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音を立てないよう腰を上げる。
念のため時尾を裏口に向かわせ、左之助がモップを手にパーティションを回り込んだ。
「んあ?」
左之助の気の抜けた声を受けて剣心もパーティションを回り、同じように首を傾げた。
誰もいなければ、何も変わったところもない。
何の音だったのか。
時尾を手招きして再度振り向いたとき、あるものが剣心の目に止まった。
「あ!」
駆け寄って、「これ」と、床に落ちて倒れている紙袋を手に取った。
「ほへ?」
「なあに?」
右喜に持たされた“玉手箱”である。店のカウンターの椅子に置いてあったはずだった。
何が入っているかと訊かれても、剣心も中身を知らない。
開けてみると、妙なものが次々と出てきた。
「はああ?? なに考えてんだアイツ!」
「右喜ちゃん、なんでこんなものを??」
「っていうか……やだー、なにこれ、おっかしーーい!!」
怒る左之助、呆れる剣心、大受けの時尾。
三者三様の反応で、取り出したもの達を検証していく。
さっきの音の正体は、中に入っていた「黒ヒゲ危機一髪」だった。
プラスティックのナイフを順に樽に刺していき、黒ヒゲ海賊人形が飛び出したら負けという伝統的な玩具である。それが何かは一目瞭然だったが、何故どうしてそんなものを持たされたのか、そして京都から大阪まで電車で運ぶ道中でも何ともなかったそれが、なんのはずみで、そっと置いてあるだけの今になって作動したのかが判らない。
とりあえず、飛び出したプラスティックの海賊人形を樽の中に挿し込んでみた。
「つーかアイツ、この状況でコレって全然笑えねえし」
「えー、そう? でもほら、これはあれだわよ、海賊が捕まってやられちゃうわけだからさ。意外といいんじゃないかしら、験がよくて」
「ガンガン刺せってこと? うーん……さすが右喜ちゃんって感じだけど、どうかな、やっぱりちょっと微妙?」
さらに、ルービックキューブ、知恵の輪、右喜の手作りと思しき罰ゲーム用大型スポンジサイコロと、わけの判らないものがわらわら出てくる。
「ねえねえ、これは? かっわいいーー!」
と、嬉しそうな声と共に時尾が白いものを取り出した。
「あ。っていうか、それだよ、さっき話した、今朝の」
例のフリフリレースのデコラティブエプロンだった。もちろんヘッドドレスもある。
そして最後にコンパクトディスクが数枚、文庫本が一冊、アロマキャンドルが二個。
「至高のラーガ。シタールの旗手、シャヒード・パ……パル?」
「カラマーゾフの兄弟(中)? なんじゃそりゃ。てか、なんでチュウ?」
「あ、ねえ、まだある。これ」
袋の内側にはりついて見落としていた書類らしきものを時尾が取り出した。
「……は違うか。なにこれ、レポート? あらまあ、これは要るものじゃないかしら?」
「あ、それ、央太くんの」
今日の骨アンテナ実験のレポートだった。央太の几帳面な鉛筆文字がきれいに整列した手書きのレポート。実験中の記録ではなく、午後にしていたというまとめの方だ。
「アイツすげえな。もうやったのかよ」
写真のインデックスプリントも添えてある。
それを見て、時尾も気付いた。
「ああ! これ、お父さんの骨だ。ええーー! なにこれ、うっそ、すごいじゃない!」
朝の様子を剣心がざっくり説明した。
「やん、この写真欲しーい。みんなに見せたいー!」
「写真は大丈夫なんじゃないかな。デジカメだし」
などと言いつつあれこれいじり倒し、ひととおり気がすんだところで、テーブルに並んだそれらを眺めて、時尾が噛みしめるようにそっと笑った。
「いい子たち」
「うん」
少し掠れた声で相槌を打った剣心の肩越しに、左之助が卓上の本に手を伸ばした。
「つーかオレやっぱこれがわかんね」
新潮文庫、ドストエフスキー著『カラマーゾフの兄弟(中)』。
「チュウはないだろチュウは。もしイケてるとしてもよ」
それを聞いて「あ」と剣心が顔を上げた。
