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ちょうどホームに停車中だった大阪梅田行き快速特急に飛び乗り、そのまま地下鉄に乗り継いで、午後十時五分前、剣心は海屋の前に立っていた。
全面ガラス張りの店にシャッターはなく、奥半分の事務所部分にだけ灯りがついているのが見える。パーティションの向こう側でときどき影が揺れる。左之助は何時に着いたのだろう。時尾もいるのだろうか。それとも子ども達の待つ家に帰ったのだろうか。
右喜に持たされた紙袋を手に、剣心はその場に立ち尽くした。
東谷家を出てここに着くまでの二時間ほどの間に、彼らが正しかったことは痛感した。
ひとりでいるのはよくない。そして、考えても変わらないことは考えない方がいい。
だが、彼らの真っ直ぐな気持ちこそが今の剣心には痛かった。
自分が心配しているのは比古や斎藤のことではないような気がする。彼らの単独行動なら、こんなに気に病みはしなかったのではないだろうか。
では何故か。
決まってる。海屋のツアーだったからだ。店のツアーで事故が起これば、当然ながら店は大変なことになる。責任の所在が実際にはどうであろうとも、参加者の家族が店を相手取ることもありうる。時尾が半産休状態にある今、最悪の事態の波をもろに被ることになるのは左之助をおいてない。それも仕事だと思いはする。これからもダイビングで食べていくつもりならば、避けて通れない問題でもある。だが、できることなら、そんなトラブルに巻き込まれて消耗するところは見たくない。混乱と対応に心身をすり減らすようなあんな経験は、しなくてすむなら、知らずにいて欲しかった。
だからだろう。本当に危険な目に遭っている義父や知り合いや海屋のゲスト達に対して、自分でも鼻白むほどに感情が動かないのは。
どうして自分は
こうなのだろう。
東谷家の人達に気にかけてもらうような人間ではない。
本当ならあそこに居るべきでさえないというのに。
「サイテー……」
入ることも帰ることもできなくなって、どれほどそこにそうして立ち尽くしていただろうか。
ふいに背後から名前を呼ばれて、剣心ははっと我に返った。
「剣くん。来てくれたんだ」
乗り付けたタクシーを降りながら、時尾が手を上げている。
「さ、入って」
入口の鍵は閉めてあったらしい。じゃりっとキーを差し込む時尾の大きな腹部に自然と目がいく。
「時ちゃん、大丈夫なのか? 家は?」
「大丈夫大丈夫。第一、左之っちひとりじゃ心配だし」
防犯強化ガラスの重いドアを開けてやりながら中に目をやると、音を聞きつけたのだろう、左之助がこっちに歩いて来ようとしていた。
それが視界に入った途端、また動けなくなった。
ほんの六時間だ。
それがどうしてこんなに懐かしいのだろう。
事態はこんなに深刻で、状況はお先真っ暗で、しかも自分はこんなに最低で、なのにどうしてこんなに安心してしまうのだろう。
そしてそれを自覚した瞬間、そんな自分にまた強烈な自己嫌悪がのしかかる。
左之助が何か言っているらしい。逸らせないまま固まった視界の中、彼の目が時尾と自分を行き来して、口がぱくぱく動いているのが見える。
ミュート画面みたいだ、と思ったとき、唐突に音が戻った。
「―――かな」
「え?」
思わず聞き返すと、左之助が物言いたげな目で剣心を見て、一拍おいて言った。
「風すごい。台風。やっぱ来るかなって」
「ああ、うん、台風」
突っ立ったまま生返事をした腕を引かれて、ともあれ中に入る。
いつのまにか時尾はすでに奥にいて、机上の書類を繰っていた。
「全員連絡ついた?」
「あ、や、
石動(さんがまだ。誰も出なくて。あの人、メールもねえし」
「あー、ライさんか。あの人ひとりだっけ。家族の話とかも聞いたことないなあ。とりあえず明日朝イチで職場に掛けよっか」
「つーかタカさん、あんたマジいいって。家いろって」
「いやん。お邪魔虫だからってそんな邪険にしないでよーう」
「と、時ちゃん、こんなときに何言って……」
と言いかけて、剣心は黙った。
芝居がかったしなを作って言ってから時尾はふいと手元の書類に目を落とし、長い黒髪に表情が隠された。
「だめなのよ。わたしが。子どもの顔見てるとなんかテンパっちゃって。余計なことばっかり考えちゃって。何かしてる方がいいみたい」
それでも最後には「ダメダメねー」と舌を出して茶化そうとする、その気丈さに胸が詰まる。
「時ちゃん。実家とか、電話した?」
訊くと時尾は黙って首を振った。斎藤との仲を認めなかった実家と交流が絶えていることは知っているが、場合が場合である。
「弟さんも?」
また無言で首肯する。ダイバーには珍しくきれいなツヤのある長い髪の先が小さく跳ねた。
パシンと何かが弾ける音が聞こえるほど一気に、頭の霧が晴れた。
―――しっかりしろ俺!
腑抜けている場合ではない。
―――スイッチオン、パワー全開!
