−左之助の災難 2− 1 2 34 5 6 (全)

<2>


 片付けを央太と右喜に任せ、剣心は左之助の手当てにあたった。だが、よく検分してみれば、思ったほどの傷ではない。しっかり消毒をして外傷薬を塗るだけにとどめた。暑い季節でもあり、うっかり覆った方が蒸れて膿みかねないと考えてのことだった。
「おまえ打たれ強いし、すぐ生えてくるって」
「俺はトカゲか。てめ、ふざけてっと」
 と、の声と同時に、続く不謹慎な科白を察知した剣心の拳固が、真正面から左之助の顔面を強打した。
 ぶっ、とのけぞったところへ、凄みの効いた無言のプレッシャーが被さる。
 ずびばぜん、と呻くのを再度睨みつけてから救急箱を手に立ち上がる。
 くるんと振り向いた剣心は、右喜と央太ににっこり笑いかけて言った。
「お昼どうするー? なんなら俺、サービスするけど」
「ほんとー! 嬉しい」
「やったあ!」
 右喜も央太も、この程度の掛け合いが、暴力的に見えて実は彼らの非言語コミュニケーションなのだということは察している。呻吟する兄を尻目に、素直に喜びを表現した。
「なんか食べたいものある? パスタとかサンドイッチとかでもいいよ。こっそり」
 主食は米。それが、日本のお父ちゃん上下衛門の鉄の掟だったが、今は仕事ではない。少々目をつぶることにしたところ、意外な反応が返ってきた。
「あたし、ある!」
 央太ではなく、社会人になって外食も増え、食べたいものなら外でいくらでも食べられるはずの右喜の方が、待ってましたとばかりに手を挙げるとは思わなかった。
「なに?」
「朝ごはん! 貴族みたいな」
「貴族の朝ごはん?!」
 さすが右喜。比喩がわからない。
「映画とかに出てくる。オムレツにベーコンがついてるようなの。そんでオムレツ割ったら中がすんごいトロッとしてるの。ベーコンはカリッカリなの」
「あー。最初にジュースとシリアルが出て、それからトーストとオムレツとコーヒー、みたいな?」
「そうそう、そんなやつ! フルコースの朝ごはん。ジュースはオレンジ。トレイは銀で、首にナプキン挟んで食べるの。メイドさんは編み上げにレースのヘッドドレスで、メイド服は黒! くるぶし丈のロングね」
 ような、と言いつつ、妙なところが妙に細かい。しかも後半は「朝ごはん」の域を大きく逸脱している。
 だがなるほど、確かにそれはそうそう出会えるものでもなかろう。
「………おーい。戻って来ーい」
 左之助が力なく呟いたが、もちろん右喜が聞いているはずもない。
「やっぱり出窓は必須よね。窓辺のベンチで……紅茶? うん、紅茶よモチロン」
 異世界まっしぐららしい。
 剣心は央太に訊ねた。
「央太くんは? そんな感じでいい?」
「うん、なんかおいしそう……かな。どうかな。でも出窓って?」
「ああ、それはモノのたとえっていうか。気にしなくていいよ」
「つーか俺がイヤ。なんかもっと腹にたまるもんにしようぜー」
「お前には訊いてない」
「サベツハンタイ。ギャクタイボーシ。シミンビョードー」
「ハイ決定。よーし、じゃあみんなで準備しようー」
 剣心は食材を調べて買い物リストを書き出した。東谷家にとっては非日常な献立のため、意外とないものが多い。メモとお金を央太に渡し、近所のスーパーに行ってもらう。
「左之、運転平気か?」
「お? まあ近場なら」
「え、そんなにひどかったの?」
 骨マグロに噛まれた傷のせいと勘違いした右喜が驚いて顔を上げた。
「え? ああ、うううん、腕じゃなくて足がね」
「足?」
