部をさするようにしている。
「やっぱタマゴ食いすぎたせい?」
「っていうかこの場合」
 問題は量より質じゃないのか、と剣心が言おうとしたとき、左之助の携帯電話が鳴り出した。
 一年前の春に剣心がプレゼントした――あるいは買わされた――かつての最新機種が、やや金属的な着信メロディーを奏でる。「かっこ悪いのがいい」と、剣心が冗談半分嫌がらせ半分で設定したのを変えもせずに使っている、子ども向けテレビアニメのかつての主題歌の旋律が、場ちがいなのどかさで響き渡った。
 ディスプレイ表示に眉をひそめた左之助が、剣心を見て首をかしげながら通話ボタンを押す。こんな非常識な時間の心当たりのない番号でも、この状況では出ざるをえない。
「もしもし――」
 突然の騒音に時尾も起き出していた。二人が見守る中、電話の向こうに、やや甲高い、女性と思しき声が聞こえた。
「あ? なんだそれ。つーか………ハァ!?」
 いきなり声が大きく尖ると同時に、怪訝そうだった顔が一気に険しくなった。
「何のつもりだ、てめえ。ふざけてっとブッ殺すぞ。こっちは今」
 物騒な脅し文句が途切れたかと思うと、激怒は不審から狼狽へと変わる。
 何か切迫した困惑を訴えて剣心と時尾を交互に見ながら、左之助は続けた。
「え、や、いや、ちょっと待て、出る出る出る、出るって。は? んなもんいいから早く――」
 相手が誰かと換わろうとしているのだろう、左之助は言葉を切って、そして二人に向かって驚くべき言葉を発した。
「なんかオッサンからとか言ってて。コレクトコールだって。けど」
 とまで言ったところで左之助の声が途切れた。
 そして電話の向こうに声がした。
『あー、あー』
 電話ごしでさえ豊かに響くバリトンが、聞き紛いようもない比古の声が、傍にいる剣心と時尾にもはっきりと聞こえる。
『ハロウ?』
 気の抜ける着信メロディー以上に気の抜ける、あまりに牧歌的な第一声に、三人は揃って電話を凝視した。
 そもそも普段は「挨拶」などという社会常識とは無縁の素行を通しているくせに。
「ハローじゃねえっつのボケッ!! つかアンタこれどっからだよ。海賊は? シパダンで捕まってんじゃねえのか? なんで電話なんか」
 電話の向こうにまた声がして、左之助が慌てて周囲を見回す。その手が空で書く仕草をしているのを見て、剣心がペンとメモ用紙を取りに走った。
 が、ボールペンを構えたところで、左之助がぴたりと一時停止した。
「は? コケダマ? 録画?? ちょ、おいこら、待て待て待て! ていうかアンタら今どこで何を? 状況! 説明!」
 宿泊先のカパライアイランドリゾートでは、朝にボートで出航したきり戻っておらず、夕方以降は無線も連絡がつかないままだと言っていた。海賊が島を占拠したのが現地時間午後四時だということからも、当然、島で人質にされていると思っていた。だが、もしや違ったのだろうか? しかし、早朝には帰国の途につくはずだった彼らがリゾートにいないのは確かなのだ。
「じゃあやっぱりシパダンなんだな?」
 電話の向こうで底響きする声の、高低は明瞭なものの、話す内容までは聞き取れない。左之助がボールペンの先を忙しなく紙に打ちつけながら二人を見、比古への確認と二人に聞かせるために復唱していく。
「全員無事か? ケガもなく?」
 そして左之助が時尾を見て大きく頷いた。ゆっくり頷き返す時尾の顔がくしゃりと歪む。
「で? それが夜九時? そっから? ―――は?!」
 声が裏返り、勢い余ったペン先は紙を滑って破いてしまった。
「うっそ、マジ?! マジでやっつけた(・・・・・)のか?!」
――やっつけた(・・・・・)
 目を丸くする剣心と時尾から視線を逸らした左之助は、「う」とも「ぐ」ともつかない妙な声で唸って、手で顔を覆った。
 電話の向こうでは比古の太い声が続いている。
 半ば隠れた左之助の顔は、どんな表情をすればいいのか判らないとでも言いたげにピクピクと痙攣している。
 そして堪えかねたようにぶっと小さく噴き出した。
「ヤシの実って! ヤシの実で海賊をやっつけたんだってよ! 全員! クソ野郎と二人で!」