「わかった。それだ!」
「は?」
「え?」
「寝れるように。とか。俺コレちょっと読んだことあるんだけど、割と読みにくくてさ。すぐ眠くなった。だから眠れないとき用かもって」
「ハア?!」
「いや、ちょっと思っただけで判らんが……」
「でもなんか当たってる気がするわ私。このパターンだと、それ、アリだと思う」
“どツボった時”のための気分転換グッズとヒーリングアイテム。
剣心の瞼裏に親子三人のそれぞれの笑顔が甦る。
言葉が、思わず口をついて出た。
「考えても変わらないことは考えないこと」
「?」
「家出る時に言われたんだ。右喜ちゃんに。今すべきことは他にある。キーワードは実際的。………みんなにも言っといてって。ごめん、忘れてた」
「あらまー、男前な妹さん。スカウトしたいわ。でもそうね、そうよね。じゃ、わたし達も実際的にいきましょう」
そして実際的行動第一弾として食事の続きを終え、第二弾として左之助は片付け、剣心はオーバーホールの続きに、それぞれかかる。
インターネットのニュースを見ていた時尾が「ふう」と息を吐いてマウスを置いた。
「出ないわねえ。時差一時間ってことは向こうも深夜か。どうかな、朝かな。動きがあるとしたら」
軽く肩を叩きながら、髪を揺らして呟いた。
外国人を人質にとった以上、必ず要求はある。あるいは犯行声明。金銭目当てか、政治的な狙いか、何か他の利害関係か。それによって両国の対応も変わってくるし、場合によっては第三国が介入してくるケースも考えられる。
状況的に何が望ましいかは判らないが、それこそ今ここでそれを考えたところでどうなるものでもない。
剣心は目を手元に据えたまま、時尾に声をかけた。
「みんな帰って来たらさ。お帰りなさい会とかしよっか」
時尾が顔を上げて剣心を見た。剣心も顔を上げて時尾を見る。
「パーッと?」
「うん。パーッと」
「じゃあ、あたし仮装パーティーがいい」
時尾がきゅっと笑った顔になって、身体ごと向き直った。
「みんなで変なかっこするの。バカ殿とか。バカ殿は社長ね。チョンマゲがいいでしょ。左之っちはねー、アフロのマジシャン? ハジメちゃんはどうしよっかな。あの人なんでもサマになっちゃうしな。あ、剣くんは天使よ、もちろん。輪っかつけて、羽根つけて。でもそれも素で似合っちゃうか。………あ! そーうだっ!」
カッコ悪そうー、なんだよそれ、俺はいいよ、と合いの手を入れていた剣心をよそに時尾が勢いよく立ち上がり、奥のロッカーを開けてごそごそと探り出した。
「おう? なんだタカさん、なに探してんだ?」
「ん、こないだのさあ………あ、あれだ。左之っち、あれ取って。ロフトの袋。一番上の棚にある」
片付けを終えて戻ってきた左之助に大きなビニル樹脂の袋を下ろさせ、それを抱えた時尾が真剣な顔で剣心を振り返った。
「剣くんさ。ひとつお願いがあるんだけど、きいてくれる?」
思い詰めたような表情に、剣心も思わず工具を置いて向き直る。
「俺にできることなら。もちろん」
そう言った気持ちに嘘はない。
だが、思い切り後悔した。
なぜなら、「わーい」といとも嬉しそうに笑った時尾が黄色いプラスティックバッグから取り出したのは、もこもことした白い羊のぬいぐるみ―――ならぬ着ぐるみだったからだ。毛足の長い起毛素材で作られたそれは、顔の部分がくり抜かれたフードと、音こそ鳴らないが鈴つきの首輪、さらに後ろには小さな尻尾までついており、着れば人間ぬいぐるみの出来上がりという代物である。
「着て着てー、約束よー」
にこやかに、しかし有無を言わさず暑苦しいその衣装を着させられ、フードの穴に剣心の憮然とした顔がおさまった。
フリーサイズなのだろうが、小柄な剣心が着ると随分過大で、やや裾広がりのスモック型のそれが、丈短かなワンピースにさえ見える。
「いやーん、うそーん。なにもうどうしよう、剣くん可愛いすぎー。やっばーい!」
今どきの若者のような言葉遣いではしゃぎつつ、さらに同素材のもこもこミトンを両手にはめさせ、時尾は仕上げに余念がない。