 講習ツアーの帰り際に積み込み中のタンクで右足の指をつめた。倍ほどの太さに腫れあがり、色も澱んだ紫色に変色している。ツアー中に常連客が面白がって塗ったという黒のペディキュアも毒々しく、色を間違った熟果のような禍々しい様相で、階段の、昇りはともかく下りが不自由なほどで、長距離の運転は厳しい。前夜、いつもはあまり運転を担当しない剣心がハンドルを握っていたのもそのためだった。
「うっわ、ダサ」
「るせーんだよ、お前はいちいち」
「じゃあ左之はパン頼む」
「どこ?」
 えっとな、と言って、剣心は太秦にあるパン屋さんの名前を挙げた。郊外の住宅街の例に漏れずこのあたりも生活モジュールが大きく、店を選ぼうと思うと四輪の足が必要になる。
「パンドミを二斤と、あと食べたいのあったら適当に」
「ういーっす」
 と、左之助も出て行った。
「で、あたしは何すればいいの?」
 首を傾けて訊ねた右喜に、剣心は極上の笑顔を向けて言った。
「テーブルコーディネート。お好きにどうぞ、お嬢さん」


 先に央太が帰ってきた。
 三人で手分けして手際よく準備をこなし、パンと左之助が帰ってきたときには、既に卓上にはサラダとカトラリーとシリアルの皿とバターとジャムと紅茶のカップとミルクを満たしたピッチャーが並んでいた。各人の席には花の形にたたんだ白いナプキンが置かれており、パン皿が染付けの八寸なのに目をつぶればそれなりに様になってはいた。
 意外にも戻りの遅かった左之助に、キッチンの中から声がかかる。
「おー、お疲れー。何かあったのか?」
「え、いや、なんか店が閉まっててよ、結局あっちの」
 そこまで言って顔を上げたところで、左之助は絶句した。キッチンから漂ってくるベーコンの焼ける香りのなか、パンの袋を提げたまま呆然と立ち尽くす。
 その様子に剣心が鋭い視線を向ける。
「言っとくが左之」
「ねえねえ見て見てー。どうどうー?」
 と、右喜が肩を並べて剣心の腕を取る。
「似合うー?」
「おい、いいか!」
 だが、剣心が「笑うな」と釘を刺す前に、左之助はすでに身体を二つに折って肩を震わせている。
 いつも割烹着の剣心が、今日は右喜とお揃いの白いエプロン姿になっていた。フリルをたっぷりとり、レースとリボンがふんだんにあしらわれた綿菓子のようなそれに、頭には同じく白のヘッドドレス。ご丁寧にも髪まで二人お揃いのスタイルに結い上げられている。剣心の表情がこの上なく不機嫌な点と、両手でつかんでいるのが巨大な魚の頭だという点が、見た目に多少不似合いで、画竜点睛を欠いてはいたが。
「おい! 遊んでる暇があったら早いとこパン出せ! お前を待ってたんだからなっ」
 そう言い捨て、顔を真っ赤にして震えている左之助に背を向けて、ぐらぐらと煮立った大鍋にぶつ切りにした巨魚のアラを投入する。アンテナの役割を終えたキハダマグロを、次は食材として活用しようとしているのである。左之助の戻りを待つ間にと下茹でを始めようとしていた、まさにそこに左之助が帰ってきた。細い腰の後ろで大きく結んだ蝶々をひらひら揺らす、その後れ毛の散るうなじがほんのりと赤い。
「それが済んだらベーコン面倒見ろ。いいな!」
 右喜には弱い剣心は、当の元凶に文句が言えない分まで手頃な左之助に当たって気恥ずかしさを紛らわせているのだが、右喜本人は気にする風もなく、「手首と足首につけるフリフリもあったはずなんだけどなあ」などと恐ろしいことを言っている。その横では央太がひとり地道にオレンジを絞っている。
 やいのやいのと騒ぎながらも、「朝食」の準備は着々と進んでいく。
 シンクでは央太が絞ったオレンジの種をこし、右喜はトーストモードで予熱を済ませた電子レンジにパンを入れ、左之助はベーコンをカリカリに焼き上げるべくキッチンペーパーで油を吸い取りながらフライパンを揺する。