 左之助はまだ頬をひきつらせながら顔の端っこで笑っているが、剣心と時尾はとてもそんな心理状態ではなく、ただただ茫然としている。
「それよかケーサツとか大使館とか知らせたのかよ。すんげーニュースんなってんだぞ、こっちでも。つかそれ何時の話」
 おうとかああとか何度か相槌を打った左之助が一瞬絶句し、“信じられない”と書いた顔を二人に向けた。
「夜中頃には退治してな。そんでめんどくせえからボートで寝てたんだと。そんでさっき目え覚めて、明日のテレビに間に合わねえの気づいたって。録画しとけとさ。標準モードで」
 比古が趣味で育てている苔玉盆栽が某局のカルチャー番組に取り上げられることになっており、数か月前に大がかりな取材チームが来ていた。その放映が明日の深夜なのだ。後で驚かせるつもりで誰にも知らせておらず、また帰国後のはずだったため録画予約もして行かなかったという、その番組の録画をしておけというのがこの電話の本題だったのだ。
 左之助の、顔は「やれやれ」を装っているが、声は明らかに面白がっている。
 それを聞いた瞬間、それまでぽかんと口を開けて突っ立っていた剣心のメーターが一気に振り切れた。
 目にもとまらない勢いで左之助の手から電話を奪い取る。
「一生寝てろ!! 帰ってくんな!!!」
 強化防犯のガラスフィックスがビビビと鳴るほどの大声量で怒鳴りつけて電話を切り、大きな音を立てて機体を閉じた。
 次は左之助だ。
 この非常時に比古の酔狂を一緒になって笑っているとは何事か。
 一喝してやるべく、大きく息を吸いながら向き直って、その左之助の、さっきまでの軽妙愉快が嘘のような硬い表情に面食らった。
「……え?」
 見れば時尾も“愕然”としか言いようのない表情で、大笑いしていた左之助ではなく自分の方を凝視している。
「え? な、なに??」
 怪訝そうに訊ねた剣心に、一変して深刻な顔色の左之助が、ほとんど囁きに近い掠れ声で言った。
「切……のか?」
「え?」
 きょとんと聞き返す剣心は、まだ自分のしたことの重大さが判っていない。
「切ったのか?! 電話!!」
「あ……」
 切ったのだ。
 外国でテロリストに身柄を拘束されて所在も安否も不明だった人物からの第一報を、詳しい現状についても、今後の連絡方法についても、帰国の段取りについても、何の確認もしないまま、一方的にぶち切ったのだ。
「ありえねえ」
 以外に何といいようがあっただろうか。
 時尾の表情もさすがに硬い。
「え、あ、や、わ、悪い、ごめん、つい……。けどだって! こんな大変な時にあんまり非常…識……だし………」
 だから「こんな大変な時に」、命綱とも言うべき回線を激情に任せて切ってしまうことこそ余程「非常識」だと、言っている間にさすがに自分でも思って、顔が熱くなった。
「ていうか! けどだけどお前もおかしいだろ! なんで一緒んなって笑ってるんだ阿呆馬鹿すっとこどっこい!!」
「逆ギレ不可! “けど”も“だけど”も却下! てめ、ヤギ汁にすんぞ!!」
「ヤギちゃう! ひつじ!!」
「ピピー! コラそこ、喧嘩しないー。実際的じゃないわよ」
 確かに内輪揉めをしている場合でもなければ、してしまったことをあれこれ言っている場合でもなく、ましてヤギかヒツジかなど全くもってどうでもいい。
 とはいえ、こちらから掛け直そうにも発信元は電話会社のオペレーションセンターである。事情を話して番号を訊くか、急がば回れで外務省を通した方が早いか、あるいは駄目で元々、シパダンのダイビングサービスに直接かけてみるか。そんなことを三人で相談し始めたところへ、手を打つよりも早く、再び向こうから掛かってきた。
 鳴り出そうとした着信メロディーが何の曲かもわからない時点で左之助の指が通話ボタンを押す。電話はもちろん比古からのコレクトコールで、オペレーターの説明もろくに聞かず、料金通知も断って、回線が繋がるのを待つ。
「もしもーし!」
『なんだ今のは。どういう躾だ』
「……テメエが言うなっつうの」
『親の顔が見たいもんだ』
「ああ、まったくな」