完成、とばかりに胸を反らせ、白と桃色の小さな耳を両手でつんつんと引っ張って、
「ねえねえ左之っち、見て見てー。子ヒツジー」
と、なぜか自慢げに後ろを振り返った。
が、当然いると思っていた左之助がいない。
思えば、見ていたならば話しかけるまでもなく大騒ぎしていたはずではあるが。
「…………もしかして悩殺しちゃった?」
「時ちゃん、真面目な顔でそういうこと言うなって。もういい? 脱ぐよ?」
「だーめ。今日はヒツジさんなの。ほら、フードも脱がない」
と、既にはねていたフードを勢いよく引き、小づくりな顔を子羊に戻す。
その拍子に、前髪が目に入った。
「て」
「あ、ごめん」
ミトンの手と同時にそれを除けようとした時尾の指先が、剣心のこめかみに触れた。
「………え?」
剣心がぎょっと身を引き、目を見張る。
うろたえた時尾は、自分を注視する剣心の硬い視線を避けるように袋にかがみこみ、また何やら白いもこもこを取り出した。
「じゃーん。ブーツもあるのー」
足首までの短いブーツで、ご丁寧にもきちんと偶蹄類の足になっている。
だが剣心はそれどころではない。
「………時ちゃん」
「いいわよねーヒツジって。可愛いし美味しいし。あたし的には手足が黒い子が好きなんだけど」
「時ちゃん」
「でもこれは可愛いすぎ。ブーツも履いとく?」
「時ちゃん!」
不自然なほどにこやかに話しかける時尾の手から剣心がそれを奪い取った。剣心の顔は青ざめ、何かを耐えるように歪んでいる。
時ちゃん。
と、音もなく唇が動いた。
それ以上口を開くと泣いてしまいそうで、四度目は声にならなかったのだ。
握ったブーツを机に置き、両手で時尾の手を包む。
女性にしては節張った手の、爪は短く切り揃えられ、皮膚は厚い。海仕事と家事で荒れたその指が、額を一瞬かすめただけでそれと分かるほどに、冷えていた。氷のようという表現が比喩でないほど冷たかった。
水も使っていないのに。七月の末の蒸し暑い夜、冷房もさほど効かせてはいないというのに。
その手を、羊の手でくるみこむ。
ミトンをはめていることを感謝した。
やわらかく長い毛足は、血の気も失せた時尾の手指にやさしいだろうから。
分厚い生地は、その手指の冷たさをこれ以上知らずに済ませてくれるから。
「大丈夫だよ」
言いつつも、もう目を上げていられなかった。
包み込んだ手を伏し拝むように顔を伏せ、ただただ同じ言葉を繰り返す。
「大丈夫、大丈夫だから。大丈夫………」
何の根拠もない。そんなことが言えるはずもない。無意味で無力な言葉。
それでも言わずにはいられない。
気休めでも。
いや、気休めにさえならなくとも。
そのとき、時尾がぽそりと呟いた。
「………そうよね。社長とハジメちゃんだもんね」
剣心がゆっくりと顔を上げる。その泣く寸前の顔が、似たような微妙なラインで踏ん張っている時尾の顔を凝視する。
時尾が思案するように首を傾げて、
「それって結構イヤ? 人質としては」
と、真剣そうな顔で訊いた。
剣心の顔に泣き笑いじみた苦笑が広がる。
「っていうか人質じゃなくてもイヤだけど。でも俺ならあんなの人質にするなんて、頼まれたってお断り」
二人でなんとか笑い合って、どちらからともなくホッと息を吐いた。
張り詰めた糸を、切ってはいけない。
「大丈夫。わたし大丈夫よ。ごはんもちゃんとおいしかったし。大丈夫」
「うん……」
「どうしよう、ちょっと寝よっかな」
「あ、うん、そうだよね。その方がいい。でもソファとかで平気?」
「んー、床にするわ? シュラフあるし」
時尾が収納ソファの中から寝袋を取り出した。それを手伝う剣心の頭上の羊耳を時尾がつんつんとひっぱった。
「なに?」
「いい子ね。やさしいヒツジちゃん。剣くんみたいな子が生まれるといい」
「……やめといた方がいいよ」
「あらそう? どうして?」
「うーん。根性曲がってるから?」
そう言って真顔で首を傾げた剣心の目を、時尾がフードをぐいと引き下げて塞いだ。
「わっ」