声に出さずに呟き、ぐっと両拳を握り締めた。
荷物を椅子に置き、髪を結わえ直しながら大股で二人に歩み寄る。
「俺、なんかできることある? どっか連絡するとか、ネット調べるとか」
「ウラムラさんは? 電話したか?」
「あ……」
気合満々で臨んだ瞬間、足元をすくわれて気勢を殺がれた。
まず自分、と指さされ、素直に謝って電話に向かう。
「借りるぞー」
おう、と机の向こうで返す左之助の顔が、さっきとは違って幾分晴れやかに見えた。
事態は何も変わっていないし、先行きは相変わらず暗い。だが右喜の言うとおり、考えても意味のないことを考えてもどうにもならない。そしてカラ元気でも元気。無理矢理にでも絞り出せるうちはまだ大丈夫、なんとかなる。
外務省海外安全相談センターの直通番号を押し担当者の名を告げる。意外にもすぐ電話口に出た相手の男性は、これまた予想外におっとりした声音と丁寧な言葉遣いで話し始めた。
シパダン島はボルネオ島の東沖にある一周徒歩三十分程の小さな島で、ダイビングスポットとして世界に名高い。だが、ボルネオ島東部のタワウ港から小型ボートで入島するルートしかなく、また現在は島での宿泊ができず、訪れるダイバーは周辺リゾートに宿泊してボートで遠征するスタイルとなっているため、正確な滞在者情報が把握できず困っていたという。
思いがけない打ち解けた対応に目をぱちつかせている間に会話は終わり、受話器を置く。
その間に時尾と左之助も相談が済んでいたらしく、妙な手持ち無沙汰感に、三人で顔を見合わせた。
「時ちゃん、明日とかって、店はどうするんだ?」
「うーん。今んとこ一応普通に開けるつもりなんだけど」
「そういうルーティンの方でさ、何かすることない?」
「えーっと。オープンウォーターのレクチャーが一件あるけど、別に準備とかいらないし……ねえ?」
と、最後は左之助に同意を求めている。
「あー、うーん。つか、ホーキ野郎のレギュとか?」
「ああ、張くん。週末のツアーに名前入ってたっけ。―――ねえ、剣くんってオーバーホールとかできるんだっけ?」
「おいおい、誰に訊いてるんだよ時ちゃん」
大袈裟な身振りで両手を広げ、挑戦的に笑って見せた剣心の前に、時尾と左之助はすかさずオーバーホール預かり中のレギュレーター五台を積み上げ、いそいそと工具と洗浄装置とタンクを用意した。
レギュレーターのオーバーホールすなわち分解洗浄は、一旦すべてのパーツを最小単位まで分解し、部品ひとつひとつを洗浄して緑青を落とし、磨耗部品や
O(リングなどの消耗品を取り替えたうえで組み立てなおし、最後に作動圧を調整するという作業である。慣れてしまえば難しくはないが、細かい部品を扱うので手間でもあれば神経も使う。腰を据えて掛かりたい仕事で、夏の繁忙期にはなかなか時間が取りにくく、つい後回しになっていたのだった。
「さすがに五台はキツイな。朝まで仕事になる」
至急だという一台目に早速取りかかりながら、剣心は口を尖らせて言った。
「ま、いいけどな別に。でも二人は何するんだよ、俺がこれする間に」
「昼寝?」
「休憩?」
左右から気の合った返事が聞こえ、すかさず剣心の手から左之助めがけてラジオペンチが飛んだ。
「げ」と言いつつもしっかりキャッチした左之助が「嘘ですスミマセン働きマス」と手を上げて宣言し、
「じゃあオレ掃除班」
と、掃除道具を持って、勝手口から店の表へ回った。
「時ちゃんは休んでていいからね」
「あらん、いいの?」
「うん、おれ女の子には割と甘いんだ。知ってると思うけど」
「そういやそうだったわねえ。あの頃はどんな女たらしになるかと思ってたのに、ンマー、まさか男たらしになるとはねー」
「とっ!ととと時ちゃんっ」
周囲には秘密厳守の左之助との関係だが、時尾には隠していない。というよりも、二年前に十年ぶりで再開したその日の時点で完全に見抜かれていたらしく、次に会った時にとぼけてシラを切ろうとした努力を一蹴されて終わったのだった。
とはいえ、その手の揶揄には全く免疫のできない剣心である。一気に汗を噴いて、手元は大混乱になった。
「あっ、剣くん、気をつけてよ、お客さんのレギュなんだから」
「じゃ、じゃあヘンなこと言うなよ!」
「えー、だってあんなすんごい歯形つけちゃって、剣くんたらもうー」
「……は?」
「そう、歯形。左之っちの腕の。っていうか何をどうしたらあんなことになるの?」
「はあっ?!」
それはキハダマグロに噛まれた歯形だと思うんですが!
っていうか、あのキバ加減は明らかに人間じゃないと思うんですが!