 人を馬鹿にした二人をやりとりだが、さすがの剣心もこの状況では怒るに怒れない。
 それに、全員怪我もなく無事に生きているなら、それでいい。もうそれだけで、今は何でも許せる気がしてきた。
 後は物事の方が動いてくれるだろう。
 剣心はわけもなく太っ腹な気分になって、子羊から人間に戻りつつ、当座できることは何かと店内を見回した。
 左之助達が今後の段取りや帰国の手筈、当面の通信確保などを相談し終わる頃、剣心も作業途中だったオーバーホールセットを片付け終え、お茶を淹れかけたところだった。
 電話の話し相手は、途中で比古から現地の警察関係者に変わっていた。
 比古が呑気に眠りこけている間、彼らは大変だったらしい。
 二人が海賊を退治したのが、現地時間午前一時、日本時間零時。その後、ダイビングサービスのスタッフが船の無線を使ってSOSを発信し、警察が上陸、三十分後には全員の安全が確保された。
 ほとんどの人質は身元確認と簡単な事情聴取で済んだが、そうはいかなかったのが斎藤だった。警察では当初集団内の仲間割れによるトラブルと判断していたため、「海賊をやっつけた二人の外国人観光客」を共謀者とみなしたのだ。しかもそれが二人だった点で全員の供述が一致しているにもかかわらず、「もう一人」がいない。それが日本人だろうが、ダイビングツアーの引率スタッフだろうが、怪しすぎる状況に変わりはなかった。
 長い“事情聴取”を受けていた斎藤がようやく解放されたのが三十分ほど前で、彼らはそれと並行して必死で比古の行方を探していたのだという。
 まさか「シャワーを浴びてさっぱりした」渦中の人物が、停泊中のボートで「うるさい奴らはあいつに任せてひと休み」していたとは想像もできなかったろう。挙句に無人の元ホテルから日本に電話を掛けているとは、だ。その通話の目的がテレビ番組の録画だった事や、そもそも拘束から八時間以上も経った深夜になって突然暴れ出した理由が「海水がベタついて不快」だったからだという事は、この際、禁句以外の何物でもない。
 左之助は賢明にもその点については沈黙を守り、今後のあれこれを話し合って電話を切ったのだった。


 だが結局その件はニュースにはならなかった。
 公式発表は、人質の「勇気ある機転」を契機に突入が決行され、テロリストは逮捕、人質は全員無事解放、というもので、関係者には厳重な緘口令が敷かれた。
 幸い日本人は海屋ご一行様だけだったし、「さよなら神戸店スペシャル・比古社長と潜り倒そう!怒涛のシパダン&カパライツアー」に参加するほどの濃厚な面々だけあって彼らの結束は固く、秘密を漏らす者はいなかった。これ以上マスコミに追い掛け回されるのはたまらないという彼ら自身の切実な願いも大きかっただろう。
 だが、「協力者の安全のため」にも、くれぐれも他言無用と言われて、左之助がこう言った。
「つーかさ、カッコ悪いからだってゼッタイ」
「何が?」
「向こうの警察だか軍だかが」
 手をこまねいている間に、人質の民間人が椰子の実を投げつけて海賊をノックアウトしていたなんて、ということらしい。
「平和ボケ甘々のはずの日本人に。しかもお前、ヤシの実だぜ? コケンにかかわるってヤツじゃねえの?」
「まさか」
 そのとき剣心は一蹴したが、上下衛門からも同じようなことを言われて、一抹の不安を覚えた。
 皆の無事が判明した直後、剣心は東谷家に連絡を入れていた。未明という時間帯でもあり、三コールで出なければ切るつもりで番号を押したが、二コールが終わるのを待たずに上下衛門が出た。その時点で簡単に事情を説明しており、後刻、緘口令と共に詳細を話したのだ。
「はっはっはー! さすがにやることがあっぱれだ。いいねえ!」
 目尻にしわを刻んで朗笑する人を見て、「やっぱり血は争えない」と、つくづく思った。
「何がいいもんですか。大体、退治するならするでとっととすればよかったんです。大人しく捕まったりなんかしなくても」
 馬鹿馬鹿しい、と、口を尖らせた剣心に、上下衛門が楽しそうに言った。
「やっぱりアンタら親子は面白れえや」
 あなたには言われたくありませんが!