「まあね。ぶきっちょだもんね。お料理は上手なのにね」
「………」
「あのね、剣くんね。おみおつけのね」
と、時尾がにっこりと笑って言った。
広げた寝袋の中に座り、疑問符を浮かべた剣心の顔を見上げて、眩しそうに目を細めている。
「味が一緒なの。知ってた?」
「え……」
返事に窮した剣心をよそに、時尾は寝袋に身体を収め、ファスナーを引き上げていく。やがてわしゃわしゃと鳴る寝袋の中から「おやすみ」とくぐもった声が聞こえて、静かになった。
規則正しく上下しはじめた寝袋をしばらく見守ってから事務所の側に回ると、左之助は背中を向けて自分の席についていた。
事務椅子に深くもたれて両脚を投げ出し、卓上のパーソナルコンピュータのモニタを見ている。気配に気づいてちらりと剣心に目を向けたが、一瞥しただけですぐ正面に視線を戻してしまった。
よそよそしい反応よりも、その顔に表情のないことがひっる。
近づいて肩に手を乗せてインターネットの画面を見下ろし、目に飛び込んできた太い見出し文字に息を失った。
感情を抑えているのでもない、あまりにも自然な無表情を見た時点で、何かよくない事が、それも多分とんでもなくよくない事が起こっているのだろうとは思った。この狭い店内で、外の共用部にある給湯室や手洗い場にいるわけでもないのに、あれだけ騒いでいる間中まったく姿を見せなかったこと自体がそもそも不自然でもあった。
だが、まさかこんな事態になっていたとは。
『インドネシア独立派が犯行声明。独立支持と国連平和維持部隊の撤退を要求』
マウスに手を伸ばそうとして、まだミトンをしたままでいることに気づいた。それこそが非現実的に思え、慌てて外して画面をスクロールして記事を読む。それから更に詳しい情報を探そうとしたが、左之助が首を振っているところを見ると、それ以上は出ていないということなのだろう。
マウスを離して身体を起こしてから、肩を掴む自分の指にものすごい力がこもっていた事を知った。
「あ、悪い」
時尾にはばかってごく小さな声で囁き、それでも気になって思わずパーティションを見やった。
寝るとは言っても、この状況で熟睡できるわけもなく、まして寝入りばなだ。本当に眠ってはいないだろう。だが、今このニュースを知らせたとしても何もできることはない。無闇に不安を増すよりも、休めるなら今のうちに休養をとっておく方がいい。
最悪だった。
マレーシアではなくインドネシア。しかも独立問題。
インドネシアでは、前大統領の失脚と独裁政治の終焉、そして民主化・自由化が迷走するなか、民族や部族の分離独立運動が活発化した。一部地域で起こった武力衝突が激化し、年初から国連平和維持軍が駐留している。
身代金目当てがましとは言わないが、これは、政争で、闘争だった。である以上、交渉の余地はおそらくない。
平和しか知らない一市民の身で、両者の主張の是非も、国家の何たるかも、生命の軽重さえも判りはしない。だが、全貌のつかめないその巨大な力が脅かしているのは、拮抗する巨大なものではない。損なわれようとしているのは、比古や斎藤やツアー客らの安全と生命であり、時尾の家庭でありその子たちの生活であり、左之助の職場と平穏と、そして自分達の日常だった。
世界の目には、偏狭で身勝手に映るのかもしれない。だが一個の人間にはそれで精一杯なのだ。それでさえ把握しきれない、だからこそ生きづらいというのに、それ以上のものをどうやって知り得るだろう。
どうも自分は目の前のものだけで一杯いっぱいの人間らしい。
平時は平時で自分のことしか見えず、非常の場合にも、要は身の周りの手にとれる範囲で限界。つくづく視野が狭いとは思う。だが、せめてその狭い視野にいる人達を何とかしたい。笑っていてほしい、幸せでいてほしい。
左之助は相変わらず醒めた目でモニタに目を据えている。
東谷家に通い始めて間もない頃に、こんな顔を見たことがあった。望みも怒りもない昏い空気に、わけもなく気が急いた。同じだった。こんなときに何の力にもなれないという点でも、二年以上経った今もあの頃となにも変わらないのだろうか。
