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左之助の災難


 鉄の防火扉が重く軋んで開き、マンションの階段室を風が吹き上げる。
「嘘だろ? ほんとに映ってんのか?」
 逆巻く髪を押さえて剣心が訊ねた。
 接近しつつあるという台風の影響か、屋上の風はますます強い。
「まあ見てみろって」
 と、立てた指の先には、央太と右喜。
 肩越しに二人を見やる左之助の得意そうな顔が、大成功だと告げていた。
「剣ちゃん! ほらほら、見て見て。見てよこれ!」
 応援の右喜がノイズの走るテレビ画面を指してはしゃいだ声を上げていた。
 当の央太本人は、神妙な顔で骨の角度を変え、映り具合の変化を調べている。
 思わず駆け寄った剣心は、ポカンと口を開けて、風に揺れるキハダマグロの巨大な骨と、そこからケーブルで繋がれた先にある小型テレビの画面とに視線を往復させた。
「うっわ、まじで映ってる! うわーうわーうわー……」
「ね! すごいでしょ?! っていうか、ビジュアル的に完全に勝ってるわよね」
「いや、右喜ちゃん、自由研究に勝ち負けは関係ないと思うけど」
 と言ってはみたものの、その眺めのあまりのシュールさに、剣心も思わず噴き出した。
 言われてみれば確かにこれは「勝って」いる。何にかはわからないが、問答無用で「勝って」いる。
 そしてその発想が右喜らしい。
 と、剣心の口許がほころんだ。
 専門学校を卒業した右喜がアパレルメーカーに就職して二年目。専門能力もさることながら、まず社会人としてのバランス感覚が必要とされる点においてはファッション業界も例外ではなく、右喜は持ち前の度胸とセンスで周囲の信頼を得つつある。新年度に入って秋冬企画の重要な役割を任され、七月末の展示会に備えてひと月近くを休日返上で駆け回った。その修羅場がようやく落ち着き、今日は久々の代休なのである。
「つか、お前が休み取れんならオレ別にいなくてよかったんじゃ」
 いわゆるヤンキー座りで大きな欠伸を連発しながら骨アンテナを支えている左之助が、右喜の方を目だけで睨み上げながら言った。
 桂川を望むマンションの屋上は、普段は安全のため施錠されている。京の市街を見はるかす絶景とともに住民には開放されないそこを、子どもの夏休みの自由研究のためということで、今日は特別に開けてもらった。当然ながら保護者同伴が条件だったため、日程は左之助の休みに合わせたのだった。
「だっていつ代休取れるかなんて直前までわかんないんだもん、仕方ないでしょー。ていうかそれくらい兄として当然ですぅー」
 そう口を尖らせた右喜が、
「ねえ剣ちゃん」
 と、勢いよく剣心を振り向いた。
「えっ」
 ややぼんやりしていた剣心は、いきなり話を振られて「あ、うん、そそそそうそう」と吃りながら目を泳がせた。
 ダイビング業界は夏のピークシーズン真っ最中で、本当は左之助こそ忙しい。とはいえそこは入社五年目の底力。休みの一日くらいは力技でもぎ取れるようにはなっているのだが。
「で、でも央太くん、よくこんなこと思いついたね」
 自分でも白々しいとは思いながらも、そう言って、世にも珍妙なそのお魚アンテナに視線を移した。
 巨大なキハダマグロの骨はご丁寧にも頭と尻尾がきちんと残されていて、昔のマンガにでも出てきそうな「骨になったお魚」そのものの姿をしている。
「思いついたっていうか、前にテレビでやってたんだ」
 鉛筆で鼻の頭を掻きながら央太が言う。
「人間アンテナに挑戦っていうやつ。なんかね、電気の通るものなら何でもアンテナになるからとかって。そん時は芸人さんみたいな人がアンテナで。それで、魚の骨でもいけるって言ってたから、面白そうだなーって。でもやっぱりホントのアンテナとかくらいの大きさじゃないとダメって言ってて、それでムリだと思ってたんだけど。ありがとうお兄ちゃん」
「おう、まかしとけ」
「央太くん央太くん、お礼を言うなら『みす丸』のお父さんだよ」
 事情を知る剣心が口を挟んだ。
 一度会っただけだが、舵を取る様子が相当へそ曲がりな印象だった。それが、漁協の漁師仲間にも声をかけて必死に探してくれたとも。気難しい海の男をそうも動かしたのが左之助だということには気付かないふりをして、剣心は央太に微笑んだ。
「レポートができたら、お父さんにも見てもらうといい。写真とかもさ。きっと喜んでくれるよ」