 と、そんなことを思ったからといって口に出しはしないが、だが、つくづく食えない親子だと改めて嘆息した。



 さあ朝ごはん、という時に、玄関でジャッと鍵の回る音がした。
 家族三名と被雇用者一名の目が一斉に廊下に通じるドアに向く。
「ういー。たでーまー……」
 酔っ払いじみた挨拶と足取りで入ってきた左之助を見て、右喜が「あんれま、ヨボヨボ」と驚いた。だが左之助は妹の憎まれ口に言い返しもせず、風呂に直行する。
 例の海賊騒動からそのままさらに丸二日を店に泊まり込み、実に三日ぶりの帰宅だった。
 その間、左之助と時尾は多忙を極めた。日中は政府関係者やらツアー参加者の家族やらマスコミやらの対応に明け暮れ、夜はそのしわよせでたまった事務を処理する。ニュースで知った友人や知人からの電話やメールも、善意だけに無下にもできない。たとえ多少の好奇心が見え隠れしたとしてもだ。
 身重の時尾に無理はさせたくない。しきりに謝るのを軽くかわして、かなりの負担を左之助が一人で引き受けた。昨日も、夜に特別機で帰着したゲスト九名を空港まで出迎えた後、うち三名をレンタルのバンでそれぞれの自宅まで送り届けた。最後の客を送り終えて店に戻ったのはもう深夜。そこからたまっていた実務処理を片付け、少し仮眠をとって、ようやく三日ぶりのわが家に帰ってきたのだった。
「テレビいっぱい出て有名人じゃん。芸能人とか会ったりした?」
「ちょっと録画もしたんだよ」
「比古さん達はまだ向こうなのか」
「ごはん足りるかな。それか汁物とかの方がいいか?」
 シャワーを浴びて少しはさっぱりした様子の左之助に、四人が口々に言う。
 だが、興奮気味の彼らとは対照的に、左之助はまるでテンションが低い。
「やー、まだあんま食欲なくて。とりあえずメシいいわ」
 珍しすぎる反応に、右喜がまじまじと兄の顔を見上げた。そしてあまりに明らかなやつれように改めて驚き、さすがに顔を曇らせた。
「やだ、ちょっとなに、大丈夫?」
「くっそ、メシ食いたくなりてえ」
 不具合の原因は騒ぎの夜に食べたシュークリームにあった。賞味期限は過ぎていなかったが、長く外に置きすぎていた。知らずに左之助は五つとも平らげたが、そう言ったとき、時尾が不安そうな顔をしたのが、剣心は気になっていた。後で時尾と二人になったときに「もしかしていわく付き?」と訊いた剣心に、彼女は懸念を告げた。
「左之助だし、平気だって。味も普通だったって言ってたし、大体五つも一気に食べるってのがそもそもおかしいんだからさ。まあ知らなきゃ大丈夫だよ、きっと」
 病は気から。責任を感じる時尾を剣心はそう言ってなだめたのだったが、どうやら目は悪い方に転んだらしい。
 健やかな食欲への渇望が微妙なラインで左之助らしいとはいえ、多忙と疲労と睡眠及び栄養不足のためだろう、剣心が知る限り前代未聞の弱り具合である。夕方まで寝ると言って自室によろけ込む後ろ姿に、普段は毒舌の父と妹もそっと労いの言葉をかけて仕事に出掛けた。
 小学校のプール開放に行く央太がビニールの水泳バッグを手に家を出かけようとしたとき、左之助の部屋でズダンと大きな音がした。
 二人で顔を見合わせ、剣心がコツコツと軽くドアを叩く。
「左之? 大丈夫か?」
 今その部屋で鳴る地響きのような音といえば、左之助がベッドから落ちたせいに決まっている。