胸の前に左之助の頭がある。無造作に立った髪が好き勝手な方向を指している。ミトンのままの左手をゆっくりと持ち上げ、そこに乗せた。わずかに見上げてくる目に、それでも少しは体温が戻っているように見えた。希望的観測かもしれない。だが、考えるより前に身体が動いて、次の瞬間にはその頭を両腕で抱えていた。
その丸い物体の堅くて温かい感触が、手と腕と胸に、着ぐるみの分厚い布ごしにさえ伝わってくる。生きている動物がもつ温度と湿度と脈動が伝わってくる。しかし一体この頭蓋骨というものはどの程度の堅牢さを備えたものなのだろう。どれほどの外力が加われば、これは損なわれるのだろう。そう思ったとき、ふと昼間オムレツを作った時の事が思い出されて身震いがした。雛となるべき小さな生命を守るための炭酸カルシウムの保護殻は、ヒトの手にはあまりにも脆かった。
あれはつい半日前なのだ。キハダマグロの骨アンテナでテレビが映るとはしゃぎ、卵が育っているといって大騒ぎをした、あれからまだ一日も経っていない。
細く長く深呼吸をしながら腕の中のものを抱え直すようにすると、左之助の手が背中に回ってゆっくりと動き始めた。なだめるように穏やかに、広い掌が上下する。
しばらくその感触と微かな衣擦れの音と汗ばんだ髪の匂いに神経を集中させ、頭の中で暴走する益体もない思考を追い払うことに専念した。
どれほどかして、左之助の頭がごそごそと動いた。
腕をゆるめて見下ろすと、濃い眉毛の下から、たまに目にする種類の静かで大人びた眸が剣心を見上げていた。
気配が、水がぬるむように和らいでいる。ほっと吐き出した小さな息と一緒に、咽喉につかえていたイガイガしたものが転がり出て、また左之助の頭に顔を埋めた。
脱力した肩に左之助の腕が回る。ゆっくり力を強めた手が、ほどなくポンポンと軽く叩いて剣心を呼んだ。
「オーバーホールでも片付けとくか」
無意識のうちに、よほど強く力を入れていたらしい。そう言った左之助の鼻と額の一部に赤くかたがついていた。
根拠のない想像にも推測にも、まして闇雲な楽観にも悲観にも、意味はない。だが起こりうる可能性を想定することは有益だ。どうなるにせよ、いずれ事態は必ず動く。そのときに、持ち越しで溜まっている用件は少ない方がいい。
仕上げかけの一台目と整備道具一式は店の中央の大テーブルに出し放しだったが、すぐ横の接客コーナーで寝ている時尾を気遣って事務所側に移動することにした。左之助がタンクと洗浄器を運ぶ間に、剣心は手早く一台目を組み上げる。エアー圧調整を始めた剣心に左之助が言った。
「あ。それ、ちょっち重めにしといて」
スクーバタンクの中に充填される空気は約二百気圧。つまり自然の外気の二百倍の圧力がかかった状態に圧縮されている。その高圧空気を、ヒトが呼吸できるレベルに変圧するのがレギュレーターという吸気装置の役割であり、その変圧加減を調整するのがオーバーホールの最終工程なのだ。
「了解」
歯切れよく答えた剣心が、シュコシュコとパージボタンを押して通気させ、自分でも吸ってみて確認する。
「……む? さすがにシブイか?」
首を傾げた横から、どれ、と左之助が手を伸ばして同じようにする。
「あ、オケオケ。全然いいいい。体力ありまくりのヤツだし、カパカパ吸い過ぎて頭痛えって言ってっから。エアーももつし、いんでない?」
給排気の抵抗が少ない状態を「軽い」といい、呼吸はスムーズでラクだが、ときに空気を吸い過ぎることもある。自然、エアーの消費も早い。逆が「重い」状態で吸気時にやや抵抗があり、それがストレスとなるほどに重いことを「渋い」と、これはどちらかといえば否定的なニュアンスで用いる業界用語である。
「ま、とりあえず一回使ってもらって、シブすぎたらまた直すわ」
そう言ってタグにメモを書きつけ、交換した古い部品を小型ビニールに入れ、詳細を記した伝票にホチキスで留める。
小気味よい手指の動きを、見るともなく、目が追っていた。