「あ、うん。じゃあもっと撮っとこ」
 テレビのアンテナ代わりにするほどのサイズとなれば、一メートル級の巨大魚でなければならない。
 六月のうちから頼んであった骨がようやく見つかったのは、七月末の週末を控えた木曜日。それを日曜のツアー帰りに左之助が厳重梱包で車に積んで運んで帰ってきた。暑い盛りでもあり、一夜明けて早速朝から実験に取りかかっているのである。
 それにしても、「海屋」が馴染みの釣り船「みす丸」の偏固船長は、随分ユーモアのある人だったらしい。
 普通は頭など真っ先に落とすのだ。頭と尻尾をきれいに残した、こんな冗談のような「いかにも骨」な骨を作ろうと思ったら、かなり余計な手間と労力と無駄を要したことだろう。
 ところどころに赤白い身がかすかに残るキハダマグロの骨に触れながら、剣心はくすりと笑った。
 そのとき、強い風になぶられて、尻尾がカクンと折れた。
「あっ!」
 運搬中に衝撃で尻尾が折れていた。それを支えてあった割箸が外れたのだ。
 器用に添え木をし直す央太に、剣心が謝った。
「ごめんね、央太くん。まさかこれが載ってるなんて思わなくて、ちょっと飛ばしちゃって……」
「え、いいよ、そんなの全然」
「っていうか剣ちゃんじゃなくてお兄ちゃんかもだし」
「バッカ、お前知らないからそんなこと言うけどな。コイツの運転、半端じゃねえぞ?」
「え、なにが?」
「お前らなんか乗ってたら五分でゲロゲロ間違いなし」
「えー、意外。剣ちゃん運転下手なんだ」
「下手つーか、単にスッゲー流すだけだけどな。お前は秋名のハチロクか、赤城の白い彗星か!」
「流す?」
「スイセー??」
「うるさい。余計なこと言わんでいい馬鹿者」
「馬鹿馬鹿って、じゃあ国道一号線で全開ドリフトなお前はどうなんだよ。え?!」
 四日ぶりで海から帰ってくる左之助を迎えに、というわけでもなかったが、ともかく「海屋」を訪れていた剣心だったが、なんだかんだで少し気が立っていた。元々どちらかと言えば大胆な運転が輪をかけて荒くなり、左之助は助手席でかなりのスリルを味わったのだった。
「……あ、へえ! ほんとだ!」
 大人気ない大人たちの足元で、央太が感じ入った声を上げた。
「なに、どしたの?」
「ん、あのね、これ、縦だとダメなんだ。でもホラ、寝かすと……」
 と、手で立てていた骨アンテナを水平に戻す。途端に、乱れた走査線が映像に集束した。
「映る!」
 へえー、と揃ったやや手ごたえのない反応は意に介さず、央太は頬を上気させてアンテナとテレビを忙しく見比べている。
「すごいやすごいや、ほんと完全なスイヘーヘンパなんだ」
「え? 何って?」
「水平偏波。あのねえ、電波って二種類あってね」
 央太が熱っぽく語り始めた。
「電界が垂直なのと水平なのがあって、それで垂直偏波と水平偏波っていうんだけど、どっちのタイプかでアンテナの立て方がちがうんだ。っていっても、縦にするか横にするかだけなんだけど、逆だと感度が落ちてダメなんだって。だから、テレビは水平偏波だから、だからテレビのアンテナは平たく寝てて、ラジオとか昔のケータイとか、あとトランシーバーとかは垂直偏波だからアンテナ立てて使うんだよ。ほらほら、ほら!」
 三人に話しかけているというよりも、発見の興奮がそのまま口からこぼれているに近い。夢中になって骨アンテナを動かす科学少年を、三人は驚いて見つめる。日頃冷静で口数の少ない少年のいつにない様子は、剣心のみならず、実の兄姉の目にも新鮮だった。
「……なに言ってんのかわかんないけど、とりあえずあんたがスゴイような気がするわ私」
 右喜が外野を代表して言った。
 それからさらに幾通りかの受信実験をしてデータを取り、その様子をデジタルカメラで記録し、期待を上回る成果を収めて、実験は十一時すぎに終了した。もちろん巨大骨との記念撮影も忘れてはいない。三脚がなく手持ちの自分撮りをしたうえ、強引に全員と骨でファインダーに納まろうとしたため、くっつきすぎて何がなんだか判らない写真になってしまったが、それもご愛嬌ではある。
「撤収撤収ー。メーシメシメシ、メッシメシーシイ」
 いい加減退屈していたうえにすでに昼食のことを考えていたらしい左之助は、何かの替え歌のつもりか、妙な節をつけて、ほとんど呪文のように呟きながら装置を分解し、配線の接続をはずし、器材を運びやすいようひとまとめにして、率先して片付けを進めていく。