 返事がないので細くドアを開け、ちらりと中を確認してすぐに閉める。
「大丈夫みたい。落ちてるけど、そのまま寝てる」
 呆れた風に苦笑してみせたが、央太は閉まったドアを尚も心配そうに見やり、だが結局なにも言わずに学校に出かけた。
 いくら聡明とはいえ、疲労困憊した大人にかけるべき言葉は、小学六年生の語彙にはなかったのだろう。
「大丈夫、寝るのが一番だよ。後でおかゆでもしとくから、心配しないで行っといで」
 そう言うと、少し安堵した様子で頷いた。
 いってらっしゃい、と見送って玄関の鍵を閉め、左之助の部屋に入る。
 今度はノックはしない。カーテンも引かず、夏の真っ白い陽射しの中、さっき覗いた時と同じように床にうつ伏せて大の字になって、左之助が寝ていた。膝をつき、洗いっぱなしの湿った髪をかき回す。
「ていうかなんで裸なんだよ。パンツくらい履けよな、かっこ悪い」
 言葉こそ手厳しいが声も表情も全く対極で、指は慈しむように額の生え際を辿っている。
 すると、てっきり熟睡していると思っていた物体が、思いがけず言葉を発した。
「んー……ノーパン健康法。スースーして気持ちいい」
「……起きてんならベッド戻れ。腰いわすぞ」
 だが、きっちり覚醒しているわけではないらしい。
 くぐもった声で唸りながら身体の下に敷いていた掛け布団を抱いてゴロリと回転したかと思うと、またすうすうと寝息を立て始めた。
「と思ったら寝てるし」
 こっそり呟いて、再度、髪を弄う。
 無駄なく筋肉の詰んだ身体は、およそ三段階に色づいている。いちばん黒いのが顔と肩と腕。濃い褐色は、それこそ椰子の実のように硬い。背中と脚は少し色が薄く、臀部が水着の形にくっきりと白い。もっとも白いと見えるのはあくまでも他との相対効果で、地の肌色は、剣心に比べるまでもなく充分に浅黒くはあるのだが。
 その腕に、うっすらと残るキハダマグロの歯形が目についた。脚先に目を転じれば、タンクでつめた指の爪にもまだ鬱血の跡がある。シュークリームにはあたるし、なんだか本当にボロボロだ。可哀想だとは思うのだが、どうにも笑いがこみ上げるのは、やはりこれが左之助だからだろうか。
 だが、その微かな笑みはすぐに行き場を失って、たよりない空白が剣心の面上を占める。
 大丈夫。まだ半年あるんだから。
 慣れろ。思い出せ。
 そう自分に言い聞かせ、髪を離して膝の上に拳を握った。
 折を見て上下衛門に辞職を切り出すつもりでいた。親しくなりすぎたので向こうからは言いにくいだろうが、央太も春には中学生。自分の役目はもう終わりのはずだ。今度は上下衛門も引き止めまい。どうしてもと請われたら、左之助とのことを話そうとも考えている。言ってしまえば、春でといわず即日馘首かもしれないが、それでもかまいはしない。どうせ遅いか早いかだけの違いだ。
 そのとき左之助がまた「うーん」と唸って身じろぎした。そして突然ぱちりと目を開いた。
 驚いて思わず背筋が伸びた。
 少し鼻にかかった声が剣心に問う。
「なあ、お前あれ見た? 『ディープ・ブルー』」
 目をしばたたきながらぷるぷると首を振ると、「今度一緒に見ようぜー」と、左之助の目が細まった。
「とりあえずすげえし。北極グマと潜ったりとか、あとガラッパも出てんだけど……」
 そこまで言ったかと思うと、また前触れもなくかくんと眠りに戻る。
「……寝るか喋るかはっきりしろ。挙動不審め」
「あ、それとさ」