ラジオペンチやモンキーレンチで小さな部品を扱う手つきは、日頃のぞんざいさをかけ離れて細やかで丁寧だ。
右喜あたりが見たら驚くだろうか、と、ふと思った。だが、大雑把ではあってもがさつな性分でないことを、聡い右喜なら本当は知っているだろうとも思う。
その丁寧な作業の中に、時に必要以上の慎重さが垣間見えて、それが作業工程をマスターしてはいるがまだ熟練の域ではないことを示している。
知り合っておよそ二年半。
その間に自分は二年半分の歳を取っただけだが、左之助は違う。
目に見えて変わっていく様子を、頼もしい成長だと誇らしく思う自分と、何か取り返しのつかない致命的な変化だと感じる自分がいる。両者は争うでもなく入り混じるでもなく、だが決して相容れることも相殺されることもない。
二台目のレギュレーターを分解しながら、とりとめもない思考が往来するのを、他人事のように俯瞰した。
向かい合って作業を始めた左之助は、別の一台の解体をほぼ終えつつある。
自分の作業に集中しようとして、手元の暗さが自身の影のためだったと気がついた。
頭の上に変に突出した影があるのは、きっちりと着込んだままの着ぐるみのせいである。
―――やれやれ、これじゃマンガだ。
自分達の情景を第三者的に想像して、その滑稽さに苦笑した。
きりのいいところで脱ぐことにして、とりあえずフードをはねた。
が、作業に戻ろうとモンキーレンチを構えた瞬間、向かいから左之助の手が伸びてきてフードを元通りに引き上げてしまった。
「わ」
思わず小さな声が漏れて、慌てて口を塞ぐ。塞いでから咎める目で左之助を睨み上げたが、小憎らしく笑うばかりでまるで怯まない。これ見よがしに、再度、頭で振り落としたが、無遠慮な手がすかさず現状を復旧する。脱ぐ、被せる、また脱ぐ、また被せる、そんなことを五度ほど繰り返して、結局剣心が諦めて負けを認める形になった。「やれやれ」の顔で肩をすくめる剣心に、左之助が腰に手を当てて胸を張る。
ついに剣心がぷっと噴き出した。左之助も笑いを抑えるのに必死で頬がぴくぴくと揺れている。
こんな絶望的な状況で、こんな何でもないようなことで、まだ笑えるのが不思議だった。可笑しくて、悲しかった。
世界にたった二人ならよかった。たとえば、人類が死に絶えた地球でも、人間のいないどこかここでない世界でも、あるいは宇宙を漂流する宇宙船でもいい。だれもいない世界に二人で生きているのならよかった。
だが、そんなものは映画か小説の中の話だ。現実には起こりえない。ありえないファンタジー。そうでないならいっそ世界にたった一人でよかったと思う、それもまた、ありえないファンタジー。
自分達は、現実の中に生きている。社会の中で、狭い世界ながらもたくさんの人と接点を持って生きている。
考えても悩んでも、そしてどんなに強く願っても変わらないことが、どうにもならないことが、この現実社会には、確かにある。
だが、と同時に、誰にだって何かちょっとくらいは出来ることがある。
自分にもある。
最初から判っていた。
今が特別なだけだ。こんなことが続くはずはない。
いつかどこかで何かを選ばなければならない時がくるのは知っていた。
そしてその答えも、まだおぼろげではあったが、輪郭は見えていた。
自分にはまだ、出来ることが、ある。
黙々と作業をしていた剣心が二台目を調整し終えるのと、左之助が自分の分をようやく組み立て終えてこれから調整を始めようとするのがほぼ同時だった。
長年のブランクがあるとはいえ、そこは昔取った杵柄。先に取り掛かっていた左之助を、途中で剣心が追い抜いていたのだ。
「ちょっと休憩ー。コーヒー淹れてくる」
剣心は両肩を回しながら小声で言って、キッチンへ向かった。
時計は二時を指している。
行きがけに、作業の合間に幾度となく覗いていたテレビとインターネットのニュースを再度確認したが、続報はなかった。
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