「つーかおまいらなんでそんなコトんなってんの?」
「だって剣ちゃんがどーーにでもしていいって言ったんだもん」
「…………」
 左之助の手がぴたりと止まる。
「だからそれはテーブルセッティングの話じゃないか。誰がこんな事までするかな普通」
「だってコスチュームも大事なエレメントだもん。こんなの普通普通。ドレスないのが超ザンネン」
「……あのさ、右喜ちゃん。それはちょっと、ある方がおかしいから」
 こんなものが二セットもある時点で普通なら十分おかしいのだが、生憎右喜の普通は世間一般の普通には遠い。
 専門学校時代は、ときどきフリーマーケットに出店して自作の服や小物を売っていた。このエプロンもその頃の売り子装束の一種だという。
「ていうか剣ちゃんってさ、とりあえずすっごいそそるワケー」
「はぁ!?」
 手に持っていた卵を思い切り握りつぶした剣心の横で、左之助の身体がぐらりと傾ぐ。
「あ、変なイミじゃないよ、純粋にモデルとしてってことだけどね。でもだってね、何着せても似合うっていうか、普通ならまずムリな格好とかも全然いけるし、なんかこう想像力かきたてられるのよねー」
 卵液から殻を選り分けようとして叶わず、剣心は嘆息しながら手を洗った。
 ときどき思うが、この兄妹はどうしてこうも似ているのだろう。
 しかも、剣心はなんとかしてこの危険な話を終わらせようとしているのに、左之助ときたら、
「あーでも確かにおまえより剣心のが似合ってるかも」
 などと余計なことを言い出した。
「あっ、お兄ちゃんそれブー! 世の中には思ってても言っちゃいけないことってあるんだから」
 頭越しに始まった応報に、君がそれを言うのか、と脱力しているところへ、左之助が今度は剣心の肩をつかんで他には聞こえないほどの小声で耳打ちしてきた。
「服、ジャマな」
 条件反射で手が動きかけた剣心だったが、反対側から聞こえた右喜の声に、その勢いを殺がれた。
「でも作っても剣ちゃん着てくれないしさー。こないだのノースリだって超可愛かったのに」
 アレを着ろと言う方が無理ですが!と無言で叫びつつ、取り急ぎ論点を変えておく。
「だって右喜ちゃん、あれ重いから肩凝るんだよ。合皮っていっても毎回クリーニングだし、暑いし。ちょっと実際的じゃないかもしれない」
 実際的、という部分をことさら強調して言うと、案にたがわず右喜は「う……」と詰まった。仕事で商品の企画を考えるようになって以来、それは右喜にとって予想外に大きな課題となっている。
「うーん。ってことは、レザーに鎖とか縫いつけちゃったのが敗因? じゃあ生地を化繊にして鎖とかだけ取り外せるようにしとけば、ジッパーは平気だしカギは外せばいいし……」
 そういう問題じゃないんですけど!と再度心の中で叫びつつ、
「っていうか、もうちょっと普通っぽいのが嬉しい感じ?」
 やんわりリクエストしてみた。
 仕事に就いてフリーマーケットへの出店はできなくなったものの、やはり何かしら作らずにはいられない性分らしく、余裕のあるときはなんだかんだと手を動かしているのだが、最近は自分のものではなく剣心のものばかり作っている。それはいいが、一作ごとにエキセントリック度が上がっているのだ。
「えーそうー? じゃあ今度はいっちょ古典風でいってみるか」
 古典風という妙な言い回しが気になりはしたが、さっきから自分達をじろじろと見比べている左之助の方が気になる。黒革に鎖やら何やらがジャラジャラとついた右喜には珍しくハードなデザインのノースリーブは、冷静に考えても「ちょっとこれは」以外の何物でもない。ヤツには絶対見つからないよう厳重に隠しておこう、と考えながら卵を割っていた剣心の手が、はたと止まった。