「わっ」
 たぬき寝入りかと疑いたくなるほどのタイミングで目が開いた。
「今度すっげーの食わしてやるよ」
「すごい、なに?」
「左之っちスペシャル、パパイヤサンド。激ウマ」
「あー、なんかやな予感」
「バッカ、お前、ぶっとぶぞ、マジで」
「別の意味でな」
「ムカつくつうの。あのな」
 そこではたと言葉が途切れて、さてはまた寝言だったかと思った時、左之助の手が唐突に頬に伸びてきた。掌が、羽根の軽さで二、三度撫で、手を返して指の背でまた撫でる。突然のことに驚いて、早いまばたきを繰り返しながら、じっと見つめてくる黒い双眸に視線を合わせた。ゆっくり上下する指の、痛いほど穏やかな動きにかすかな緊張感を覚えつつ、なおも黙って見返していると、指はするりと咽喉に滑り降りて、猫をじゃらす動きに変わった。
「今度さ、アレで遊ぼうぜ」
 部屋の一角を示す左之助の目は悪戯っぽく踊っていて、さっきの思い詰めた色はない。手指は心安立てに肌に戯れてくる。
「あれって?」
 見るとそこには、覚えのある黄色いプラスティックバッグ。
 あれはたしかあの日、海屋にあった――。
「もらってきた。エプロンとサイコロの代わり」
 事件の日に剣心が持参した右喜セットの中のメイドエプロンと特製サイコロを、時尾がいたくお気に召した。「お金払うから譲ってもらえないかしら」とまで言うので、右喜の快諾を得て贈呈した。その代わりにと、あのひつじの着ぐるみをもらってきたらしい。
 しかしまた何ゆえに?
 はて、と傾いだ剣心の細い首を、節張った手が軽く掴んだ。腕が引かれ、覆い被さるように倒れこんだ耳元に左之助の息がかかる。
「ヒツジ狩りごっこ。よくね?」
「…………ぜ、全然!」
 風がそよぐように流れ込んできた微音に身震いし、手を払った。
「ちっとも! まったく!!」
「ヒツジときたらやっぱイケニエだよなー」
 うなじを捕らえた熱い手が、いったん起こした身体をまた引き寄せる。
 「あむ」と大きな口を開けて獲物の首に歯を立て、そのまま甘噛みしながら左之助が声を低めた。
「縛り上げていたぶりまくってヒーヒー言わしてやる。オムレツの恨み思い知れ」
「な、なんだよ今さら! うまいうまいって食ってたくせに」
 たくましい両肩を押さえつけるようにして、虎口を脱した。
「あー、ああいうのでもいいな。とろとろメロメロ。肉汁じゅるじゅるのレアステーキ、みたいな」
 唇を舐めて見せつけながら、ぬけぬけとそんなことを言う。
 濡れた目で笑う少し生気の戻った顔の上半分を、剣心の掌が乱暴に覆った。
「エロオヤジかお前は! もういいから寝ろって。ったくもう。目覚まし何時?」
 そして片手で目を塞いだまま、逆の手で身体をごろんと転がして掛布団の下に埋めた。すぐに視界を隠された左之助は、剣心の顔が花の咲くように朱に染まったところまでは見得たが、その後で泣き出しそうに歪んだのを知らない。
「あーっと、三時………半?」
 少しもつれた舌がそう言って、そして掌の下でぱさぱさと上下していたまつげの動きが止む。今度こそ本格的な眠りに落ちるのを待って手を離し、膝にのっていた左之助の手を外させて布団にのせた。
 何かちがうことを言いたかったのだ。
 このところ何度かそんなことがあった。
―――大事なことはちゃんと言えって、お前が最初に言い出したんじゃないか。
 重要なことはきちんと話す。一人で先走らない。