「お兄ちゃんて、こういう時ばっかり張り切るよね」
「おう。有能だからな」
「誉めてないわよっ」
「そういうお前は口ばっかりか? おらおら、手ェ動かせ手ェ」
「ていうかナニサマ?」
 仲の良い兄妹から少し離れてコードの巻き取りを担当しつつ、剣心は二人の様子をそっと観察した。
 思えば最初から折にふれて感じていた違和感ではあった。いや、違和感というほどではない。ちょっとした意外な感覚とでも言うべきか。
 左之助の第一印象。父親や弟妹との距離、接し方。それに生活サイクル。
 通勤片道一時間といえば、首都圏でこそ十分近距離圏内だが、ここ関西ではそれなりに遠い部類と言っていい。ましてダイビングショップという夜の遅い仕事でもあり、一度は家出をして消息を断っていた親子関係である。現に剣心が雇われる前の夏までは、大阪市内に部屋を借りて自転車で通勤していた。それは剣心も早い段階で聞いていた。
 だが、わざわざ不便でもあれば窮屈でもある家族との同居を始めたのが経済的な事情によるものだったということを、ほん一週間前まで知らなかった。
 事情があったのは左之助ではない。上下衛門の方である。東京で細々ながらも自営していた染色工房が折からの不況で立ち行かなくなり、京都の引き染め工場に勤めることになった。ご時世と状況からすれば厚遇ではあったが、子ども二人を育てる身に充分とは言い難く、家計と家庭は逼迫した。右喜が学校をやめて働くと言い出したのを、左之助が逆ギレの勢いで押し止め、ささやかながらも安定した月収と共に東谷家に転がり込んできたのだったという。
 きっかけは六月の末に出た右喜のボーナスだった。新入社員で申し訳程度だった去年とは異なり、今年の明細にはなかなか太っ腹な数字が記されていた。それを自慢しながら、右喜が言ったのだ。
「お兄ちゃんより高給取り。もう大きいカオさせないからね」
 あまりに日常的な兄妹のやりあいに紛れて、その時は気にもしなかった。だが後から次第に気にかかるようになり、半月以上も過ぎてから、思い切って左之助に訊ねた。
 貝のように固い口を無理矢理開かせて聞いた話がそうもショックだったのは、そんな東谷家にとって自分の報酬こそが大きな負担となっているからであり、どんなに親しいつもりでも所詮は金銭を仲立ちとする雇用関係なのだと改めて思い知ったからであり、特別に深い関係になって二年以上になる今の今まで、左之助がその事を自分から完全に隠していたからであり、なにより、そんなことを考えさえしなかった自分の想像力不足が情けなかったからだった。
 まただ。
 どうして自分はこう(・・)なのだろう。
 何も見えてない。見ていない。
 そして、こうまでよくしてくれる人達を、裏切り騙し続けているのだ。
 このところとみに仲良くなった自己嫌悪にまたもやどんよりと沈みつつ、巻き終えたコードを洗濯かごに入れる。そこには工具やノート、文房具などの雑品がまとめて放り込まれていた。
 央太が骨、左之助が大物、剣心は棒類、右喜は洗濯かごを、それぞれに持って階段室に向かう。
 防火扉を潜ろうとしたとき、左之助がちらりと剣心を見た。
 何か言いかけて、らしくもなく口ごもる。
 平静を装って「なんだ」と訊ねようとしたが、その時、央太が「あのさー、この骨って」と振り返り、キハダの大きな口が左之助の腕に噛みついた。
「でーーー!」
「ご、ごめんっ」
 肉食魚の獰猛な顎にむきだしの腕をがっぷりとくわえられて左之助が悲鳴を上げ、央太は大慌てで巨魚の骨を力いっぱい引き寄せた。
 当然よかれと思ってだ。
 だがとんでもない。
 なぜかしっかりと食い込んでいた牙に深く抉られたまま、左之助の腕は肉も引きちぎれんばかりの勢いで引かれた。
「ぎゃーーーやめろーーー! 食われるーーー!」
 滅多に聞けない左之助瀕死の悲鳴は、後になってみれば笑い事だったが、その時は皆必死だった。
 大慌ての大騒ぎの大混乱の末、獰猛なキハダマグロはようやくただの骨に戻った。
 謝る央太と渋面の左之助と笑いを堪えきれない右喜に続いて、剣心も建物に入った。
 施錠を確認して鍵を管理人室に返し、四人で家に戻る。

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