「……あ?」
 目を丸くしてボウルを凝視するその様子に、それぞれの仕事をしていた三人が何事かと寄ってきた。
 そしてみな一様に口を開ける。
「……」
「……え、これって」
「目?」
 と、央太が首を傾げたのも無理はない。割り入れた卵の様子が少し普通でない。卵黄の中央に米粒大の赤白い部分があり、そこから細い筋が網の目状に伸びた、やや見慣れない形態をしているのだ。
 孵化課程のごく初期、心臓が形成されつつある段階である。
 とまではこの場にいる誰も知らなかったが、「要するにこの卵は育ちかけている」ということくらいは理解できた。
「すごい。玉子ってほんとにタマゴなんだ」
「初めて見た! こんなのあるんだー。もしかしてかなりレアじゃない? っていうか、これって当たりかハズレかどっちだろ?」
 右喜と央太がそれぞれに“らしい”感想を述べるなか、左之助は一人じりじりと後退りしている。
「おれパス。そーゆーの苦手系」
 柄にもなく、虫や爬虫類などの「気持ち悪い系」が、いまひとつ苦手な左之助である。南の島に行くようになって免疫ができつつあるとはいえ、開放的なリゾートと日本の自宅のクリーンな環境とでは、同じ虫一匹でも受ける印象が異なるものだ。テラスにいるヤモリは平気でも、キッチンで見る異体の卵はそうではないらしい。
 瀕死の悲鳴以上に滅多に見られないびびり顔を見るうちに、剣心の中で悪戯心が騒ぎ出した。
「…………」
 作業台を見回し、ボウルの中の有精卵に目を戻す。そしてもう一度作業台の上のある物を注視する。
「えいやーとう!」
 特撮まがいのかけ声と共に、剣心の手がすごい速度で動いた。
 「えいやー」の間に、さらに四つの卵をそこに割り入れ、返す手でカウンターに用意してあった「左之助用オムレツの具セット」を放り込み、「とう!」と言った時には、そのボウルを左脇にかかえて、菜箸が見えないほどの勢いで卵を溶いていた。
「あーーーーーっ!!」
 叫ぶ左之助とは対照的に、右喜と央太はパチパチと拍手をしている。
「すご。片手で二個ずつ割っちゃった」
「ちゃんと殻がゴミ入れに入ってる」
 すごいねー、と感心し合う下の二人も、どこか常識がずれてはいる。
「はい、これお前の」
「………!!」
 みんなは卵三個のノーマルサイズプレーンオムレツ。左之助だけが五個入り特大サイズで、しかも玉葱、トマト、マッシュルーム、チーズ入りなのだ。
 「もっと食べ応えのあるものがいい」と言って自分で刻んで用意していた、その具材セットが、問題の卵と合体させられてしまった。
 お前の、と突きつけられたボウルを両手で押し戻すようにして左之助が顔をしかめた。
「それおまえ食え。オレこっちでいい」
「嫌だ。俺はプレーンがいい。キハダの目玉狙ってるくせにわがまま言うな。大体お前な、普通に卵も鶏の死体も平気で食べといて、芽の出た受精卵の一つや二つなんだ。そんなことでいちいち騒いでたら、海外でなんかやってけんぞ」
「関係ねえし! てか死体とか言うな!!」
「あ、じゃあ何か、おまえは生きたままの獣肉をナマで食べる趣味なのか」
「うっせ、てめ、イヤな言い方すな!」
「まあ心配すんなって。思いっっっ切り気合い入れて、トロットロに仕上げてやるからさ」
 満面の笑みでいとも嬉しそうに請け負った剣心は、三人に配膳を始めるように言うと、気迫満点でフライパンに向かい、宣言通り、文句なしにパーフェクトなオムレツを焼き上げてテーブルに並べたのだった。

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