 気性も思い込みも激しい二人の間に、二年かかってようやく定着しつつあったルールだった。
 だが、崩れた。
 いや、最初から成り立っていなかったのか。
 あるいは、金銭が介在する関係である以上、仕方のないことだったのか。
―――でもみそ汁の味が一緒なんだってさ。
 と、頭の中で話しかける。
 布団を掴む長い指にそろりと触れた。海の仕事で荒れる指先は、こまめにハンドクリームをすり込む程度では追いつかず、年中白くひび割れている。
 左之助がもぞりと身じろぎして、赤銅色の膝が剣心の脚に当たった。
 足首は鋼のロープをよじり合わせたように引き締まり、その先に手と同様に白くひびの入った足がある。
―――こんなマニキュアなんか塗らせて。
―――足はマニキュアじゃなくてペディキュアっていうんだってよ。
 思い出すと、また不愉快さが甦る。
 と同時に、他愛ない諍いをとても遠く感じた。
 落ち着いたら一度きちんと話をしよう。
 訊きたいこともあるし、言わなければならないこともある。
 あの日、どうして電話を右喜ちゃんに換われと言ったんだ?
 あの子に何を訊ねた?
 東谷さんには? 朝、台風が逸れてよかったと言った時に妙な顔をしたのはなぜだ? 何か言いたいことがあるのだろう? 何をこないだから言えずにいる? そうそう、そろそろここの仕事、辞めようと思ってるんだ。東谷さんにはもう話したんだけど。春頃かなって。央太くんももう中学だし。あ、それからな――――。
 剣心の手が掛布団をきつく握り締めた。
「とりあえず今はゆっくり休めよ」
 細く絞り出された声には、安堵や迷いや覚悟や逃避が複雑に濁り合って、他ならぬ自分自身の中に重く沈んでいく。
 たっぷり五秒を数え、もう全く反応がないことを確信してから、そうっと言葉を継いだ。
「こんだけトラブルばっか続いたらさ、次はいいことがまとめてあるって、きっと。な」


 だが、左之助の厄災はこれで終わりではない。
 まず十日後、それは携帯電話の御請求書としてやってくる。
 国際電話料金はめざましく低価格化しているが、受信者払いは価格競争の外にある。マレーシアから番号指定のコレクトコールが都合二回、通話時間にして約五十分。それだけで二万五千円を超える通話料が、基本料金その他の例月項目と共に課金されていた。発信者兼代表取締役への支払い要求は「フン」と鼻で吹き飛ばされ、斎藤の裁量で店の経費に計上されていなければ、理不尽な出費を余儀なくされるところだった。
 そして最大の騒動の発端となる事件が起こるのがその二十日後、満員御礼の白浜「みす丸」の船上。
 例のアンテナ実験の写真が元でくわせ者の船長にカマをかけられた左之助は、墓穴以外の何物でもないカミングアウトによって、周囲の驚きと一部女性陣の悲憤と剣心の激怒と顰蹙を買い、近年稀に見る窮地に陥ることになるのだが――――。


 が、八月初めのこの日の朝、それはまだ、未だ来たらずの将来である。
「おやすみ」
 秀でた額に唇で触れて、剣心は立ち上がった。
 カーテンを引いて部屋を出る。
 ドアが閉まり、後にはあたたかい静謐が残される。
 嵐の予感の欠片さえもなく、左之助は束の間の平穏の中で眠っている。




了/2005.10.25
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