くらりと眩暈がして超音波洗浄器に顔から突っ込む寸前、通りすがりの左之助が傾いだ頭を後ろから引き上げた。
「おーい、起きろー。寝たら死ぬぞー」
うつろな目で、あらためて問題の歯形を見る。
たしかに、無駄なく筋肉のついた日灼けたした腕に残る歯形はくっきりと鮮明で、骨になった魚の口が偶然引っかかっただけとは到底信じられない。
とはいえ、だ。
―――どこの世界にこんな牙と顎の人間がいるっていうんだ? 俺は魚人か?!
と思ったが、相手は時尾。言えば言うほど墓穴を掘るのは目に見えている。
話は逸らすに限る。
「あーうー、えーっと。時ちゃん、晩ごはんはちゃんと食べた?」
「え? ああ、うん、まあ一応」
「あ。もしかしてつわりとか?」
「んー、ってわけじゃないんだけど、あんまり食欲なくて。でもスイカ食べたから」
「え、駄目だろ、そんなの。ちゃんと食べないと」
「だってえー」
「だってじゃない。なんか食べたいものとかは? これなら食べれそう、みたいなのない?」
「うーん、そうねえ。じゃあ……マツタケの土瓶蒸し?」
「は?」
松茸の土瓶蒸し?
たしかにこのビルには共用キッチンがあるし、店にはカセットコンロも電子レンジも炊飯器もあるし、近所には二十四時間営業のスーパーもあるが、だがしかし、「松茸の土瓶蒸し」?
意表を突かれてリアクションに困る剣心を見て、時尾がぷっと噴き出した。
「ウソウソ、冗談。もう、剣くんなんでそんな可愛いの。でもそうね、トマトとか? あと、なんかしょっぱいの」
「しょっぱいもの?」
「うん。赤だしのおみおつけとか?」
「ああ、へえ、そんなの大丈夫なんだ」
「うん。この子つわりが全然なくて、お肉も生ものもまるで平気。上の二人のときは結構きつかったんだけどね」
「へええ」
としか言いようがないが、何にせよ体調がかんばしいのは良いことだ。
「左之は? 晩は?」
「あー、まだ。つか、さっき食ったシュークリームがもたれててよ。気持ち悪いからなんか食いたい」
なんとも言えない文脈の狂いっぷりが左之助らしい。
「え、左之っち、それって冷蔵庫に入ってたやつ?」
「わりい、全部食っちまった。腹へってて。店、空けれねえし」
お客さんの手土産の特大シュークリームが五個残っていた、それを全部平らげたのだという。
「ていうか、オレ今日タマゴ食いすぎ?」
真面目な顔で呟いた左之助を買出しに行かせ、剣心が時尾に昼の一件を話して聞かせる。
「うーん、いい味出してるわあ」
時尾は右喜に親近感を抱いたらしい。そんなことを言いながら、ごはんを炊きにキッチンへ向かった。
そして剣心はオーバーホールの続きにかかる。
確かにあの二人、キャラ的にはかっこで括れば同類項だ、と思った。はちゃめちゃなところも、繊細なところも、気遣いを感じさせない陽性の気遣いも。
平静を装ってはいるが、内心はどんなにか不安だろう。実家とも絶縁状態のまま、二人、いや三人の子ども達を抱えて、互いだけを頼りに生きてきた二人のはずだ。
もし今ここでひとり放り出されたら。
現状にも最悪の今後にもまるで無力な自分がもどかしく、それが尚のこと辛かった。
来なければよかっただろうかと、ふと思う。
店の前で時尾に声をかけられたとき、心の片隅で「しまった」と思った。斎藤の安否が危ぶまれるこの状況で、自分と左之助の姿は時尾の目にどう映るのだろう、と。
―――いかんよ緋村クン。考えても変わらない事なら考えないことだ。キーワードは実際的。オケー?
ふいに右喜の元気な声が思考に飛び込んできた。
「そうそう、いかんいかん。実際的実際的」
ひとりごちて、こめかみをとんとんと叩く。
やはり彼らが正しい。
ひとりでいるのはよくないし、考えても変わらないことは考えない方がいい。
そして手元の実際的な作業に注意を専念することにした。
小さな部品をひとつひとつ入念にチェックし、交換部品をリストに記入しながら洗浄するものは洗浄液に浸していく。汚れと錆が落ちたことを確認してからグリスアップし再度組み立てて完了なのだが、交換部品を揃え終わったところで左之助が帰ってきた。じゃんけんで剣心が勝ち、左之助にオーバーホール作業を引き継いでキッチンに向かう。
時尾が用意していただし汁で麩とわかめの赤だしを作り、ごはんが炊けるのを待って深夜の夕食となった。
「なんかキャンプみたいね」
「でもお刺身定食」
くすくすと笑い交わして、手を合わせる。
手間のいらない簡単なおかずをと左之助が選んだのが盛り合わせになった刺身だったのだ。
「あら」
みそ汁の入ったマグカップに口をつけて、時尾が目を瞬いた。
「え? なんか変?」
「うううん、おいしい。やっぱりさすがね剣くん」
嵐の夜の食事にも似た不可解な高揚感に、わけもなくはしゃぎながら食事をしていると、入口のあたりでガシャンと物の落ちる大きな音がした。
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